スマートフォンではなく、内線にかかってきたことに悪意を感じた。菊司が住むアパートに電話は引いていない。必然にスマートフォンにかけてくるはずなのに、なぜかこの時ばかりは取り次ぎだ。いつものように腹が立つこともなく、受付の女性の声を聞いた。「清陵院さんの母親と名乗る方が……」と、言いづらそうに伝えてくる。思わず「どっちの」と口から出そうになったが、天照を毛嫌いしている清陵院の母がわざわざ尋ねてくることはない。十中八九、血が繋がっているほうの母親だろう。菊司は母親などと思っていないが。
「あー、なるほど。分かりました。そちらに行きます。はい、5分くらい待っててもらえます?」
早口にそういうと、内線を切った。オフィスチェアにどかっ、と腰をおろすと、落ち着くために息を深く吐いた。義足のかかとが何度か床を打った。それから財布とスマートフォンを持って研究室をあとにした。劫罰狐はいつものように塩化ビニルのベッドの上で本を読んでいた。
早足で歩くと、義足がカツカツと人工音じみた音がたつ。義足はとっくにからだに馴染み、思うとおりに動いた。前線に出ることは少なくなったが、いつでも出られるように鍛えている。
受付につくと、見るからに以前より若返った女が立っていた。こぎれいな服を着て化粧をし、ゴールドの指輪をして腕には細いベルトの腕時計が光を放っている。
ざっと目で精査する限り、上から下までおよそ四十万はくだらない。
「一斗」
「清陵院菊司、と申します」
よそ行きの笑顔で伝えると、女はあからさまに残念そうな顔をした。
「あの……」
困り顔の受付の女性に視線を移すと、「すみませんね」と謝る。
「面談室、一室お借りしてもいいですか。すぐすみますので」
「あ、はい」
ほっとしたような表情で、パソコンをのぞき込み、空いている部屋の番号を伝えてくれた。
「ただこちらの部屋、次にアポが入っていまして。三十分ほどしかご用意できませんが」
彼女はマウスを動かしながら、申し訳なさそうに眉根を下げる。菊司は頷いて、スマートフォンの時計をみとめた。
菊司は腕時計を持っていない。手首を圧迫するものが昔から嫌いだった。白衣も少し短く切っているし、インナーを着ていても手首は出るようにしている。
「十分です。あ、お茶などは結構です。お構いなく」
わざわざ女を見ないようにして、面談室に向かう。白く明るい灯りの中を歩きながら、白衣の胸ポケットにおさめているペンを無意識にいじった。激高したら負けだと思っている。が、胸中をむしばむ黒々としたものは、そう簡単に追い払えない。
ハイヒールが廊下を打つ音と義足の音が重なって、似たような音がした。それすらも、菊司は嫌悪している。
ドアを開けると、顎で女を部屋に入れとうながした。ぽかんとした顔の女は、意図を汲んでいないようだった。「どうぞ」と伝えてようやくせかせかとした動きでソファの上座に座った。
菊司は窓際のソファに座り、沈黙を貫く。
「……あの、あのね。一斗……あ、いや、菊司……」
舌足らずな声を聞きながら、じっと女を見る。白衣のポケットに手を突っ込みながら、足を組んだ。
「何? まだ金が足りない? 月に五万は渡していますよね」
女は奇妙な顔をして、もぞもぞと指を動かした。明らかに体型に合っていないワンピース。無理やりはめたような指輪、腕時計。悪趣味に真っ赤なハイヒール。
「あなたの、弟と妹のことなんだけど」
「……僕にきょうだい、いたんだ。で?」
「妹……あなたの弟に対しては姉なんだけど……。香奈子というんだけどね。その子が、病気で……」
黙って続きを促す。
「癌なの。子宮癌。まだ若いのに」
ハンカチでわざとらしく目もとを拭う。涙なんて出ていないのに。本当に、すみずみまで甘い。
「で、僕に援助しろって?」
「できたら……」
「あなた、仕事なにしてらっしゃるの」
ソファの背もたれにもたれていたからだを起こして、じっと女を見る。濃い化粧。400万をその場で叩きつけたとき、「もう関わるな」といったのに当然のように金をせびり続けてもう一年以上はたつだろうか。あの時は毛玉がたくさんこびりついたセーターを着ていたのに、見るからに高価な物を買っている。
「ええと……。その、今探してる最中で。でも、お父さんはね、ちゃんと働いているのよ。あなたの弟も……」
「あなたの話をしているんですよ。その他のことはどうでもいい。言い訳のように使わないでくださいますか」
上目遣いでこちらをちら、と見てくる女は、媚びるように赤いくちびるを歪めた。
「僕に妹や弟が本当にいたとして、長男の僕を捨てて、また子どもを作ったんですか。いいご身分だ」
「そ、それは」
「けどまあ、そんなことはどうでもいい。戸籍謄本を持ってきてください。用意できるでしょ、それくらい」
「も、もちろんよ。信じないと思って、持ってきたの。ほ、ほら!」
信じない、ね、といちいち腹が立ったが、高そうなバッグから取り出した戸籍謄本を受けとる。透明なファイルに挟まれたそこには、菊司の名は当たり前のようにない。
父の方は佐々木辰也、母の方は佐々木貴美子。その下に香奈子、甲と書かれている。どうやら本当にきょうだいはいるようだ。ファイルにもう一枚、書類が挟まっていた。女が「それは、香奈子の検査結果の書類」と伝えてくる。
――子宮癌、とたしかに明記はされていた。
「……まあ、いいでしょう。これが改ざん文書でなければ、ですが」
一瞬、不愉快そうに眉をひそめたのをみとめたが口を噤み、ファイルを女に返した。
「それじゃ、あなたが今着込んでいるもの全て売り払ってからまたきてください。次はわざわざ天照にこなくてもいいです」
「ど、どうして!」
「どうして、とは? 売ること? それとも、ここに来ること?」
「……この洋服……は、気に入ってて……高くて」
そこまでいって女はしまった、という顔をした。
菊司の目がすうっと細められる。やはりむざむざ高い洋服を買っていたのか。人間の欲というものはやはり、留まることを知らない。一度甘い汁を吸ってしまったら止まらないのだ。欲望も、性格も。根底からねじられ直しても、その皺は戻らない。永遠に。
「あなたのかわいい娘が病に伏しているのなら、まず自分の身の回りを削ったらどうです? 捨てた息子に縋るよりすることがあるでしょう。ああ、それとも、捨てた息子だからせびりやすいというわけですか。捨てていないほうの息子に縋るより」
「そんな、ことは」
「そんなことあるでしょ。僕が渡した400万、どうなりました? あなた、いい暮らししてるでしょう。高い洋服買う金がありますもんね」
菊司が命がけでつくった金を、この女の身をかざるために消費されていたと知ると、やはり怒りがわく。ポケットに突っ込んだ手のひらに爪が食い込んだ。
ぶるぶると女の肩が震えている。そして、太い指を机の上をバン、と叩きつけた。空気の振動で簪の銀細工がチリンと鳴る。
「人が、こんなに困っているのに! どうしてそんな言い方しかできないの……!」
手を白衣から出して、あごをそっと指で撫でる。いつもどおりの無精ひげの感覚。ただ、いまが異常なのだ。手で隠すようにしたくちびるをゆがませる。本性がこれか、と、安心した。ちょっと突いただけで、簡単に転がってくれる。なんておかしいんだろう。
「あたし、知ってるのよ。あんたと仲良くしている子。見たのよ。20代の男の子、いるでしょ。その子が」
「へえ」
最後まで言わせなかった。
引いて駄目なら押してみるのか。こうしてみれば顔色を変えると思い上がっているのだろう。
――結局、清陵院の家の両親も、佐々木の家の両親も、考えることはおなじ。
ひとの大切な存在を平気で盾にする。踏みにじる。自分の保身のためなら、美しい宝物でさえ塵に捨てようとするのだ。
「よーく、調べたんだねぇ。あんたがた。うしろにいるのは誰かな? ちょっと大きい興信所かな。それとも、くだらないことしか考えてない半グレ?」
「……どうでもいいでしょ、そんなこと! でもあたし、何をするか分からないわよ」
「なにかするんですか? でも、どうでもいい。ここをどこだと思ってるの? 天照だよ。緋鍔局、知ってるよね? 情報操作、情報収集のプロたちがいるの。分かる? いまの言葉、ちゃんと記録されているからね」
「……」
女は黙り込み、まだぶるぶると震えさせている。怒りか、妬みか。知ったことではないが、放った言葉はなかったことにはできない。
「カナコ、って子だっけ。その子の命が大切なら、あんたが着てる高い服、全部質屋にでも流しなさい。それでも足りなければ融通するよ。ああ、明細は忘れずにね」
ふてくされた顔になった女は立ち上がり、バッグを掴み取り面談室を出て行った。スマートフォンを見ると、まだ25分しかたっていない。
ふたたびソファの背もたれに背中を預ける。そう思い通りにならないことを知ってもらわねばならない。だから、これでいいのだ。スマートフォンの中の連絡先に、緋鍔局所属の知人の名前がある。電話番号をそっと押すと、電子音が聞こえてきた。
広いが、錆びた遊具がある庭を見つめる。ちいさな子どもたち数人が高い声をあげて遊び回っていた。
おなじように錆びた鉄柵を押すと、ひとりの女性が「あっ」と声をあげた。
連れてきた劫罰狐はするりと体を滑らせて、子どもたちの輪の中に入っていく。
「菊司さんじゃないですか! お久しぶりです」
「久しぶり、乃々佳さん。秀司、元気?」
「ええ! もちろん。毎日元気にしてますよ」
秀司とは、この施設で共に育った友人の名前だ。彼と乃々佳は一年ほど前に結婚し、彼女はこの施設で嘱託職員として働いている。秀司はというと商社に就職していそがしく働いているらしい。ともあれ、ふたりとも元気そうでよかった。
「……菊司さん、なにかありました?」
「いーや。ちょっと子どもたちの顔見たくなっちゃって。なんて、センチメンタルかな」
「いいえ。この子たちもみんな、あなたが大好きなんですよ」
彼女の足にまきついたちいさな手。まだ3歳くらいの女の子が足にかくれて菊司を見上げている。
首をかたむけて笑ってみせると、彼女は視線を落としてしまった。乃々佳はその子を抱き上げて「重たくなったねぇ」と目を細めた。
「ほら、菊司さんだよ。いつもお話ししてるでしょ」
「きくじさん」
「そう、菊司。覚えてくれてたの?」
ふたつにくくられた髪の毛がちいさく揺れる。つたなくも頷いたようだった。
目線を合わせると安心したのか、少女はにっこりと笑ってみせた。菊司とは違う笑顔。まっさらな、幼くていとけない笑顔だった。
くちびるをわずかに緩めて、目をそっと伏せる。
せめてこの子たちは、金銭面で苦労をかけたくない。それでも、妖魔によって家族を殺されたり、自ら手放す血縁者が年々増えている。そして、古い施設は置き去りにされる。子ども達もろとも。この子達すべてを支援するには、菊司の手持ちでは心許ない。せめてあの大金が、この子達の手に渡ればよかった。自己満足であろうと何だろうと、金銭は彼らの財産になるのだ。
「僕ねぇ、夢があるんだ」
「夢?」
「あ、聞いてくれる?」
「もっちろん!」
ねー、と乃々佳は少女に笑いかけている。その子も笑ったまま頷いた。きっと分かっていないだろうけれど、聞いて欲しい。
「この施設をすっごく綺麗に広くして、この子たちが将来の余計な心配をしないくらいの場所にしたい。ここの施設を出ても、誇れるような場所にしたいんだ」
「菊司さん……」
乃々佳は、菊司が清陵院家の実子ではないことを知っている。秀司から聞いたのだといっていた。
コートの中でぐっと拳をつくる。言ったからには、実現しなければならない。
「僕は刀遣いだ。いくらでも稼げる。片足をなくしても今は前と同じように戦える。だから」
「菊司さん」
静かな声だった。乃々佳を見下ろすと、心配そうにこちらを見ている。
「本当にありがたいです。でも、菊司さんがどうにかなってしまったら、この子たちや私たち職員も悲しみます。どうか、無理はしないでください」
「……うん。そうだね。ありがとう」
きゃーっという高い声が聞こえて、視線をあげる。遠くでキツネ姿の劫罰狐があおむけに転がっている。彼を取り囲むように小さくて幼い手がわしゃわしゃと毛並みをかき回していた。
「ふふっ。劫罰狐さんも大人気ですね」
「ね。動物には勝てないよ。……まあ……刀神だけど」
乃々佳はくすっと笑って、女の子を下ろした。その子はじっと菊司を見上げている。そして、おそるおそるといったように、菊司の指先を掴んだ。
「きくじさん」
子ども特有の甘い声。思わず、菊司は目尻をさげる。
「はい」
応えると、右膝を曲げて彼女の視線に合わせた。まだなんの苦労もわからない、純粋な瞳だった。青いほど黒い、きれいな目。
「僕もね、きみたちが大好きだよ」
素直に伝える。
子どもには嘘など通用しない。嘘をつくと、大人を真っ先に信用しなくなる。そうなれば頼るものをうしない、残酷な現実を目の当たりにして絶望する。せめて、彼女たちには誠実でありたかった。
直後、鞄の中から電子音が聞こえてくる。
立ち上がってスマートフォンを取り出すと、緋鍔局の知人からのメールだった。
「それじゃ、僕はこれで。また来てもいい?」
「はい。もちろん!」
まだいたいと渋る劫罰狐をつれて、施設から出る。
道中立ち止まり、メールを開いた。〝※※病院305号室佐々木香奈子27歳〟とだけ書かれている。これだけ分かれば十分だ。スマートフォンをコートのポケットに突っ込んで、歩き出した。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.