タナトスとメガイラが話してるだけ(Hades Game)

(ザグは出てこない。笑)



「そうだな、一番古い記憶は――

 タナトスはメガイラと向かい合って、彼女の微笑みに対して微笑みで返した。
 無論、お互いだけが微笑みとわかる微笑みだ。
 無論、くだんの王子様は今はこの館にいない。
「あれはザグの背丈がようやく俺たちの胸の高さになったくらいのこと」
 長い話になるわけでもない。気が向いてタナトスは、常よりも勿体ぶってメガイラに話した。復讐の女神。古くからの同僚。とげとげしいかたちの耳飾りが、酒場の照明を思わぬ方向に散らしている。空気中を、オルフェウスの弦歌は川のように流れている。
 メガイラの鮮やかな爪色は、青みを帯びた彼女の肌によく映え美しかった。爪と、唇と、よく撓る鞭の色。それはこの冥府の底にあって彼女だけの色だ。彼女だけの鮮やかさ。彼女だけの鋭さ。フン、と彼女はまるでタナトスを侮るかのように息を吐き、けれどタナトスはそれが侮りなどではないことを知っている。
 自分たちの間に形成されつつある不可思議な空気。それは憐みのようでいて、なのに優越感のような香りもあった。われらは違って、こうも似た者同士。ついには『彼』を好いているという点においても。
 メガイラはネクタルの瓶を少し傾けて、タナトスの前にあるグラスを半分ほどまで満たした。濃く強い甘い芳香。匂いだけでも軽く酔えそうな。
 タナトスはこの貴重な酒の味を知っていた。だがザグが自分以外の誰かに贈ったネクタルの味はまだ知らなかった。贈る人によって、また贈られる人によってネクタルは味を変える。じっさい、タナトスはこうもスパイシーな香りを知らなかった。一瞬息がつまるような。親しみやすさととげとげしさが楽しくダンスしているかのような香り。
「フフ……
 笑ってグラスを傾ければ、「おまえのネクタルも今度飲ませてくれ」とメガイラが笑った。舌がじんわりと熱くなるような甘さと辛さ。いいともと答えるためにタナトスは笑みを深める。物悲しい音楽と皿洗いの音がまじわり合う、この酒場の色合いがタナトスは嫌いではなかった。
 暖炉の火は明々と燃えていた。その暖炉のそばに座って幼いザグレウスは本を見ていた。魚の図鑑。地表の歴史。一つの本に集中できないところがザグレウスにはあって、いや、読むべき本が魚の図鑑のほうであったのならザグレウスは集中できたのだろう。けれどそうではなかったから……
 メガイラもまた確か何かの本を読んでいた。けれど半分以上、彼女はザグの見張りとしてそこにいた。タナトスも似たようなものだった。そんな自分たちのもとに、二つのボウルを手にしたニュクスがやってきたのだ。寝ぼけ眼のヒュプノスをともなって。
「覚えている」
 話し始めたタナトスに、メガイラは柔らかい声で応じた。
「ボウルの中身は一つがナッツ。もう一つが塩味のビスケット」
「ニュクスはまず本に飽いていたザグレウスにボウルを見せて……
「ああ、あいつはナッツをひとつかみと、ビスケットもまたひとつかみ……
 自分の分を取り終えると、ザグはニュクスを見上げて頷いた。ニュクスは微笑んでメガイラへとボウルを渡した。メガイラは首を振っておやつを取らなかった。タナトスも。
「そのときのあいつの顔……
 タナトスは湧き上がる感情に思わず目を閉じて、目を閉じたまま話し続けた。幼いザグレウスの表情を、瞼の裏側に貼り付けたまま。
 輪に加わるなり寝息を立て始めたヒュプノスを見つめながら、ザグレウスはしずかに気色ばんだ。寂しさにムッとして、がっかりで怒れない。ニュクスの持つボウルにはまだまだたくさんのナッツとビスケット。なのに手に取ったのは自分だけ……。楽しいのは自分だけ……
「あいつは、ザグは自分がとったナッツとビスケットを四等分にして俺たちに押し付けた。仲間外れにされてたまるかという顔で」
 もしかしたらとっくに、なんなら『彼』が二歳だった頃から、あるいは『彼』が産まれよみがえった瞬間から、自分は『彼』を好きだったかもしれない。でも遡って明確に好きだと意識したのはあの瞬間だった。ボッ、としなびた蝋燭の芯が、突然火をふいたような感覚。ボッ、と急に明るくなってはじめて、このよくわからないものは蝋燭だったのかと気づくようなありさま……
 蝋燭の名はつい最近知った。
「あちらこちら動き回って、なぜだか火を灯していく。そういうところが――
 別にいらないからナッツをとらなかった。メガイラもそうだったはずだ。なのにザグが自分の取った分をせっせと分ける様子はいじらしくて、優しくしたいと思ったし、つれなくしたいと思った。構いたいと思ったし、それはつまり構われたいということだった。いらないのにありがとうと思った。仕方なさそうにビスケットを口に運ぶ自分達を見て、ザグレウスは嬉し気に目を輝かせたのだ。(お前の取り分は減ったのに?)
 タナトスが目を開けるとメガイラは目を閉じていた。それは柔らかい光景で、しゃべり過ぎたかと感じるタナトスを安心させた。
――ああ」
 ネクタルの瓶がちょうど空になったタイミングで、タナトスは頬杖を解きメガイラに向かって目配せをした。丸い空瓶を机の下に隠し、屈めていた背を起こして向かい合う。「帰ってきた」
 タナトスは腕を組みながら、メガイラが企むように目をしているのを心地よく眺めた。
 感じる。
 重苦しく厳かな神殿に、愛しい灯火が戻ってきたのが。

 小さな火色は柱廊を駆けて、右へ、左へ、館のあちこちに火を分けていく。


(終)





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