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千代里
2025-03-10 08:13:43
9731文字
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リーブラ14話
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リーブラの針は問う・14話・その48
――
私は、夢を見たことがない。
オデットも、サルヒもヤルマルも、朝起きると、何気ない話題の一つとして今日見た夢の話をする。何か見たはずだけど覚えていなかった、と言っていることもある。
オデットは、時々夢のせいで嫌な気持ちになるみたいで、寝ながら呻いている姿を何度か見かけたこともある。オデットが夢のせいで苦しんでいる時、私は「オデットをいじめる夢がいなくなってしまいますように」って思いながら、ずっと彼女を見つめている。
私は、眠るということもよくわからない。
お母さんといるときは、気にしていなかった。だけど、異端者の人たちみたいに、人間と暮らしているとき、なかなか寝ようとしない私に変な顔をされたことがあった。
目を閉じて、じっとして朝を待つことだとは分かっている。そうしていると、一時的に意識が落ちる。それが眠るということである。そこまでは多分、皆と一緒。
だけど、私はちょっとした物音で覚醒するし、夜中によく目が覚める。目が覚めた、という感覚も正しいのか良くわからない。オデットは、夜中に目が覚めたら翌朝眠くて仕方ないとか、眠くなったから寝直したとか、そんな話をしてくれるけれど、私は目が覚めたら再び意識を落とすのが苦手だと。皆が眠っている中、私だけ目を開けてじっとしているだけの時もある。
少し話がずれてしまった。
私は、夢を見たことがない。だから、夢というものがどんなものか、少し興味があった。
オデットに聞いてみたら、昔の出来事を思い返すようなものから、どうしてこんな夢を見るのだろうと思うぐらい、自分でも想像もつかない内容のことがあるらしい。
――
だから、これはきっと私が初めて見る夢だと思う。
夢の中の私は、今の私とは全く違う姿をしていた。だから、これはオデットの言うところの『突拍子もない夢』なのだろう。
手足も体も今の私の体より何倍も大きくて、視線もすごく高くて、おかげまで遠くまでよく見える。まるで私という存在が何十倍も大きくなったようだった。
私は空を飛んでいた。翼が生えていて、それが勢いよく風を打ちつけて体を浮かせているのだ。
小鳥のように軽やかで素早い飛び方ではなくて、もっと大きくて、堂々とした飛び方。遥か彼方まで一直線に飛んでいけるほど早く、だけど空を飛ぶこと自体を楽しむかのように軽やかに。
夢の中の私は、まるで散歩をするようにごく自然に空を飛んでいた。飛んでいるときの空気の流れはを楽しみ、空と戯れているように気ままな飛行に身を委ねていた。
今日は空を飛ぶ夢の話がオデットにできる
――
どこか離れたところで、『私』はそう思う。
すると、不意に視界が下に向く。
私はとても高い所にいるのに、その気になれば下にいるものがよく見えるのだ。兎や鹿のように小さな生き物たちから、悠々と大地を闊歩する魔物まで、私の目が見つけられないものはない。その魔物だって、私の爪先一つで蹴散らせるほどに小さいのだから、なんだか面白い。
だけど、その私が気にしているのは、獣でも魔物でもなかった。
『
――
人間?』
ここに人間が来ることは珍しいと、夢の中の私は思う。
不思議なことに、夢の中で飛び回る私と、夢を見てるなあって思う『私』は全く別の思考をしていた。
まるで、全然違う私がもう一人、『私』の中にいるような、不思議な感覚。
私は人間の元へと舞い降りた。地面が近くなり、どすんと重たい音をたてて着地。周りに薄く土煙が立って、鬱陶しくて私は緩く頭を振る。
煙がおさまったとき、顔の前で軽く手を振って煙を払おうとしている人影が見えた。
(あれ、あの人って
……
もしかして、ヒューイ?)
私の目の前にいるのは、眼鏡をかけた紺色の髪をした青年だった。今と違って、髪の毛は全部一つに結んでいるし、今よりもちょっぴり若い。いつもニコニコ笑っている顔も、今はなんだかぼんやりしているように見える。
服装も、私の知っているヒューイは清潔な真っ白のローブを羽織っていたけれど、こっちのヒューイは少しくたびれた草色のローブ姿だった。外套を羽織っているし、遠くから私のいる高原まで旅してきたように見える。
『
――
人間。このような所で何をしている』
私は、精一杯偉そうな声を出して侵入者に話しかけた。
だけど、今の『私』は、夢の私がなんだかウキウキしていることが分かった。
――
今まで、遠目にしか見たことがない人間を、こんなに間近で見る日が来るなんて。
――
同胞たちは人間は憎たらしい生き物というけれど、だからって近くで見てはいけないということはないでしょう。
私は、うずうずする気持ちをいっぱいに胸に満たしながら、見慣れない生き物を見つけた子供みたいなことを思っていた。
一方で、若いヒューイはぽかんと呆気にとられた顔のまま、じーっと私を見ていた。そして、何度か瞬きをしてから、メガネを直すそぶりを見せる。
「
……
今喋ったのは、あなたですか?」
『如何にも。何をそんなに驚いているというの?』
私の口調は、最初の偉そうなものがあっという間に崩れていた。きっと、これが私の普通の話し方
――
この私は喉を使って発声してるわけじゃないから、考え方というのだろうか
――
なのだろう。
「竜が人の言葉を解するなどという話は、御伽噺だと思っていました。驚いたな、そんなことがあるなんて」
若いヒューイも、今より少し砕けた話し方をしている。まるで青年というより子供みたいだ。
『人の間では、竜は話さないと伝わっているの?』
「そう思っている人が多いと思います。あるいは、常に恨み言を吐いているとか」
『まさか! そんなに私はつまらないことばかり言っていないわよ。時には詩(うた)ってみせることもあるのよ?』
「歌、ですか?」
ヒューイの話す『歌』の言葉が含む意味は、少し私と違っていた。だけど、私は気が付かなかったのか、訂正はしなかった。
『私の片翼は私の詩(うた)を気に入っていて、何度も聞かせてくれとせがむほどなの』
すっかり威厳など消し飛んで、夢の私は胸を張っていた。これも、子供が胸を張っているみたい。あ、でも、『私』もよくこういう仕草をするってオデットに言われてたような。
ヒューイは私との会話に驚いた顔はしていたけれど、逃げようとはしなかった。ただ、ちょっとだけ毛色の変わった小動物を見るかのように、熱心に私を見つめているだけだった。
それは、私が聞いていた『憎たらしい人間の姿』とは少し違っていた。
『お前は、私を攻撃しないの? 人間は、私たちを恐れ、私たちに怒りを抱いていると聞いている。実際、小さな爪を持った人間たちに追いかけ回されたことなさがあるって、私の片翼は怒っていたわ』
私に言われて、ヒューイは初めてその考え方を知ったと言わんばかりに、すごく驚いた顔をしていた。
「そういえば、そんな風にも考えられますね。一般的に、あなたのような存在を人々は毛嫌いしているものなのでしょう」
ヒューイの発言を聞いて、『私』はおやと思う。まるで、ヒューイ自身はそう思っていないかのような口ぶりだ。
私も、同じことを思ったらしい。不思議そうに唸り声を漏らすと、ヒューイは目線を少しばかり泳がせて必死に言葉を探していた。
「昔からよく言われるのですが、私はどうにも人とズレた所があるようです」
『他の人間と、あなたは何が違うというの? 手足も体の大きさも、私の知る人間と大して変わらないように見えるけれど』
「私は、人並みに怒ったり嘆いたり、喜んだり楽しんだり、ということが苦手なようなんです。皆と同じような振る舞いをすることはできますが、皆と同じ感情を共有するということが、昔から不得手でした」
ヒューイの言い回しは少し難しかったけれど、私にも分かるような気がした。オデットのおかげで、一緒に笑えたり怒ったり、そういうことはできるようになったと思うけれど、少し前まで私も『周りの人』の気持ちがよくわからない時があった。
「ですから、皆が竜を討伐するために拳を振り上げているときも、竜を恐れて震え上がっているときも、どうにも上手く輪に入れなかったのですよね」
私に遠慮なく近づいてくるヒューイは、確かに私を恐れているようには見えなかった。
ヒューイは私の足元にやってきて、急にその場に屈んだ。何をしているのかと首を近づけたら、彼は近づいてきた私の頭など無視して、足元に生えている草を摘んでいた。
『何をしているの?』
「薬に使う材料を採っているんです。元々、ここに来た理由は材料を採取するためですので」
『なぜ、薬が必要なの』
「それが、私が自分の居場所にいるために必要なことだから、ですよ」
ヒューイの口ぶりはこの私と出会ったときから変わらず、淡々としていた。
人によっては、ヒューイの発言は凄く冷めて聞こえるのではないかと思う。冷たくて、無機質で、何を考えているかわからない
――
だから、ヒューイ自身も不気味に見える。『私』も、お母さんと一緒にいたときはこんな感じだった。ノエたちと出会った直後も、同じように振る舞っていたから、ノエは私にどう話しかければいいか戸惑っていたっけ。
「この植物は、今の季節では平野部ではもう枯れてしまっているんです。ですが、気候を考えればこの辺りにはまだ残っているかと思ったのですよ。最近流行っている悪質な風邪に、これがよく効くんです」
私の顔がすぐ近くにあるというのに、なんとも自然な調子でヒューイはそう答えた。
私が足を振り上げて、彼の頭上に振り下ろせば、きっと彼はペシャンコになってしまうというのに。私が口を開いて噛みつけば、彼はあっという間に八つ裂きになってしまうのに。
彼は私がまるで自分と同い年ぐらいの子供が横にやってきて、何してるのと尋ねているかのように自然に教えてくれたのだ。
それは、私が聞いていた人間とはあまりに異なる姿だった。
だから、私は笑った。それはもう、盛大に囂々と笑った。笑いすぎて、小さな突風が周囲に吹き渡り、ヒューイが吹き飛びそうになったほどだ。
『竜を前にして、草を摘むことの方が気になる人間がいるなんて! あなたは何て面白い人なの! あなたは他の人間のように振る舞えないと言っていたけれど、そんなあなただからこそ、私は好きだと思うなあ!』
私が大笑いしていると、最初は驚いていたヒューイも、やがて目を軽く見開き、口角を少し持ち上げて
――
笑ってみせた。
その笑い方は、今まで『私』がお医者さんとして見てきたヒューイの笑顔とは全然違っていた。ずっと使っていなかった錆びた機械を動かしているみたいで、ちょっとぎこちなかったけれど、すごく楽しそうで、愉快そうな笑い方だった。
『それに、あなたは先ほど私に嘘をついたのね。喜ぶのが苦手などと言ったくせに、いま、あなたは笑っているじゃないの』
私が揶揄い半分でそう言ったら、ヒューイは今度はとても驚いた様子で自分の顔を触っていた。まるで、自分が笑っていたことにすら、今まで気がついていないみたいだった。
「私は今、笑えていましたか」
『私にはそう見えたの。それとも、あなたが見せた顔は、人間の間では違う感情を表すの?』
そう言って、私は目を細めて口角をぐいっと釣り上げてみせた。私なりにヒューイと同じ顔をして見せたのだ。
ヒューイは私の顔をまじまじと眺めてから、今度は自分の頬を指先で慎重に辿っていた。その仕草は、私もよく知っているものだった。
自分が今どんな顔をしているのか分からなくて、私もよく顔を触って確かめていた。オデットに教えてもらいながら、どんな表情がどんな気持ちに繋がっているのかを知りたくて、その貌(かたち)を先に得ようとした。ヒューイの仕草は、その時の私によく似ている。
「
……
いえ、私は確かに笑っているようです」
ヒューイは先ほどとは異なる笑顔を見せながら、竜へと頭を下げた。
「ありがとうございます。私はちゃんと、笑えるのですね」
奇妙な言い方だったけれど、夢の私は気にせずに、再び地鳴りのような声をあげた。これは、夢の姿の私が見せる笑い声だ。だって私はあまりに大きくて、口も舌も人とは違う形をしているから、私が笑うと谷を風が通り抜けるような轟音になってしまうのだ。
『不思議なことを言うのね、あなたは。そういえば、名は何というの』
「ヒューイと言います。
……
竜に名前を名乗る日が来るとは、これまた何とも不思議なものですね」
『それを言うなら、私も人間に名を名乗る日が来るとは思わなかったもの。私は
――
』
私は、私の名前を名乗った。だけれど、ヒューイの耳には、私が発した音が上手く伝わらなかったらしい。
不思議な話だと、私は思う。だって、私にははっきりと◾️◾️◾️◾️◾️と聞き取れたのに。
「すみません。私の耳では、あなた方の発する音を正しく聴くことができないようなのです」
『では、あなたの耳にはなんと聞こえたの。その音を、あなたが私を呼ぶ名とすることを許してもいいわ』
「そうですね。
……
強いて言えば、ゲルトルーデと。そう聞こえました」
竜の名を呼べないヒューイは、代わりに私のことをそう呼んだ。夢の中の私は、ヒューイの言葉を聞いて何度も頷いて、それでいいと再び笑った。私の笑い声に吹き飛ばされて、ヒューイが尻餅をつくのが見える。それを見て、私はまた竜巻のような大笑いをしてしまうのだ。
ひとしきり笑った後、私が吹き飛ばした草に塗れているヒューイに顔を寄せて、私は言う。
『人間への怒りを忘れるなと、始祖の竜はいつも詩っていたの。だけど
――
どうやら、私は始祖を裏切ることになってしまいそうね』
「それは、邪竜ニーズヘッグのことでしょうか」
『そう。かの竜の怒りの詩が体に響くと、どうにも心が掻き乱されてしまうの。私は争いは好きじゃない。でも、あの怒りと嘆きの詩を聞くと、居ても立ってもいられない時があるのも本当のこと』
私は少し悲しげに言う。きっと、夢の私は、心を乱す怒りの詩があまり好きじゃないのだろう。
でも、誰かの怒りを聞いたら、自分も同じような怒りが胸に込み上げるのも分かるように思う。私だって、オデットが泣いたり怒ったりしているとき、同じような気持ちになるから。
『こんなにも風変わりで愉快な生き物に怒りを抱くなど、私には難しい。でも、あの詩が響いたときは
――
あなたは、私に近づいてはだめ』
「気をつけましょう。忠告感謝します、ゲルトルーデ」
ヒューイがその名前を呼んだとき、夢の中の私を見ている今の『私』の中で、何かが蠢いた。
夢は夢にすぎなくて、大きな姿の私も、少し若い見た目のヒューイも、きっと幻のようなものだと分かっているのに。その名前だけが
――
妙に懐かしくて思えてしまう。
『随分と堅苦しい言葉を選ぶのね、ヒューイという名の小さき人間。先ほどのように私の足元に近づいてきた、あの遠慮のなさの方が私は好きよ』
「では、お言葉に甘えて遠慮なく」
そう言うと、ヒューイは今度は後ろ足の辺りに生えている花を採りにきた。本当に遠慮のない様子に、夢の中の私は笑う。
夢の中の私は、お母さんによく似た竜の姿をしていた。力強く羽ばたく翼を持った、四つの太い足で大きな体を支える赤い鱗の竜。
それが、ゲルトルーデと呼ばれる竜の姿だった。
◇◇◇
「熱もなければ、特段苦しそうにしているようにも見えません。疲れが溜まっていて、一時的に体調を崩しているのかもしれませんね」
アガテルの前で、突如倒れ伏したゲルダを寝台に連れて行った後、眠っている彼女にに下された診断結果はひどく簡素なものだった。
実際、つい先日まで熱を出して寝込んでいたオデットと比較すると、今のゲルダはただ眠り続けているだけである。苦しそうに呻いているわけでも、高熱にうなされているわけでもない。よくできた人形のように瞳を閉ざして眠り続けている姿だけ見るならば、眠っているだけと言われても仕方ないだろう。
「アガテルさん。お医者さんを呼んで、診てもらうことはできないのでしょうか。ゲルダのことをいつも診てくれているお医者さんが、この町にいるんです」
寝室まで来てゲルダの容体を診てくれたのは、アガテルの執事だった。この建物内には治癒魔法を扱う魔道士はいても、侍医のようなものはいないため、彼が代わりにゲルダを診てくれたのだ。
ゲルダの主治医
――
ヒューイならば、とオデットは訴えてみたものの、アガテルの反応は鈍かった。
「今すぐ呼ばないと死んでしまう、という状態ではないのでしょう。それに、あなたはわたくしの話し相手ですのよ。その仕事はどうなりますの」
「でも、もし万が一何かあったら
……
そうだ。わたしの仲間を呼びますので、ゲルダだけでもお仕事を中断して、主治医に診せに行かせてもらえませんか」
「それはなりません、オデット様」
オデットの提案に首を横に振ったのは、側に控えていた執事だった。彼は、何を考えているのか分からない冷然とした瞳で、オデットを見据えていた。
その温度のない視線に、オデットはありし日に自分を虐げた司祭を思い出して、一瞬体を強張らせてしまう。
「アガテル様の安全のためにも、屋敷に案内させていただきました四名の方々は、此度の来訪が無事に完了するまで屋敷から出ることは罷りならぬ。契約書にもそう書いてあります」
「でも、それではゲルダのことはどうするんですか
……
っ」
思わず語気を強めそうになるものの、相手が依頼主でもあることを踏まえて何とかオデットは声量を落とす。もし、そうしていなかったら、今頃オデットは周りを顧みず、執事に食ってかかっていたかもしれない。
「ゲルダ様には、こちらの部屋で休んでいただきます。先ほども申し上げましたとおり、急を要する事態はではないご様子。それならば、私たちはアガテル様の身の安全を優先いたします」
「そんな
……
」
執事の表情には、感情の揺らぎが一切なかった。
たとえゲルダが正真正銘の危篤状態であったとしても、きっと彼は同じような表情をし続けているのではないだろうか
――
そう思うほどに、執事は感情を一切殺した瞳でオデットを見下ろしていた。
「あなたはもう出ていっていいわ。オデット、そういうことだから、あなたもゲルダも、わたくしが帰るまでは屋敷にいてもらいますわよ。あなた方を町に出して、万が一わたくしのことを漏らしたらと思うと、夜も眠れませんもの」
「わたしは、アガテルさんのことを町の人に話したりしません」
「わたくしはあなたの言葉に簡単に頷けるほど、あなたのことを信用しているわけではありませんのよ」
一切迷わずに、アガテルはきっぱりと言う。その発言に、オデットは胸を強く押されたような衝撃を覚えた。
先ほどまでアガテルと言葉を交わし、団欒を経ていくらか親近感を持っていたが、アガテルにとってオデットとの団欒は、確固とした友情を芽生えさせるほどのものではなかったようだ。
(
……
そうですよね。だって、アガテルさんは貴族の令嬢で、きっと誰かに憎まれたり嫌われたりすることも多かったのでしょうから)
煌びやかな生活を送るものは、その代償として、羨望や憎悪を向ける人々の視線を引き受けなくてはならない。貴族であったノエの父の命を狙って異端者が街を襲ったことも、オデットはよく覚えている。彼がどれだけ公明正大に生きていても、直接相手に不利益を齎していなくとも、ただ貴族であるというだけで、不満や憎悪の念を向ける槍玉となってしまうのだ。
結局のところ、アガテルにとってオデットも町の住民と大差ない存在なのだろう。先の発言は、オデットにあらためて自分の立場を自覚させることにもなった。
「部屋は自由に使って構いませんわ。召使に頼んで、彼女が休んでいる間の面倒も見させましょう。それで我慢してもらうしかありませんわね」
アガテルが、パチンと扇子を閉じる音が響く。オデットも、小さく「はい」と頷くことしかできなかった。
天蓋付きの広々とした寝台に眠るゲルダは、着替えさせてもらった絹の寝巻きも相まって、まるで絵物語に出てくる姫君のようだ。だが、彼女の瞳は倒れてから一度も揺れることがなく、呼吸もとても小さい。わずかに胸が動いている様子がなければ、まるで部屋に誂えて作り上げた、精巧な置物の一つだとすら思っただろう。
せめて、ゲルダが少しでも苦しげな様子を見せたら気づけるようにと、オデットはゲルダに視線を向けていたが、
「オデット、ちょっとこっちへ来て座ってちょうだい」
アガテルに手招きされて、オデットは視線をゲルダから外すしかなくなってしまった。
呼びかけられた先にあったのは、鏡台と椅子だ。アガテルは片手に持った櫛を軽く振り、
「あなた、髪の毛がひどく乱れてますわよ。わたくしの前で、そんな乱れた格好でいるのは許しませんわ」
おそらく、ゲルダが倒れたときに慌てて意識のない彼女に呼びかけたときか、彼女を支えながら部屋に連れていくときに、髪や衣服が乱れてしまったのだろう。
咄嗟に、ローブの皺を手で治しつつ、
「すみません。でも、それぐらいなら、わたしが自分で直しますので」
「いいから、こっちに来なさい」
強く言われてしまっては、オデットとしてもおとなしく従うしかない。アガテルの気まぐれに付き合うのも仕事の一つだと、オデットは鏡台前の椅子に腰を下ろす。
鏡に映った自分の顔は、とても不安そうだった。薄紅色のゆるく波打つ髪の毛は、アガテルの言う通り、少し乱れている。
ほうぼうに跳ねてしまった髪の毛を、アガテルが手に持ったブラシが少しずつ整えていく。元来癖が強いこともあって、時々引っかかって髪の毛が抜ける感覚もあったが、ゲルダのことが心配でオデットには全く気にならなかった。
(ゲルダ、大丈夫でしょうか
……
。今朝も、ちゃんと薬は飲んでいましたのに)
それとも、その薬がよくなかったのだろうか。体内のエーテルを整えるための薬ならば、副作用で具合が悪くなっても不思議ではない。オデットも、一時期無理に体内のエーテルを活性化させたせいで、足が思うように動かなくなってしまったことがある。
「あなたの髪の毛、傭兵の割には随分と滑らかですわね。特殊な手入れでもしていますの?」
「いえ、特には
……
。それに、アガテルさんの髪の毛の方が綺麗ですよ」
「それは当然ですわね。わたくしはいつも、最高級の洗髪剤で髪に艶を出していますもの」
ふふんと笑いながら、彼女はアイスブルーの柔らかそうな髪の毛をかきあげてみせる。そのとき、一瞬顔を覆っていたベールが揺れ、アガテルの素顔がベールの隙間から見えた。
「
……
あ」
「どうかしましたの?」
「あ、いえ。その、何でも
……
ありません」
一瞬見えたアガテルの顔は、本人が自ら言っていたように、顔に傷があるようにも見えなかったし、ふた目と見られないほど醜いというわけでもなかった。
少女らしい白い肌と、然るべき位置におさまった目鼻は、人の顔としてはごくありふれたものだ。ではなぜ、ベールで顔を隠しているのだろう、と思った矢先、
「そうですわね。せっかくだから、ちょっと遊んでみましょうか」
「え、遊ぶ
……
?」
「一度、誰かの髪をいじってみたかったんですの。弟たちは皆、わたくしが触ると逃げるんですもの」
「あのー、それで
……
一体何をするのでしょうか」
「大丈夫。ちょっと編んだり捻ったりするだけですわ」
振り返った先、櫛ではなく、ピンや見たことのない留め具を得物のように構えているアガテルが立っていた。
爛々と輝く令嬢の瞳に、オデットは先ほどまでとは異なる意味で顔を青くしたのだった。
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