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kiku_trpg_
2025-03-08 18:58:36
2494文字
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志麻 back memory EP「こころ」
海枯れHO1 前日譚
僕の中に、もう一人の僕がいる。
それはいつも、離れたところでじっとしているだけなのに、気がつけばひたひたと近寄ってきて、僕の背後にぴったりと身を寄せてくる。
僕は、彼の足音を知っている。闇の中に響く、蛇のような音だ。
その音を聞くだけで僕の心臓はぎゅっと掴まれたように痛みを訴える。呼吸が乱れていく。
僕は怖くなって走り出す。彼から逃れるために。闇に飲まれないために。
けれど、その全ては虚しく失敗する。彼は僕のことを熟知していて、たとえどこへ逃げようとも必ず追いつき、僕を引き倒すと両手で首を締め付けて覆い被さってくるのだ。
────どこへ行く気だ?
いやだ、離せ。僕の中から出て行け。
僕と同じ顔をした彼は、その顔を身体をぼこぼこと泡立たせると、みるみるうちに巨大な怪物へ変わる。そして、裂けた口の端を歪ませて、僕の胸にその手を差し込んでくる。
────痛いか? 身を裂かれ、こころに直接触れられるのは。弱い、弱い奴め。
彼の太い腕が差し込まれた胸がギリギリと痛む。大声を出して暴れてみても、やつはびくともしない。その躯体はずんずん大きくなり、その度に胸が重く、沈んでいく。
こころが痛む。
助けて。苦しい。いやだ、いやだ。
もがけばもがくほど胸のなにかが蠢き、迫り上がる。
吐き出そうと喉を開いても、情けない嗚咽が零れ落ちるだけだ。そうする度にこころが裂けていく。ちぎれて、離れて、痛くて痛くて、涙が止まらず、嗚咽と唾液が滴り落ち、そして僕はこう思う。
「死にたい。」
僕の思いに共鳴して、怪物はより一層大きくなる。
肺が潰れていく。もう声も出せない。
怪物は裂けた口で、ついに僕を丸呑みにしてしまう。
────死んでしまえ。
声が響く。僕の声が。もう一人の僕が、怪物になった僕が、闇が、黒いものが、僕自身がそう言っている。
だから僕はうなずく。
ナイフを手に取る。
だって、僕は知っている。こころが裂かれる痛みより苦しいものなど、この世にはないと。
「ハァイ志麻。あら、顔色が悪いわよ?」
はたと気付くと、そこはカナダはトロントのホームリンクだった。リンクメイトが怪訝な顔で覗き込んでいる。
早朝練習の時間よりずっと早く来ていたはずなのに、と思う。慌てて時計を確認すると、到着からもう数十分以上経っているようだった。
だが足にはスケート靴が履かれているし、肺はすっかり冴えざえとした空気で満たされている。無意識に基礎準備まで終わらせていたのだろう。
「すまない、夢中で滑っていたみたいだ」
「相変わらず真面目ね。でも無理しちゃダメよ」
彼女は、僕の肩をぽんと叩くとリンクにサークルを描き始めた。
氷の表面を刃が撫でていく。擦れる。摩擦で溶けていく。
遠くから見れば美しいアイススケートだが、その足には硬い氷を切り開く、鋭い刃が生えている。
────あの鋭い刃で身を裂いたら、どんなふうになるだろう。
こころに、一瞬で黒いものが広がる。まるで花が蕾から開花するように、意識をあっという間にそれでいっぱいにしてしまう。
首元にあてがって引き抜くように動かせば、血が噴き出て、僕の意識はたちまち泡のように消えていく。そこには、どれだけの痛みがあるのだろうか。
「志麻?」
コーチの手が肩に触れ、刃に釘付けだった両目が解かれる。
「練習熱心なのはいいが、ペース配分を間違えるな。今シーズンこそお前の力を示す機会になる。分かっているな」
コーチの手にはフリースケーティングのプログラムの書類が握られている。世界選手権の大舞台で滑る大事なプログラムだ。
途端に喉が縮み上がる。分かっていると頷けばいいだけなのに、それを何かが拒んでいる。
「
……
志麻、なぜ焦る? 確かに強敵は多い。だが志麻には志麻のスケーティングがある。お前はいつも、メンタルの弱さで思うように出来ていないだけだ」
メンタルの弱さ。
コーチに幾度となく言われ、メディアに面白おかしく書き殴られてきた僕の弱さ。
氷上の上ではいつも独りだ。こころが、独りぼっちだ。
ゲートを旅立って会場の中心に躍り出る時、会場が拍手の嵐で揺れる時、僕の心は一番孤独を感じる。誰かに縋りつきたくて、助けてと抱きつきたくて。はやく、はやく音楽を。はやく僕を、僕から奪って────!
そうして刃は滑り出す。大音量の音楽と自分の中のイメージに縋り付くのだ。
音楽は僕を拒まない。だが抱きしめてもくれない。
それでもいつか、刃が氷を削るように、僕が僕の命を削って滑る意味が生まれるはずだ。僕を取り巻くこの全てから愛される日が来るはずだ。
音楽と共にあれば、この体を通して、僕のこころを世界中に明かしていれば、いつか必ず────。
「志麻。このプログラムを滑るための芯を見つけろ。お前の軸になるものを」
「
……
はい、コーチ」
そんなものは、ない。孤独な僕を支えるものなどどこにもない。
抱きしめてほしい。
どこにも旅立てない弱い僕を、毎晩闇に飲まれる僕を、風が吹けばくずれさるようなこころを。
どうか繋ぎ止めて。
裂けるこの身を、どうか救って。
♦︎
闇の中にいる。
怪物がいる。僕の身体を食べている。
痛い。
逃げよう。目覚めるんだ。
飛び起きた僕の背を汗が落ちていく。
剥ぎ取った布団から逃れようとして、あっと声が漏れ床に転がる。
左脚が、ない。
────どこへ行く気だ?
僕がいる。
見慣れた部屋にそれが立っている。ぼこぼこと泡立つ湾曲する瞳で僕を見下ろしている。
視界の中で、チカリとナイフが光った。
だから僕はナイフを握る。振るう。
赤いものが舞う。『彼』は苦しんでいる?
青くきらめくナイフには、彼と同じ恐ろしい顔の僕が写り込んでいた。
痛みが全身を駆け巡り、痺れを呼び起こす。
それでもいい。
だって僕は知っている。こころが裂かれる痛みより苦しいものなど、この世にはないと。
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