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残りの夜が来た
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その他
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司と敬太のうちに蚊がいる
2025.3.9
蚊がいる。夏の残党のようだ。
駅から遠くて家賃が安い部屋は日当たりも悪くないのだが、夏の高い陽は屋内に差し込まず、冬よりも薄暗かった。その薄暗い部屋で、寝起きの格好のままソファに寝そべった司は、体の上を行ったり来たりする虫をぼんやり眺めている。
Tシャツと短パンを寝巻きにしている自分は格好の餌食で、実際すでに数箇所喰われているような気がするし、近づいたり遠のいたりする羽音はたとえ喰われなくとも鬱陶しいのだが、その不愉快な虫を潰すために奮闘するのが面倒だった。昨晩のアルコールがうっすら残った体は重く、ソファの脇に垂らした腕で軽く振り払うことすら億劫だ。さらに、夏休みを終え秋を迎えるにあたり、志望校を変えるとか変えないとか、そんなことを決めるには幼すぎる子供たちの目に痛めた胸や、彼らの保護者との折衝ですり減らした神経では、小さな蚊一匹にすら対応することができない。これも蚊を放っておく要因の一つである。
加えてもう一つ要因を挙げるとすれば、それはこの静けさに違いない。アウトドアシーズンと連動して山岳ボランティアもオンシーズンとなるらしく、敬太は家を空けがちで、今朝もまだ戻らない。つまり、この部屋で生きているのは司とこの蚊一匹ということになる。クーラーをつけない部屋は驚くほど静かで呼吸音一つだけではどうにも心許なく、蚊の一匹でも飛び回らせてやろうじゃないかという気にもなる。
なっていた。今しがたまでは。「ただいま」
「おかえりー」
りんりん鳴る熊よけの鈴はバックパックが床に着地する重い音と一緒に黙り込んだが、化繊の衣類を脱ぐ衣擦れの音が続いた。そして、風呂場の前で司が脱ぎ捨てた服を見た敬太が、「つかさー、これ洗うのー?」
「あらうー」
「あらうーじゃないって」
ぼやく声と共に行き来する靴下の足音がしばし止まると洗濯機が回り始め、裸足になった足音がぺたぺたと部屋に入ってきた。もう一度「おかえりー」と言うと、敬太ももう一度「ただいま」と返してくれる。
「司、今日休み?」
「休みー。やっと休みー。今日はダラダラするから、俺」
司の宣言に敬太は頷いてみせたが、「服カゴに入れてよ、せめて」
「けーたさま〜ありがと〜洗ってくれて」
「聞けって」
「聞いたよ」
もー、と言いながらソファの前に座り込んだ敬太から、微かに硫黄の匂いが立ち昇った。
「あ、温泉行った?」
「うん。山の近くにあって」
「ずりー。俺も温泉行きたいなー」
「司は酒飲んだ?」
「飲んだよ。飲まずにはやってられませんよ俺は」
「まだ酔ってんの?」
「うるせ〜!俺は酔ってねえ〜!」
酔っ払いの真似をしてみせると敬太はふっと笑う。「そんなんなったことないじゃん」と言いかけたその笑顔が、ある一点を見つめて急に固まったので、司はぎくりとした。その先にちょうど『彼』がいたからだ。
「
……
どうしたの」
恐る恐る尋ねるが、敬太は返事をしない。息を潜めたまま床についた手をゆっくり持ち上げる。その延長線上に『彼』の頭がある。司も息を止める。胃のあたりがぎゅうと引き攣る。まさかな。まさかそんなことは。
いやでも、万が一、「
……
っ!」
持ち上がった敬太の手がその小さな頭に向かって振り下ろされようとしたのを咄嗟に掴み、そうしてしまってから、司は自分の行動に息を呑んだ。目を見開いた敬太がこちらを見る。怪訝な顔をしている。当たり前だ。敬太には見えないんだから。
「
……
何?」
「
……
何って、
……
敬太は、」
「え、蚊がいたから
……
」
逃したけど。
言葉の間をプーンと羽音が飛んでいく。
司はははははと笑ってみせた。「
……
蚊に」
「
……
?」
「蚊に血吸われてる時、その辺の筋肉に力入れると、蚊が刺したやつが抜けなくなっちゃうって知ってた?」
「
……
知らなかった」
「かわいそうだよね」
「かわいそうだけど」
ますます怪訝な顔になっていく敬太に何を言ったらいいのか、司は見つかりもしない言葉を探していたが、しかし彼がこちらにかけてくれた言葉は「
……
疲れてる?」で、それを聞いて初めて、敬太の腕を掴んでいた自分の手から、ずるりと力が抜けていくのを感じた。
「
……
疲れてるかも」
「そういえば酒飲むと蚊に刺されやすく
……
あ、やっぱ刺されてる」
今度はこちらの腕が掴まれ、無造作に持ち上げられる。どこかに跡を発見したらしい敬太の指摘を受けると、その場所が特定できないにも関わらず、にわかに痒みが走った。
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