Because we were so hurt(Hades Game)

ケルベロスとザグとタナトスの話。短い。オチなどない。英語版の「Than」呼びが好きなので、カタカナ表記でも「タン」と呼ばせることにしました。



Because we were so hurt.



 タナトスはタナトスらしくもなく(しまった)と思った。地獄の番犬の三つの頭が、ザグレウスの後ろから睨みをきかせてきたからだ。
「タン」
 ザグレウスはタナトスを短くそう呼んで、懐いてくる頭のひとつを制するように右手を上げた。
「今からケルベロスを洗うんだけど、タンも見物するか?」
「見ているだけでいいのか?」
「手伝ってくれてもいいけど、手順があるからさ」
 王は席を外しているのか、柱廊の王座にはいない。たまたまなのか、奔放な王子のせいなのか、つい今しがた冥界に戻ってきたばかりのタナトスにはわからない。
「痛てっ、わかってるよ。よしよし……
 三つの頭のうち、真ん中がグゥゥと歯をむき出しにして鳴くのにタナトスは苦笑した。気に入りの玩具を取られたくないのだ。嚙みつかれてもザグレウスは笑っている。果物の果肉のような肩にうすく獣の歯形がついた。
 ついていくべきかどうか悩んでいると、六つの瞳はタナトスの逡巡を見抜くかのように輝いた。いらだたし気に、嬉し気に、どうでもよさそうに。多頭の獣はかわるがわるザグレウスを鼻先で急かし、追いやられるように王子は東へ足を向ける。
「タン!」
………、」
 結局、タナトスは浮きながらそれに続くことにした。呼ばれてしまってはという気持ちである。真っ赤な四肢に巻き込まれてザグレウスはよろけつつ笑っている。轢かれてしまいそうに見えるのだが、自然とそうはならないのだ。
 暗い廊下の中で、ザグレウスの裸足は目立った。
「ここで洗うのか」
「母さんもここでケルベロスを洗ってたんだってさ」
 ケルベロスを先に行かせて、ザグレウスは「道具を取ってくる」とどこかへ消えた。察するに中庭だろう。残されたタナトスは女王の庭に足をつけて、ケルベロスの尾が地面を掃くように揺れているのを見た。実をつける柘榴の木。不断草や刺草が茂る花壇。銀色にも青色にも見える野草のかずかずは、こごった闇に満ちたこの館の雰囲気にも合っていた。
「まず脚立だろ?」
 そうなのか? タナトスは思ったが、ザグレウスは門のちかくに脚立を立てかけ、すぐまたどこかへと向かった。
 タナトスはいい加減フードを取り去り、ケルベロスの素直そうな、眠そうな、不機嫌そうな顔だちを見つめた。ひとつと目が合い手を伸ばす。いい子だと心でのみ言いながら頬の毛を軽く撫でる。なぜか撫でた頭ではない頭が「くぅん」と鳴くので可笑しかった。
 ザグレウスはほどなくしてまた現れた。
 ブラシやホースや石鹼を台車に乗せて。
 よく見ると中庭の奥にはステュクスのささやかな流れがある。川淵を見やって、ザグレウスはそこにホースの先を垂らした。
「宮大工が作ってくれた。これを川につけるとさ、不思議と水が汲みあがる」
 そう王子が得意げに説明した通り、王子の持つホースの先からはだくだくと赤い水がこぼれ始めた。
「あっ」
「ん? おい」
 タナトスは急にホースの先を渡されて戸惑ったが、ザグレウスがレギンスを捲り上げているのを見て黙った。上着の余った部分を腰帯にねじこみ、ザグレウスの腕のどちらもが露わになる。
 この念友の、この明るい肌の色が好きだとタナトスは唐突に思った。
 夜の世にあって、昼の気配にみちた肌。死の底にあって、生きた血の通った肌
 まぶしく思うそばで、ケルベロスのすべての耳がぱたんと閉じる。水が入らないようにするためなのか。器用なことだ。
 預けていたホースの先を受け取って、ザグレウスは脚立のてっぺんから愛犬の頭のすべてに赤い水を滴らせ始めた。派手にやると庭が水浸しになってしまうので、少しずつ水をかけ、泡立てた石鹸をブラシでなじませていくことにしているらしい。
 撫でられることを好む頭が目を閉じる。
 すると他方の頭の目が開く。
 不機嫌であることが多い頭が目を閉じる。
 すると他二つの頭についた目が開く。
 確かにこれは、見ていてなかなか楽しいものだなとタナトスは表情を緩めた。絶えず愛犬へ声をかけ、よどみなく動き回る王子の姿は、子犬のようにも、子猫のようにも見えて愛しかったから。

……怖かったよな」
 道具を片付けてくると言ってザグレウスがまたいなくなると、タナトスは独り言ちるようにケルベロスへと語りかけた。
「おっと」
 水滴を飛ばしたがっている番犬に気づいて、一度門柱の影へ隠れる。ザグレウスが脱出のとき、たまにこうして敵の攻撃をしのいでいるのを思い出した。
「急にあいさつもなく冥界から出ていこうとするなんて、傷ついたよな?」
 思い出をさらけ出すように語れば、青胡桃のような鼻先がタナトスの視界を覆ってふすふすと反応した。わかるとも。悲しかったのだ。だからすぐには許せなかった。一緒にいたい相手だったから。混乱のあまり酒場で暴れるしかなかったケルベロスの気持ちが、タナトスにはとてもわかる。
 そうこうしているうちにザグレウスはステュクスの水で赤っぽくなった泡を、全身につけたまま庭に顔を出した。
「う~~、べしょべしょだ。タン、悪いけど暖炉に前に連れてって、おやつあげてくれるか?」
「シェフに言えばいいのか?」
「見習いたちでもいいよ。骨の入ってる瓶があって出してくれるから」
「わかった」
「俺は水場使ってくる」
 頷きながらタナトスはザグレウスの髪についたピンクの泡を指ですくいとり、頬や鼻の下、唇などにまぶして微笑んだ。ザグレウスの唇の両端が軽く上がる。目と目で伝え合い、正しく伝わったかどうかはわからないまま、王子は足音を響かせ遠ざかっていった。でも、あれは伝わっただろう。
「さて行くか」
「がう!」
 呼びかけたタナトスだったが、返ってきたそれは返事ではなかった。
「なっ
 タナトスは急にケルベロスに噛みつかれて「痛くはないが」と右腕をさすった。二つの頭とは仲良くなれそうなのに、真ん中の頭とだけはザグレウスを取り合う仲になるかもしれない。
「ばうっ!」
……………
 案外激励なのかもしれないが。

 ケルベロスを暖炉の前に連れて行けば、水浴びを終えたザグレウスがすぐ顔を見せた。
「早いな」
「水かぶっただけだから」
 暖炉に当たればいいやと思って、ザグレウスの衣服はたっぷりと水気を含んだまま。大まかにでも拭いてくればいいものをと思ったが、ザグレウスはケルベロスの腹部にもぐり込んで、赤い毛をタオル代わりにしてしまった。
……お前は」
 冥府の番犬をタオル代わりにする命知らずは、世界中探してもこの王子くらいだろう。
 骨をかじるケルベロスと、ほうれん草のパイをかじるザグレウスが、暖炉の熱によって乾くまでの時間をタナトスはゆっくり楽しんだ。

 愛おしいと思う気持ちが、こうも止み難いものだとは、今まで知らなかったのだ。


(終)





波箱はここから
スタンプや反応もらえると嬉しいです