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千代里
2025-03-12 14:33:33
10994文字
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リーブラ14話
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リーブラの針は問う・14話・その50
重たい雪が落ちる音に、暗転していた意識がふと戻る。どうやら、仮眠をとるつもりで机に突っ伏してそのまま寝てしまったらしい。
窓から差し込む日差しは薄いが、淡い青に包まれた外の様子が、すでに朝が訪れていると示している。昨日は雪が降っていたのだろうか、ローブを羽織ったままであるというのに、体がすっかり冷え込んでいた。
仮眠をする前に外して机上に置いておいた眼鏡を手に取り、付け直す。視力矯正用の眼鏡ではなく、自分のそれは眼を保護するためという位置付けのものだ。錬金術をしている者として、薬品が飛んで目に入るなどということがあったら一大事だからである。
「さて。まずは、家の主に宿のお礼をしないといけませんね」
軽く伸びをして、男
――
ヒューイは体に残っていた眠気を追い払った。
昨夕、いつものように隠れ里に訪問して、常備薬といくらかの食べ物を置いて帰ろうとしたところ、突如容体が悪化した子供をどうか診て欲しいと頼まれてしまった。断るわけにもいかず、つきっきりで看病していたので、ヒューイは自宅に帰らず、里で一泊したのである。特段帰宅する必要もなく、隠れ里を見つけてから、この手のお願いは何度かあったので珍しいことでもなかった。
シュガーグレイヴは、先だっての異端者が騎士を襲撃した事件からずっと、どこか浮き足だった空気に包まれている。それも、悪い方向に。
出かける前には、ついに人々の陳情を無視できなくなった領主様が訪問するという噂も囁かれており、人が集まれば蜂の巣を突いたような騒ぎがそこかしこで起きていた。
(そんな所に残っていて、面倒ごとに巻き込まれたら厄介だと思ってこちらに来ていたわけですが、思ったよりも長居してしまいましたね)
宿泊先として部屋を貸してくれたのは、しばしば往診をしている老人だった。以前、ノエに干した果物を押し付けたあの男性である。
いささか思い出話が長すぎるところがある御仁だが、存外に気前のいいところもある彼は、突然訪問したヒューイを前にしても、しかめ面を浮かべてみせたものの拒絶はしなかった。それどころか、普段は使っていない寝台にせっせと布を重ねて、即席の寝台まで作ってくれた。もっとも、机に突っ伏して寝たせいで、その努力も水の泡となってしまったのだが。
壊れかけの扉を開いて廊下に出ると、ちょうど脳裏に描いていた住人と対面することになった。
「おう、先生。起きたんか」
「おはようございます、ルアンさん。向かいのお子さんの具合はいかがでしょうか。何か聞いていませんか?」
「ちょうど、さっき向かいの奥さんがうちに来たところだ。どうやら、熱はすっかり引いたみたいでな。あんたに礼を言いたいって言ったんだが、先生は寝てるから後にしてくれって言ったんだ」
「そうでしたか。それはよかったです」
自分の薬は、また一人命を救えたらしい。その事実には安堵を感じる。だが、それは誰かの命を救えたからというよりは、自分が正しい答えを引き当てられたからだ。
本心が何であるにせよ、心優しい医者として望まれる微笑を浮かべてみせる。果たして、この表情を見て、目の前の老爺は『親切な医者』らしい姿と思ってくれるだろうか。
胸に抱く一抹の懸念は、老爺もしみじみと頷いてくれたおかげであっという間に払拭した。
「朝食の前に、もう一度彼の様子を見てきます。元気になったと思った時こそ、慎重にならねばいけませんから」
「そうさな。じゃあ、朝ごはんはそちらで取りなさるかね」
「そのほうが良いでしょう。昨晩は宿を提供していただき、ありがとうございました」
いいってことさ、と笑いかける老爺に、これまた笑顔で応じる。きっと、この対応も間違いではない。
(
……
人の輪の中に馴染むという行為が、どうにも私には難儀なことに思えるのですよね)
老爺に笑いかけながら、ヒューイは思う。
物心ついた時から、自分は感情を外に出すのが苦手だった。些細なことで驚いたり怒ったり悲しんだりする同年代の子供と比較すると、随分と冷めた子供に見えただろう。
何も感じていないわけではない
――
はずだ。
自分自身、確信を持てていないところはあるが、何事にも動じない凍りついた感情の持ち主ならば、相手の機嫌を損ねたくないとも思わずに済んだのだろう。
だから、自分は気持ちの揺れ幅が他者より少ないのだと、ヒューイという青年はそのように己自身を捉えていた。
わざわざ自分の心情を表に出して、他者と共有しようとまで思えない。そんな気持ちの赴くままに生きていたら、結果的に随分と愛想のない子供だと実の親にまで言われてしまった。
幼い頃は、少し風変わりな子供と距離を置かれるだけで済んだ。
だが、両親のすすめもあって錬金術師としての才を伸ばし、仕事として金銭を得るために人とやり取りを重ねていくうちに、そうもいかなくなってしまった。
周りが求めていそうな善良な人物としての振る舞いをする
――
それが、ヒューイの行動の指針となるのに、そこまで長い時間はかからなかった。そうやって他人の表情を伺って振る舞ううちに、自分自身の気持ちの置き所が、どこにあるのか分からなくなった。
(
……
彼女の前なら、こんなことをあれこれ考えなくてもよかったのに)
内心で独り言を漏らしてから、老爺に一礼をして、荷物を取ってきてから、向かいの家を訪れる。
昨晩、子供を診てくれとヒューイに縋りついていた母親は、顔に疲労こそ濃く出ていたものの、今日はその表情に安堵を浮かべていた。
(周りと軋轢を作っても面倒ごとを生むばかりですし、殊更に他人を怖がらせたいわけでもありませんから)
心の片端でそんな風に思いながら、作り慣れた微笑で母親とのやりとりを済ませる。
寝台から抜け出そうとした子供を諌め、熱を測り、脈を取る。まだ熱の余韻や軽い喉の腫れが見られたので、子供向けの薬を用意して、服薬の注意を親へと伝える。苦いのは嫌だと駄々をこねる少年に、いかにも先生らしく厳しい注意もしておいた。
感謝の意を示す母親の勧めに従い、ありがたく朝食として出された硬いパンとチーズをいただく。お礼を言う時も笑顔を忘れない。人に好かれるにはどうしたらいいかは、既に体に染み付いていた。
食事の礼を済ませて、このまま町に帰ろうか、それとも採集にでも向かおうかと思ったときだった。
谷を切り裂くような、太く朗々とした竜の声が響いたのは。
「また竜の声
……
。ここのところ、多いのですよね」
玄関先まで見送りに来ていた母親は、しかめ面で天井を睨みつける。屋根の向こうにある空を睨むかのように。
「そういえば、先日も竜を目にしましたね。たしか、ご家族の方の活動には竜が協力している、という話ではありませんでしたか」
ご家族と言葉は濁したが、要するに隠れ里の身内
――
『異端者』たちのことである。
竜の眷属である魔物たちが、異端者と共に行動しているという噂は何度か聞いていた。通常、魔物は人間と手を組むような真似はしない。そう考えると、竜が積極的に異端者と手を協力しているとしか考えられない。
「そうなんですよ。以前は、竜が特別に手を貸している子供がいたそうで、その子がうちの人たちと一緒に行動していたからって聞いていたんです。でも、その子がいなくなっても竜は手を貸してくれているみたいで
……
」
「竜が手を貸している子供、ですか」
「ドラゴン族にも好き嫌いがあるんじゃないんですかね。私には、あいつらの考えなんか到底わかりっこしませんけれど」
女性の独り言めいた呟きを、ヒューイは静かに聞いていた。
「でも、それなら竜が協力する理由がますますわかんないんですよ。その子供はもういないのに、どうして協力してくれるのかねって、この前もご近所さんと話していたところなんです」
「単に利害が一致していたから、ではありませんか」
「でも、うちの人たちがやっていることなんて、精々ちょっとばかし、その
……
商人から荷物を奪ったりとか、そんなちっぽけな悪事ですよ。竜が協力するほどのものでもないでしょうに」
異端者の身内であることに、女性も負い目を感じているのだろう。彼女は、自分たちの身内の犯行を、敢えて大したことではないような矮小化した表現を使って話していた。
(騎士団を魔物と共に襲撃することは、ちょっとばかしの悪事なのでしょうかね。旅商人たちを襲って金品を奪ったこともあるはずですよ。とはいえ、それを指摘しても、不愉快に思うだけなのでしょうけれど)
彼女がヒューイに求めているのは同意であり、事実の糾弾ではない。それを悟っているからこそ、ヒューイはもっともらしい顔で頷くに留めておいた。実際、ヒューイにとって隠れ里の人間が何をしていようが、畢竟、どうでもいいと思っていた。
「とにかく、竜の声が頻繁に響くと、なんだか落ち着かなくなるんですよ。先生もそう思いませんか?」
「
……
ええ、そうですね」
――
いいえ、まったく。
真逆の言葉を喉の奥に押し込んで、ヒューイは頷く。
『彼女』と出会う前から、竜の咆哮を聞いても命の危機を感じて震え上がるようなことはなかった。咆哮は音でしかなく、眼前に竜がやってきて襲いかかっているわけでもないのに、どうしてそんなに恐れるのかと思ったほどだ。
もっとも、感情の起伏が薄い自分のことだ。己の体が切り裂かれる直前まで、竜を恐れるという感情を常人のように抱けるかは微妙なところである。
女性に別れを告げて、ヒューイは外へと出た。薄い灰色の雲の向こうから、今も竜の咆哮が轟いている。
どこか懐かしくて、けれどもやはり少し違う『彼女』の声。
まるで何かを急かすように、促すように吼えるその姿は、ヒューイにも容易に想像できた。
まさか、先だって隠れ里から帰る時に目の前に姿を見せるとは思わなかったので、あの時は少々驚かされた。
(竜の生きる時は人間に比べればはるかに長い。だけど、彼女の気持ちを思えば、あまり待たせるわけにもいかないですね)
隠れ里の家々を横目に、ヒューイは外に繋がる洞穴へと向かっていた。だが、その足取りは中途で止まることになる。
「おう、先生か。こんな朝早くにどうしたんだ?」
「具合を悪くした子供がいたので、徹夜で容体を診ていたのです。そういうあなた方は
……
?」
ヒューイを呼び止めた者は、隠れ里ではあまり見かけない、成人したヒューラン族の男性だった。顔自体は、以前にも見た覚えがある。負傷した異端者や一時的に体調を崩した者も隠れ里を利用することがあり、彼もその一人だった。
だが、呼び止めたのは一人だが、ヒューイの前に姿を見せたのは一人ではない。
「そういう理由だったか。じゃあ、ちょっとばかし悪いんだが、しばらくここにいてもらえないか?」
「それは、どういう意味でしょうか」
会話をしているヒューイの前には、彼が進行方向に向かうのを阻むかのように、男たちが数名姿を見せていた。そのほぼ全ての者が、普段は隠れ里では見かけない、健康な者たちだった。
「少しばかり、この場所を利用する予定があるんだ。それで、先生があの秘密の抜け道を出たり入ったりしたら、色々俺たちも困るんだよ」
「その内容について、詳しくは聞かない方が良いのでしょうね」
疑問に思うところはあったが、男たちを取り巻く剣呑な空気を前にして、彼が培ってきた三十年以上の人生経験が「質問をするな」と警告をしていた。
「ああ。ちょっと窮屈な思いをさせちまうが、先生には世話になっているからな。悪いようにはしたくない」
「そういうことでしたら、私は大人しく引き下がりましょう。
刺々しい空気は、町に流れているものとよく似ている。いや、空気だけではない。
(
……
あそこにいる男性は、シュガーグレイヴの酒場を経営している家の息子だ。一度、胃薬を買いにきていたことがある。あちらの女性も、宿の三人姉妹の次女だ。頭痛薬を処方したから覚えている)
ヒューイの薬はよく効くと、町の住人の間では一定の評判があった。だからこそ、住人は度々彼の家を訪問し、薬を買い求めていた。
職業柄、ヒューイは人の顔を覚えるのが得意だ。かつて、騎士団のお抱えだった頃から、個々人に合わせた薬を処方するために、誰がどんな人物かは頭の中で台帳のように管理できている。
だからこそ、確信を持って、異端者の中にシュガーグレイヴの住民がいると言える。
(どうして、町の住民が混ざっているのか
……
というのも、尋ねない方がよさそうですね)
人好きのされそうな、作り慣れた笑みだけを送り、ヒューイは踵を返す。
再び響いた竜の咆哮に、思わずヒューイは空を見上げる。今度は、鈍色の雲を切り裂く黒い影が遠く見えた。
「この事態も、あなたの望むものなのですか」
問いかけてみたところで、答えがあるわけもない。だが、たとえ空を行く竜に何らかの思惑があったとしても、町の者が異端者と手を組んで何かをしていたとしても、ヒューイの胸中によぎる思いを揺らすものではない。
それもまた事実であると確信しながら、彼は隠れ里の中へと戻っていった。
***
目紛しい一日を過ごした、翌朝。オデットは、昨日とは打って変わって暇を弄んでいた。
現在、オデットの予定は、全てアガテルによって左右される状態だ。彼女の世話係兼話し相手である以上、それは避けられないことである。
そして、アガテルの本日の予定は、来訪の目的である父の名代としての役割を果たすことであった。
人々の前に立ち、父の方針を伝えるという大舞台を前にして、普段着で行くわけにもいかない。そのため、アガテルは早朝から使用人と共に身だしなみを整え、化粧を施され、髪を結い、と大層忙しい時間を過ごしている。
そして、その現場にオデットは立ち会っていない。部外者であるオデットがいても邪魔にしかならないので、ゲルダのいる部屋で待機を命じられたのだ。命じられてはいるものの、実質は放置と言い換えてもいい。
「少し前に部屋を出入りする音が聞こえましたし、アガテルさんは出かけたのでしょうか」
予定では、名代としての町民への言伝は昼過ぎに行われるとのことだった。発表の場である村長の家に向かうにはかなり早いが、他にも準備をしなければならないことがあるのかもしれない。
依頼主が出かけている以上、オデットにできることはない。気持ちをアガテルから切り離し、オデットは今も寝台の中で眠っているゲルダの様子をそっと伺った。
「ゲルダ。おはようございます、朝ですよ」
いつものように揺すってみたり、頬を軽く叩いたりしてみたものの、ゲルダが目覚める様子はない。彼女は眠りが浅い方なのか、少し揺するだけで、いつもならすぐに目を覚ますというのに、今日は瞼が小揺るぎもしていない。
「熱もないし、苦しんでいる様子もないのに
……
どうしてゲルダは眠り続けているのでしょう」
もう一度軽く揺すってから、オデットはゲルダが持ち込んでいた荷物へと視線をやる。そこには、ゲルダに渡されていた薬が入っていたはずだ。
「眠っている人に飲ませるのは
……
流石にやめた方がいいですよね」
自分自身、風邪薬を飲むときはいつも起こしてもらっていた。面倒がって、一度寝転がったまま飲もうとしたところ、咽込んで苦しい思いをしたこともある。
内心で彼女に謝罪しつつ、ゲルダの荷物を紐解いてみたものの、分けられた小袋の中に入っていた薬瓶には、真っ赤な液体が入っていた。これでは、意識のない状態の人に飲ませるのは難しいだろう。
「
……
何でしょう、このお薬。少し、変な感じがしますね」
袋の中に入っていたのは、二つの瓶だ。一つは空になっていて、もう一つは真っ赤な液体が入っている。中身が残っている方の瓶に触れたとき、オデットは言葉にできない違和感を覚え、眉を寄せた。
「何だか、すごく大きな力を感じるような
……
ちょっと嫌な感じがします」
薬に意思があるわけがないのに、まるでその瓶の中にとても獰猛な生き物が居座っているような怖気が走る。こんなものを飲んで大丈夫なのだろうか、と一瞬不安になるほどに。
薬瓶を袋の中に戻して、オデットはそっとゲルダに近寄る。握りしめた彼女の手は、布団の中にあるにも拘らず、シンと冷え込んでいた。
眠っているゲルダをじっと見続けていたものの、徐々にオデットは退屈を覚えるようになった。ゲルダのことは心配だが、何時間も彼女の顔を見ているわけにもいかない。
「少しぐらい、出歩いても構いませんよね
……
?」
誰に許可を取っているのか、と自分でも思うものの、己を納得させるための言葉を吐きつつ、オデットは恐る恐る部屋の外へと出てみる。
アガテルがいた時間には廊下を人が行き来する気配があったものの、今は嘘のように静まり返り、まるで屋敷そのものが息を殺しているようだ。煌びやかな内装も、昨日より少し元気がないようにすら見える。
「メイドさんもいないようですし、皆、アガテルさんについて行ったのでしょうか」
それならそれで構わないが、せめて厨房に人が残っていますようにとオデットは思う。現金な話だが、外に出られないと言われた以上、食事をどのように確保するかは死活問題だ。
昨日アガテルに案内された時のことを思い出しながら、オデットは軽い足取りで廊下を歩き出した。
「そうだ。兄さんを探しに行きましょう。まさか、兄さんに会ったら駄目とは言われないでしょうし」
そう考えると、俄然意欲も湧き上がるというもの。何せ、昨日はノエからとんでもない話を聞かされた後だ。いまだに、自分の父親のことや、兄かもしれないというルーシャンのことに関して、実感は薄い。いきなりそんなことを言われても、ただただ呆気に取られてしまうだけである。
その辺りの話も、ノエともう一度したいと考えつつオデットが歩いていると、ちょうどオデットの向かいからメイドがやってきたのが見えた。
シーツがたっぷりと入ったカゴを抱えているので、彼女は洗濯を受け持っているメイドなのだろう。
(挨拶ぐらいは、しておいた方がいいですよね)
いくら客人といえども、素通りというのは行儀が悪い。オデットが廊下の脇に寄って、頭を下げようとした時だった。
「まあ、お嬢様!? まだこんな所にいたのですか!? 早く支度をして出かけないといけないのではありませんかっ」
「
……
はい?」
メイドは手に持っていた洗濯物を放り出しそうな勢いで、大きく目を見開く。
「まあまあ、そのような格好をして。まるで傭兵か何かのようではありませんか」
「え、と
……
あの、誰かと勘違いしているのではないでしょうか」
傭兵も何も、傭兵と分かって雇ったのではないのか、とオデットがおずおずと尋ねる。
すると、メイドは何度も瞬きをしてから、不意に「ああ!」と大きな声をあげた。
「すみません、取り違えてしまっちゃったみたいです。そうでしたね、あなたは確か昨日からいた傭兵さんの方でしたね」
「は、はい。オデットといいます。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、メイドも洗濯物を抱えたまま大きく一礼してくれた。
「ごめんなさい。あたし、雇われたのが最近だから、まだお嬢様の顔を覚えてなくて。それなのに、あんな風にころっと変わちゃうと、余計に覚えづらくて大変なのよね。あー、びっくりした」
最後にはいくらか砕けた口調になったメイドは、もう一度オデットに「ごめんね」と謝ると、ぱたぱたと廊下を駆けていった。
「走ったら、執事さんに叱られますよー
……
といっても、今日はいないのでしょうか」
つぶやいた後、オデットは改めて自分の顔を両手で挟む。
「わたしって、そんなにアガテルさんに似ているのでしょうか?」
アガテルの顔は、結局髪の毛をいじられた一瞬以外は一度も見ることがなかった。食事の時すら、ベールを外さない徹底ぶりだったのだ。
だが、背中を流れ落ちる髪の毛まで、ベールの中に押し込められるわけではない。オデットの目には、アガテルの豊かに波打つ髪の毛は薄いアイスブルーの色味であり、オデットの薄紅色の髪には似ても似つかない。
「アガテルさんの髪の毛は、実は染めている
……
とか」
髪を染める染料があるとは聞いたことがあるが、アガテルもお洒落の一つとして髪の毛を染めているのかもしれない。貴族には色々な身支度の方法があるのだなと感心しつつ、オデットは探索を再開する。
当初の目的であるノエの居場所については、検討はついていた。昨日の夜、雑談をしているときにノエも自分の部屋の大まかな位置を教えてくれたからだ。あとは、この辺りだろうと検討をつけて、そこに向かうだけである。
実際、階段を下りて幾許もしないうちに、オデットは背の高い二人分の影と出会えた。ノエとヤルマルだ。
「兄さん、ヤルマルさん!」
「オデット。よかった、ここにいたんだね」
「はい。兄さんたちは、今日も暇つぶしですか」
「半分はね。半分は、オデットに会いに行くためだよ」
ノエの代わりに答えたのは、ヤルマルだった。彼女はノエのことを肘で軽く突きつつ、
「このお兄さんが、オデットのことが気になって夜も眠れなさそうだったから、今日は君と合流してから空いた時間を潰そうって話になったのさ」
「夜も眠れない、は少し大袈裟ですよ」
素早く瞬きをして、言葉を挟むノエ。もう一度軽く咳払いをしてから、
「ゲルダさんの具合はどうだろうか。今朝、ルーシャンさんたちもヒューイさんの家にもう一度行ってくれたそうなんだが、やっぱりまだ戻ってきてないって話だったんだよ」
「
……
そうなのですね」
オデットはゲルダの容体を説明したが、その内容は昨晩ノエに伝えたこととほぼ同じものであった。
ノエも、オデットの話を聞いても解決策は思いつかないようだ。
「この屋敷の書斎には、いろんな本が置いてあったんだ。もしかしたら、ゲルダさんの容体に関する情報もあるかもしれない」
「では、わたしは兄さんについていきます。ヤルマルさんも一緒に来ますか?」
「そうしようかな。ボク一人が屋敷の中を彷徨いていると、周りの視線が恐ろしくてね。昨日なんか、こわーい顔をしたメイドさんに、廊下に毛を落としてないかって噛みつかれたんだ」
ヤルマルは兎に似た長い耳を震わせて、自分の体を抱きしめてみせる。
イシュガルドには、ヤルマルや騎士団に属するイレーナのように獣の耳を持つ種族をあまり見かけないので、まるで動物が土足で部屋に入ってきたかのような視線を向けられてしまったようだ。
「では、書斎に向かいましょうか。自由に使っていいと聞いているので、追い出されるようなことはないでしょう」
ノエに促されて、一同は書斎へと向かった。
天井の近くまで積み上げられた本棚には、ところどころ隙間があるものの、本が所狭しと詰められている。この中にゲルダの容体への手がかりがあればと、オデットはお腹の底にぐっと力を込めて、手近な一冊に手をかけた。
そうして、数時間もの時間を、オデットは読書と雑談を交えながら過ごした。
ノエとは、父のことやエヴラールという家の話をしたいと思うものの、ヤルマルの前でこの話をするのも気が引けてしまう。
何せ、この話題を出せば仲間の一人の過去について触れることになってしまう。ルーシャンとて、自分の預かり知らぬところで己の過去を吹聴されるのは嬉しくないだろう。
(それに、結局何を話せばいいかわからない部分もありますし
……
)
ぺら、とページを捲りつつ、オデットはそっとノエの様子を伺う。
話をしたところで、オデットの父親はすでに亡くなっている。ミラベルやノエは、オデットの安全を脅かす存在がいるかのように語っていたが、オデット本人としては今ひとつピンときていないままだった。
そんなことを考えていると、不意にぐうと腹の音が響く。読書に勤しむノエと、弓の弦を張り替えていたヤルマルだけがいる書斎に、その音は随分と大きく響いた。
恐る恐るノエの様子を伺うと、あろうことか彼とばっちり瞳があってしまう。
「お腹が空いたのかい、オデット」
「
…………
うう。そう、みたいです」
顔を赤くするオデットに気がつかないふりをして、ヤルマルは腰掛けていた椅子から立ち上がった。
「おっと、お昼時が過ぎていたね。じゃあ、何か食べるものをもらえないか、厨房にでも行ってみようか」
恥ずかしさのあまり、絨毯に埋まりたくなっているオデットを慮ってか、先ほどの腹の音は無視してヤルマルが食事の提案をしてくれた。ありがたく、その話に乗ろうとしたときだ。
ぽんぽんぽん、と軽やかなリンクパールの着信音が響く。
誰からの連絡だろうかと、オデットが指をかけるのとほぼ同時に、ノエやヤルマルも耳に指をかけていた。どうやら、三人全員に向けての連絡のようだ。
『おい、三人とも! 聞こえているか?!』
響いたのは、どこか慌てた様子のルーシャンの声だった。彼の声の向こうに微かにざわめきが聞こえる。雑踏の只中にでもいるかのようだ。
「はい、ノエです。その声は、ルーシャンさんですよね。どうかしましたか」
三人を代表して、ノエが応答する。彼の声が、耳で聞こえる分とリンクパールから聞こえる分の二つが重なって響いた。
『ノエ、今そこにオデットはいるか。いないなら、すぐに探してくれ』
「オデット、ですか? ええ、そこにいますよ。オデット、話せるかい?」
「はい。わたしです。ルーシャンさん、どうしたんですか?」
すると、なぜか重たいため息のような音が聞こえた。その横で「どういうことだ」と呟くオランローの声も入る。
『
……
落ち着いて聞いてくれ。俺たちは今、村長の家に来ている。あの貴族のお姫様がどんな話をするのか気になってな』
家とは言ったが、多くの人が集まる場所での発表となると、事実上は集会所として使っている場所だろう。それがどうしたのかと思いきや、
『今、当主の名代だとか自己紹介をしてるあのお嬢さんの顔が
――
オデットそっくりなんだ』
「
……
え?」
思わず、驚きの声だけが唇から漏れる。耳で聞いた内容が頭を通り抜けているのに、具体的な情報として染み込んでくれず、まるで水に浮かぶ油のように漂い続けている。
「それは、どういうことですか」
『どうもこうも、俺がが今見ている光景が全てだ。あのお嬢さん、オデットの顔を隠れ蓑がわりにしやがったんだ』
不愉快そうに告げるルーシャンの言葉の内容も、やはりすぐには頭に染み込んでくれなかった。彼が何を言って、一体何が起きているのか、うまく結びついてくれない。
ただ、隠れ蓑という言葉が指す不穏な気配だけが、黒い波のようにひたひたとオデットの足元に打ち寄せていることだけははっきりと分かった。
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