深更を研ぐ(洛信未満)

毎月一回包丁を研いでいるのですが、そのタイミングで書いた話。

深更を研ぐ



 包丁が研がれる音が好きだ。
 大きな刃。重い刃。それが濡れた砥石の上を滑って、澄んでいてざらついた音を立てる。
 信一はそれが好きだった。
 阿七と自分しかいない冰室。
 薄暗い調理場の中、彼がただ一定のリズムで包丁を研いでいるのが好きだった。

 ここにあった賑わいのことを思う。
 肉包丁が叉焼を刻む音。
 箸の先が器の底を突く音。
 瓶の肩が触れ合う音。タレの匂いに交じって流れてくる、甘い煙草の匂い。テレビの音。笑い声……

 洗い場に立ちながら、信一は一つ包丁をとり、曇った鎬に唇を結んで目を細めた。
 無言で腕を捲る。
 無い指に走った痛みはゆっくりと無視する。
 水につけていた砥石はぷくぷくと空気を吐ききり、仕事をさせてくれとせがむように重かった。

 信一は刃を寝かせ、親指と人差し指を使って、小気味のいい音が続くように包丁の柄を動かした。
 首筋をそっと撫でていくような尖った金属の匂い。
 曇っていた鋼が、夜の月のようにきらめいていく。

「信一」
「ン~?」

 少し前に来ていた洛軍が、立ち尽くしたままそう言った。
 柔らかく固い声だ。
 所在無さげではなく、朴訥で重心のある声だった。

「叉焼飯屋を継ぐのか?」
「七記冰室を? んー、料理の方は教わらなかったから難しいかもな」
「肉の下味のつけ方ならすこし覚えた」
「それは覚えられなかったって言うんだ」

 少し前に、少しだけ話をした。自信が無いんだということを。
 当たり前だ。でもお前がリーダーだと洛軍は言い、頼まれたんだろとまっすぐ言った。
 それでもう信一の中にあった『俺でなくても』という甘えは消えた。ぎゅっと抱擁されるようだった。
 シャッ、シャッと、信一の手によって包丁は研がれていく。
 もういないあの人。もうないいくつかの指……

(でも、)

 明日に備えるこの音が好きだ。
 今日を締めくくり、眠りにつくのが。

「間違っていたら教えてもらえばいいんだ」
「そうだな、聞けば誰かが教えてくれる」

 信一はぼんやりと答えながら、磨いた包丁を水に浸けて薄明りの下に翳した。
 切れ味を取り戻したかのような青白い光。なにか、ようやく安堵する。
 まずは名物を復活させなければ。誰も彼もの手を借りて。卵焼きくらいなら信一もまあ作れる。テーブル拭きや、配膳だって。
 何が自分に立ちはだかるのか。
 誰が自分を支えてくれるのか。
 きっと悔いはなくならないと思う。
 だからしばらくは、この手を掴んでいて欲しいと思う。
 ふと左を向けば、覚えたばかりの煙草を吹かして微笑んでいる洛軍と目が合って、信一は吸いさしを求めるように目を伏せた。





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