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伊坂
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Hades Game
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アケローンの河岸にて(Hades Game)
Thanzag(zagがボトム)。ちょっとだけエッチ。
アケローンの河岸にて
薄ぼんやりとした魂の輪郭。
魂の思考。
心の声がそのまま吐息となるような
――
。
九日と八夜かけてたどり着いた冥府の底は、夏のようでいて、冬のようでいて、冷たい空気と温かい空気がまだらもようを描く不思議な闇に覆われていた。
同化するような気配もあれば、はじくような気配もある。それは逆に言えば己という存在が空気に溶けだしていくような不快であり、けれど溶けだすまではいかない、かろうじての安堵だった。
死因はまだ思い出せない。死に際に死神が現れたかどうかも。
辛苦がなかったことだけは確かで、それが奇妙な心残りとなって透ける体をあたためていた。前をゆく亡霊の先に坂道の終わりが見え、前に倣って右に折れる。左に折れる。九十九折の風景が変化して、城塞のような高壁が遠く奥のほうに現れる。すると、行列のそこかしこから細い悲鳴がひびいた。
(ハデスの居城だ)
(あれが
……
)
(ハデスの居城だ!)
冥府の底にたどり着いた亡者たちはまず、冥王と謁見できる機会を透明なからだで待つ。生前の行いのこと。誰のために何をしたかということ。我が生とはいったい何であったかと
……
。考えたところで仕様のないことを考えるのは、それしかすることがないからだ。
耳当たりの良い言葉を吐くべきかは悩ましいところだった。何せ冥王ハデスといえば公正・厳格・峻烈の神。美辞麗句を並べ連ねたところで嘘や見栄はまず見抜かれるであろう。
(だが地獄の沙汰も金次第というぞ)
(金次第なものか!)
(我々は九日九夜かけてこの冥府の底まできたのだ)
(このもうない足で
…
!)
ここに幸福はあるのだろうか。死んだ後の自分にどんな意味があるのだろう。『死後の生』。そんなものが本当にあるとしたらの話だが。
影の薄い者。濃い者。あらゆる霊魂が答え合わせを求めて体を寄せ合っている。
それに混じる気にはなれず、自分は空間を取り囲む飾り柱の美しさに見惚れた。四方の水路にはおどろおどろしい色合いをした川の水があふれている。物悲しい音をたてて、赤い川はとめどない流れをつくる
……
。
ふとどこかから薪の燃える匂いがして、それは闇の匂いに混じって薔薇の匂いに感じられた。すべてから切り離されたような孤独感と、それすらどうでもよくなっていくような安堵感。不思議な恐怖だった。恐れていた死後の世界が、こうしてほんのりと温かいだなんて。
『此処な亡者どもは謁見の間へ!』
突如どこかから響いた声は、その場の亡霊たちすべてを震えさせた。音をたてて蝙蝠たちが飛び上がる。合い間の床が銀色に光って、天地がさかさまになるかのような浮遊感。
「やあ、ようこそハデスの城へ!」
「亡者どもは一列に並べ! ぐずぐずするでない!」
歓迎の言葉を打ち消すように、無慈悲なる命令が柱廊を打った。
宝石のきらめきが交差する荘厳な空間。
幽麗な音楽が満ちる常夜の国。こここそが、冥王神ハデスの居宮。
「
……
っぷッは!!」
亡霊たちがどよどよと列を作る中、ど派手な水音と水柱が背後から上がった。紅玉の水滴が雨のようにぱたぱたと落ちてくる。透明な体を貫通したそれは、石畳に赤っぽい染みを作る。
「はぁ
…
、ここが最後尾?」
赤い水を滴らせた青年は、前髪を掻き揚げながらやってきた。血色の泉をばしゃばしゃと波立たせて。そう、自分の後ろに。
火の燃え出でるような色彩。血塗られてなおかがやく葉冠。
亡霊たちは一様に
…
、前を向くべきか後ろを向くべきか迷って、皆後ろ髪を引かれる想いで前を向いた。だ、だれだ。あの光り輝く青年は。気さくなまぶしさと不吉さ。いたずらっぽく弧を描く口元。左右で色の違う瞳
……
。
うっすらと漂う魚臭さに、おのれの『死因』があざやかによみがえる。死に際に辛苦を感じなかった理由も。
(ザグレウス王子
……
)
すぐそこにある腕や太股のたくましさを感じながら目をつぶる。寿命の縮む思いをした日のこと。寿命が延びるきっかけを与えられたあの日のこと。彼の微笑み。彼の悲鳴。
そうだ、恐ろしいものをみたのだ
…
。
気が触れてしまうかと思うほどに美しく、恐ろしいものを
……
。
『
…
ザグ、見られても平気か?』
『俺は気にしない。タナトスは?』
『お前が平気なら、構わないが
……
』
ああ、あの日。あの近くて遠い日。
この青年はアケローンの河岸に座って、ただの人である自分を何の気なしに呼びとめたのだ
……
。
◇◇◇
足の片方を川の中へと浸して、少年らしき人影は機嫌よく釣り竿を揺らしていた。
「! だれだ?」
「ご、ごめん! 何してるのかなと思って
……
」
朝ににわか雨が降ったために、川の繁みはつやつやと潤い、そこらじゅうが金色の霧に包まれていた。海の向こうの島々もぼんやりしている。梢の中を飛ぶ鳥たちの声も反響して、いつになく神秘的な雰囲気だった。
「見ない顔だ」
少年はいたずらっぽく笑ってそう言った。それはこっちの台詞だと言い返してやりたいのに
――
、言葉が出ない。
赤い肩衣。林檎の果皮のようにみずみずしくはりつめた肩。『見ない顔』だ。彼が人ではないものであることは一目瞭然だった。腰には長剣。柄の中央には髑髏の柄飾りが施されており、その髑髏は自分を見てニヤリと表情を綻ばせたように見えた。いや、いや、気のせいだろう
……
。
どうすればこの少年の機嫌を損ねることなく、『見なかった』ことにしてこの場を立ち去れるか。
そう考え始めた瞬間、少年の釣り竿の浮がきらりと光り、少年の目もまたきらりと光った。
「きた! マスだ!」
釣り竿を勢いよく引き上げて、少年は「三匹目!」と声高に言った。釣竿を立てて魚を膝元へと寄せる。びたびたと暴れる魚の口に指を突っ込んで手をひねる。すると釣り針がはずれて
――
、ぽんっとマスが土の上で飛び跳ねた。釣り好きの慣れた動きに心が和む。いや、和んでいる場合ではないのだが。
「で、どこに行くところだったんだ?」
少年はマスを両手でつかむと、川に浸す袋の口をくつろげてその中に放った。袋には一匹目と二匹目のマスがいるのだろう。住む場所が狭くなったと言って暴れている。
「僕は、絵の具の材料を採りに
……
」
「絵描きか。絵がうまいんだな?」
「いや、まだ全然だけど
……
、満足のいく絵を描いてから死にたいとは思っているかな
……
」
「『夢』のある人間
……
。『生きている目的』のある人間ってわけだ」
歌うように言った少年の足元には、よく見るとたくさんの魚が集まっていた。大きいものから小さいものまで。「多分、俺の足があったかくってじゃれついてる」
見れば少年の裸足は熱鉄色だった。
「あの
…
」
「うん?」
「あんまり、その川は良くないかも。いや、迷信なのかもしれないけれど
……
」
「それはこの川が死の国にそそぐ川だからか?」
「迷信だと思ってる?」
「いや?」
両の瞳がこちらを向く。
「むしろ、だから俺は足を浸してるんだ。俺はステュクスの流れを遡ってここまで歩いて来たんだから」
新緑を思わすさわやかな緑色であるべき彼の右目は
……
、
「
……
!」
あまりにも冥い闇に没していた。底なし沼に浮かぶ赤い宝石
…
。それが彼の右目だった。あまりの不気味さに身体がすくむ。
「俺はもうすぐ死ぬんだけど」
神子のようで、なのに魔物のような彼は穏やかに言う。死ぬ? どうして?
「だからここで迎えを待ってる。死の訪いを」
少年の肩は金の靄をはじき、横顔はどこか儚かった。駄目だ。愛しいと思っては駄目だ。見ていたいと思っては。
「なあ、こっち。来てくれないか?」
ごめんだ。まだ死にたくない。
でも嬉しかった。まだこの少年を見ていたい。
「殺さない?」
逃げ出したいのに留まりたい。濡れた唇から目が離せない。ふらふらと傍に行けば少年はほんのりと魚臭く、それが不思議と、もっと近づきたいという理由になった。
「殺さない」
少年はそう言うと、使い込んだ竿を置いて場所を空けた。アケローン川の川面は美しく、これが死の国の暗い流れに合流するだなんてとても想像できない。
「絵の話が聞きたい」
「その前に君は何者なの?」
「俺? 俺は冥界の人間だ。わけあって冥界で生まれたから、俺にとってはこっちが死の国みたいなもん。だからそんなに長くは生きられなくて
……
、いいだろ? 冥途の土産に聞かせてくれよ」
少年は最初に見せた時と同じ、いたずらっぽい笑みを見せて川の水を蹴り上げた。
冥途の土産が、絵の話なんかでいいのだろうか。
少年の首筋に目が吸い寄せられる。自分なんかより強靭で、なのに少年期特有の、甘さと脆さを漂わせたうなじだった。
撫でてみたくてたまらない。なめらかな黄土の岩肌から、陽の色の顔料をすくい取るみたいに。
「何色の絵の具を取りに行こうとしてた?」
知らず伸びていた指先を、丁寧にどかしながら少年は言った。
「ああ
……
、この崖の下に、巻貝が住んでいる場所があるんだ。その粘液を乾かして紫色を作る」
「貝! 俺も見たことある貝かな?」
「どうだろう。濃い紫色はそれでしか作れないんだよ。すごく貴重なもので、お金にもなるんだ」
「へぇ
……
」
青や緑色が付着した指先を、珍し気に撫でられて心臓がどきどきした。不気味だった右目も、いまや彼に憂いという魅力を持たせている一要素にしか思えない。
「君についていけば一緒に冥界に行ける? 一人で死ぬのは怖くない?」
「怖くない。もう何度も死んで生き返ってるんだ。それに俺には、ああ
……
」
彼が甘い吐息とともに目を閉じた瞬間だった。
河岸に満ちた金色の靄が、青く不穏な光沢に満ちていく。「待たせたな、ザグレウス」
冷たく、美しい姿がそこにはあった。
赤衣の少年は、黒衣の男に包まれ、唇に柔らかなキスを享けていた
……
。
◇◇◇
「すまない。仕事が押した」
「いいんだ。タナトス。間に合ってよかった」
目の前で交わされる柔らかな抱擁に、頭がぼうっとして、言葉が出なくなる。
綺麗だ。とてつもなく綺麗な二人だった。タナトスと呼ばれた青年は、少年の黒髪をかき混ぜるように引き寄せると、額に何度も唇を落とした。
タナトス。それは誰もが知る『死の化身』の名前
――
。
「かなり岬から離れた場所にいるから驚いた」
「そうだろ? 母上がアドバイスをくれて」
「女王が?」
「ああ。地表は地表でも、ステュクスの流れの中にいれば、いつもよりは長生きできるかもしれないって」
「まあ、お前はカロンにも気に入られているようだしな」
端正な顔がふっと緩み、少年がその頬を愛おしげに撫でる。手のひらが重なり、指を絡めて二人は声を出し笑い合った。少年の頬には赤みが差し、死神の黒い爪先を艶やかに見せている。
「俺の愛しい死」
少年は低く、はっきりと言い、ふたつの腕に自ら納まって目を閉じた。
「我が愛しき伴侶、ザグレウス」
形式ばったやりとりに、まさしく、出会った時の言葉通りに、彼は死の訪いを待っていたのだと知った。死にザグレウスと呼ばれるこの少年は、死の寵愛を一身に、永遠に受け続ける存在なのだ。
「退屈だっただろ?」
「そうでもない。絵の話を聞いていた」
「
……
絵描きか。だが俺たちの姿を見たとあっては、ただで返すわけにはいかない」
「それは困る」
「困るか?」
「俺の都合で引き留めた。殺さないと約束したし
…
」
「ではひとまず保留ということで」
明るい中でわざと目をつぶって、彼らは唇で唇を探り当てることにしばし熱中していた。
熱く濡れた吐息をかぶせるような会話。雑に口を開けて、雑にねじ込まれる舌にすべてを任せるような。
「ああ、悪くない」
「何がだ」
「お前の仕事終わりと俺の仕事終わりが重なることだ。こうしてお前と過ごしていることは、館の誰にも知られていない」
「父上にも」
「ああ。我が母上にも
……
」
「お前がニュクスに対して秘密を持つなんてのは初めてなんじゃないか?」
「俺が母を裏切ることはありえないが
……
、少しばかり抑制がはずれる思いではある」
「はっ。常に模範的な息子でいるのは大変だ」
「ほう? 少し気に障ったぞ? ザグ」
「茶化しただけだろ」
「お前
……
。お前なら、模範的でない俺でも受け入れてくれるんだよな」
「聞くんだな? そんなの、
…
。ああ、大歓迎に決まってる
……
」
心臓は。
とてつもないものが始まるという期待と不安で鳴っていた。
黒衣の美男子は肘をついて身を乗り出し、少年のうなじに鼻梁を押し付けキスを繰り返す。
少年の喉からは甘い悲鳴が上がり、彼は自分の肩衣がずらされていくのを、最後は手助けするかのように身をよじった。
「見られても平気か?」
「俺は気にしない。タナトスは?」
「お前が平気なら、構わないが
……
」
彼らは苦笑しあい、それからようやく、申し訳なさそうに、愉快そうに、揶揄うように、ただの人間がへたりこむ河岸を見た。
鼓動は。
ここにきて早鐘のようだった。逃げ出したい。なのに体がぴくりとも動かない。彼らは神で、きっと自分は、立ち去ることを選んでも、立ち去らないことを選んでも罰せられる運命にある。
木々の作る天蓋に、金の靄が瑞々しくかかり、もはや鳥たちの声も、魚たちの跳ねる音も聞こえない。
瞳孔がかすかに広がるのがわかった。
眼球が動き、必死に構図を探ろうとしているのがわかる。
この美しい光景を、今から始まる美しい行為を、命に代えても脳裏に焼き付けなければ。
「待っ、俺の指魚くさい?」
「何を今更」
少年はとうとう、アケローンのせせらぎから足を引き抜いて、暗色の青年に抱えられるような格好になった。二人は、いや二神は、何か囁き合って面映ゆげに笑い合っている。
尖った頬骨、下唇、そして鎖骨の一文字を撫でられながら、ザグレウスは柔らかな吐息を放った。
「そう緊張するな」
「緊張してない」
タナトスはザグレウスに言い、図星だったのかザグレウスは恥ずかしそうに首を振った。彼の月桂冠が火の粉のような葉をひとつふたつ落とす。
目の前の草むらが風に揺れると、それを合図に彼らは姿勢を変えていた。それとも
――
、彼らが姿勢を変えたいがために、草むらは風に吹かれたのかもしれない。
横倒しに体をひねり、互いの体を抱き寄せ合う彼らは夕ばえの空のようだった。層となって隣り合う夕日と夜の色合い。折り重なって一つになることを望む空の色。
小さな声が空気の流れにまじってこちらへと届く。「ザグ、俺以外に意識を向けるなんて駄目じゃないか」「お前だって」
その会話を聞いて、自分はすみまで硬直した。
「アクタイオンという名に聞き覚えは?」
「いや。誰?」
「アクタイオン。哀れな男だった。不運にも狩猟の女神の水浴びを見てしまって、鹿に変えられてしまった男」
「そ、その男はどうなった?」
「自分の猟犬たちに追い立てられて非業の死を遂げた」
「それが本当なら、俺はまだ彼女の本当の怖さを知らないってことになるよな」
「かもな」
その会話が一区切り付くや否や、ザグレウスは「
……
ん、っ」と呻いた。甘い呻き。獣の頭蓋骨を使った肩留めがずれ落ち、今や彼は上半身をほとんど曝け出している状態だった。
柔らかな切迫、穏やかな衝動を分け合うかのごとく二神は鼻梁を擦り合わせる。ただ純粋にあふれだす、満たしたいという願い、満たされたいという願いを交換し合うように。
やがてタナトスの炻器めいた手がすべりおり、その手はザグレウスの真っ赤なレギンスにかかった。あっというまに太腿があらわになる。金の靄を浴びて、輝かんばかりの大腿部だった。
「はっ、もうこんなにして」
親しげな指摘をこぼすと、死神はザグレウスの尻を甘く優しく撫でた。そのまろやかさを手のひら全体で味わうように。
「うん
……
」
心地よさに襲われて、少年は震えあがり目を細める。抱え込まれ、されるがままの姿は危ういほどだった。腰帯に寄った衣によってどうにか秘部は隠されている。しかし陰嚢のふくらみを掬いあげられて、少年はたまらずあえかな声を上げた。
「やっ、
…
ぁんっ
……
」
快感のあまり何度か尻を浮かせると、泣き言を零しながらザグレウスは内股の角度を広くする。赤紐の巻き付いた手の甲がさまよって、その手はやがてタナトスの内股に添えられた。タナトスの手によって。
愛情に満ちた、低い笑い声が漂う。タナトスの顔は穏やかで、なのに金の目だけは飢えてきらめいているように見えた。少年がのけぞらせる胸を、死神は素手で押しつぶすようにして舐める。
「ああ、お前は甘い」
「っ、また
……
、俺ばっかりよくなってる
………
」
「お前はいつもそう言うな」
「だって
……
、
……
俺だって与えたい
……
」
二人から漂うのは歓びの感情だった。こうして気おくれも気負いもなく、ありのままの自分を曝け出せる歓び
……
。
目の前の光景が心底怖かった。
淫靡で、なのにとても柔らかくて美しい光景
…
。それは怯えを麻痺させるに十分で、もはやこの行為のあとに待ち受ける自分の運命などどうでもよく思えてくる。
ザグレウスは後ろ手にタナトスの腿に手をつき、紫がかった黒のレギンスを引きずりおろした。
欲望をおさえた、不敵な笑い声がはぜる。自らの臀部をおしつけるように座って、彼は身を捻り、愛しき伴侶の表情を仰ぎ見た。
「お前は、俺からすれば与えすぎだ。これから学んでいくべきことは『求め方』のほうだと思うが
……
」
指先が肌をたどっていく感触に、ザグレウスは小刻みに震えだし、それはどこか開花する寸前の蕾を見るようだった。
「どうして欲しいのか教えてくれ、ザグ」
不穏な闇を纏って青年は言った。
重そうな体でのしかかって。夜にねそべる山脈のように。
「抱いてくれ。生きたまま俺を埋めるみたいに
……
」
ザグレウスは愛する男の頬を手のひらで包み込み、声を湿らせて付け加えた。「いつもみたいに
…
」
その直後だった。彼は彼の愛する男の手によってうつ伏せにされていた。男は少年の尻を荒々しくさすって、尻肉をぐっと左右に広げる。花びらをかき分け、雌しべのありかを暴くように。
重ねた腕に顔を埋めた少年は、やがてくぐもった
――
甘い煩悶のさけびを上げた。途切れながら長く、覆いかぶさる男にのみ聞かせるようなよろこびの悲鳴だった。
「いい
…
っ、ああ
……
、いい
……
、熱くて、タンの、すごい
………
」
「お前のなかもとてもいい
…
」
男の右手は少年の体の下にすべりこみ、小さめの陰茎をつかんで前後にさすっていた。骨張った背をしならせ、少年は尻を高く持ち上げて男の名を呼ぶ。
「タン
……
! ひっ
…
、いく
……
っ、もう、逝くぅっ、逝くっ、ゆるひて
…
、!」
「死なせるものか」
「はぅッ
――
! あっ、感じる
……
、すごい
…
、もっと
……
、ああっ
……
もっと
……
!」
赤い閃光が、金の靄を苛立たしく切り裂いたのが分かった。
下知をくだす神のごとき凛々しさでタナトスはザグレウスを守り、直後には貫く。息も絶え絶えに善がる少年を、小刻みにゆすってさらに追い立てる。
「死ぬかと思った
……
。というか?」
「フフ
……
、死神騙しが残っていて良かったな」
思い思いに腰を揺すりながら、ふたりは愛を巻き散らすがごとく重なり合った。タナトスの甘い呻き。それに応えるザグレウスのとろけきった声。
そして弓のような緊張で背をしならせ、先に達したのはザグレウスだった。
「やっ、あっ
…
、ううっ
…
、おしりきもちいい
……
、きもち、よくて、はぁ、今度こそ死ぬ
…
っ
……
」
「安心しろ
…
、俺が、ああっ、お前をちゃんと館に届けてやる」
優越感に浸るようにそう言って、黒衣の男はザグレウスの悦ぶ場所に何度も腰を打ち付けた。悲鳴。快感のあまり涙目になっているザグレウス。タナトスは満足げに覆い被さって果てた。愛しい少年を、少年の望み通り生き埋めにするかのごとく。
少年は、最期の力を振り絞るように、愛する死の化身に対し何かを言い残した。彼はうっとりと微笑み、微笑んだまま生気をうしなっていく。
この少年神の美しさを完璧にしているのは死の抱擁だった。
再生のための死。
死のための再生。
既にもう事切れている伴侶の裸体に、死神はしばらくの間、指をさまよわせたりキスを落としていた。
「さて」
自分と、愛する少年神の身形を整え終わると、タナトスはアケローン川の河岸に立ち、投げ浸されている袋を引き上げた。「受け取るがいい。ザグレウスからだ」
息をすることを忘れていたためか、返事をしようと口を開いた瞬間せき込んでしまう。
「まあ喋らなくてもいい。そのマスにはザグレウスの功徳が宿っているかもしれない。運が良ければ寿命が延びるなんてこともあるかもな」
無様にせき込む人間を前にしても、死神は不快げにしなかった。
息が、苦しくて涙が出る。
マスの入った魚袋がぽいと膝先に置かれる。
涙に滲む視界の中で、死の化身はこと切れた少年を抱き上げると、ふわりと宙に浮いた。
行ってしまう。
この命を捧げてもいいから行かないでほしい。付き添わせてほしい。
だがそんな心情など酌むことなく死の化身は言った。
「いみじくも命をまっとうして、そして死んだ後も絵を描きたければ、この王子が宮廷絵師として冥王に推挙してやってもいいそうだ」
◇◇◇
「やあ、おかえり! ボクの親友!」
そう呼びかけられて青年はすたすたと歩いて行った。亡霊たちが列をつくる中を堂々と。
「豆ぇ?! 豆で死んだの?!」
赤い毛布にくるまった青年は、ふわらふわらと浮きながら燃える葉冠の青年を笑い飛ばした。アハハという高らかな笑い声が響き渡る。注意する者は不思議といない。
「信じられるか? 豆に毒があるなんて
……
!」
「でも僕、君以外にも豆で死んだケース知ってるよ~。豆だっけ? 豆畑だっけ? そんなかんじの」
「豆畑?」
青年
――
ザグレウス王子は、今回の釣果をいそいそと披露しようとしたが、今の今まで会話していた青年が眠り始めたのを見てがっくりと肩を落とす。
しかしいつものことなのか、すぐに立ち直ると行列を横切るようにしてどこかへ消えた。
(ザグレウス王子
……
)
自分のことなど覚えているはずがない。あんな、現実であったかも定かではない、わずかなわずかな時間の出来事など。
思い做しか彼は逞しくなったように見えた。自分が彼を実際より幼く見ていただけかもしれないが。
辛苦はなかった。年老いない姿で約百年生きた。
死の間際に現れて死神は言った。「満足のいく絵は描けたのか?」
自分はそれに一度は頷いたものの、すぐに首を振った。一度は満足するのに、すぐに満足できなくなってしまう。何せ、あの日アケローン川で、自分は気が遠くなるほど美しいものを見てしまったから。
冥王神より沙汰を言い渡された亡者が、一人また一人と姿を消していく柱廊の最後尾。
ザグレウス王子は再び右手から現れて、巨大な愛犬の、三つの頭のうち一つを撫でまわしてどこかへ消えた。
偉大なる冥王の視線に、気が気ではないのは自分だけではないだろう。この王子ときたら王が亡者たちに裁きを言い渡す瞬間だろうと何だろうと、まるでお構いなしに玉座の前を横切っていく。
彼の走り去ったあとには、きらきらと火の粉が舞っていた。ふわりと蝶が過ぎったような。それはじりじりと地獄の沙汰を待つ亡者たちにとって、ほんのすこし心和む光景だった。
「次の者!」
冥王が声を張り上げて、ついに自分の番だった。
一体何を言えばいいのだろう。狂ったように絵を描いてきた一生だった。
アケローン川のほとりで睦み合う、彼と彼の絵を。あるいは彼らが住む冥界のイメージばかりを。
「フン
………
」
何かを言う前に王は憮然とした面持ちで執務机に肘をついた。
「ザグレウス! わが息子といえどお前に使用人を雇う権限などない!」
「では父上が雇えばいいんです。彼はとても良い絵描きで、きっと父上のお役にも立ちます。母上も喜ぶのではないですか?」
いつの間にか、時恰も好しとばかりに王子は自分の真横にきていた。もしかしたなら、振り向けなどしないが、美しい彼の伴侶も。あの毛布のような外套を纏っていた青年のそばあたりにいる。気配を隠すことなく。
「
――
それとももう絵を描く人生は十分か?」
その声は耳元で柔らかにはじけた。鼓舞するような響き。どっちでもいいと、可笑しがるような輝き。
そうだ。この悪戯っ子のような笑みこそ彼だった。ただの人間のふりをして、ただの人間の話を聞きたがった彼だった。
ぶんぶんと顔を横に振る。すると視界の隅で、王子はそうこなくっちゃとばかりに唇の端を吊りあげていた。「そういえば父上、母上が花のスケッチの先生を欲しがっていたのでは?」
「ザグレウス!」
それ見たことかという気分だった。礼節を知らない息子に冥王は目くじらを立て、ただの影である自分は透明な体を縮こませるばかり。
「では
……
、御意に」
タルタロス行きを覚悟しかけた瞬間、机の向こうから赤いものが飛んでくるのが見えた。床に落ちたそれを拾いにいった王子が、埃をはらいながら自分の頭にひょいと乗せてくれる。「ほら、絵描き帽だ」
何事も無かったかのようにことが終わると、王子はさっそく「じゃあタナトスの絵から頼む。ポスターサイズでいいから」と嬉々として言った。「おい」と少し後方から、迷惑そうな声が上がる。悠揚として迫らざる彼の雰囲気はあの日とまるで変わらない。
そこでちょうどよく、ぱちりと目を覚ました眠りの神が書類をばら撒きながら言った。「なになに?? なんの話?!?」
「新たに職に就いた宮廷絵師がお前の肖像画を描くことになったという話だ」
「ボクの?! なんでボクの?!」
「俺のお願いで」
「ええー!?? いいけど!!」
「ほう」
「決まりだ」
三様の笑い声。蝋燭の溶け出していく匂い。
物悲しき弦歌。巨大な番犬がきゅーんと喉を絞る音。
死んで早々、めでたく初仕事を得たらしい自分に、冥府の王子は振り向いてそれは屈託ない笑いを見せた。
(終)
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