現パロ、高の仕事終わりを待ってる雑の話
表と反対側の世界へ堕ちる始まりの話
モブ視点 有名な思考実験書いてますがあんまり深く考えず読んでもらえると嬉しいです

むじな

 おかわりをください。あと、席を移ってもいいですか。
 そう言われて、私は咄嗟に「はい」と頷いた。今日は席が空いていて、二人用の席に一人で座ったとしても問題はなさそうだったからだ。駅前の、混雑する店だが珍しい空き具合に、私は掃除なんかに専念できるほど暇を持て余している。どうもありがとう。律儀に礼を述べて男性は二人掛けの席へ移動した。
 今は夕方で、もう少しで夜になる。薄暗くなる駅構内にまばらに照明がつき始め、この店先も明るくなってきた。その照明から隠れるようなひと席。私はコーヒーのおかわりをつぐために奥へ引っ込み、ふたたびその席へ赴いた。
 黒い液体を注いでいく間、男はスマートフォンをいじっている。大きな手でするすると画面を上下に動かす。トークアプリの真ん中で指を止めると静かになにかを打ち始める。私はコーヒーを入れ終わり、「ごゆっくりどうぞ」と伝えた。形ばかりの挨拶に、相手は打ち込む手を止めて、どうも、と言った。
 男は厚手のトレンチコート一枚で、マフラーもつけていない。なめらかな質感の手袋はテーブルの上に置き去りのまま、もう一時間は経つ。ここはドーナツショップなのにドーナツを頼まず、コーヒーだけで粘っている。けれどそういう客は他にもいる。私たちがとやかく言えることではない。美味しそうなものを目のまえに食指が動かないというだけだ。どこかで昼ごはんをたくさん食べてきたのかもしれない。
 男の生態にこう興味が湧くのも、ひとえに彼が──三ヶ月ほどまえから毎週この時間に来るからだ。そしてコーヒー一、二杯で一時間。そのあとに必ず立ち上がり、カップを返却棚に下げて去っていく。「今日も来た、あの火傷の人」、そう不躾ぶしつけに言う先輩の言葉が耳に残る。彼の顔面は半分ケロイドで、目は眼帯で覆われている。特徴的すぎるから、コーヒーだけでのんびりする姿がなんとなく、他の客より目立つのだ。
 ただ、今まで席を移ったことがない。初めてそういう行動を取った。そしてスマートフォンを開くのも初めてだ。いつもなら本を片手に過ごす。題材は様々で毎週違った。大抵分厚い本なのに、次の週にはもう別の本を読んでいて、勢いよく次々と教養を身につけていく彼をむしろ私は尊敬している。
 カバーもいっさいつけていないスマートフォンは傷ひとつなく、彼の手の中に収まって彼が文章を打ち終えるのを待っている。やっとトークアプリを終了して、それは画面を開いたままテーブルに置かれた。手袋同様、以降はしばらく放っておかれる。十八時を回る時計は、店内の雰囲気をやさしく反射して男の姿を映していた。
 と思ったら、そこにもう一人の男が現れた。コーヒーを飲んでいた男より若く、息を切らして走ってきた様子がわかる。
 陣左。と男が声をかけた。
 すみませんお待たせしました。いや、待ってないよ。コーヒーだけ、ですか。うん、そんなにお腹減ってなかったんだけど、ちょっと空いてきた。じゃあ買ってきましょうか。陣左の好きなのを買ってきなよ。
 やりとりをひとしきりしたのち、すぐに陣左と呼ばれた方の男がカウンターへやってきた。私は掃除を続けながら、連れの男の様子を眺める。カタカタとちりとりを動かし、ほこりを取り去りながら。彼の磨かれた革靴が、ドーナツの入ったケースに近づく。これとこれ、あとこれをください。正式名称を言いながら、律儀な男の連れもやはり律儀で、やけに多くのドーナツを皿に乗せて席へ戻った。丸い形、穴の空いた典型的な味のドーナツばかりをテーブルに置き、男二人でそれを手に取る。
 陣左が食べたいのはどれなの。いえ、その。ん、なに。雑渡様の食べたそうなものを、選びました。
 二人は一つのドーナツを半分に割る。穴の部分が半月のようになって互いの皿に置かれ、コーヒーを飲んでいた火傷の男は満足そうにほほえんだ。そのうち一つを手に取って、薄い唇の中へ放る。
「ドーナツの穴は、どこまでが穴だと思う?」
 咀嚼をし終えた男は話し始めた。
……解のない解、ですか」
「知ってたか、この話」
「昔、大学で」
「そうだった。お前は学歴がある男だったね」
 外見だけで判断すれば、いかにも男たち二人は学歴がある男である、と言えた。身だしなみに気を遣い、片方はケロイドがあるとは言え清潔感もある。平日の夜、この時間に一時間だけ来訪し、コーヒーだけを飲むというのも、まあ会社の勤務体制がフレックスで、そういうなにか、飲食業界にはわからない決まりで働いているのだろうと勝手に推測していた。もう片方の陣左と呼ばれた男も、細身の顔立ちで目の下に隈ができているが、仕事のできそうな雰囲気だ。
「こういう取っ手のあるカップも、言ってしまえばドーナツと同じと位置付けられる」
位相幾何学トポロジーですね」
 火傷の男は頷いて、話を続ける。
「穴が空いている物体だから、カップとドーナツは極論同じ物体と言える。もしもドーナツの穴がどこまでもドーナツの穴である、という存在なら、食べ終えてしまっても穴は残っていることになる」
 カップを割っても一緒だね、と男はつけたした。割るつもりなのかな、と私は身構えたが、そういうことではないようで胸を撫で下ろす。
……私は、このくらい食べたらもう穴としての定義は失っていると思いますが」
 陣左と呼ばれた男が、最後のドーナツを半分に割った。その半円の穴を指差している。ふむ、と火傷の男がうなった。
「つまり本体が欠けたら、その穴もないと?」
……はい」
「陣左は本当に、実直だねぇ」
 やれやれといったふうに、火傷の男は後ろ頭をかいた。困っている。一体なにに困るのか。私は聞き耳を立てながら、わざとゆっくり掃除を進める。
「そのために、今の世にも生まれております」
 陣左という男はストーカーかなにかなのかと、耳を疑った。しかし言われた方は嬉しそうに笑うだけだ。
「ドーナツの穴は、本体があって初めて存在するものね」
 火傷の男は最後の一切れを食べ終える。
「退職届は受理された?」
「はい、ここへ来るまえにようやく」
「三ヶ月も待ったね」
「申し訳ありません」
「いいよ、きっと有能だったから会社も手放したくなかったんだろう」
 黒々とした液体を飲み干して、目のまえの若者をじっと見つめる。
「私と、同じ穴の狢になるの」
 確認するように男が尋ねた。陣左という男はなんの迷いもなく、はい、と返事をする。
「あなたが欠けていた世界は、あまりに辛かった」
……熱烈だね。それじゃ期待に応えなきゃ」
 ごちそうさまでした。律儀な男二人は席を立ってトレーを下げる。私はお礼を述べて、「こちらで片付けます」と告げた。
「いい店ですね」
「こんなに職場から近いのに、初めて来たの?」
「はい。その……食べすぎて、しまいそうだったので」
「じゃあたまにデートで来よう」
 そう言い合いながら、自動ドアを抜けて二人は去った。
 ──その次の日の夜、店のそばのビルで大きな火災があった。遺体は一人、怪我人はいない。消防車が何台も出動した割に、すぐに忘れ去られる小さな事件だったが、私にとっては帰り道の途中にビルがあるから鮮明である。現場捜索のために貼られた黄色いテープが真新しい。亡くなったのはオーナーで、名前がニュースの片隅に載るくらいだった。オーナーの経歴を何気なく調べるとなかなかにずるいことをやっていたようで、SNSではまことしやかに、土地を転がし組や裏の世界を牛耳っていたのではと言われている。軽い恐怖を煽るようなコラージュ動画も載せられていて、私はゾッとした。
 ──その一ヶ月後、あの二人が今度は一緒に来た。コーヒーを頼み、ドーナツを買い、半分に割る。片方の男性はまえに言っていた通りよく食べた。火傷の男はそれを見ながらコーヒーを飲む。陣左と呼ばれる男は目の下の隈がすっかり取れていた。もしかしたら、転職でもしてまえより環境がいいのかもしれない。彼の右手をやさしくさする火傷の男の表情もやわらかい。
 陣左と呼ばれる男の右手には新しく、手首まで真っ赤な軽度の火傷の痕があった。






楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る──オスカー・ワイルド