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伊坂
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長い会話(アイスとサラ)
アイスとサラが別れる話。20230409発行のアイマヴェ再録集の描きおろしでした。自分の描くアイスお元気アースはおおむねこの話が起点になっています。あーだこーだ、えっちらおっちら、二人暮らしというものを頑張るアイマヴェはきっとかわいい~~。
長い会話
「トム
……
」
その、柔和な面持ちの下に、毅然とした『彼女』があることを自分は知っている。
「サラ」
にこりと微笑みかけるつもりで、トム・アイスマン・カザンスキーはできなかった。職場だったらできたことかもしれない。三十数年という間連れ添ってきた妻に対して、部下や、上司に対するときの表情を、自分は作ることはできなかった。
「少し大丈夫?」
「ああ。何だ?」
子供たちはそれぞれ独立し、今やこの広い家には自分と妻が残るのみだ。その安寧。その達成感。妻への感謝は絶えたことがない。この身体を蝕んだ病を退けられたのも、彼女の献身的な看病があったからだ。
「トム
……
」
彼女の複雑な微笑みは一度机のほうを向き、そして戻ってきたときには消えていた。青みがかったグレイの瞳が自分を見据え、上から下までをまじまじと見る。
(サラ
……
)
覚悟する必要などなかった。ただ、言いにくいことをこれから彼女は口にする。たとえば不満。たとえば
…
、異存。
たちまち、自分の中にある、夫ではない生き物がうごめいて、「代わろうか」となめらかな声を出した。慮るということ得意とする自分が。見越すということを得意とする自分が。
『
……
いや、』
トム・カザンスキーは告げた。悪いが、彼女が会話したがっているのはお前じゃない。何の後ろ盾も肩書もない、ただのトム・カザンスキーで対応する必要のある人だ。
「あなたは、
……
人生で何かやり残していることはある?」
サラの言葉に自分は何か言いかけて、
「
………
、」
結局、何も言わないということを選択した。
まず時間稼ぎのつもりで口を開いて口を閉ざすことを、たぶん選択とはいわないのだ。
(やり残していることか
……
)
視線を落としながら、トム・カザンスキーは自分ではなく『彼』のことを思った。目を瞑り、自分のことは棚に上げて、『彼』のことを思った。『彼』は今どうしているだろう。
(マーヴェリック
……
)
『彼』の名を心で呼びながら、トム・カザンスキーは自嘲気味に唇を吊り上げ、そして前を向いた。妻はゆるく微笑んでいる。夫の何もかもを、きっと『看過』し続けてきた目だ。
将官の妻というものは苦労が多い。
トム・カザンスキーはそう思っているし、実際、サラの三十年間は途方とてつもないものだったろう。出世の道を邁進する自分の妻であり続けることは、常に憂苦と心労の連続だったはずだ。
病める時も健やかなる時も、と誓った人生のパートナーが彼女の場合にはほとんどそばにいなかった。夫が海上勤務にあたっている間も、彼女は常に将官の妻であることを求められた。子供たちの世話だけではなく、後輩たち
――
つまりは新しく将官の妻となった女性たちの『よき上司』であることも求められたのだ。
謙虚さと、リーダーシップを同時に求められて、彼女はどうそのストレスを跳ね返したのだろう。跳ね返せず、屈したこともあっただろうか。
「君こそだろう?」
俯きながら言ったトム・カザンスキーに対し、彼女は少しだけ考える素振りを見せた。
後悔ばかりの人生だが、自分の場合は、やりたいことを押し通してきた人生でもあった。そしてこれからもそうなるだろう。こうして生きながらえたからには、まだやることがある。
「私、悔いてはいないのよ?」
向かい合って、おそらくは五分が経過していた。それなのに自分の中には、ずっとこの会話をしていたという奇妙な疲労と充実感があった。
悔いてはいないという彼女の言葉の意図を、果たして自分はどれだけ理解しているだろう。
自分にとって、彼女は欠かせない人間だった。結ばれてからずっと。そしてこれからもきっと。
いまだに感動することがある。
おそらくは自分は、サラでなくては結婚できなかっただろう。
思ってもいない『愛の言葉』をささやくのは難しくて、他人に嘘を吐くよりも、自分に嘘を吐くほうが苦痛だなんて、ろくでもない男だと自分のことを何度も思った。
彼女はそんな自分を好きだと言ってくれた。そういうことよね、とわかってくれた。そんなことを言ってくれる女性は今まで一人もいなかった。あなたが私に愛していると言ってくれないのは、あなたが誠実な人だからなのよね
……
。
でも愛がなければ結婚なんて無理だろう? と思っていた自分に、彼女は何秒も迷った後、そうねと言った。肯定と突き放し。それ以上でも以下でもない言葉。
『そうね』
そして自分は、彼女に敬愛の念を抱いていることに気付いたのだ。いったいどうすることが正解なのか、どこへ向かえば自分は失敗しないのか。そんな思考に囚われていた自分に舞い降りた『そうね』だった。
『もし君がこんな俺でもいいというのなら、結婚を前提に付き合ってくれないか』
その言葉を口にしたとき、彼女は少しだけ泣きそうな顔になった。少しだけ逡巡して、それから『ええ』と柔らかく頷いた。
「あなたの妻でなくてはできない体験をさせてもらって、だから悔いはなくて。でももう少し好きにできる時間があった良かったのにって、そう思っているの」
「そうだな。君は本当に頑張ってくれたから」
「あなたは?」
「
……
うん?」
「マーヴェリックと暮らしたいとは思わないの?」
「
……
思うよ」
「なら、そうしたら? 私も自由になって、あなたも少し自由になるのはどう?」
「サラ。俺は
……
」
――
できるはずがない。
――
今更君なしでどう生きていけと?
――
そうしたいのは山々だが。
――
果たしてマーヴェリックがどう思うかな。
突然の提案に、トム・カザンスキーの脳は混乱した。混乱して、なのに次の瞬間には冷静だった。
例えば決断しなければならないとき、トム・カザンスキーは夜光雲の光景を思い出す。まだ三十代だったころ、マーヴェリックと共に見上げた極中間圏の光景を。
海面のように光る空の真下で、マーヴェリックは「くそ」と笑った。オゾン層よりも高い場所にできる雲というのを、自分もマーヴェリックもあの時初めて目にしたのだ。戦闘機でも辿りつけない場所。月の光を独り占めする雲。
地球で最も高い場所にできる雲を突き抜けたくて、マーヴェリックは嬉しそうに笑った。トム・アイスマン・カザンスキーは、あれよりほかに美しい景色を知らない。
宇宙と、地上の雲の狭間にある空間を飛びながら、「アイス、僕たちしか知らない景色だ」と言ってみせたマーヴェリックのきらびやかさ
……
。
決断には、後悔が伴うことを自分はすでに承知していて、だから自分は、何事かを決めるときには、必ず夜光雲の光景を挟む。あの一瞬の永遠に自分をくぐらせる。あの美しい世界を浴びていた時の自分は、純粋だったからだ。
「君はどうするんだ?」
「ペニーと一緒に暮らそうと思ってるわ」
「そうか。サラ
……
」
「トム。私があなたと居たんじゃ、彼は絶対に砂漠から出てこない。でしょう?」
「
…………
」
彼女の言う通りだった。トム・カザンスキーは、のこのこと砂漠から出てくるマーヴェリックというのを想像できない。彼はモハーヴェを気に入っている。寂しくてちょうどいいと思っている。今更自分の生活を変えることもないと思っている。誰にも迷惑をかけず、自分自身でいて大丈夫な場所
……
。
苦笑するサラを前に、トム・カザンスキーは頭を抱えた。
(ただし、『負い目を負わせた場合には、その限りではない』、か
……
)
自分とサラが別れたと知れば、マーヴェリックは勝手に負い目を感じるだろう。二人が別れた原因に、自分も関与しているのではないかと負い目を感じる。
――
アイスがサラに捨てられてしまった。
――
自分のせいで、アイスは一人になってしまう。
――
申し訳ない。
――
どうにかしなくちゃ。
そう思ってのこのこ砂漠から出てくるマーヴェリックというのは、容易に想像できることだった。マーヴェリックは僚機を見放さない。そして、トム・アイスマン・カザンスキーは、僚機のためならばどんなこともできる男だった。負い目を負わせることだって。夜光雲たなびく極中間圏をマッハ10で突き抜ける、漆黒の戦闘機を与えることだって。
「俺とマーヴェリックはうまくいくと思うか?」
トム・カザンスキーの前で、サラ・カザンスキーはくすくす笑っている。
これから訪れる未来を、心から楽しむような笑顔だった。
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