ルーシャンがノエに連絡をとる一時間ほど前のこと。昨日から引き続き、書類整理に忙殺されていた三人は、昼食を前にしてようやく退屈な作業から解放された。
昨日、夜になるまで作業をしていた甲斐もあったというものだ。
「それに、今のこの空気じゃのんびり詰め所にこもっている気分にもならないものな」
詰所から出てきて、軽い空腹を覚えながら歩いていた三人。その中の一人であるルーシャンが、道沿いに並ぶ店々を眺めながら呟く。
朝から、店のほとんどは「臨時休業」の札を下げていた。それもそのはず、昨夕に騎士団から「領主であるルグロ家の関係者が明日来訪し、昼過ぎに領主のお言葉を皆に伝える」と通達が下れば、町を行く者も仕事も手につかないだろう。昨晩から店を閉めている者もおり、家の中であれこれ協議でもしているのか、昨日に続いて通りを行く人の数も少し減っているようにも思う。
「領主様の来訪に触発されて、暴動が起きなければいいんだがな」
「流石に、町の連中もそんなことをしたら、自分たちの立場が悪くなるってことぐらいは承知の上だろ」
「どうだろうな。理性ではわかっていても、人は時に感情に走ってとんでもないことをする」
オランローの瞳に、単なる警戒とは異なる心配の念が籠る。彼の両親は、ガレマール帝国軍に属していたが故に、占領地の住民の暴動に巻き込まれて死亡したのだから、懸念を抱くのも無理もない。
「そのために、騎士団も巡回を強化している。心配なら、俺たちも行ってみるか?」
「今日は予定も入っていないから、私は旦那様に賛成」
軽口のつもりで提案したルーシャンだったが、サルヒは賛成の意を示した。オランローも「そうだな」と首肯を返す。
「町にはもうしばらく滞在するのだろう。それなら、町の連中が何を考えているのか、ルグロという領主が何を伝えるかを聞いておいても損はない」
「だったら、向かう先は町長の家だったか。その前に、軽く腹ごしらえができたらいいんだが」
「今日は携帯食料で我慢するしかありません、旦那様。食堂の類も皆、閉店しています。宿の主人も、朝食を作った後は出かけると話していました」
「遠征に出ているってわけでもないのに、しょっぱいもんだねえ」
残念そうに肩をすくめるルーシャン。せめて、それなら宿に戻って腰を落ち着けて食べようか、などと話をしているときだった。
「あのぉ、もし……そこの方々。少しよろしいでしょうか」
嗄れた男の声が路地から聞こえてきて、ルーシャンたちは足を止める。
意識しなければ素通りしてしまいそうな人通りの途絶えた路地に、一人の男が所在なさげに立っていた。
豊かな白い顎鬚に、上等そうな仕立ての外套。歳の頃は老人と言っても差し支えない頃に差し掛かっている。その姿を見て、オランローは「あんたは」と思わず声を漏らす。
「知り合いか?」
「オレというより、どちらかというとノエの知り合いだ。教会の司祭の……たしか、ハンフリーだったか」
「ええ、ええ。そうです。それで、今日はノエさんはどちらに?」
ちらちらと落ち着きなくハンフリーの視線が行き来している。どうやら老司祭はノエを探していたらしい。
(そういえば、町民が町の司祭に詰め寄っているのを見るに見かねて、何度か教会に立ち寄っているとノエが言っていたな)
ノエにとって、無実の司祭が人々に詰め寄られているのは放って置けなかったのだろう。お人よしな彼らしいことだ、とルーシャンはノエの言葉を思い出していた。
「あいにくながら、ノエかは今はここにいない。あいつに何か用なのか?」
「ああ、いえ。そういうわけでは……いや、そう、なのかもしれませんが。そういえば、もう一人……ノエさんと一緒にいたお嬢さんは? 孤児院にいた娘のようですが、彼女はノエさんの同行者なのでしょうか。薄紅色の髪を持った十代半ば頃のハーフエレゼンなのですが」
「それは、オデットのこと?」
サルヒの確認に、ハンフリーは「たしかそのような名前だったはずです」と言う。
(よく一目見ただけでハーフエレゼンだとわかったな。この男がエレゼン族だからか?)
ハンフリーとの会話を聞きながら、ルーシャンは自身の中に芽生えた疑問を一つずつ心の中で形にしていく。出会ったばかりの人間に対して無意識に警戒を抱くのは、十数年培ってきた傭兵としてのさがのようなものだ。
「オデットに、何か用?」
「あー……実は、その、少しお話ししたいことがあったのです。ノエさんにも、できればいくつか聞きたいことがあったのですが、いないのでしたら仕方ありませんね」
「二人とも、今は任務のために別行動をしている。連絡があったとき、あんたが二人を探していたと伝えよう」
「ああっ、いえ、そこまでしていただく必要は……」
どうにもはっきりしないハンフリーの態度に、オランローは眉を寄せてしまう。苛立ちのあまり、思わず尻尾を何度か強く振ってしまったほどだ。
「話がしたいのか、したくないのか。あなたはどっちを望んでいるの」
オランローよりも短気というわけではないだろうが、優柔不断な態度はサルヒも気に掛かったようだ。いくらか温度の低い声で、ハンフリーに問いかける。
何やら焦った様子で、ハンフリーがしどろもどろになっていると、
「おや、ハンフリー司祭。これは奇遇ですね。教会の司祭であるあなたが、皆さんに何のご用でしょうか」
低くも高くもない中性的な声が、一同の間に凛と割り込んだ。小雪が散りばめられる中、その声は一際冷たい風のように、その場の空気を散らしていく。
「こ……これは、ミラベル司祭ではありませんか」
姿を見せたのは、サルヒたちも既に顔馴染みとなったミラベルだった。
幼いオデットにとっては兄のような存在であり、今もシュガーグレイヴの孤児院にて、子供たちの面倒を引き受けている青年だ。
同じ司祭であるからか、ハンフリーは先ほどのような落ち着きのなさをいくらか潜める。それにも関わらず、どういうわけか、今度は剣呑な空気を感じてしまうのはなぜだろうか。
「彼は、ノエとオデットに話があるよう。でも、二人は今はいないから、また今度、と」
簡潔に、サルヒはハンフリーの要件を伝える。
「……彼女と? ハンフリー司祭、彼女に何か用があったのですか。もし彼女に司祭として話があると言うなら、同じ司祭である私を通していただきたいものですが」
ミラベルの物言いに、サルヒは片眉を上げる。ノエではなく、ミラベルが自分を前面に押し出すのか、その理由が掴めない。単なる元保護者としての気持ちがそうさせているのだろうか。
同じことは、ハンフリーも考えたようだ。
「大したことではないのですが……それよりなぜあなたが、そんなにも彼女を気にかけるのです? 彼女は孤児院のものではありませんよね」
「彼女とは、古い知り合いなものですから。イシュガルドの礼儀作法に疎い彼らが、司祭である貴方に無礼を働かないよう、立ち会いたいのですよ」
ミラベルはそれらしい理由を述べていたが、後半部分が単なる建前であるのは明白だ。
加えて、普段は人当たりの良いミラベルの声音が、今この瞬間はひどく冷たく聞こえる。彼がハンフリーに対してよくない感情を持っているのは明らかだ。
「と、とにかく。今はいないのならば、ここで話していても仕方ありません。また機会を改めて、ということで」
ハンフリーは話を断ち切るように告げると、ぐるりと踵を返して路地の向こうへと消えていった。
この寒い中、防寒具すら着ているはずなのに、立ち去る寸前のハンフリーは妙に汗ばんでいる様子だった。それが冷や汗であるのは想像に難くない。
「いったい何だったんだ、あの司祭」
「よくわからない。ミラベルのことが苦手なのかも」
「苦手と言えば、そちらさんも随分とつんつんとした態度をとっていなかったか、ミラベルさんや。ノエなら、司祭に対して無礼を働くような真似はしないって分かってるだろうに」
ルーシャンの発した言葉の内容は、サルヒやオランローと思っていたことだった。ミラベルは、オデットとノエだけでハンフリーに会わせたくないために、あのような方便を口にしたのだ。
「もちろん、分かっていますよ。私は、あの男に対して不信感を抱いている。だから、あの二人にもなるべく会ってほしくないのです」
「どうして不信感を? みたところ、落ち着きはないけれど普通の司祭に私には見えたけれど」
「一昨日、ノエさんたちが孤児院から帰った後も、やけに孤児院の周りを彷徨いていた、としたらどうでしょうか」
ミラベルから齎された一言に、質問をしたサルヒも目を丸くする。
「何か理由があってのことじゃないのか」
「そうかもしれません。私が彼を嫌厭する理由は他にもありますが……とにかく、そのような人間と親しくする気持ちにはなれません。子供たちは、ただでさえ今の町の様子に不安がっているのですから」
「例の貴族の訪問について、あんたも聞いているのか」
オランローの確認に、ミラベルは小さく頷く。彼は町の人間ではないが、ここに至っては知らぬふりができる状況ではないのだろう。
「ルグロ家が訪問すると聞いて、手伝いのものたちも今日はあまり顔を見せてくれません。子供たちを放っておくわけにもいきませんし、私はこれで失礼します」
彼は両手に抱えていた荷物を抱え直すと、頭を下げて、道の向こうへと行ってしまった。
「あれもあれで、難儀なことをしているな。正当な跡取りではなくとも、貴族の出身の司祭なら、もっと楽な生き方もあるだろうに」
「オレはイシュガルドの事情には詳しくないが、あれが彼なりのやりたいことなんだろう。外野のオレたちがあれこれ言うものでもない」
そこまで言って、オランローは気がつく。ミラベルが歩いていった足跡の途中に何かが落ちている。近づいてみると、そこには小さな袋が落ちていた。拾い上げ、中身を覗くと包装に包まれた飴玉が詰め込まれている。
「ミラベルの落とし物?」
「そうみたいだ。今から行けば、すぐに追いつくだろう。少し行ってくる」
「はいよ。じゃあ、俺たちは宿の方に先に行っている。合流したら、寂しい昼飯にしようぜ」
ルーシャンの言葉に首肯を返し、オランローは飴の入った小さな袋を抱えて、雪に残ったミラベルの足跡を追いかけ始めた。
幸い、先を行くミラベルの後ろ姿はすぐに見つかった。ちょうど、彼は足を止めて、自分が抱えていた荷物の詰まった布袋の底を気遣わしげに見つめているところだった。どうやら、袋の底に穴が空いてしまって、どうしたものかと立ち往生していたようだ。
「大丈夫か」
「ああ……あなたでしたか。見ての通り、少し荷物を入れすぎたようです」
ミラベルの様子を見て、オランローは彼の抱える袋の中から突き出ている大ぶりの荷物のいくつかを取り出す。重さから察するに、食材が詰め込まれているのだろう。
ひょいひょいと大きな荷物を抱えていくオランローに、ミラベルはあっけに取られたように彼を見つめていた。
「荷物を入れすぎると、落としたときに気付けなくなってしまうぞ。あんたが歩いたところに、これが落ちていた」
オランローは片手に持っていた飴玉の袋を見せると、ミラベルは「ありがとうございます」と安堵を顔に浮かべる。
飴玉など、あってもなくても同じようなもののはずなのに、彼はまるでそれが値千金の宝であるかのようにほっとした表情で胸を撫で下ろしていた。
「子供たちの分か」
「ええ、そうです。残念ながら、普段は、甘いものを買ってあげる余裕がなく……ですが、この前の騎士団に同行した時に謝礼が出たので、久しぶりにまとまった量が買えたんです」
騎士団に同行した際、ミラベルも魔物の討伐に力を貸した。その援助に対して、謝礼という形で報酬が出されたのだそうだ。
「あんた自身のために使う金も必要だろう。各地の孤児院を巡る旅の途中じゃないのか」
「ええ。ですが、私には教会や後援者からの援助もありますから。それに、子供たちの笑顔に勝るものはありません」
オランローは、ミラベルの荷物を抱えたまま共に歩き出す。ミラベルは小さく頭を下げてから、彼の隣に並んで孤児院へと再び歩みを進めた。
「あんたは、どうしてそこまで身寄りのない子供に親切でいようとするんだ?」
単なる世間話の一つとして、オランローは尋ねる。
その疑問は、かつてのオランロー自身も、身寄りのない子供の一人であったからかもしれない。あの頃のオランローには、見知らぬ人間であろうと手を差し伸べようとする、ミラベルのような者はいなかった。
「あんたにとって、子供たちは赤の他人だろう。イシュガルドの教会には、孤児院の運営が義務付けられているというわけでもなさそうだった。なのに、あんたはなぜ、子供たちと共にいるんだ?」
ノエと出会ったハンフリー司祭のことを思い出して、オランローは付け足す。
オランローの恩師でもあるセルウィがオランローを助けてくれた理由の一つに、自分の両親が彼の部下であったことが大きく関わっていると、オランローは重々承知している。
ならば、ミラベルが無私の献身を捧げる理由は何なのか。
「……かつて、私はより多くの人を助けるために、という大義名分のために、今この瞬間に助けて欲しいと願う者たちの声に耳を塞ぎ、見ないふりを続けていました」
「例の事業のときの話か」
ミラベルは、言葉少なに頷く。
「だけど、あんたは、オデットを助けたんだろう」
「あれは、ただ私が過去の自分にできなかったことを、今度こそ成し遂げようと思ったからにすぎません。いわば、自己救済のような行いでした。それに、既に悪質な司祭たちを糾弾する準備が完全に整ったと分かった段階で、私がたとえ抜けたところで問題ないと分かった上で、私は彼女の手を取ったのです」
いわば、打算があってのことだと、ミラベルは言う。
「だから、今は――以前よりは、少しばかり使い道のある権力を得た今なら、今度こそ目に映るものから、この耳で聞いたものから、視線を逸らさないでいたいんです」
「……立派なものだな。オレは、たった一人の手をとるのに精一杯だ」
そして、きっと自分はそれで満足するだろう。だが、オランローと異なり、ミラベルはたった一人の手を引いただけでは満足できなかったのだ。
「褒めてもらえるようなことではありません。実際、私はオフェリー一人を守れたらそれでいいのでは、と思っていたところもありましたから」
結局逃げられてしまいましたが、と自嘲気味に笑うミラベル。
彼が言っているのは、雪崩が起きた後、ミラベルを置き去りにしてしまったとオデットが言っていた件だ。
「あんたは、なぜそこまでオデットに拘る?」
ただ行きずりのひ弱な子供に助けを求められたから、とは思い難いほどに、ミラベルはオデットの助けを求める声に真摯に向き合っている。
それとも、善良な人間ならば当然行き着く答えなのか、とオランローが推測を重ねていると、
「……これは、ノエさんにもオフェリーにも言っていないことなんだが」
一つ前置きを挟み、ミラベルはオランローを振りあおぐ。彼を見つめる紫紺の瞳には、ノエやオデットを前にしているときとはまた異なる、迷いが残るものだった。
きっと、今から言おうとしていることを、彼はノエたちには言わないと決めたことなのだろう。その内容は、ノエやオデットには近過ぎる何かだ。
だけど、誰かに聞いてもらいたいとも願うことでもある。ずっと胸のうちに秘めていることに耐えきれず、言わずにはいられないこともあるものだと、オランローもこの二十年と少しばかりの人生で知っていた。
だったら――無関係ではないものの、関係者というほど近すぎない自分が聞き役に徹してもいい。
「あんたが話したいと言うなら、オレは聞くことくらいならできる。ノエはオレの友人ではあるが、だからと言ってあんたが『言わないでほしい』と頼んだことを、わざわざ伝えるような真似はしない」
「ありがとう。そう言ってもらった方が気が楽だ。それに、実際のところは、多分あんたが身構えるほど大したことじゃないんだ」
わざと軽い話題として扱うことで気持ちを楽にしたいのか。ミラベルは、砕けた口調でそう切り出した。
「ノエさんから聞いたかもしれないが、俺は貴族の出自ではあるが、正当な跡取りじゃない。それでも、一応は貴族の端くれとして、若造の頃は……いや、子供の頃は、だな。今のオフェリーと同じか、それより年下だったぐらいの頃は、色々なしがらみに不満を覚えて好き勝手していたんだ」
いわば反抗期というものだったのだろう。とはいえ、いくら貴族の血を引いていても子供のできることなど高が知れている。屋敷を飛び出して、自分の親の領内でふらつき歩くのが関の山だった。
「ある日、いつものように家のことが嫌になって飛び出した先で、一人の女性に出会ったんだ。彼女は、まるで鳥籠の中にいる小鳥みたいだった。比喩じゃなくて、本当に、森の中にいきなり高い柵で囲まれた屋敷があったんだ」
最初は夢ではないかと疑ったと、ミラベルは苦笑する。オランローも、その光景を想像し、自分とてそのような場違いなものを見かけたら同じ気持ちを抱くだろうと頷いた。
「俺より少しばかり年上の女性だった。俺が柵をよじ登って入ろうとしたのを見て、俺を『猫さん』なんて呼んでいたっけ。彼女は、まるでおとぎの国のお姫様みたいに世間知らずで……でも、きっと、本当に何も知らなかったわけじゃなかったんだと思う」
既に二十に差し掛かるかどうかという年齢でありながらも、彼女は自分の年齢に似つかわしくない、まるで子供のような振る舞いをしていた。
最初は彼女の仕草がどうにも鼻について不愉快に思ったが、やがて少しずつミラベルは違和感を覚えるようになった。
「おおかた、貴族の誰かが自分の妾を幼い頃から囲って、蝶よ花よと育てたんだろうと思っていた。実際そうだったんだろうさ。だけど、それでも彼女は、自分が不自然な形で囚われた小鳥だと自覚しているように見えたんだ」
ふとした時に横顔に走る影を、無邪気に笑っているように見えて微かに走る嘘の気配を、ミラベルは確かに感じ取っていた。
「その女性は、外に出たいとは言わなかったのか」
「俺は何度も『外に行こう』『俺が連れ出してやる』と言った。今にして思えば、地位も金も権力もないガキが何言ってるんだってところだが、それなりに本気で訴えていたつもりだ。だけど――彼女は首を横に振った」
外に行こう。こんな場所から連れ出してやるよ。
そう言うたびに彼女は少し寂しげに、なのにどこか誇らしげに笑ってこう言った。
「『魔法使いさんのそばにいてあげたい。あの人は今、とても苦しんでいるから、一人にしたくない。何も力になれなくとも、せめて寄り添っていたい』。それが、彼女を閉じ込めている貴族の誰かのことを言っているんだって分かっていたけれど――結局、俺は何も言えなくなってしまった」
たかだか十年と少し生きただけの若造にはわからない、一人の女と男の間に生まれた、彼らだけの世界がそこにあった。年若いミラベルに分かったのは、自分の向こう見ずな勇気や正義感は、彼女には求められていなかったということだけだ。
「それから少し経って……彼女が子を宿したと知った。あの時は、今思うとかなり恥ずかしいんだが……だいぶん荒れたな」
鳥籠の中の女性に自由などあるわけがなく、その子供が空から降ってきて腹に宿るわけもない。彼女がどのような経緯で子を得たのかは容易に推測できた。
顔も見たこともないのに、彼女を囲っている貴族とやらへの嫌悪ばかりが増した。感情と欲望の赴くままに、弱者を好きなように消費していく者に対して言葉にならない怒りを覚えた。そして、それを受け入れている彼女にも、憤りをぶつけかけたことが何度かあった。
「それは、あんたが……その、同じような立場だったからか」
「さあ。単に、子供にありがちな潔癖な反応の一つだったのかもしれない。同じ時期に、家の方でも色々とごたついて、俺があちこち彷徨いているのが父親の目に留まってしまった。もちろん、血の繋がっていない方のな」
母親としか血のつながりはなくとも、一応は貴族の末席として生きる者が勝手な行動ばかりするなと、首根っこを掴まれて神学院に放り込まれた。
事実上の軟禁と変わらなかったが、懐妊した彼女のそばにいるといつか自分がとんでもないことをしでかしてしまいそうで、結局ミラベルは、大人しく神学者や司祭を志す者の中に紛れ込むことを選んだ。
「時間が経つうちにつれて、彼女のことも思い出の一つになっていた。振り返って考えれば、中途半端な正義感に燃えた子供に対して、彼女は大人として対応していたのだろう」
真剣に向き合わなかったというわけではない。彼女は彼女なりに、青さの抜けきらない子供に対して適切な応対をしたというだけの話だ。そして、それに気がつかない程度に、自分はやはり子供だったのだと、ミラベルは自嘲混じりに言う。
「彼女がどうなったのかは知らなかったし、探そうと意気込むような思い切りを持つこともできなかった。だから――驚いたよ。ああいうのを、生き写しって言うのかって」
「それが……オデットだったのか」
無言の肯定。きゅ、と雪を踏み締める音が二人の間に響く。
「後は、だいたい想像がつくだろ」
それ以上言葉はなかったが、先だってミラベルが語った言葉を辿れば、自然と答えは導き出せる。
――過去の自分にできなかったことを、今度こそ成し遂げようと思った。
――いわば、自己救済のような行い。
確かにそのように受け取ることもできる。だが、結局のところ、結果が全てではないかと、かつて手を差し伸べられた側であったオランローは思う。
「あんたが連れ出したおかげで、オデットは今、こうして生きていられる。それも、一つの答えだろう」
だから、部外者の自分はこれだけを言う。それ以上の慰めも賞賛も、己が口にすれば全て虚言に聞こえてしまうだろうから。
「……そうかもな」
言葉少なにオランローの賞賛を受け取り、ミラベルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。聞いていただいて」
普段のように礼儀正しい言葉遣いにしたのは、私人としての打ち明け話はこれでお終いだという線引きだろう。
「さっきの話、本当にオデットに言うつもりはないのか」
「ありません。彼女自身がそう望むならともかく、私から話をしたところで、彼女にとっては重荷になるだけでしょうから」
きっぱりと告げるミラベル。実際問題、彼女が妾の子供だと分かっても、今のオデットの生き方が変わるわけではない。心情的な負担を増やすだけだとミラベルが言うのも納得の理由だった。
――もっとも、その前日に既にオデットが自分の出自について知っているとは、さすがの二人も知らないことであった。
話をしているうちに、二人の足は孤児院の前へと持ち主を運んでいた。ミラベルは玄関口に一度荷物を置くと、オランローが預かっていた分も改めて引き受ける。
「それでは、気をつけて皆さんの所にお戻りください、オランローさん。今日は助かりました」
「ああ。あんたも、無理しすぎるなよ」
「子供たちの面倒を見るのは、私にとっては生き甲斐のようなものなので。無理のうちに入りませんよ」
「そうじゃない。いや、それもあるかもしれないが……あんたは、少しノエに似ているから」
色々と背負い込んだ上で周りにその荷物を見せない性質の人間は、大抵似た笑い方をする。目の前の男のそれは、オランローにはオデットの傍に立つ青年とよく似ていた。
「あんたが抱えているものは、一人で持たなくてはいけない決まりがあるわけでもないだろう。必要なら、時間があるときは子守の手伝いくらいはする」
「それは助かります。でも、なんだか申し訳ないですね」
「袖振り合うも他生の縁、というやつだ」
「それは何でしょう。聞いたことのない言い回しですが」
「東の方の言葉だ。ともあれ、また必要なら呼んでくれ」
軽く頭を下げてから、オランローは踵を返して宿へと向かう。背中に、ミラベルが手を振る気配を感じながら。
遠ざかっていく大柄な青年の姿を見送りながら、ミラベルは腰に吊るしたままの剣に手を添える。
護身用にと吊るしたそれに手をかけ、無意識に力を込める。
「あなたが抱えているものは、一人で持たなくてはならない決まりがあるわけでもない……か」
そのような言葉を口にしてくれる友人がそばにいるというのは、ノエにとって大変恵まれたことだろう。
羨ましいのではない。ただ自分はそうではなかった、と思うだけだ。
友人がいるかいないか、という違いではなく。
「残念ながら、これは流石に誰かに持たせるというわけにはいかないんですよ」
剣を握りかけていた指から少しずつ力を抜き、強張っていた表情を意識してほぐしていく。
子供たちの呼びかける声に振り向く頃には、そこにはいつものミラベル司祭としての顔があった。
***
オデットは自分に似ている。オランローは、彼女に出会ってから何度かそう思っていた。
傍らにいるのが、妙にお人よしで、そのくせ自分を省みない気質の人間であるという厄介な類似点もあるが、それだけではない。
誰かの隣にいたいと思えば、その気持ちに素直に従い、相手の躊躇すら押し除けて手を取ろうとする。そういう考え方が自然と生まれるところも、よく似ている。
一方でノエは、オランローやオデットと真逆の考え方を持っている。彼は常に、自分が誰かの隣にいていいのかと自問自答を繰り返している。その点は、ヤルマルも一緒だろう。
自分の中で納得のいく答えが出せなかったら、彼らのような気質の持ち主は身を引こうとする。
そして、そのような気質はノエだけでなく、どうやらオデットのもう一人の兄にも備わっているらしい。
(あれやこれやと考えるより先に、さっさと手を取ればいいものを……と言っても、あいつらは聞かないのだろうな)
おおかた、また言葉と理屈を捏ね回すのだろう。ノエが「でも」と言っている姿が、オランローには目に浮かぶようだった。
考え事をしていたせいか、体に誰かがぶつかる衝撃が走り、咄嗟に軽く頭を下げる。人混みの只中でぼうっとしているものではないと、内心で己を諌める。
オランローは今、昼食を終えて、予定通り町長の家――正確には、建物内にある会議用の部屋に入っていた。
会議用といえども、作り自体は他の民家と変わらない。ただ、少しばかり部屋としては広く、調度品も会議に使う机と椅子しかないので、少々殺風景に見えるだけだ。その机と椅子も全て部屋の脇に寄せられているので、もし人を取り除けば、そこには随分とがらんとした空間があるように見えるだろう。
「随分な人だかりだな。シュガーグレイヴの人間が全員集まっているんじゃないか?」
「流石にそれは言い過ぎだと思うけれど……」
ルーシャンがぼやくのも無理もない。あまりに人が詰め寄せているので、用意された敷布に座ることができず、後方にいる者は立ったままとなっていた。中には、最初から中に入るのを諦めて、窓から覗き込んでいる者もいる。
幸い、オランローたちは部屋の一角を確保することができたが、すぐにエレゼン族やヒューラン族の町人が詰めかけたため、人の壁の隙間から前方を伺うような有様である。フードを深く被ったオランローやサルヒのことを怪しむ余裕すらないほどのごった返しようだ。
「サルヒ、前の方まで見えるか?」
「……よく見えないですが、隙間から角度を変えれば、何とか」
「よかったら、昔みたいに肩車してやろうか」
「今も昔も、私は旦那様に肩車をされたことなどありません。記憶を捏造しないでください」
ぎょっとした様子のオランローの気配を察知して、サルヒは一秒と間をおかずにルーシャンの発言を否定する。
やがて人の動きが少しずつ静まり、ざわめきが落ち着き始める。微かに甲冑の音がするのは、群衆を沈めるために騎士団か貴族の私兵が姿を見せたということだろうか。
それすらも人の波に押されてよく見えないままに、時間が過ぎ――その時が訪れる。
恐らくは、槍の石突が床を打ったと思しき鋭い音。同時に、水を打ったように周囲がしんと静まりかえる。
「みなさん、どうぞお静かに。これより、ルグロ家のご当主様の言葉を預かったという御息女が、みなさんの前に姿を見せてくれるそうです。彼女の言葉を聞き逃さないように、静かに迎えようではありませんか」
声を張っているのは、恐らくは町長だろうか。少し嗄れた声がやや震えているのは、黙っていても殺気立っている様子を隠せない町民たちの様子を察してのものかもしれない。
一瞬の静けさの後、ひそひそと声を殺して囁き合う気配があちこちに生まれる。だが、それも、部屋の奥にある扉がゆっくり開かれるまでのことだった。
音を立てて開いた大扉は、控え室から続いているものなのだろう。貴族の令嬢に相応しい艶やかなドレスに身を包んだ少女が、扉の向こうの暗がりから姿を見せる。
威厳と厳粛さを強調するためか、少女が着るにはやや重たい色味の濃緑のドレスの裾が、音もなく揺れている。豊かに波打つ髪は、春を思わせる薄紅色。背中に流れ落ちたそれには、綺羅星のような宝石がふんだんに使われた髪飾りが――
「……待て。あれは、どういうことだ」
一番背の高いオランローには、少女の顔貌がはっきりと見えた。
今まで何度も目にしてきた、くるりとした丸い紫紺の瞳。柔らかな面差しに、少しばかり尖ったハーフエレゼンの特徴でもある耳。形の良い唇には、しかし『彼女』では決してあり得ない形の微笑が宿っている。
「みなさま、初めまして。わたくしはアガテル・ド・ルグロ。本日はお父様の名代として、シュガーグレイヴに訪れましたわ」
オデットと全く同じ顔と声をもつ少女が、オデットとは到底思えない発言をしている。
その異質な光景は、さながら死人が歩いているのを前にするかのような不気味さを覚え、オランローの顔が青くなる。
「……ルーシャン」
「ああ、見えている。……どういうことだ、あれは」
「今すぐノエに連絡をとってくれ。早く」
今の自分では、到底彼らに冷静に状況を説明できるとは思えない。故に、オランローはまだ冷静さを保っているはずの男に、連絡役を一任する。
すぐにリンクパールの着信音が角の奥に響き、ルーシャンがノエにオデットの所在を尋ねているのが聞こえる。
だが、オランローは朗々と言葉を語る、アガテルという名のオデットの姿をした少女から目を離せずにいた。
「……いったい、何が起きているんだ」
最初に覚えた不気味さを通り越して、今のオランローには目の前のアガテルがひどく冒涜的な行為をしているように感じられた。
さながら、死者の皮を被って悪事を重ねる御伽噺の悪役のように。
オデットに対して、眼前の彼女が直接的な危害を加えたとは限らない。何か理由があってのことなのかもしれない。
それでもなお、少女の尊厳を踏み躙るかのようにも見える行為に、オランローは強い反感を覚えていた。
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