テレビでサウナの特集をしていたので、そういうものもあるのかと当初聞き流していただけだったが、なんの因果か一度試しに入ってみたら癖になってしまった。
バディの紅梅百華も興味を示したため、連れ立ってスパの前にいるのだが――完全な休日は久しぶりだからか、妙に落ち着かない。
「久遠、これはなんと書いてあるのだ」
彼が指を差した先には、英文字でスパと書かれている。
「スパ。温浴施設だ。温泉やサウナがある」
「それなら知っている」
頷いた紅梅百華を連れて、中に入ると平日だからだろうか、あまり人はいないようだった。丁度よかった。傷だらけのからだをわざわざ一般人に見せつけることもない。
この施設は広々としている。靴が沈むようなカーペットが敷かれた床がずっと続いているし、天井はシャンデリアがぶら下がっている。もしかすると、以前はホテルだったのかもしれない。
料金は支払機で支払うようになっているようだった。紅梅百華に券を渡して、自分も財布の中に入れた。
「ずいぶんと広い施設だな。見ろ、久遠。温泉がそこかしこにある。五カ所もあるのか」
「露天に内風呂、温水プール。いろいろあるな」
パンフレットを見ると思ったよりも大きな施設のようだ。二階にも温泉があるし、三階からは商業施設も入っている。はたしてこれをスパと呼んでいいのか分からないが、銘打ったものに口出しはしない。
「どこに行きたい?」
問いかけると、紅梅百華は指で内風呂をさした。そういえばと彼の意匠をみる。赤い着物から黒いジャケットとストレートパンツに着替えている。あの意匠だと、温泉には向かないだろうと思い、デパートで購入したものだ。デパートに向かったのは彼に似合う意匠があると確信したから。チェーン店のものが悪いとは思わないが、似合う似合わないが誰にでもある。その見極めのプロがデパートの店員だ。そう教えたのは祖父だった。祖父は道場の主だったが、洋服もよく着ていた。もちろん道場ではいつも道着だったけれど。豪奢ではないがセンスのいい服を着ていたと思う。
黒いジャケットの袖下から、白いリネンのシャツがわずかに覗いている。
「だったら二階だな。行こうか」
カーペットが敷かれている階段をのぼり、男湯ののれんをくぐると脱衣所には、椅子に座って扇風機の冷風を独り占めしている老人がひとりいた。
湯船は広い。壁は大理石でできているようだが、本物かは分からない。そしてあたりを目を細めて見回しても誰一人いなかった。いや、いるのかもしれないが、眼鏡を外した久遠では人影も見分けられない。
からだを洗ってから、湯船に浸かる。あたたかい湯気が張った筋肉をほぐしてくれるような気がした。無意識に息をおおきく吐く。
ここのところ、ずっと前線に出っぱなしだったから、緊張していたのかもしれない。紅梅百華にも無理をさせてしまっていた。
「足を伸ばせるのはいいものだな」
そう彼はいった。久遠の自宅はマンションの一室ではあるが、以前は一人暮しであったし、さすがに伸び伸びと足を伸ばせる風呂ではない。引っ越しをしようか、と茫漠と思う。前々から考えてはいたのだ。ふたりで住むにもそれほど困らない広さだけれど、どうせなら踏ん切りをつけたい。
「紅梅。引っ越しを考えているんだが」
「引っ越し?」
ぼんやりとした頭の輪郭がわずかに揺れた。
「今住んでいる家よりは古いが、風呂も広いし、庭もある」
手のひらでにじみ出した顔の汗を拭う。小指のあたりから、湯がポタリと落ちた。となりにいる紅梅百華は「庭か。いいな」といった。
「目星はいくつかつけてあるんだ。今度、下見に行こう」
「そうだな。風呂がどれだけ広いのかも見なければ」
それから口をつぐみ、ぼんやりと広々とした窓を見ていた。強張った筋肉が緩んできて、手で肩を撫でる。凹凸がある古い傷跡に触れた。目に見える傷跡はあちこちにあるけれど、それを見て顔をしかめるものはここにはいない。
途中で何人か入ったのか、それとも出たのかは分からないがぬるい空気が抜けていった気配を感じた。
背中に張り付いた一房の髪の毛を手で梳いて、立ち上がる。
「先に出ている。ゆっくりつかっているといい」
「俺も出よう」
湯船から出、そろってシャワーでからだを洗い流して脱衣所に出た。先ほどの老人はまだ扇風機の前にいた。冷えないのだろうかと思った直後、彼はまた服を脱ぎ始めて風呂に入っていった。なるほど、そういう使い方もあるのかと感心した。
軽装に着替えて廊下に出ると、煌々としたシャンデリアが目に入った。近くで見る灯りはやけに黄色く見えた。
一階のエントランス近くに、ガラスで仕切りられたカフェがあったのでそこに入る。全体的に茶色いカフェには人がたくさんいた。コーヒーの果実めいた匂いがたっている。
店員に案内された席からは外を通りがかる人たちがよく見えた。
「久遠、コーヒー牛乳があるぞ」
メニューを見た紅梅百華が指を差した。
「人は温泉上がりにコーヒー牛乳を飲むのだろう」
彼が自信ありげにそういうので、久遠は思わず笑った。そうだなと頷く。店員を呼び、コーヒー牛乳をふたつ注文した。
「忙しないな。みな同じような装いで足早だ」
窓ガラスの向こうを見つめながら、彼は呟いた。手元に置かれたコップに薄いレモンの輪切りが沈んでいる。
「俺たちも似たようなものだ。歩き続けなければ止まってしまうから」
「止まればいい」
黄金色の目が不思議そうに細まった。コップを持ち上げて、一口飲んだ。レモンのすがすがしく青っぽい香りが香った。
「うまく止まれる人間と、止まれない人間がいる」
「お前は?」
眼鏡のつるに触れながら、目を伏せる。
「俺はうまく止まれない側の人間だ」
時の概念というものは、きっと刀神と人間とでは違う。それでも共通しておなじなのは、「戻れない」ということ。過去はどうやっても変えられない。だから進むしかないのだろう。人間は。
「器用に生きられたらよかったんだがな」
「お前が言う器用とはどんな生き方だ」
「止まるべきときに止まれる生き方……だろうな。そうすれば生存率もずば抜けて上がる」
そういう意味ではないということは分かっているが、伝えておきたかった。久遠が今までもこれからも刀遣いだからだ。多くを生かして帰さなければならない。それも鯉朽隊の責務でもある。
「そして、進むべきときには進む」
お待たせしました、と店員がコーヒー牛乳の瓶をふたつ置き、去っていった。
「それは……なんというか、難しいな」
紅梅百華はことばと同じように難しい表情をして、コーヒー牛乳の瓶を見下ろした。うす茶色い液体を興味深そうに見ている。紙の蓋を指先で摘まんで外し、彼に渡した。自分のぶんも外すと、一気に煽った。
甘い、と感じた。
テーブルの隅、コップ大の花瓶に、花水木が生けられていた。白い花はいつまでも清い。
会計をして、カフェを出る。
今度はサウナに入ろうと紅梅百華がいった。久遠もその予定だったので頷く。サウナは内風呂とおなじ、二階にあった。
「紅梅は暑さに強いんだな。異能のおかげか?」
横長の細い箱のようなサウナの、もうもうとした熱気に包まれながら尋ねる。あごから汗が滲んで腿にかけたタオル落ちた。
紅梅百華はうっすらと頷いて、「そうかもしれない」と答えた。
「お前はいつも、ずいぶん着込んでいる」
「ああ、コートとブーツは革だしな。薄着よりは安全性も高い。その分、重いが」
紅梅百華と久遠、そのほかに若い男がサウナに入っている。その男が二人に断りを入れて水を熱された石に注ぐ。ロウリュの蒸気が一気に天井にまで広がった。う、とちいさく仰け反るのを紅梅百華がみとめて、ちいさく笑った。
「あれだけ俺の異能を使っているというのに」
「こんなに狭い場所じゃないだろう」
からだじゅうから汗が滲み出る。腕でひたいの汗をぬぐうも、その腕も汗と蒸気で濡れていた。
温度計と湿度計が目の前にあるが、目を細めても見えない。
頭がぼうっとしてきたので、椅子から立ち上がりサウナを出た。紅梅百華が続いたが、若い男はまだ座っているようだった。
水風呂に入ると、大きなため息が出た。ぎゅっとからだの内側が引き締まったような気がして、意味も無く手の甲で目のあたりをこする。紅梅百華はすこし水風呂に入っただけで、もう出ていた。おそらく今、脱衣所にいるだろう。数秒目を閉じ、深呼吸してから水風呂から出た。
紅梅百華はきっちりと着替え終えていて、久遠が出るのを待っていたようだ。
「なかなかいいサウナだった」
彼は腰に手を当てて満足げにいった。
「なにか食べようか」
少しの間休み、髪の毛を適当に拭ってから告げる。紅梅百華は梅干しはどうだ、とどこからか入れ物に入った自作の梅干しを取り出した。
「残念ながら、ここは持ち込み禁止だ。家で食べよう」
「そうなのか。融通がきかんな」
三階に上がり、レストランを探す。チェーン店のレストランがこれでもかと入っていた。
和食レストランに入り、久遠は彼に「どうだった」と聞いた。
「良い息抜きができた」
「それならよかった。また来よう」
「ああ」
またも窓際の席だった。空が近く、地面が遠い。
「あとよっつくらい風呂がある」
紅梅百華はパンフレットを再び取り出して指差し、「次の楽しみにしておこう」と続けた。
「そうだな」
風呂とサウナのぬくみで筋肉の収縮がやわらいだような気がして、また固まる前に柔軟をしておこうと思う。
置かれた注文したものを見ると、紅梅百華の丼物に梅干しが添えられていた。
「見ろ久遠、梅干しだ」
箸で口に含んで種を取り出すと、彼は微妙な顔をした。
「俺が作った梅干しのほうが美味い」
「それはまあ、そうだろうな」
紅梅と名の付く神がつくる梅干しだ。天下一品、美味いだろう。バディである自分も、そう思う。
自信満々に紅梅百華がいったので、久遠も珍しく破顔した。
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