千代里
2025-03-10 13:02:26
13127文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その49


(まだ頭の皮が突っ張っている感じがします……
 自分の髪の毛はまだ頭に張り付いてくれているだろうかと、オデットは恐る恐る頭に触れる。頭皮に残る痛みの余韻を指で宥めながら、そのまま少女は寝台の上に疲れてクタクタになった体を横たえた。
 外は既にとうの昔に日が落ち、カーテン越しにはどんよりとした鈍色の雲が空を覆っている。シンと空気が冷えているので、今夜はまた雪になるだろう。月のないシュガーグレイヴの夜は、屋敷から見ると全てが鉛色に沈んでいて、灯りが消えると町全体が墓場になってしまったかのようだ。
 ゲルダの眠る部屋でアガテルの髪いじりに付き合った後、昼食を経てからもオデットは令嬢の暇つぶしに付き合い続けていた。
 できることなら、すぐにでもゲルダの様子を主治医であるヒューイに伝えたかった。オデット自身には不可能でも、ノエや外部にいるオランローたちに状況を伝えられたらと何度も考えたものの、アガテルの目の前で堂々と連絡をとるわけにもいかなかった。オデットが他のことに気を取られると、彼女はすぐにそれを察して不満げな視線を送ってくるのだ。
 アガテルは新しい同年代の友人――少なくともオデットはそう思っている――と戯れるのを気に入ったようで、屋敷を案内したり、自分がどんな風に日々を過ごしているかを語ってくれた。上機嫌な令嬢を見るのはオデットとしても悪い気はしなかったのだが、いかんせん、今は何も気にせずに彼女と遊んでいられる気分ではなかった。
「楽しんでくれたこと自体は、良かったのですけれど……
 オデットは、いまだどこかちくちくする頭を何度か労わるように撫でた。
 オデットの髪をいじりたいと息巻いたアガテルは、編み込みやピンを使った結い方に果敢に挑戦してみせた。
 その腕前はなかなかのものだったが、普段は髪を下ろしたままのオデットには、髪を捻ったり結い上げたりすることは、どうにも違和感が拭えない。とはいえ、アガテル本人が気に入っていたのですぐに解くわけにもいかず、結局オデットは入浴の時間まできつく結われた髪型で一日を過ごしたのだった。
「結局兄さんには会えませんでしたし……でも、明日はアガテルさんは町の人のところにお出かけする日ですから、きっと兄さんにも会えますよね」
 ごろりと寝台で寝返りを打つ。すると、彼女の隣にいる少女――ゲルダとの距離が近くなる。
 生きているのか死んでいるのか分からないほどに小さな息を立てて、ゲルダは今も眠り続けている。
「大丈夫、ですよね……?」
 本来なら、オデットも個室が与えられる予定だったが、天蓋付きの寝台はゲルダが寝ても十分に場所が余っている。ならば、彼女の隣で寝たいと、オデットはゲルダの部屋に残り、同じ寝台を分け合うことにしたのだ。
「兄さんに会ったら、……お母さんのことも話したかったのですけれど」
 ゲルダの騒動とアガテルと過ごす目まぐるしい一日のおかげで、一時的にオデットは突如もたらされた自分に関する重大な情報を忘れていられた。思い出したところでどうしようもなかっただろうから、考えなくて済むほどに忙しなかったのは結果的に良かったのかもしれない。
 だが、静寂に包まれた夜の中では、あの瞬間の驚きもくっきりと浮かび上がってくる。
(わたしのお父さんのこと……なんですよね)
 アガテルの親戚でもある、今は亡き本家の主人が自分の父親かもしれない。この可能性については、ノエにも伝えるべきだろう。
 朝に別れてから顔を見ていない兄は、今何しているのだろうか――そう思った時だった。
 ポンポンポン、と軽やかな着信の音が耳の奥に響く。耳に入れっぱなしになっているリンクパールから発せられたものだ。
『オデット、起きているかい』
「兄さん!?」
 思わず大きな声をあげかけて、オデットは咄嗟に口を押さえる。
 もしかしたらこの声を聞いてゲルダが起きてしまうのではと思ったからだ。だが、申し訳なさと期待を混ぜつつゲルダの様子を観察してみたものの、彼女は相変わらず寝返りも打たずに眠り続けているだけだった。
……兄さん、どうしたのですか。今日、一度も会えませんでしたが、兄さんはどこで何をしていたんですか?」
『別室に通されて、あまりうろつき回らないでほしいって言われたんだよ。僕たちは、アガテルさんの話し相手からも外されてしまったから、正真正銘の招かれざる客だったみたいだね』
 そのため、ノエは屋敷の住人たちの邪魔にならないよう、書斎から本を数冊借りて読書をしたり、遊戯盤を借りてヤルマルとそれに興じてみたり、武具や防具の手入れをしたり、外にいるオランローから連絡をもらって彼らの近況を聞いたりして、長すぎる待機時間を消費していた。
 本当は庭に出て鍛錬をしていたかったのだが、執事は庭に出ることも許してくれなかった。まるで、自分たちの気配を完全に消し切ろうと決めているかのようだ。
『ゲルダさんが倒れたと執事の方が教えてくれたんだが、彼女の具合はどうなんだい』
 ノエの元にも、ゲルダが眠り続けていると連絡はあったようだ。だが、あくまで伝聞であったために、具体的な様子までははっきりと知らなかったらしい。
「熱はないようなんです。一度倒れてから意識を失ったままで……でも、特段苦しそうにしているわけでもないんです」
 目を覚まさないという一点を除けば、異常はないとすら言える。もっとも、その目覚めないという部分が、オデットにとっては最も無視できないところでもあった。
「お医者さんのところに連れて行きたいって言ったんですが、外に出るのはだめって言われてしまったんです」
『彼らは僕たちが外出することに対して、ひどく警戒しているようだった。ゲルダさんには申し訳ないけれど、この屋敷から解放されるまで待っていてもらうしかなさそうだな。ひとまず、オランローたちにもゲルダさんのことは伝えておいた』
 ノエからの吉報に、オデットは顔を明るくする。
「では、ヒューイさんにも連絡を取ってもらえたんですね」
『夕方ごろにヒューイさんの家を一度訪問したけれど、不在だったそうだ。だから、今夜は出かけているのだと思う。明日の朝、また訪問してくれるそうだ』
「そうだったのですね。……わかりました」
 オデットの落ち込んだ様子が声からも伝わってしまったのだろう。ノエがリンクパール越しに、何と言おうか言葉に迷っているのが伝わってくる。
『えっと……ところで、二人は今はどの部屋に泊まっているんだ?』
「アガテルさんのお隣の部屋です」
『やっぱりそうか。できれば、僕にも分かるように教えてもらえないかな』
 今日一日屋敷中を巡ったおかげで、漠然と部屋の位置関係を覚えたオデットは、どうにかしてノエに自分の部屋に向かうまでの道順を伝えた。
「ありがとう。大体わかったよ。オデット、夜更かししてしまうことになるが、少し時間をもらえるだろうか」
「あの、兄さんに話したいことがあるんですが、夜遅くなっても大丈夫でしょうか」
 ほぼ同じタイミングに、長話をしたいと持ちかけた二人。しばらくの沈黙は、二人が同時に会話の主導権を譲ろうと譲歩してしまったせいだ。
 その何とも言い難い沈黙を破ったのは、ノエの苦笑いとわかる声だった。
……ごめん、笑っている場合じゃないとは分かっているんだけれど。あまりにも同時だったから、つい」
「いえ、わたしも同じ気持ちです。では、先にわたしから話をしてもいいでしょうか」
 どうぞ、というノエの返事に、オデットはすうと息を吸い込む。
「実は、わたしの……えっと、お父さんのことが、分かったかもしれないんです」
 お父さんという言葉は、お母さんという言葉以上にオデットにとっては馴染まず、まるで異国の言葉のように響いた。
 母――オディールのことをお母さんと呼ぶことには、今はもうあまり抵抗はない。彼女と共に暮らした日々をうっすらであっても思い出せたからだ。しかし、父親の存在はその淡い思い出の中にすら存在していなかった。
「お父さんっていうと、まさか父親が誰か分かったのか?」
 流石にこの連絡はノエにも驚きだったらしい。声量こそ抑えているものの、声音に動揺が感じられた。
「は、はい。まだ確証は持てないのですけれど……
 どこから説明しようかとオデットはしばらく言葉を悩み、結局アガテルから聞いたままの話を伝えることにした。
「アガテルさんのお家は、今はニヴェールさんという家の傘下にいるそうですけれど、以前は別の家と縁が深かったそうなんです。その家が没落してしまったので、後を引き継いだニヴェールさんと仲良くしたいと考えている、ということでした」
『シュガーグレイヴもそうだけれど、以前は別の家がこの地の領主だったって話だね』
「はい。それで、その……亡くなってしまった、前の領主の当主様……なんですけれど」
『うん。その家の人がオデットの父親なのか?』
「いえ、違います。その……当主様がそうなのではないか、と思うんです。その方には……えっと、奥さん以外に大事にしている女性がいて、親子ほども年が離れていたそうなんですけれど」
……まさか、その女性って』
 リンクパール越しにもわかる、息を呑むノエの気配。自分の代わりに驚いてくれる人がいたおかげで、逆にオデットはいくらか冷静になることができた。
「はい。その方はオディールという名前なのだそうです。だから、前領主の当主がわたしのお父さん、ということになるのでは、と」
 以前、ノエはオデットの母親の話を聞いたとき、彼女も自分の母と同じような立場だったのではないかと考えていた。そして、オデットが自分と同じような愛人の子供ではないかと思い至り、そこに仲間意識を覚えて安堵しかけた己自身を嫌悪していた。
 今でこそ、父親との邂逅を経て、ノエもそのような浅ましい考え方はしなくなったが、どうやらあの時生み出した仮定は決して的外れというものでもなかったらしい。
 だが、今は愛人の子供云々とはまた異なる驚きと混乱が、ノエの中に竜巻のごとく生まれ、荒れ狂っていた。その理由は、ノエが得たもう一つの情報に起因する。
……なんてことだ。もし、それが本当なら……ルーシャンさんは』
「え? どうして、そこでルーシャンさんの名前が出てくるんですか?」
 オデットの生まれの話とは全く無縁であるはずの、今は近くにいない仲間の名前の登場に、オデットは瞳をぱちくりとさせる。出自の話という重大事項すら、一瞬思考から吹き飛びかけたほどだ。
『オデット、実は、君に話していなかったことがあるんだ。君が僕に出会ったとき、指輪を持っていただろう』
「はい。どこで手に入れたかはっきりとは覚えていなかったのですが……多分、お母さんが持たせてくれたものの中にあったんだと思います」
 オデット自身、その指輪がいつから自分の手元にあるのかは覚えていなかった。劣悪な環境下の中でも、かつての母との生活を思い出すよすがとして、何となく持ち歩いていたことだけは覚えている。それぐらい、古びた指輪はオデットにとって当たり前のものとして手元にあった。
『あの指輪に刻まれた模様――あれは、貴族の家紋だ。だから、以前ユーガンさんに尋ねて、どこの家か教えてもらったんだ』
「そうだったのですね。では、その家の名前がわかったのでしょうか」
 オデットとしては何気ない質問だったが、ノエの返事はなかなかなかった。
 長すぎる沈黙を経て、彼は言う。
『エヴラール……という家なんだ。今日、この家の執事の方に聞いたところ、エヴラール家はこの町や周辺の土地を以前治めていた家だった。だけど、火災によって一夜にして一族が亡くなって、後継者もいなかったからニヴェール家に領地が引き継がれた、という話だった』
「では、わたしのお父さんは、エヴラールという家の人だったのでしょうか」
 火災で亡くなったというのは痛ましい話だとは思うが、母親の訃報を聞いたときと比べるとショックは少なかった。
 母の話のときは、幼い自分が近くにいたと説明されたのに、母親のことを覚えていないことに申し訳なさがあった。
 だが、父親については、そばにいたという記憶がないと断言できる。その程度には、オデットも過去のことを思い出しつつある。故に、父親に向ける感情は、あくまで第三者への哀悼と大差ないものになってしまっていた。
『恐らくは、アガテルさんの言葉をそのまま受け取るなら、オデットの父親はエヴラール家の亡くなった当主なのだろう』
 順当に予想できる内容に、オデットは小さく頷く。頷いた後に、彼女はこてんと首を傾げた。
「ですが、それがルーシャンさんとどう関係があるのですか」
 先ほど急に出てきた仲間の名前について尋ねると、ノエは「まだ誰にも話していないことなのだけれど」と一つ前置きを挟んでから、
……ルーシャンさんは、イシュガルドの生まれの人だ。貧民街で生まれ、孤児院で育ち、魔道士としての才能を見出されて、とある貴族に引き取られた。本人から聞いたのだから、間違いない』
「そう、だったのですね……。でも、何となく納得できてしまいます。ルーシャンさんは礼儀作法にも詳しかったですし、知識も豊富な方ですから。でも、貴族に引き取られた方が、なぜ冒険者になったのでしょう」
『彼を引き取った貴族の人たちは、一夜にして生じた火災によって亡くなった。ルーシャンさんは養子とはいえ、貴族の血そのものは引いていない。そのせいで、何の後ろ盾もない彼は、貴族の世界から離れるしかなかった』
 説明を聞いた直後は、仲間の知らなかった過去に「そんな苦労をしていたのか」と驚くだけだった。だが、先ほどの説明の中にあった、聞いたばかりの『同じ説明』が、オデットの意識に引っ掛かる。
 一夜の火災によって、一家全滅。それにより没落した家という話は、先だって話題になった家のものとあまりに符合しすぎていないか――
「待ってください、兄さん。先ほど、一夜にして生じた火災にって……それってまさか」
『ああ。オデットのお父さん――エヴラール氏は、ルーシャンさんを引き取った人でもある。だから、もしオデットの父親が本当にエヴラール家の当主なら、血のつながりはなかったとしても、ルーシャンさんは……オデットの兄にあたる人になる』
 ノエの話と自分が見聞きした内容が絡まり合い、ごちゃごちゃに散らかった家系図を作りかけていた中で、ノエが示した単語は実に明快だった。
「ルーシャンさんが、わたしの、お兄さん……?」
 誰が親族だとか、どこに血のつながりがあるとか、そんな七面倒な貴族の家の話に比べると、兄という単語は実に単純だ。
 しかし、今まで仲間とは思っていても兄としてルーシャンを見たことなど、オデットには一度もない。突然示された関係に、彼女はどう反応していいのか全く分からなかった。
「そ、そのことを、ルーシャンさんは知っているのですか」
『わからない。僕が以前、オデットの指輪をルーシャンさんに見せたとき、彼は知らないと言ったんだ』
「では、やはり何かの勘違いでは……
 ルーシャンが兄であることが嫌なわけではないが、やはり今まで築き上げた関係と異なるものが差し挟まることに抵抗はある。故に、オデットは「勘違い」という最もわかりやすい結論に飛びつこうとした。
『だけど、ルーシャンさんの口ぶりでは、彼はそれなりの間、エヴラール家にいたことになる。従者であるサルヒさんもそうだったんだろう。だったら、自分の家の家紋を見たことがない、ということはまずあり得ない。少なくとも、本当にルーシャンさんが僕に語ったような日々を送っていたなら、必ず目にしていたはずだ。彼は、ずいぶん養父の世話になったと話してくれたからね』
「ルーシャンさんは、その……お父様がわたしのお母さんとのことは知っていて、これまで一緒にいたのでしょうか」
 ルーシャンにとって、血は繋がっていなくともエヴラール家が人たちが彼の家族だったとしたら、オデットとその母親の存在は家族という輪に対する異分子だ。
 ノエの妹たちは、妾の子供であるノエを毛嫌いしていた。オデット自身、彼女たちの怒りや嫌悪の理由が分からないわけではない。誰だって、自分の家族を奪う余所者の存在に対して嫌悪を抱くだろう。
 だからこそ、もしルーシャンがオデットという『妹』を嫌悪していたら、と思うと、指先がしんと冷え込むような感覚に襲われる。
「そればかりは、僕からは憶測しか語れない。この依頼が終わったら、一度時間を取ってルーシャンさんと話をしたいと思っている。その時には、オデットも同席してほしいと僕は考えているんだが、どうだろうか」
「だから、わたしにそのことを教えてくれたのですね」
 話をしつつ、オデットはゆっくりと布団の中へと体を引っ込める。度重なる情報の渦に溺れそうな自分を、外界から切り離すかのように。
「ルーシャンさんがオデットのことを知っているのか、知らないかは僕には分からない。けれども、オデットの話が事実なら、彼はオデットのお父さんのことを一番よく知っている人になる。だったら、君が生まれた頃にあったことも知っているかもしれない」
 ノエが気にかけているのは、ミラベルが口を塞いでいる『何か』についてだ。それがオデットの出自に関わることであり、オデットを連れてイシュガルドから出て行くようにミラベルが頑なに告げた理由に繋がるのならば、少しでも多く情報は集めておきたい。
『ミラベルさんは、君がイシュガルドに滞在することに難色を示していた。その原因は、もしかしたら君の生まれに関わることなのかもしれない』
「お兄ちゃんは、兄さんにもそう言っていたのですか」
『はっきりとは言ってくれなかったけれどね。けれども、君が僕と出会ったとき怪我をしていた原因について、彼は知っているようだった』
 ここに至って、情報を隠しておく必要はないと考えたのか。ノエはミラベルから与えられていた情報もオデットへと開示してくれた。
「それは……ひょっとしたら、わたしが記憶を失った原因なのでしょうか」
 オデットの呟きめいた疑問に、ノエからの返事はなかった。ノエ自身、回答ができないのだろう。
 オデットの記憶喪失が自然に生じたものなのか、あるいは人為的なものなのか。後者だとしたら、彼女が怪我をしていた原因も、そこにあるのかもしれない。
「兄さんは、ルーシャンさんなら何か知っているかもしれないと思っているのですね」
『少なくとも、エヴラール家に関する問題なら、彼は部外者の僕らより詳しいはずだ』
……でも、ルーシャンさんは家の紋を見ても知らないって言ったのですよね。それなのに、更に『あなたは知っているはずなのだから、もっと家のことを聞かせてほしいと』と質問をするのは、何だか……気が咎めてしまいますね」
 オデットがそう思ったということは、ノエもすでに同じ気持ちになっているのだろう。数秒の沈黙を挟んでから「そうだね」と返した言葉は、ずいぶんと歯切れが悪かった。
「それと、ルーシャンさんをお兄さんと呼ぶのは、なんだかチグハグな感じがしてしまうんです」
 これ以上の気まずさに耐えきれず、オデットは話の矛先を少しずらす。つられて、ノエがくすりと笑う声が耳奥をくすぐった。
「だって、ルーシャンさんはずっとルーシャンさんで、ミラベルさんがわたしのお兄ちゃんで、兄さんは兄さんだったのですから。いきなりお兄さんって呼んだら、ルーシャンさんもびっくりしちゃうと思います」
『はは、それはそうだね。でも、オデットみたいに優しくて賢い妹ができるなら大歓迎、とかルーシャンさんなら言いそうですけれど』
「だめですよ。サルヒさんが怒っちゃいます」
『どうして、そこにサルヒさんが出てくるんだい』
 心底不思議そうな声を出すノエに、オデットは小さく頭痛を覚えた。彼に見えないのをいいことにムンと唇を尖らせて、
「分からないなら、ヤルマルさんに聞いてくださいっ」
 困ったようなノエの声を聞きつつ、オデットは目を伏せる。
 ノエが齎した事実は、オデットを新たに困惑させるには十分すぎるものだった。
 ルーシャンにとって、オデットは自分の父親の忘れ形見になる。ルーシャンが父親を大事に思っているのなら、尚更オデットという少女が持つ意味は『赤の他人』と異なるものになるだろう。
 彼はオデットに親切に接してくれた。酒場で皆で団欒しているときに、ふらりと声をかけてくれたこともあった。
 魔法を学びたいとお願いをしたら、二つ返事で引き受けてくれた。占星魔法は彼の得意とする魔法とは系統は異なるはずなのに、文句も言わず、一緒になって魔法の発動方法を考えてくれた。母親のことを聞いて動揺して涙をこぼす自分に、氷で作った薔薇を慰めとして贈ってくれたのも、よく覚えている。
(わたしが皆さんの中で一番年下だったから、優しくしてくれたんだと思っていました。でも、本当は違ったのでしょうか)
 ノエが、ルーシャンに家のことを聞くのに躊躇いを覚えているのは、言い方を一つ間違えれば、糾弾するような物言いになってしまうからだろう。
 だが、オデットの胸中によぎるのは、それとはまた異なる不安だった。
「何も知らないままでいるのは、ダメなのでしょうか」
 思わず呟いた言葉に、ノエが答えに困っているのがわかる。
 なまじっか身近な相手だからこそ、あれやこれやと、あるかも分からない可能性を考えてしまう。
 初めて出会った時、魔法を教えてもらった時、危ない局面を助けてもらった時――泣いている自分に、花を渡してくれた時。
(あなたは、何を考えていたのですか……って、聞いてしまったら、これまでの関係が壊れてしまいそうで……それが、わたしは何だか嫌なんです)
 ノエが何か言おうとしているが、一日中振り回された疲れがオデットの瞼を重くする。
 リンクパールが繋がったままだったことも忘れて眠りに落ちていく少女は、ゆっくりと寝息を立てていた。
 
 ***
 
 布団の隙間から入ってきた冷風に、思わず身震いする。ふるふると濃い藍色の髪を振りながら、サルヒはより強く布団を体に巻きつけた。布団を破かないよう、顔の両側に生えている角も厚手の布で巻いているせいで、まるで全身が毛布の塊になってしまったかのようだ。
 だがその布越しに響く振動が、サルヒの意識を一呼吸の間に覚醒へと連れ出した。
「この足音は……
 女性メンバーが皆ルグロ家の護衛の任務に向かってしまったので、今は部屋に誰もいない。誰に憚ることなく、声を発しながらサルヒはゆっくりと寝台の外に出た。
 戸が軋む音をできるだけ殺して外に出たサルヒは、こちらに向かって歩いてくる人影に顔を向け、そのまま視線を固定する。
――旦那様。なぜ、このような場所に?」
 廊下の突き当たりからこちらへと向かう途上だったらしい男が、彼女の前に立っていた。
 寝巻き姿ではなく、冒険者としての装束でこそないものの、室内で活動するには遜色ない装いは彼が寝起きではないことの証だ。
(先程の隙間風……もしかして、窓を開けていた?)
 ちらりと、サルヒはルーシャンの体の向こうにある窓へと視線を送る。今は閉じられた鎧戸は、ひょっとしたら数分前までは開いていたのではないか。
「ちょっと寝られなくてフラフラしていただけだ。明日は明日で、例の書類整理の手伝いがあるだろ。サルヒも早く寝た方がいいぞ」
 そう言って傍を通り過ぎようとするルーシャンの手を、サルヒは素早く掴む。不意打ちに似た彼女の行動に、ルーシャンは目を丸くした。
 お構いなしに彼の手のひらを自身の手のひらで包み、そこから伝わるシンと冷え込んだ感覚にサルヒは眉を寄せる。
「手がこんなにも冷えています。そんなにも長い間、廊下で一体何をしていたんですか」
「行ったり来たりして、考えを纏めていたんだよ」
「鳥を送った誰かへの返事を、ですか」
 今まで常のような笑顔を見せていたルーシャンの顔に、わずかに罅が入った。
 サルヒでなければ気付かないような、ほんの細やかな罅ではあったが、彼女の金色の片目は男の変化を見逃すほど耄碌していない。
「つい先日まで、そのような使い魔のやり取りはしていませんでしたよね。一体、誰と連絡を取っているのですか」
「言っただろ。昔の知り合いだ。イシュガルドに戻ったとなれば、傭兵時代の知り合いがあれこれ頼んでくるんだよ」
「それは、旦那様から『自分がここにいる』と相手に伝えれば、の話でしょう。それに、私たちが出会った人々の中に、旦那様ほど器用に使い魔を作り上げられる魔道士はいませんでした」
「そいつは流石に買い被りすぎってもんじゃないか?」
 おどけたように笑ってみせる彼に対して、サルヒは一歩も引かず男を見つめ続ける。
「なぜ、外部に連絡をとるのですか」
「俺は、ノエとオデットの一件が片付いたら、イシュガルドに残るつもりだ。だったら、昔の伝手に連絡をとるのが、そんなにも不自然か?」
――!」
 ルーシャンがはっきりとイシュガルドに逗留するとサルヒに伝えたのは、これが初めてだ。薄々予想はできることではあったし、元々の彼の目的を考えれば、イシュガルドから離れること自体が不自然であるのはサルヒも承知している。それでも、幾ばくかの驚きは覚えてしまう。
「前にも言っただろ。お前が縁を切りたいと言うのなら、喜んで俺は首を縦に振る。イシュガルドに滞在するってこともそうだ。お前がもしノエたちと一緒にいたいのなら、ヤルマルたちと冒険者業を続けたいって言うのなら、好きにすればいい。俺にはお前を繋ぎ止める資格も権利もない」
「そして、旦那様は――また復讐の道に戻るのですか」
 男は答えずに、片眉を持ち上げて作り損なったような笑みの残骸を顔に貼り付けた。その答えが肯定であることは、サルヒでなくともわかることだ。
「旦那様は、訊くのではなく己で解き明かせと言いましたね。では、旦那様が連絡を取っている相手は、旦那様が今も憎悪している相手を討つための手がかりを与えてくれる方、ですか」
…………
 サルヒの質問に、ルーシャンは先程とまるで変わらぬ表情のまま、瞬きを一つしただけだった。自分はサルヒに顔色を読まれやすいと指摘されたからこそ、敢えて感情を顔に浮かべまいとしているのだろう。
 だが、隠そうとする行動――それもまた一つの答えである。
(正解ではないかもしれない。でも、無関係ではないということ。だから、ただ知り合いと旧交を温めているというわけではない。世間話を勿体ぶってそれらしく見せているというのは、旦那様らしくない)
 サルヒも鉄面皮のまま、寝ぼけ眼だった思考を覚醒させ、目の前の男が何を考えているかを解き明かそうと思案する。
 とはいえ、自分の持ち札は少ない。ルーシャンの家族を奪った――少なくとも彼はそう信じている相手を、彼はすでに知っている。垣間見せる表情からも、仇を許すなどという気持ちはこれっぽっちも持っていないとも分かる。
 なのに、彼は仇敵の元に闇討ちに行くような真似をせず、ただただ何かを探すように各地を彷徨い、機が熟すのを待つ仕掛け人のように時を過ごしている。一見すると無為に時間を過ごしているようにも見えるが、
(夢のため、旦那様は何かを待っている……
 ならば、夢とは何なのか。サルヒには、それがわからない。仇を討つことこそが、彼の夢ではないのか。それなら、今すぐにでも敵の本陣に飛び込んで、命を引き換えに相手を討てばいい。ルーシャンの性格なら、そうしてもおかしくないとサルヒは思っていた。
 だが、彼の選択はそうではなかった。
「ルーシャン。あなたの夢は何?」
「それを訊くのは反則じゃないか?」
 質問に質問で返されてしまった。だが、それで終わらず、彼はくつくつと低い声を響かせて笑うと、
「お前はもう、とっくの昔にそれを知っている。以前にも教えたはずだ。だから、聞き直しはなしだ」
「え……?」
「さて、そろそろ本当に休んだ方がいい時間だ。探偵ごっこもいいが、休めるときに休んでおけ。居眠りをしていたら、オランローに叱られるのが今度はサルヒになっちまうぞ」
 サルヒの頭にぽんと手を置いて、昔の頃のようにぐしゃぐしゃと頭を撫でていく。
 一人きりでイシュガルドに残されて、心細いのに一人で眠れないとも言い出せず、途方に暮れていたあの頃のように。
 そのまま、すたすたと自分の部屋へと消えていくルーシャン。彼の背中を見つめながら、サルヒは少し乱れた髪の毛に手をやる。
「私は、もう知っている……?」
 サルヒの頭の中で、怒涛の勢いでこれまでの記憶が再生されていく。その中で、ルーシャンが夢について語った一幕は無かっただろうか。自分は一体、何を見落としているのだろうか。
 必死に考えれば考えるほど、火で炙ったよに頭が熱を持ち始める。このまま速やかに寝直すことなど、到底できそうにもない。
……ひどい人」
 こんな宿題を残して、いなくなるなんて。サルヒは焼けつく思考を抱えたまま、そっと唇を尖らせた。
 
 ***
 
 部屋に戻ると、オランローが寝苦しそうにうめいてるのが聞こえた。耳の代わりに顔の側面に角を持つアウラ族は、自身の鱗や角で枕や布団が破けないよう、寝るのにも一苦労なようだ。
 サルヒよりも一層大きな角を持つオランローは、サルヒのように角を布で包んだ上に、一際頑丈な布で作られた枕に埋もれるようにして頭部を預けていた。それでもたまに枕を破損していて、自分で補修するという涙ぐましい努力が続けられている。
 寝つきが悪いせいで夢見が悪いとぼやいていたオランローの側に近づき、ルーシャンは思わず苦笑する。
「やれやれ。こりゃ、明日の朝も繕い物から始めないといけなさそうだな」
 布地の隙間から溢れている綿をかき集めて枕元に置いてやってから、ルーシャンはオランローの寝台の側から離れる。
 眠れないようなら睡眠の魔法でもかけてやろうかと思ったが、ひとまず眠ること自体はできているようだ。魔法に頼らずに眠れるのなら、それに越したことはない。
……できるなら、サルヒは巻き込みたくなかったんだが」
 そう言いつつも、あのような匂わせぶりな態度をとれば、サルヒがルーシャンからより一層離れまいとするのは目に見えていた。
(分かっていてやっているんだから、俺も大概だな)
 白金の髪の毛をガシガシと掻き、腹の奥に降り積もる様々な感情から一度目を逸らす。
 そのついでに、今朝がたノエが突然連絡してきたことを思い出してみる。単に様子が気になったからと本人は言っていたが、顔を合わせたわけでもないのに、彼が何かに動揺しているのが手にとるようにルーシャンには伝わっていた。
(ルグロっていえば、親父の家の分家だろ。……ってことは、何か聞かされたのかもしらんな)
 あの青年は、父親の一件を経て、以前よりも強かな面を見せるようになった。出会ったばかりの純朴な――悪く言えば騙されやすそうな側面は、鋼が鍛え直されて形を変えるように、より柔軟に、強かなものへと変じつつある。
「流石に、いきなり食ってかかるような真似はしてこないだろうが……あっちも気にしておくか。若人は、お嬢ちゃんのことに関しちゃ、妙に鋭い。面倒なことにならないといいが」
 彼女を妹のように大事にしているという点では、オデットが兄と慕うもう一人の男のことも無視できない。彼の挙動もまた、気にかけておかねばならない事項の一つだ。
……はは。やれやれ、おじさんは人気者で辛いな。俺の手は二つしかないってのによ」
 誰も聞いていないと分かっているからこそ、揶揄混じりの独り言を漏らす。
 流石に寝巻きに着替えて寝台に潜り込むも、先程まで体を巡らせた魔力の余韻が残っているかのように、妙に頭が冴えて眠れない。
 瞳を閉じ、同室者の寝苦しそうな声を伴奏に、男は長い夜の時間を無為に過ごしたのだった。