焦りながらもようやく手首を拘束していた帯を断ち切った。ようやく両手が自由になったが、両腕は傷だらけだ。また傷が増えてしまったなと水木は苦笑した。
「ゲホッ……ゲホ……」
咳き込みながらドアを開けた途端、さっと熱風が頬を撫でていった。廊下は既に火の海だった。水木は懐剣を握りしめ、煙を吸い込まないように袂で口を押さえながら廊下を進んだ。
ここで死ぬわけにはいかないのだ。
火は恐ろしかったが、水木は必死にまだ火の手の回っていない場所を探した。痛みも息苦しさも恐怖も、今は感じない。ただ水木を突き動かすのは、この子を守りたい、生きてまたゲゲ郎に会いたいという気持ちだけだった。
その時だ。炎の音に混じって、かすかに声が聞こえてきた。まさか時貞か、逃げ遅れた客だろうか。水木は懐剣を構え、じりじりと声のする方へと近づいて行った。
そして、水木は見た。時貞を守るようにして取り囲む護衛たちと、先頭に立って相手とやり合う若頭の長田。その長田と対峙しているのはーーーー
(ゲゲ郎!!)
一体多数で明らかに不利である。おまけに護衛は銃をかまえているのに、ゲゲ郎は無防備な着流し姿だ。だが、狭い廊下での立ち回りにくわえ、長田が前方で時貞を庇っているため、迂闊に銃を使うことができないようだった。
「ええい、早う撃て!」
時貞が焦ったように喚く。だが、護衛たちはその命令を聞くかどうか迷っている様子だ。
ーーーーこんな地獄のような場所へ、ゲゲ郎は来てくれた。きっと水木を助けるために。
だが、なんとしても彼は生きて帰らなければならない。鬼太郎も組の人々も、彼のことを親としたっている人はたくさんいる。
(俺にできる最後の最善は、ゲゲ郎を逃がすことだ)
水木は羽織っていた黒留袖を脱いだ。一瞬ためらってから、服の端に火を付ける。また母を火の中で苦しめるようで気が引けたが、火は燃え移るとあっという間に着物に広がった。水木は廊下の角から飛び出し、その炎の塊を護衛の二人に向かって投げつけた。
「時貞、覚悟!」
護衛たちは服に火が燃え移り、悲鳴を上げて逃げ惑う。その隙に水木は時貞に駆け寄った。
「水木!」
時貞は驚愕に目を見開いた。水木はその見開かれた左目に、懐剣の切っ先を思い切り突き立てた。
「ギャアアア!」
時貞は悲鳴を上げ、もんどりうって倒れた。
「時貞様!――ぐっ!」
護衛たちが我に返った時にはもう遅い。水木が投げつけた着物の火が彼らの服に燃え移っている。火から逃れようと、彼らはばたばたともがいた。
「頭!」
「この女ァ!」
護衛たちが銃をかまえる。肉を断った生々しい感触の残る手が震えていた。とうとう一矢報いてやったのだ。
「逃げろ、ゲゲ郎!!」
水木は叫んだ。だが、ゲゲ郎は逆にこちらへ向かってくる。まだ護衛と長田が間に立ちはだかっているのに。
「この時を、ずっと待っていましたよ」
静かな声だった。しかし、聞く者の背筋を震わせるような、底冷えのする声音だった。
長田は対峙していたはずのゲゲ郎に背を向け、特殊警棒で護衛の男を殴りつけた。もう一人はゲゲ郎が刀で斬り捨て、時貞を飛び越えて水木のもとへ駆け付けた。
「水木!」
骨がきしむほどに強く抱きしめられた。もう二度と会えないと思っていたのに。血と炎と汗の香りにまじって、微かな白檀の甘い香りがする。それだけがいつもの日常を思い出させた。
「……ゲゲ郎」
水木はおずおずと血まみれの手をゲゲ郎の背に回した。ゲゲ郎の温かさが、鼓動が伝わってくる。ずっとずっと、会いたかった。こうして抱きしめてほしかった。
「帰るぞ」
言いたいことはたくさんあっただろうに、ゲゲ郎は短くそれだけを告げた。
ーーーーまだ俺には帰る場所があったんだ。
遠い昔になくしたはずのものが、またこの手に戻ってきてくれた。
「はい」
水木が頷くと、ゲゲ郎は穏やかに笑ってみせた。
その一方で、護衛たちが倒されてしまい、時貞は無防備そのもので火の粉の散る廊下に這いつくばっていた。
「ひいっ!た、助けてぇ!」
時貞は叫び、這うようにして逃げようとした。だが、その背中を長田が容赦なく踏みつけた。
「往生際が悪いですよ、頭」
時貞は血だらけの左目を押さえながら叫んだ。
「長田! よ、余を裏切るのか!!」
「そうです。この日をどれ程待ち望んでいたか」
にい、と長田は口の端を釣り上げて笑った。これまでの慇懃無礼な態度からは想像もできない、獰猛で血生臭い笑みだった。
「死ね」
長田は特殊警棒を振りかぶると、思い切り振り下ろした。ぐしゃりと嫌な音がする。
「あ……ああ」
もはや悲鳴すら上げることも叶わず、時貞はただ痙攣するばかりだった。長田は血で汚れた特殊警棒を投げ捨てると、懐から拳銃を取り出した。
「待たれよ」
ゲゲ郎は水木の体から手を離すと、刀を構えた。
「水木は下がっておれ」
有無を言わせぬ口調で言われ、水木は大人しく離れた。
「わ、悪かった。幽霊組の、余が悪かった。お前の妻をさらったのは謝る」
情けなく命乞いをする時貞を、ゲゲ郎は冷ややかに見下ろした。あれほど強大な権力をもっていると恐れ、怯えていた時貞は、怪我をおい情けなく命乞いをする萎びた老人でしかない。
「今更遅い。わしの妻を二度も奪ったその罪、万死に値する」
ゲゲ郎の刀が一閃した。時貞はばっさりと左肩から袈裟斬りにされ、血を噴き上げながらもんどりうって倒れた。
「お覚悟を」
長田は拳銃の照準を時貞の頭に合わせる。
「や、やめろ!やめてくれぇ!」
時貞は必死に命乞いをするが、その無様な姿に長田は思わず笑った。
「頭ともあろうお方が、なんと情けない」
そして、引き金を引く。乾いた銃声とともに、時貞の頭半分が吹き飛んだ。残った体はびくびくと痙攣していたが、やがて動かなくなった。
長田は拳銃を手にしたまま、ゆっくりとこちらを振り返った。
「お怪我は」
「……ない。水木も無事じゃ」
「それはようございました」
長田は笑った。晴れ晴れとした、まるで憑き物が落ちたかのような笑顔だった。
「では、手はず通りに。沙代様の件、頼みましたよ」
「ああ」
二人は短く言葉を交わした。長田は死体の足を引きずり、屋敷の奥へ向かおうとした。そちらは既に火が回っている。
「長田さん!」
水木が呼び止めると、長田は振り返った。彼の鳶色の目は水木を見て、それからその後ろの人影を捉えた。
「お姉さま、親分さん、もう火の手が回っております。お早く!」
沙代だった。水木たちを逃がそうとしてくれているのだ。
「ご無事で」
長田はそう言って水木たちに一礼すると、そのまま火の燃え盛る屋敷の中へと消えていった。
「さあ、行こう」
ゲゲ郎は水木のことを抱き上げた。正直に言うと、火のそばにいるだけで足がすくんでしまっていたのでありがたい。
消えていった長田の後ろ姿をじっと見つめていた沙代は、水木と目が合うとはっとしたように駆け寄ってきた。
「親分さん、火の回りが早くて……。もとの道はダメです」
「あっちじゃ」
ゲゲ郎は水木を抱きかかえたまま、別の方向を指差した。
「わしが先導する。しっかりつかまっておれよ」
そう言って走り始めた。火の中を突っ切り、煙に咳き込み、熱風に肌を焦がしながら進む。確かこの道は裏手にある台所へ通じる廊下だ。火の勢いは激しかったが、そこを抜けると、台所があり、勝手口があった。
ドアを蹴破ると、やっと外の空気が感じられた。火から遠ざかるために、屋敷から少し離れたところへ、三人は座り込んだ。
「ゲゲ郎……ッ!」
水木はゲゲ郎の首に腕を回してしがみついたまま、彼の名を呼んだ。
「なんじゃ」
「俺……っ、おれ……!」
言いたいことはたくさんあったが、うまく言葉にできなかった。だが、そんな水木の背を優しく撫でながら、ゲゲ郎は言った。
「……よく頑張ったな」
その一言でもう駄目だった。水木は嗚咽を漏らしながら泣いた。
「ありがとう」
命をかけて助けてもらうのは二度目だった。でも、今度は大切な人を失わずにすんだ。ゲゲ郎がこの腕の中にいてくれることが嬉しくて、とてもとても愛しいと思った。
駆け付けた消防車によって消火活動が始まったが、火の勢いはなかなか衰えなかった。屋敷を燃やしつくしてようやく火が消えたのは明け方のこと。焼け焦げた遺体がいくつも見つかった。
警察は仲間内での抗争の末に若頭の長田が火をつけたと発表した。その場にいた財界の大物や政治家たちは、大量の眠り薬とともに麻薬を飲んだことが発覚し逮捕された。前代未聞ともいえるほどの不祥事の発覚である。
これらのことを新聞やニュースで水木が知ったのは、ゲゲ郎とともに幽霊組の屋敷に戻り、すっかり体がよくなってからだった。
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