青果
2025-03-10 12:36:02
17088文字
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【サンプル】祝砲の速度は測りきれない

『祝砲の速度は測りきれない』
九龍妖魔學園紀:皆守と葉佩 / 文庫 / 全年齢 / 本文154ページ/800円(会場)・900円(通頒)
2025/3/16 May the treasure be with you! 東1ホール タ07a『彷徨書房』にて頒布予定の前半サンプルです。

左右を決する描写・示唆する表現はありません。
キスシーンがあります。

通頒:https://prim-caca.booth.pm/
(発送はイベント後となります)

愛した人から与えられたものを、また手渡したい、ということ

・サンプルは読みやすいように改行がありますが、本では詰まっています
・葉佩とは最終的に愛情値優位、Aスキル・Pスキルマックスを想定

 《転校生》に対して、初めてその体格ではっとさせられたのは墓地に降りた二度目、狭い寝所でのことだった。ただでさえ狭い部屋の中央に寝台が鎮座し、出入り口を壁に埋め込むように作っているおかげで、部屋の中で待ち構えられると可能な動きが制限された。皆守は、「気をつけろよ」と口をついて出そうになるのをこらえた。皆守が口を出すべきではないし、たとえ怪我をしたって、こいつらの自業自得だ。だが、こうなることも分かっていて、皆守は《転校生》にあのときのメールを送ったはずだった。皆守はどっちつかずで、この場でもっとも薄汚い犬だった。

 狭い通路にいるとき、《転校生》の葉佩は、皆守と八千穂に「決して前に出るな」と言った。だからそのときも、皆守はもちろん八千穂もその言いつけに従っていた。
 出入り口から通路へ先んじるのは常に葉佩で、もっと詳細に言えば、葉佩の構えるナイフ、もしくは銃の弾だった。そのときも、葉佩の銃が何度か火を噴いた。そして彼が銃を持った腕を縮めたので、敵影はなくなったのだ、というような緩みが八千穂に生まれた。八千穂が思わず、葉佩の横に並ぼうとしてしまった。そして、その方向にはまだ敵影が残っていた。無論、葉佩はとうにそれを知っていた。彼が銃を持った腕を縮めたのは、方向転換するためだけだった。

 彼女は確かにはしゃいでいたが、このときについては、もう幾部屋も通り抜けていたからふざけていたのではない。長く続いている緊張感が、彼女の警戒心を狂わせた。八千穂はこの状況を少なからず楽しんでいたのは事実だったが、きっと、緊張感そのものからはそろそろ解放されたいころだった。だから、緩みなく持っているべきだった警戒心の手綱からわずかに手を離してしまった。

 一方、皆守は敵影が残っていることに気付いていた。これについては、皆守は文字通り、敵の影を見ていた。

 隊列の都合上、最後尾にいることが多い皆守は、自然と、もっとも葉佩から遠くなる。するとどうしても、戦闘の状況がよく判断できないため、足の隙間から見える影や、壁に映る影から状態を判断するほかなかった。

 馬鹿、と皆守は頭の中で悪態をつきながら、敵の前に出て行こうとする八千穂の制服をつかんだ。力任せに引き寄せた。すると自然と、次には皆守の身が前に出ることになる。

 だが、皆守にとってはそんなこと、たいしたことではなかった。皆守にとって、今、八千穂をかばおうとしたのは自分の身を挺してなどという涙ぐましい友情の結晶かのような理由ではない。単純に、自分の身は盾になりうるからだった。ただ日常の繰り返しに飽いてスリルを求めただけの、本来善良なクラスメイトが目の前で死ぬのを見せられるこっちの身にもなれ、という悪態と地続きだった。

――皆守、どいてろッ!

 と、葉佩が言った。葉佩が現状に気付いて方向転換したときにはすでに、敵影の前にいるのは八千穂ではなく、皆守になっていた。

 声が、地下に響いた。鋭い叱責だった。他人からこんな近距離で、こんなに硬く名前を呼ばれることは久しぶりで、驚きが先に出た。
 もし皆守が普通の人間であったら、驚いている場合ではないから身を守る動きを取るほうが早かったかもしれない。しかし、そうではなかった。皆守は普通の人間ではないから、ここでわざわざ身を守る動きをするより、驚くほうが割り込んできてしまった。

 この短い反応のブレが、葉佩の動きを生んだ。

 彼は皆守の上半身を肩で出入り口側に押し込んで、完全に皆守の前に立った。肩をそびやかすように持ち上げ、銃を構える。
 構えてから銃声が鳴るまで、ラグはほとんどない。
 皆守は葉佩の背後で、呆気にとられたような気持ちで、彼を見ていた。

 いま、完全に庇われた。しかも、肩の動きひとつで。

 彼の上半身はベストとシャツに覆われていたが、ここまでの戦闘と激しい動きで、彼の体温が上がっていることは分かっていた。リズムを刻むような、高揚した呼吸をしていたし、しばしば汗をぬぐう動きも見せていた。皆守を追いやった肩が触れたところが、筋肉痛の痛みに似た疼痛を訴える。本当に傷ついたのではない。皆守はもう、たかだか人間がぶつかってきたところで、傷がつく身体ではない。皆守は、痛みの幻覚がある鎖骨のあたりを、片手で抑えた。

 今度こそ、本当に敵影がいなくなってから、葉佩は勢いよく振り返った。

――すみません、皆守。どこかぶつけませんでしたか。
――いや、気にするな。
――葉佩クン、ごめん! 今の、あたしが悪かったんだッ、皆守クンは庇ってくれて……ごめんね。

 葉佩にも八千穂にも謝られて、皆守はもう一度「気にするな」と言った。

――だが、八千穂は気をつけろ。次も同じようにはできないからな。
――ごめん! 気をつけるよ、ホント。葉佩クンがいいって言うまで、動かないようにするッ!
――本当だろうな?
――ホントにホントッ!

 八千穂が眉を下げて何度も言うので、皆守は矛を収めた。彼女に何度も謝らせたかったわけでもない。

――皆守?
――……なんだよ。
――ずっと抑えているところ、痛むんですか。

 はっとして、手を下ろした。

――何もない。
――何もなくて、そんなところに手を置くわけないでしょう。
――お前がでかい声出したから、驚いただけだ。……お前、さっきは命令形で話せてただろうが。なんでまたそれに戻ったんだよ。
――……すみません。さっきは、ちょっと。あなたが危ないところに立ってたのでおれも気が動転しました。今はもう、ほら。いつも通りですから。
――なんなんだ、お前は……

 皆守の呆れた指摘を笑うだけで聞き流し、葉佩は八千穂に目を向けた。八千穂がぴんと背筋を伸ばす。

――八千穂さんは、気をつけてください。
――はい! 本当にごめん!

 葉佩は、皆守がしたように何度も念を押すようなことをしなかった。自分と共に行くことになった二人を眺めて、また歩を進めた。
 彼が二人を眺める目は、武器の点検の目つきに似ていた。それほど注意深く、かつ、緩みがなかった。おかげで皆守はともかく、八千穂は葉佩のこれは決して遊びでも冒険でもなく、真剣な仕事なのだと身に染みたようだった。天香學園は長期休暇などの特例を除いて、学外へ出ることが許されない。よって、アルバイトは禁止されている。この學園で金銭を得る方法は家族からの送金しかなかった。仕事という言葉は生徒たちにとって、柵の向こう側のものだった。

 今まで柵の向こう側にいた者が、ひょいと柵を跳び越えてきたのだった。

 皆守は、黙って距離を取る。葉佩とのあいだに八千穂を挟む立ち位置に戻った。あまり近くにいると、彼の何でもない所作に、自分が望むものを投影してしまいそうだった。
 葉佩はずっとそんな調子だった。身体を動かすことに慣れた人間の、比較的厚い体躯でありながらリスのようにすばしこく、兎のように用心深かった。常に八千穂と皆守を自分の背から離さなかった。八千穂はそれをどう思っていたかは確認していないが、皆守は、いま葉佩の枷になっているのは自分たちだ、と見積もった。
 その墓地を出て、八千穂、取手の順に寮まで送り届けた。取手は最後まで葉佩に遠慮がちだった。葉佩がやたら丁寧に話すから、余計に罪悪感を刺激するのだろう。葉佩は取手の態度に気がついていただろうが、口調を改めなかった。
 そして、寮の廊下を歩くのは葉佩と皆守の二人になった。

 廊下の窓は厚いカーテンが引かれていた。生徒たちはこれをいちいち開けたり閉めたりしない。場所によっては、開け放されている窓もあった。非常口を示す緑のランプが廊下の端でかすかに光っている。右上が薄暗く見えるのは、そこに蜘蛛が巣を張っているからだった。

――なあ。

 皆守は呼びかけた。小さな声だったが、廊下には他に誰もいない。生徒たちの部屋の前を歩くと、ときどき音楽を流しっぱなしで寝ている生徒がいて廊下にまで響いていたが、人間の声は独特な色で会話相手に向けて飛んでいく。葉佩は目線で答えた。

――なんで、ずっと敬語なんだ。お前。

 彼は屋上で会った皆守のことを「皆守くん」と呼んだ。その呼ばれ方でましてや敬語で話しかけられると、まるできれいな毛並みの教師に話しかけられているような寒気がした。早々にその呼び方は取っ払ったのだが、話し方そのものは敬語を使うままだった。
 葉佩は昨日と今日で幾度か聞かれた質問に対して、苦笑いを浮かべた。寮は消灯されていたが、皆守の目には彼の動きが見えていた。

――そんなに気になりますか?
――なるだろ。そりゃ。……まあ、わけが話しにくいってことなら、もう聞かないが。だとしても、これから嫌になるくらい聞かれ続けるぞ。適当な理由一つくらい言えるようになっとけ。
――別に、何度聞かれてもいいですが……まあ、一番大きい理由は仕事相手だからですね。取引先みたいなものですから。

 皆守は笑い声を零したが、低く廊下に響いた音は乾いて聞こえた。

――それ、他の生徒にほいほい言えるのかよ。
――確かに。言えません。
――なら、そのしゃべり方を止めるか、他の理由を考えておけ。
――……困りましたね。演技が上手い方じゃないんですよ。
――お前が大根なのとこれと、どう関係するんだよ。
――語尾に特徴を持たせておけば、ある程度の違和感はそこでうやむやにできますから。それに、丁寧に話して悪いことなんて、ありませんからね。

 打算だ、と皆守は思った。墓守としての自分が、警戒心を引き上げた。
 墓荒らしとしては、かなり優秀だ。目的を定めて尽力し、達成までに必要な努力を理解している。彼の計略はどこまで張り巡らされているか、見据えなければならない。

――……嫌でしたか?

 皆守ははっと顔を上げた。気遣わしげな葉佩の声色が、皆守の警戒心を嗅ぎ取ったように感じた。
 すると、途端に居心地が悪くなった。中途半端な自分の立場を、思い知らされた気がしたのだった。
 制服のポケットからアロマパイプを取り出して、唇に滑り込ませた。火を付けなくても、ラベンダーの香りがあった。そのままで息を吸うと、フィルターの狭い隙間を通った空気が、乾いたラベンダーの香りを肺に届けた。

――あなたが嫌なら、あなたにはこの話し方をやめます。
――なんだ、そりゃ。
――あれ、そういう話じゃなかったんですか?
――違う。いや、別に、お前に丁寧に話されたからって気を良くするわけでも悪くするわけでもないってだけだ。それに今後、お前が俺以外から敬語の理由聞かれたって、俺は助け船を出してやったりしないからな。
――え? ……うん、ああ……あなた、かなり難しい話し方をしますね。
――帰国子女には、難しかったか?

 皆守は唇の端を引き上げた。このままからかってやるつもりだった。
 だが、葉佩は目をつぶるように笑って、続きを言った。

――いえ。分かりましたよ。ありがとうございます。気に掛けてくださいましたね。
――違う。
――はは。じゃあ、逆にしますよ。
――何を?

 そこで、葉佩が足を止めた。もう、彼の部屋の前にたどり着いていた。皆守も足を止める。
 皆守が立ち止まったのは、意図したことではなかった。
 あ、お前の部屋だな。じゃあな。
 そう言って立ち去ってしまえばよかったのだが、皆守はこうして止まっている。何のためにといえば、葉佩の言葉の続きを聞くためだった。
 二人で交わした会話はだんだんと皆守の居心地を悪くさせているから、逃れたいのが正直なところだった。一人の部屋に戻ってベッドに潜り込み、冷えたシーツの中で足を擦り合わせていれば、やがて落ち着いて眠れるだろう。葉佩の前に立ちつづけるというのは、自ら、この熱湯の入ったやかんを近づけられるような心許なさに耐えることを選ぶのと同義だった。

 葉佩の部屋の前で、彼の言葉を待った。彼は皆守の頭からつま先までを確認するように目を動かした。別れ際に、怪我の有無を確認されているな、と察した。隠すこともない。そのまま立ちつづけた。

――今日は振り回しました。怪我をさせなくてよかった。
――……まったくだな。
――かなり無茶な動きをさせたと思いますが、どこも痛めてなさそうですね。
――筋がいいんだよ、俺は。

 葉佩は不遜な口振りの皆守に笑い声を漏らした。目線は皆守の脚に向いていた。埃だらけのフロアを駆け回ったから、きっと砂埃で汚れている部分があるだろう。皆守が汚れている自覚がある脚を、軸足の後ろに隠した。葉佩は顔を上げた。

――そのようですね。だから、考えておきます。
――……さっきも言ったが、何の話だ。何をだ?

 彼は皆守の目を見た。

 薄暗い寮の廊下だった。消灯後のこの景色を、入学から卒業まで目にすることのない生徒もいるに違いない。そのような生徒は天香學園にとっては、模範的な羊だ。生徒がみな、そうであれば生徒会はこれほど楽なことはない。

 だが実際は羊は羊飼いから逃げだそうとするものだった。それを追うために、皆守は、この時間の廊下の景色を知っていた。
 知っていたはずだが、廊下で誰かと目が合うことは初めてだったかもしれない。

 非常口のランプが、葉佩の目に映っている。緑の光が、彼の黒目と白目の両方に紗幕を下ろしていた。

――遺跡に降りる相手と、この話し方をする相手。
――……どういう意味だ?
――他の生徒から、怪しまれたくはありませんからね。でも、あなたなら、もう全部知っているから。……そう考えると、今日一夜考えたとしても、結論は変わらないかもしれません。
――だから、何が。
――次からは、皆守とだけ遺跡に降りようかな、と思いました。それなら、あなたにだけこの話し方をすれば済みます。
――お前、トレジャーハンター? やってること以外に、まだなんかたくらんでることがあるのか?
――え? どういう意味ですか?
――さっき、言ってただろ。演技に自信がないから、話し方でごまかしてる。そうなんだよな?

 ああ、と彼はなんでもないことのように言った。

――それは、職業ごまかしてるってだけの話ですよ。あなただけと遺跡に降りて、あなただけに仕事を明かすなら、他の生徒には、もうその側面はいらなくなりました。
――じゃあ、なんで今もその話し方なんだよ。
――こだわるなあ……。仕事相手には、敬意をもって接するタイプの《宝探し屋》だってだけです。もう夜更けです。眠いでしょう。また明日。

 葉佩は会話を終わらせたがっている。こと時間と睡眠については、皆守は彼の言い分が正しいことを分かっている。皆守は、自室に戻ればすぐに眠れるくらいにはもう眠たかった。
 葉佩に言いつのりたいことはまだあったが、彼が会話を終わらせたがるので、皆守は口の中でむにゃむにゃ言うだけになった。

――おやすみなさい。

 彼が言った。

――あァ。

 皆守はそれだけ応えた。

 葉佩は自室の鍵を開け、中へ入っていく。そこから自分の部屋までのわずかな距離を、一人で歩かなければならなかった。蜘蛛の巣の張った非常口が近づく。手前で、皆守は横を向いた。鍵を開け、自室に入る。もう慣れきっているはずなのに、何かを探す嗅覚が、部屋に染みついたラベンダーを嗅ぎ当てた。自分に割り当てられている部屋だ、と思うと安心する。息を吐きながら、後ろ手でロックを掛けた。
 黒の学生服だけを脱いで、ベッドに潜り込む。シーツが冷たい。目を閉じて、枕に頭を乗せた。夜更かしが久しぶりだったからか、頭が重い。

 あいつは、天香學園に仕事のために来ているのだ。皆守はアロマパイプと一緒に、その事実を噛みしめた。葉佩が皆守を仕事相手と言ったことが、皆守の中でさざ波を立てていた。



 手に生のラベンダーの香りが残っている気がした。

 ラベンダーの細いが強靱な茎は他の植物ほど水分量が多くないため青臭さはないが、花の香りは強い。生きた花の香りはそれ自体が彼らの生存に関わるものだからか、シャツの袖にもしみているような気になった。精油にしたラベンダーよりも水っぽさがあって、はっとする。水の通り道がある生き物なのだということに気付かされる。
 皆守は香りを振り払うように、パイプに火を付けた。そのまま校舎に入る。今は授業中で、廊下に生徒はいなかった。各教室から、教師の声がしている。英語の授業を通り抜け、歴史の授業を横目に階段を上った。三年生の教室があるのは三階だ。馬鹿げている、と思う。一年生を三階にすべきだ。頭の中で悪態をついていると、授業終わりのチャイムが聞こえた。早々に、椅子から立ち上がる音が聞こえてくる。

 さて、自分のクラスに足を踏み入れてみれば、誰もいなかった。電気も消えている。黒板の横に貼り出された時間割を確認すると、どうやら今は音楽だった。皆守は、一日の時間割を記憶していない。

 今から音楽室に移動するのも面倒だったが、ここで戻ってくる生徒を待ち受けるのも避けたい。皆守は暗い教室を見て、きびすを返した。
 今しがた上がってきた階段を降りようとしたとき、がやがやと生徒たちの話し声が近づいてきた。音楽室は二階だ。昼食が待ちきれないらしい生徒たちが足早に、笑い声をたてながら皆守を追い越した。追い越しざまに怪訝な一瞥をくれたが、皆守はそれに抗う気もなかった。
 生徒の波が引いてきたころ、葉佩が歩いてきた。隣に取手がいる。葉佩が早々に皆守に気がついて、微笑みを向けた。こいつはもう社会人としての生活が身についているからか、笑顔ひとつとっても生徒らしくなかった。虚を突かれて、皆守はすぐに反応できず立ち止まる。

――皆守。体調はどうですか?
――分かってるくせに聞くな。……で、なんで取手がいるんだよ。違うクラスだろ?
――取手くんは今日、先生だったんですよ。
――……おい、どういう意味だ。
――僕から、先生にお願いしたんだ。ピアノの、よさを知ってもらえたらと思って……

 葉佩は真横にいる取手に顔を向けた。その肩を、気軽そうに叩く。

――よかったよ。おれ、音楽を聞く習慣なんてないから、ただでさえ音楽の授業って貴重なんだけど。歌の伴奏じゃない、ピアノリサイタルだなんて初めてだった。
――リサイタルだなんて、大袈裟だよ。
――こっち側からだと、取手くんが弾いてるところよく見えないんだ。ピアノって、両手で弾くんだろ?
――うん。
――頭がこんがらがりそうだ。
――慣れたら、そんなことないよ。

 感心した様子で話す葉佩に、取手が笑っている。取手が笑っているのは、照れを隠しているからだということが皆守にも分かった。
 皆守は目を瞠って、葉佩を見た。彼が敬語を使わずに話すところを、初めて見たからだった。驚きに押し出されるようにして、皆守はようやく、数日前の男子寮で葉佩と交わした会話を思い出した。あれは本気だったのか、と思う。確かに、彼は皆守に向けて話すときは丁寧な話し方をした。

 皆守は、葉佩にとって仕事相手だからだ。彼は、皆守だけを仕事相手にすると、墓地帰りのあの夜、そう言った。彼は本気でそうするつもりなのだ。

――じゃあ、僕はもう行くよ。先生に、前の授業のプリントをもらいに行かなきゃいけないんだ。
――ああ。またな。
――皆守君も。またね。
――……あァ。

 取手は手を振ると、廊下を歩き出した。動きはゆっくりだったが、一歩が広いので、すぐに自分のクラスに入っていく。

――皆守は、お昼はどうするんですか?

 日々の続きだという顔で、葉佩は問い掛けてくる。全部、そうするのが正しいと信じているかのようだった。その顔をまじまじと見返した。

――どこまで本気なんだ、お前。
――……何か、口走りましたっけ。
――何が『私』だ。さっき『おれ』つってただろ。一人称くらいそうしろ。俺は社会人の相手には慣れてないんだ。
――え? はい。……ちょっと、さっきのは何の話ですか?

 皆守は地団駄を踏みそうになった。こいつは、本当に自分の振るまいが分かっていないのだろうか。皆守が子供じみていると言いたいのだろうか。文句をつけたいのだが、昼休みの学校でどう言い表せばいいのか思いつかず、皆守は奥歯を噛み合わせた。

――怒らせてばかりですね。そんな顔させたいわけじゃないんですよ。本当に。
――呆れているだけだ。
――同じです。おなか減りませんか。皆守、いつもお昼はどこで食べるんですか?

 皆守の機嫌をとろうとするような態度も癪に障ったが、空腹であることは確かだった。
 目の前で「大人」の笑い方をする彼は、昨日と同じだった。一昨日とも同じであるように見える。たった数日で、人間が様変わりするほうが珍しい。周囲に誰もいなければ、こいつは転校してきたときからずっと同じ顔つきをしている。そう言い聞かせた。こいつは最初から、ここに仕事のつもりで来ているのだ。生徒として、馴れ合うためじゃない。

 皆守はどうにか、奥歯の力を緩めた。

――売店行くか。

 皆守が言うと、葉佩は気掛かりが残っている様子を隠さなかったが、行きましょう、と答えた。
 昼休みの売店は混み合っていて、行列に並ぶことになる。カレーパンをぶらさげて列の最後尾に並ぼうとすると、葉佩が片手を差し出してきた。彼はパンを複数抱えている。そういえば、昨日も夜食だと言って、墓地でパンを食べていた。ここのパンだったらしい。

――なんだ?
――おれが並んでおきます。皆守は、教室に戻っていていいですよ。
――何が楽しくて一人で教室に行かなきゃならないんだ。
――ええ?
――一人で教室戻って、いいこと何もないだろ。

 これは、皆守にとって当たり前の答えだった。周囲はグループで固まって昼飯を食べているわけだ。皆守のカレーパンはいずれ葉佩が届けに来るにしろ、その中で一人で空腹を抱えていろというのは、あんまり惨めだった。
 だが、返答を聞くなり、葉佩はアハアハと笑った。彼の室内履きを足の側面で蹴った。

――笑ってないで、早く並べ。
――だって。アハハ。とんでもないひとだな。
――昼休みなくなるぞ。

 葉佩を追い立てて、行列に並ぶ。会計する店員にあたるのが一人しかいないので、列はのろのろとしか進まない。昼食が時間内に済まないかもしれないと慌てる生徒もいるかもしれなかったが、皆守にその気はなかった。会計が終わったときに昼休みぎりぎりなのだとしたら、屋上で食えばいいと思っていた。

――皆守は、好きな授業はあるんですか?
――……は? なんだ、藪から棒に。
――そんな反応されるような質問ですか? 好きな授業。学生にはよくある話題ではないかと思いましたが。
――お前からそんな定番の質問されると違和感があるんだよ。そういやお前、高校は?
――いま通ってます。
――そうじゃなくて。
――高校って、ふつう、二回通えないんですよ。

 彼は、「ふつう」にアクセントをつけて言った。含みのある言い方に、笑いが漏れる。

――じゃ、お前、年上なのか。
――え? ああ、参りましたね。言うつもりじゃなかった。
――なんで。
――皆守に嫌われるかと思って。
――は? どういう理屈だそりゃ。

 葉佩は目を丸くした。皆守の反応がよほど想定外だったらしい。
 皆守にしてみれば、葉佩の考えが分からなかった。同じクラスにいる年上にはすでに夕薙がいたし、皆守が知らないだけで夕薙に似たような事情のある生徒はいるだろう。

――皆守、大人に警戒するじゃありませんか。あからさまですよ。
――そんなに言うほど年上なのか?
――いや……ここではちょっと。
――おい、今のはイエスかノーかで答えられるだろうが。

 皆守がまた彼の足を蹴る。葉佩は上体を丸めて、またアハアハと笑った。

 彼は、笑っていると高校生に見える。皆守に人の年齢を予想する経験が少なすぎるのかもしれないが、不信感はなかった。
 そんなことをしている間に、会計が済む。葉佩は校務員の男と一悶着起こしていたが、やがて出てきた。時計を見ると、まだ昼休みは半分残っている。却って中途半端に感じた。
 皆守は足を向ける先に悩んだが、葉佩は悩まなかった。彼は階段に向かったので、教室に戻るつもりだった。

――あれ、皆守。教室に行かないんですか?
――……行く。

 葉佩と並んで、売店横の階段を上がる。行列を抜けた他の生徒たちもこの階段を使うので、混み合う場所だった。
 フロアが上がることに、生徒は少なくなっていく。三階へ上がるときには、皆守と葉佩だけになっていた。皆守は、横の葉佩をちらと見た。売店のビニール袋にパンを詰めた男は、余裕のある足取りで階段を上る。彼の考えていることが、相変わらず読み切れない。皆守を仕事相手だと呼ぶくせに、雑談を持ちかける。笑うし、こうして隣合って階段を上る。仕事相手というのは、こういうものなのかどうか、皆守は比べられる経験がなかった。

 これもいわゆる、営業活動なのだろうか。皆守は社会経験がないが、噂で見知った程度の知識はある。サラリーマンが付き合いでゴルフに行くだとか、接待で飲み会に行くだとかの行事はフィクションではないらしい。

――葉佩。
――はい。どうしました。
――それ、俺に気を遣ってんのか。わざわざ俺に合わせなくても、お前の夜遊びには付き合ってやる。
――……「それ」ってどれですか?
――仕事相手の行動にわざわざ、仕事のために合わせてるっていうんなら、そんなことしなくていいって話だ。お前のこと言いふらしたりしない。
――……おお。

 皆守は、思い切りしかめ面をした。
 予想していた反応のどれでもないものが返ってきた。否定されるか肯定されるかのどちらかかと思っていた。まさか、感心されるとは思わなかった。

――何に感心してんだ。
――あのときの話を、そんなに重く捉えているとは気付きませんでした。すみません。
――お前さ、その煙に巻く話し方、やめろ。
――なるほど、それもすみません。全部、照れ隠しです。あなたが気にしていた、仕事相手って言い方も、全部。
――は?

 皆守は足を止めた。葉佩がそれに気付かず数段上ってから、止まって振り返る。踊り場の蛍光灯が、彼の頭の上から光をおろしていた。

 彼の手は階段横の手すりをかすかに、たどるようにして動いていたのだが、その手が離れた。行く先を目で追う。皆守の制服の肩に触れた。数年着続けている制服はすっかり縫製がやわらかくなり、彼の手が沈む。繊維の小さな毛羽立ちを、まるで猫を扱うかのような手つきで撫でた。

 肩に汚れでもついていただろうか、と確認しようとしたとき、彼が言った。

――あなたのこと好きだから、特別扱いしたかっただけです。
――……何言ってんだ?
――もう一回言わせたいんですか? 照れるって言ったのに。

 呼吸を飲み込んだ。
 昼休み、階段の中腹で転校してきて数日の《転校生》に言われるようなことではなかった。冗談言うな、と返せる話の展開ではないことは分かっていた。前振りもあった。その場限りのからかいでもなかった。

――警戒しないで。

 葉佩が先に、口を開いた。彼は笑っていた。目尻を下げて、唇の両端をかすかに上げる。目を細くして、皆守を見た。どういう微笑みなのか分からなかったが、少なくとも仕事をする「大人」の笑い方ではなかった。

――おれ、先に戻ります。……でも、次の授業、おれはあなたと出たいですよ。
――……次の授業?
――さぼらないで、って意味です。おれ、教室に行きますから。
――なんで、俺が授業出るかどうか、お前が……気にするんだよ。
――さっき言ったのと同じ理由です。高校の授業は久しぶりだから純粋に面白いですし、それをあなたと聞きたい。おれがね。

 皆守は、口を閉じた。この話題では、皆守は葉佩に言えることがない。返せる言葉も知らないし、言うべき台詞も思いつかない。皆守は授業に出るとも出ないとも、断言できなかった。

――じゃあ、また。

 葉佩はそう言い残して、階段を上がっていった。踊り場で方向転換し、残りを上がっていく。そうすればもう三年生のフロアで、彼の足音は聞こえなくなった。
 皆守は次の段に足を掛けたまま、次の一歩をどちらに出せばいいのか分からなくなっていた。上下と左右がひっくり返ったような心地さえした。幸いにも、階段を通るかかる生徒はいないタイミングだった。皆守は階段の途中で電池が切れたように立ち止まっていても、誰にも舌打ちされずに済んだ。
 今さらのように、心臓がパーカッションみたいに鼓動していることに気がついた。おまけに、地震かと思ったら、自分の鼓動だった。周囲は誰もいなくて静かなのに、自分の体内だけが大騒ぎだった。自身の内側のことに思い至ったとたんに、肩に火がついた。彼が撫でていったところを見た。そこには当然、火は立っていない。だというのに、皆守は肩を押さえた。火傷した、と思った。

 助けてくれと思った。だが、助けを求める相手など誰もいないし、皆守はこの學園から出られない。

 あいつが《転校生》でなけりゃいいと思ったが、どう考えたって、あいつは《転校生》だった。


     ◆


 住宅街を歩いていた。街の中心から離れたところに広がる住宅街には高層ビルがない。せいぜいが五階建てのアパート程度のものだった。
 道に面したベランダには、アニメキャラクターのバスタオルや子供服を干している家が多い。ワニのように口を広げた布団ばさみが、日光を浴びる布団や毛布をおさえこんでいた。ブロック塀から鼻先を出して、世界中の匂いを嗅ぎ取ろうとしている柴犬がいる。道を歩いて行く人間のうち、いい匂いを漂わせている者がいれば、ブロック塀の内側で併走して、数十センチ先の隙間を縫うように鼻を突き出す。

 表札横の門扉が中途半端に開いている家の前に通りかかった。なぜ開いているのかと思えば、地面に段ボール箱が置かれてあった。門扉は、その箱につかえているのだった。箱の中には大小さまざまな大きさの皿と、日本中または世界中の観光地土産らしい置物が詰め込まれている。セロハンテープで「ご自由にお持ちください」と書かれたチラシが貼り付けられている。しばらく立ち止まって、中身を見た。黒子の体を赤くしたような工芸品はなんというんだったか、思い出せなくて動けなかった。さるぼぼだ。思い出してすっきりしたので、また歩き出した。

 東京には坂が多く、この町も例外ではなかった。自転車で下ればさぞ爽快だろうと思う坂を徒歩で上る。電信柱の根元ばかり見ている。コンクリートの隙間を狙い澄まして、タンポポが咲いている。萼に反り返りがある、セイヨウタンポポだった。

 坂を上りきって、息をついた。呼吸を整えながら周囲を見ると、真横の家の軒先に、ぎょっとするほど大きなアマリリスが咲いていた。太い茎がまっすぐに伸び、そこに百合に似た形の真っ赤な花がついている。百合と同じようにひとつの茎に対して複数の花をつけるのだが、鉢よりも花が大きい。鉢ごとひっくり返るのではないかとはらはらする。

 アマリリスに驚いて呼吸が乱れたせいで、却って整うのが早くなった。また歩き出す。目的地は、もう近くにあった。
 ちょうど近くの電信柱に、広告が出ている。真下から見上げるので上半分の語句は見えにくいが、馴染みの町なので確認しなくても「天香図書館」と書かれていることを知っている。

 この地域に紐付いて、長くかまえていて施設全体が古ぼけている。

 開かれているままの門をくぐった。この診療所のシンボルになっているクスノキが大きく枝を広げていて、敷地に入るとすぐにクスノキの影に覆われる。頭の上から、そよ風で葉の擦れ合う音が聞こえてくる。
 昔の施設のままだから、扉は自動ではない。大きなアクリルの把手を掴んで押し込む。図書館の冷えた空気が、首元を撫でた。広いホールは地域の掲示板になっている。数週間後にある小学校の運動会、シルバー会のゲートボール大会、またはボランティアの呼びかけ等のポスターが几帳面に並んでいた。
 ホールを抜けて、本棚と本棚の間に埋まるようにして設置されたカウンターに向かうと、見たことのない顔の職員が座っていた。私設図書館であるから、職員の異動ではないはずだ。彼は髪の毛を無造作に伸ばしているように見えたが、長すぎないので切りそろえてはいるのだろう。全体的に、だらけた印象になる男だった。職員の証となるエプロンは首からだらりとして、どうにか引っかかっているといった様子だった。

 観察されていることに気付いたからか、職員は微笑みを向けた。

「常連ですか?」
「ああ……ええと、今までの方は?」
「体調を崩しまして。最後の出勤でほとんどの常連のお客様とはお話ができたと聞いていましたが、あなたはタイミングが合わなかったのかもしれませんね」
「いつでした?」
「先週の土曜日だったはずです」
「ああ、じゃあ、会って聞いていたのか。覚えていないだけかもしれません。すみません」
「いいえ。返却ですか?」

 職員が首をかしげた。あっと思った。そうだ、用事があって来ている。

「予約の本が、届いたと連絡がありましたので」
「お名前は?」
「あ……

 答えようとして、息が詰まった。ああ、そういえば、なんだかずっと、おかしいような気がした。ここまで来るまでの道も、周囲のことばかりに気を取られていた。他の家の暮らしぶりや家族の生活に目を奪われ、その合間に花を見ていた。歩いているあいだ、自分のことを思ったのは厳しい坂を上ったときの呼吸だけだった。
 自分という形が保てなくなった。いつもは、周囲をぼんやりと見ていることで自分のことを考えずに済んでいるのだった。いざ目を向けたとき、その茫洋さにくらむような心地になる。
 頭がぐらつき、支えるために一歩、後ずさった。

「あ」

 カウンターの中の職員が腰を上げて、こちらに手を差し伸べた。近づいてくる腕を掴んだ。誰のものとも知れない腕のはずだが、理由は分からないが、迷わなかった。自分に差し出されるものなら何でも受け取っていいと思えるほど自分の境遇に安心しきっているわけはないはずだが、この腕は自分が掴んでいいものだ、と素直に受け取っていた。
 彼の手が、引き戻してくれる。

「熱中症かな。まだ夏じゃないのに、今日はかなりあたたかいですよね」
「いや、ちょっとした眩暈です。なんでもないので」
「その辺りに椅子、ありますから。……ああ、右の方。座ってください」

 右、と言われて目を向けると、新しい貸し出しカードを作るための書類スペースに、キャスターの椅子が一脚あった。助けられておいて、椅子を拒否するのも決まりが悪い。薦められたように、椅子を持ってきて座った。

 そして、自分の貸し出しカードを渡せばいいのだ、と思いつく。財布の中に入れているはずだった。

 カーゴパンツのポケットに片手を突っ込んで、財布を取り出す。開いた財布のカードケースの並びに、学生証や病院の診察券と同様に入れているはずだった。だが、すべてのカードを除いても、図書館の貸し出しカードが含まれていなかった。

「貸し出し記録があれば、そこから予約の本は探せますから。それで、……ええと、お名前、もう一度よろしいですか?」

 さっきは名前を聞かれてすぐにふらついたから、名前は告げていなかったはずだ。職員に気遣われているのを察して、すぐに答えなければ、と焦燥が募る。今度は椅子に座っているから、ふらつかなかった。

「葉佩です」

 その名が、口をついて出た。口にしてみると、よく馴染んだ。そうだ、と思えた。自分のとりとめのなさに怯える必要などなかった。ずっとぼんやり歩いてきていて、頭に霧がかかっているだけだ。ちゃんと落ち着いて考えれば、問題などない。

「下のお名前までよろしいですか?」
「九龍です」
……はい、見つかりました。葉佩九龍さん。ご予約の本が、二冊、返却きてますね。少々お待ちください」

 職員はテーブルを離れ、奥の壁に設置された引き戸棚を見に行く。
 あの棚の前に立ったことがあるわけではないが、貸し出し予定者の五十音順で本が並んでいるのだろう。書店で本を注文したときも、似た仕組みがある。
 職員の後ろ姿を眺めていた。本の上げ下ろしがあるからだろうか、肩幅が広く、それが脂肪のみではない動き方をしていた。シャツの襟に、髪の毛がかかっている。毛先はてんでばらばらで、彼が髪の毛に何の執着もしていないことが分かった。
 彼は棚から太いゴムで留められた二冊の本を抜き出して、カウンターに戻ってきた。彼と目が合う。

「こちらで間違いございませんか?」

 背表紙を向けて見せられた。『古代日本国家とは何か』、『風土記(東北)』、いつの自分がそのタイトルを予約したのかは思い出せなかったが、カウンターの職員が探してきたのだから、これで間違いないはずだった。頷いて見せると、図書館の貸し出し処理専用端末の操作があって、数分の後に本が差し出される。

「返却日は二週間後になります」
「はい」

 本を受け取った。片方に、返却日が印字されたレシートが挟み込まれている。本からレシートの一部が覗くと破れるなどして面倒になるので、整えるために一度引き出した。目が、細長いレシートの全体を映す。
 レシートには返却日が大きく印字され、その下に貸出日となる今日の日付と貸し出した本のタイトルの一覧、その末尾に担当者名があった。

……皆守?」

 呼んで、顔を上げた。
 カウンターの中にいる彼はいきなり名前を呼ばれたからか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「あ、ええ。担当者のところ、見たんですね。はい。あなたが名前を、教えてくれましたから」
……名前を教えたことと、何か関係が?」
「え? ……ああ、なんでしょうね。なぜか。そうだと思って」

 曖昧な返答だ。
 だが、さらに追求をかける必要も感じなかった。貸し出されたばかりの二冊の本を脇に抱えて、椅子から立ち上がった。

「大丈夫ですか? 空調が効いているので、しばらくここで休んでだって問題ありませんよ」

 皆守、その名前の担当者が、声を掛けてきた。首を振って答える。もう眩暈は感じなかったし、気分は悪くなかった。

「そういえば……葉佩さん、前任の職員とは、親しくしていただいていたんですか?」

 葉佩さん、と呼びかけられた。彼が――皆守、彼がそう呼んだのだった。
 体調不良で退任したという前任、どういう関係だったのか思い出そうとしたが、思い出そうとすればするほど、霞になって消えた。だが、この図書館によく通っていたことは確かなはずだから、お互いに顔見知りではあっただろう。

「まあまあ、そうです」

 誤魔化すような返答になった。でも、皆守はからかうこともなく、ただ「そうですか」と頷いた。

「私設の図書館ですからね。自由なものです。今度はゆっくり話してください」
「ゆっくり?」
「はい。年、ほとんど変わりませんよね。ここはもう、あまり利用者も来ません。あなたさえよければ、話し相手をしてください。……ああ、仕事場で友達を作ろうとするなって言われちゃうかな」

 親しげな言い方で、親しげな笑い方だった。それにどう返していいのか迷って、すぐに動けない。とっちの反応に困った様子を見て、皆守はまた、親しげな笑い方をした。この顔で笑われると、返答に窮する。同じ温度感の笑顔を返すには、まだお互いの距離があった。かといって、無視をするには、彼の笑顔には温かみがありすぎた。

 何かを言おうとしたが、喉が詰まった。ただ皆守の顔を見つめる時間が過ぎ、それが初対面のやり取りとしては不自然な長さになったころ、彼から口を開いた。

「じゃあ、また」
……はい」

 ようやく、声が出た。

 カウンターに背を向ける。ここは図書館なのだから、予約した本を受け取りに来てすぐに帰るのではなく、本棚をぶらぶらと見てまわってもよかった。でも、さっきカウンターで引き起こした眩暈の残りかすが、まだ頭の奥に残っているようだった。背後にあるカウンターのことを思い出すと、残りかすが震えた。長居すると、図書館に迷惑をかけそうなくらい体調を崩してしまいそうだった。もし倒れて、ひどい迷惑をかけてしまったなら、この図書館から足が遠のくだろう。

 だから足早に、図書館を出た。手動の扉を引いて、外に出る。

 クスノキがそよ風を心地よくしていた。だが、空調の効いた室内に比べると、確かに外は汗ばむ初夏の陽気だった。日差しは夏のための準備運動をはじめている。図書館にいたのは長時間ではなかったはずだが、太陽が移動して、木陰を狭くしていた。

 短い木陰を伝うように歩いて、図書館の敷地を出る。出てすぐ、向かいの家の柵に朝顔の蔓が巻き付いていた。きっと、何年か前に育てた朝顔が宿根の頑健な品種だったのだろう、プラスチックの簡素な鉢は、風雨に汚れて丹念な世話をされているとは言いにくい。その蔓に、いずれ咲く花を乞うようなアゲハチョウが止まっていた。小さな蝶だった。青虫の時代にあまり栄養をとれなかったアゲハチョウは、羽化しても小さいサイズになる。東京のアゲハチョウは、小ぶりになりがちだ。

 生き物の気配を感じ、飲み込んだ。脇に抱えた本を、改めて持ち直す。ようやく歩き出した。帰りは下り坂であることは、ありがたかった。