みずあめ
2025-03-11 21:16:38
3954文字
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久々綾


夜明け前の静まり返った時間に、教室の窓から夜空に朝の色が混ざっていくのを一人で眺めてた。なんの音もしないから余計に自分の心臓の音が騒がしく聞こえる。
慣れないな、と僕はため息を吐いた。久々知先輩と付き合い始めてから、自分が自分でいられないことばかりだった。穴を掘っている間だけは穴掘りに集中できるから最近はいつも以上にたくさん穴を掘って、そのせいでいろんな人に怒られていた。怒るんだったら久々知先輩のことを怒ってほしい。僕のことを変えたのは、あの人なんだから。
足音もなく近づいてきた気配に気がつき、飛び跳ねるように上がる心拍数を感じて顔を俯ける。落ち着け、いつも通りに。言い聞かせたって心臓はうるさい。それでもなんでもない顔をして、僕は後ろを振り返った。
「おはようございます、久々知先輩」
……うん、おはよう喜八郎」
……どうかしましたか?」
「ううん、可愛いなって見惚れてた」
……そうですか。日の出が早くなってきましたね。もうこんなに明るい」
教室の入り口に立っていた久々知先輩は僕がその言葉を流しきれずに逃げるように体ごと窓の方に向けると、すぐに教室の中に入ってきて僕の隣に並んだ。じっと僕を見つめる視線を感じて下唇を噛む。
いつもはどこにいたって騒がしい学園内は、今は鳥の声ひとつ聞こえない綺麗な静寂に包まれている。すぐ隣にいる久々知先輩のことを意識しないなんて無理だった。
「喜八郎、こっち向いて」
心臓が跳ねてぴくっと体が震えた。久々知先輩の声って、一音一音がすごく優しい。同じ学年の人たちと話す時と全然違うから最初はこども扱いされてるのかなって思ったけど、たぶん他の下級生たちと話す時とも違って……僕だけに向けられる声がある気がする。
本当は久々知先輩の方を向きたかったけれど、今はまだ向けなかった。「可愛いなって見惚れてた」なんてキザなことをさらっと言う先輩のせいで顔が熱いから。可愛いなんて今まで何度も言われたことがあるし表面的なことをいくら言われたって気にしなかったのに、今日は、久々知先輩が本当に見惚れていたみたいな惚けている顔をして言ってきたから、つい本気で受け取ってしまって。
……いやです」
「もうみんな起きてきちゃうよ」
……、余計なこと言ったら殴ります」
「了解」
もう可愛いなんて言わないで。今の僕は全然覚悟ができていないから、また先輩の言葉に喜んでしまう。頬の内側をグッと噛んだまま先輩の方を向き、できる限りの無表情で久々知先輩を見上げた。
目が合った途端、何かを言おうと口を開いた先輩に握った拳を振り上げた。先輩はすぐに口を閉じてふっと表情を緩めた。僕を映す瞳が、好きだって言ってる。そんな理不尽な理由で僕は振り上げていた手を先輩の胸にぱしんと当てた。
「ふ。喜八郎、どこからどこまでが余計なこと?」
「久々知先輩だったら発言全てが余計なことになる可能性があります」
「それだと喜八郎と話せなくて困るんだけど」
……
「座って話そうよ。手を触ってもいい?」
……はい」
「ありがとう」
僕より少し大きい手のひらに、僕の手は宝物みたいに優しく包み込まれた。心臓が手に移動したみたいにドキドキしているのも、熱くもないのにじんわりとかく手汗も、久々知先輩と手を繋いだ時にだけ起こる異常現象だった。
僕たちは手を繋いだまま壁に背中を預けて隣り合わせに座った。顔を見たいなと思って横を向けばこちらを向いていた久々知先輩と視線がぶつかる。ずっと僕のことを見ていたのかな。自分のことで精一杯で、僕はあまり先輩のことを見られていない。
……久々知先輩」
「うん? どうした?」
……明日から、五年生はしばらく外で実習だと伺いました」
「あ、うん、そうなんだ。後で言おうと思ってたんだけど、もう誰かに聞いてたんだな」
「怪我なく無事に帰ってきてくださいね」
「うん。……明日、朝早くて会えそうにないからいってきますは言えないんだけど、帰ってきたら喜八郎のところに行くから、おかえりって言ってくれる?」
「いいですよ。明日の朝会えないのなら先に言っておきます。いってらっしゃい、早く帰ってこないと先輩のこと忘れちゃいますからね」
「ふふ。うん、いってきます。忘れられないようにすぐ帰ってくるよ。六年生は学園にいるはずだけれど、喜八郎も無事でいてね。あと穴を掘り過ぎて他の人に怪我をさせないように気をつけて」
「目印は置いています」
「そうだけどさぁ。最近よく穴に落ちたって話を聞くよ。また腕が上がったんじゃないか?」
……それは」
それは、僕の腕が上がったというより、単純に穴の数が増えているせいかと。だけどそんなことを言ったらどうしてたくさん穴掘りをしなきゃいけなくなっているのか、理由も聞かれてしまうかもしれない。早く帰ってこないと忘れちゃうなんて冗談言ったけど、本当は四六時中久々知先輩のことを考えているってことを。
久々知先輩は僕が言葉を選ぶのを少し待って、それでも僕が何も言わないでいると僕を見つめたまま首を傾げた。
「喜八郎?」
……暖かくなってきて草木が増えてきたでしょう。何もない真っさらな地面より穴の痕跡が見つけづらくなっているんだと思います」
「なるほど、確かに。でもやっぱり穴を掘る技術だけでなくて隠す技術もきちんと成長しているからだと思うよ。誰かが落ちて怪我をしてしまうのは良くないけど、喜八郎にしかできないことだ。尊敬する」
……そうですか」
……また照れてる」
「先輩、僕、余計なこと言ったら殴るって言いましたよね?」
「ふ、あははっ、ごめんごめん、だってすごい可愛い顔してるから」
繋いでいない方の手で先輩の膝をぱしぱしと叩く。先輩は楽しそうに声を上げて笑った。それだけで自分のちょっとした恥ずかしさなんてまあいいやって思ってしまって、こういう時、久々知先輩のことを好きだと再認識させられる。他の人ならムカつくことがこの人だとそうじゃない。逆に他の人だとなんにも思わないことが久々知先輩だけ違うこともあって、困る。……今も、ただ目が合うだけで嬉しいなんて。
「喜八郎、好きだよって言うのもだめ?」
……
「だめじゃないんだ。よかった。大好きだよ」
「よく照れもしないでそんなこと言えますね」
「どうして? 思ってることを言っているだけだよ。……喜八郎は俺に好きだって言うのは照れるの?」
……どうでしょうね」
「試しに言ってみていいよ」
「言わせたいんですか?」
「言わせたいんです」
……ふーん」
「ふふ。言ってくれないの?」
久々知先輩が僕の顔を覗き込むようにして笑った。なんでもないって顔、できているかな。もうずっと心臓がドキドキとうるさくて体温も普段より高い気がする。繋いだ手から、先輩には気付かれているかもしれない。
「あ」
「? なんですか?」
「もう時間みたいだ。そろそろ戻らないと」
「え? ……本当だ。もうこんなに明るい」
顔を上げると窓から見える空はすっかり青に染まっていた。きっともう先生方は起き始めてしまう頃だろう。誰かに見つかる前に僕たちも部屋に戻って、同室の友人が起きた時にはいつも通りに布団に寝ていないと。ふわっとあくびをすると久々知先輩が優しく目を細めた。
「どうしよっか、一緒に戻る? 喜八郎が先に戻る?」
「先輩が先です。四年生の教室に一人でいたら変でしょう」
「んー、一緒に戻るのは?」
「だめ。誰かに見られたらなんて言うつもりですか」
「たまたまそこで会ったんだって」
「そんなたまたまはありません。ほら、早く戻ってください」
「あはは、はぁい」
二人で立ち上がって、窓を閉めてからもう一度向き合って目を合わせる。それじゃあ、と久々知先輩が言ってしまう前に、僕は口を開いた。
「来週、また朝に会えますか?」
「ああ、もちろん。喜八郎を待たせないように今日より早く来るよ」
「それじゃあ僕はもっと早く来ます」
「ふ、そんなに俺に会いたい?」
……会いたいですよ」
「え。……そ、そっか」
……好きって言うのは照れないくせに、なんで今ので照れるんですか」
「照れてないよ……
「無理があります」
……俺も、会いたいよ」
「はい」
……喜八郎は、これは照れないんだ……?」
「お付き合いしてるんですから、会いたいのは当然でしょう」
「かっこいい……
「どうも。それじゃあ」
「好きって言っておかないで平気?」
…………言われたいだけでしょう」
「うん。だって付き合ってるんだから、当然だろ?」
……実習から無事に帰ってきたら、試しに言ってあげてもいいですよ」
「いいね、そうしよう。約束だよ」
にこっと笑って、久々知先輩は僕の手を取った。先輩のあたたかい手が僕の握っていた拳を自然に解いて、小指と小指をゆるく絡める。きゅっと力を込めると同じ力が返ってきて無意識に口元が緩んだ。
「いってくるね、喜八郎」
……はい。いってらっしゃい、久々知先輩」
久々知先輩は僕をまっすぐに見つめて頷くとすぐに教室を出て行った。一人きりになった途端、外から鳥の声や木々のざわめき、人の立てる物音が聞こえてきて、障子を透けて入ってくる光の強さからも朝が来たことを感じる。久々知先輩といる時、太陽はいつもよりうんと早く動いてる。まだ、もっと、山のむこうでぐずぐずしていてよかったのに。
ほんの数秒触れ合っただけの小指はまだじんわりと熱を持っていた。先輩の手にも、僕の体温が残っているかな。ちゃんと好きだって言ってあげますから、早く帰ってきてくださいね。あなたの体温を忘れさせないで。