いつまでたってもヒトはヒトであるし、カミはカミでしかない。不干渉ですめばそれでよかった。だが求めるのがヒトの性なら、貪欲になるのも当たり前だ。欲を覚えたらきりがない。だから望むことを、欲しがることを、やめた。やめてなにが残っただろう。うっすらとした、不気味な希死念慮。肌を撫でるか撫でないかくらいの薄さのそれは、久遠を追いつめた。刀遣いとして死ぬことを定められたのなら、そうあるべきだった。昨日だろうが今日だろうが、死ぬべきだった。舞台も役者も揃い、舞台装置も完璧だった。あのとき潔く殉職していれば、約束は無事、果たされただろう。
それでもかろうじて生きているのは彼の――紅梅百華の、「死ぬなよ」という言葉があったからだ。確約も約束もできないと伝えたが、たしかにあのとき、久遠は生きるために戦った。ここで死ぬべきだと思いながら、戦った。生きるために。あるいは、守るために。
白い天井がある。
管でつながれたからだは、思うように動かない。指先に硬い感覚を思う。そして少しだけやわらかく、あたたかい――そんな名残を感じた。誰かの体温のような。
――死ねなかった、や、死ななかった、という思いはあまりなかった。
だが、まだ生きろというのか、とは少なからず思った。壱段の責務を果たせというのだろう。それが重責だとは思わない。重責だと思うのならば、昇段試験など受けなければいいのだ。壱段には壱段になろうと鍛え、成しえた者しかいない。荷が重ければ自ら降格の意思を示せばいい。それをしないのは意思があるからだ。
久遠にも、意思があるから。
そうかもしれない。驕らず求めず望まず歩いてきた道だ。歩いてこられたのはやはり、意思があるからだ。
腕が重たい。ゆっくりと持ち上げて、薄い緑色のカーテンに手を伸ばす。それでも、触れられもせずに腕が横たわる。直後に腹に鋭い痛みが走った。思わず顔を顰める。噛んだ歯の間から細い声が漏れた。
「珍しい顔だな」
自分以外の声に、はっと目を開く。カーテンの隙間を縫うように入ってきたのは玉匣蓮。おそらく――自分の、腹違いの弟。
「全治三週間の大怪我だ。昨日の今日でよくまあ、目が覚めたもんだ」
「皮肉か」
ずいぶん掠れた声だった。病院特有の、乾いた空気がそうさせるのだろうか。備え付けの椅子に座り、蓮は数秒機械につながれた管を見つめた。
「そういえば……お前は凪鞘班だったな」
「元、だ。今は下緒院」
そうだった、と頷き、窓の外を見る。あれが昨日だとして、丸一日眠っていたらしい。
「この部屋から出て行く刀神を見た」
「……。ああ……」
紅梅百華かもしれない。蓮が続けて「赤い着物の」といったので、そうなのだろう。
「無事だったか」
「あんたが生かしたんだ。当然だろう」
眼鏡がないためぼやけた視界だが、蓮が妙な顔をしたのは分かった。忘れたのか、とでもいいたげだった。
「あの刀神に、死ぬなと言われた」
「……前から思ってたんだけど」
蓮の視線が奇妙に揺れた――ように見えた。久遠にはみえない、その〝なにか〟を見ているのだろう。
「あんたの家、本当に神社なのか?」
「……」
「本当に、祀られているのは神なんだろうな」
「どうだろうな。……俺には分からない。お前のような目も、魂も持っていないから」
「俺の目では、真っ当な神には見えない。……禍神といっても過言じゃないぞ」
手をゆるく握る。蓮に禍神とまで言わしめたそれがはたしてほんとうに正規の神なのか、久遠には分からない。おそらく母にも分からないだろう。唯一知っていたであろう父親も、もう死んだ。
神も呪えば禍神にもなるのだ。いうなれば、神はどうとでもなる。もっともそれは人間の言い分で、神には神の言い分もあれば領分もある。
「……贄、なんて聞こえはいいけど。人食いの神なら結局は永遠に呪いを生み続ける装置だ。いずれ絶たなければならなくなる」
「そうだな。……早乙女家は家人の命を食って育った……蠱毒の家だ。強いものの命を吸い上げて更に巨大化する。それを抑えるにはまた強い人間の命が必要となる。……悪循環だ」
「斬るなら、あんたの手で斬るのが道理だ。俺はまだ未熟だが、手を貸すことくらいはできる」
すっと蓮が立ち上がった。下緒院が板に付いてきたような口振りに、ふと笑う。
「蓮」
「……?」
玉匣、とはもう言わない。家に呪われたのは、この蓮も同じだ。
「生き残れ。強くなれ。蓮」
わずかな沈黙のあと、「そうだな」といった。
「あんたから言われると、そうあれる気がする」
紅梅百華の部屋へはひとりで歩いて行けた。とはいえ、杖は必要であったが。だいぶからだがなまった。息が上がる。扉の前で息をととのえる時間も長い。
手を浮かす。数秒躊躇ってから、扉を叩く。木の乾いた音がかすかに響く。
「紅梅百華殿」
声をかけるが、返答はない。ギッと杖が軋んだ。扉に手を掛けてそっと開く。
視界にとらえたのは、こちらに背を向けた紅梅百華の姿だった。あごを引いたのか、静かに頭が動く。
「……お前に合せる顔がない」
心配してくれていたことは分かっていた。手に触れていた、自分のものではない体温は彼のものだったのだと、それくらいは分かる。
「これくらいの怪我ですんだのは、お前が死ぬなと言ってくれたからだ」
白いほおが見えた。なにごとかを呟こうとしたが、やめた動きをみせた。
「まあ……死ぬかとは思ったが……」
杖を持つ手が震える。握力もこんなざまだ。からだを元に戻すのに一体どれだけかかるか分からない。
紅梅百華の肩がわずかに上がる。ことばを出そうとする動作だ。
「死んだらそこで終わりだ。人間は」
「刀神も同じだろう。折れたら終わりだ」
紅梅百華の声はうっすらとしている。確信めいたものではない、あいまいな。
「刀神は長く生きている。人間より、何十倍も、何百倍も」
「それが定めだ」
羽衣が揺れる。振り返った彼の顔は、疲れているようだった。人間ではできない表情だとも、思った。
彼が生きた気の遠くなるほどの年月は、ひとことでは片付けられないだろう。長く生きるものはきっと、有機物であろうと無機物であろうと孤独なのかもしれない。
「お前たちとともに戦うのは、生きるためだ――と、気付いた」
遅すぎただろうか、と胸中で呟く。
「生きていていいと、お前がいってくれたような気がして」
あの言葉だけではない。梅干しを食べることを喜んでくれたことも、久遠にとっては〝生きるため〟だったのだと、今さらになって思う。
「この命の使い道があるとするなら、刀遣いとして死ぬことだと思っていた」
「……久遠。お前にとっての死は、自由だったのか」
彼は唯一の自由だったのか、救いだったのかと問う。
今はかぶりを振れない。いいや、とはっきりとは言えない。だから「分からない」と、はっきり答える。
「たしかに、死ぬために生きてきた。今まで、俺は」
ちいさな耳鳴りがする。疲れているのだと知る。自分のからだだというのに、分からなくなっていた。
「顔色が悪い、坐れ」
彼の言葉のままに頷き、となりに坐す。とたんに息が上がる。からだの中に通ったまっすぐな芯がねじ曲がったような感覚だ。杖を握りしめて、目をわずかに伏せる。
これでは2、3ヶ月は激しい戦闘ができないだろう。お役御免にならないだけでも、御の字である。
「あれほどの傷を負って尚、なぜ戦う」
「……俺が刀遣いだからだ」
「戦うことだけが責務ではないだろう」
「そうだな。だが俺は、そういう生き方しか知らない」
戦って戦って、いつか折れるまで戦って。そういう在り方しか知らないのだ。物心つく前から木刀に触れていたと祖父はいっていた。天賦の才があると彼は喜んでいた。だが、強くなればなるほど、そのやわらかな笑みが翳っていった。
目をほんの少しの間、瞑る。
――お前があの家に生まれてしまったから、取られてしまうかもしれないねぇ。
そう言っていた祖父の顔は悲哀を帯びていた。いずれお前は刀遣いになるだろうと、詔のように告げた祖父。人間はいずれ必ず死ぬが、死に方を選べないことは、不運だ、と。
「でも紅梅百華殿。お前と過ごした日々は、少なからず俺の助けになった」
ありがとう、と伝える。
紅梅百華の顔色が悪い。今の自分の顔色も自覚はしているが、彼も疲れているのだろう。生気不足なのかもしれない。彼の名を、問うように呼ぶ。
「お前も疲れているだろう。生気は不足していないか」
「いや、俺は」
「今の俺では十分にやれないし、味も悪いかもしれないが」
紅梅百華の手首を握る。わずかにあたたかい。人間のような体温だ。反対に「冷たい」と彼は言う。
それでも恐る恐るというように生気を吸う紅梅百華は、やはりこちらを案じているのだろうか。
ふ、と思う。
ヒトがカミを案じることがあれば、その逆もあるのだろうと。彼を見て、たとえ根本が違ったとしても、本心で分かり合えないとしても、互いを案じる思いは本物だと。
――それもまた、ヒト側の都合のいい妄想かもしれない。
くちびるが思わず緩む。
「久遠?」
「俺とお前。違う生き物なのにな。通じあうところがあれば嬉しいと、そう思っただけだ」
一瞬目を伏せ、足に力をいれて立ち上がる。杖が大げさにギイ、と軋んだ。
「傷が治ったら、付き合ってもらいたい所がある」
「ああ……」
「それまでに少しでも、元に戻さないとな」
彼に笑いかけ、部屋を出た。
急に肺が酸素を欲しがる。喋りすぎたのかもしれない。喉から奇妙な音が聞こえてくる。杖をつきながら病室に戻るのに、10分もかかってしまった。
ベッドに腰を下ろして窓を見る。陽は沈み、極端に細い月が出ていた。
医師によると、順調にいけば二週間程度で杖なしで走ることができるだろうという。
信じるしかない。今までの自分と、これからの自分を。
また、見てみたいのだ。あの夜空を。
芯まで澄み切った、星や月の明かりを邪魔するものがない空を。
故郷に似た、あの空を、空気を。
「俺はまだ、望むことを諦めていないらしい」
この世に執着しないように生きてきたというのに。
――夢を、
そんな、いとけない夢を見た。
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