溶けかけ。
2025-03-03 22:19:59
1808文字
Public ほぼ日刊
 

窮鼠も猫も神しだい

水神暗殺計画が持ち上がったフォンテーヌ。
だけど、ヌヴィレットとフリーナは仲違いをしてしまい────!?

「ヌヴィレット!」
 その声に、ヌヴィレットはペンを置いて立ち上がる。この国に来て以来、この名を呼ばれない日はない。──いい加減、少しは減ってくれると助かるのだが。
 彼の脳裏に甘ったれな神の姿が描かれる。くだらない用件で呼び出されることにすっかり慣れてしまった。

「却下だ」
 ヌヴィレットはそれだけ言って立ち上がる。まるで、これ以上の話を聞く気はない、とでも言うように。
「へえ? 最高審判官ともあろうキミが敵前逃亡をするのかい? どうやら、僕は最高審判官の選出を誤ったみたいだ」
 フリーナが挑発的な言葉を彼の背中に投げつける。一歩踏み出した足を止めたヌヴィレットは踏み出した足を軸にして、くるりと踵を返した。
 朝焼け色の瞳が剣呑に細められる。
「フリーナ殿。君は自身の実力すら測れないのかね? あぁ、失礼。──たかが人間相手ですら私の後ろに隠れる君には無縁の話であったな」
 ヌヴィレットが手で口元を隠し、優雅に微笑んだ。フリーナの顔がカッと瞬時に赤く染まる。彼は尚も続ける。
「君がフォンテーヌの神であることに羞恥すら覚える。年若い神ですら、人に護衛を頼む者はいないだろう」
 二人の応酬は続く。
 その会話を盗み聞いている第三者がいるということに気付く者はいなかった。

 ──こんなことなら大人しく護衛を増やしておくのだった。
 フリーナは息をきらせながら背後へと首を向ける。追っ手の数は三人。それぞれの手には鋭利な刃物が握られていた。
王手チェックメイトです。フリーナ様」
「しまった……!」
 目の前には高い煉瓦の壁が聳え立つ。目の前の男が指笛を吹けば何処からともなく同じように武器を持った者たちが現れる。その数、実に数十。中には見覚えのある顔もあった。
「キミは……っ!」
「ええ。今朝はお世話になりましたね」
 フリーナと目があった男は恭しく頭を下げた。彼はフリーナが撒き散らして遊んだ書類を片付けていた目立たない職員だった。
「────…………どうやら、パレ・メルモニアの職員の面接方法を見直す必要があるようだ」
「ハハッ! これは面白いことをおっしゃる!」
 男の声に周りにいた男たちも笑い出す。
「あなたはこれから死ぬのです。そんな心配、する必要などなくなりますよ」
 男たちがゆっくりと近づいてくる。後退ったフリーナの背に硬い煉瓦が触れた。
「フフッ……。ハハハッ……!」
 フリーナが腹を抱えて笑い出す。男たちは困惑しながら顔を見合わせた。誰かの「狂ったのか?」という声が聞こえてきた。その声を合図にフリーナは笑いを引っ込めて、眦に浮かんだ涙を指で拭い取る。
「ハハハッ……はぁ……。まったく──まだわからないのかい?」
 フリーナが含み笑いを浮かべた。
「キミたちは嵌められたんだよ。他でもない、この僕にね」
 男たちが黙り込む。そして、どっ、と笑声を上げた。音の反射が滝壺のようだ、とフリーナは詮無いことを考えた。
「そりゃあ、面白い。いつも最高審判官様の後ろに隠れてるだけの貴女が何が出来るというのです?」
 男のナイフが月明かりにぎらぎらと反射する。
 新品特有の薄っぺらい輝きだ。きっと、殺したことも使ったこともないのだろう。
「僕にだって、プライドくらいあるのさ」
 男たちに背中を向ける。すぅ、と演技じみた動きで新鮮な空気を吸い込んだ。夜の湿った空気がフリーナの思考を鮮明にしてくれる。
 大丈夫。ここまでは全て予定調和だ。
 フリーナが人差し指を上へと向けた。指の先には建物に阻まれて欠けた月がいた。
「ヌヴィレット」
 控えめな声でフリーナがその名を呼んだ。彼女と男たちの間に月が落ちてきた──否、それは人だった。月を纏ったその人は男たちの視線からフリーナを隠すように立ち塞がった。
「な……!? なんで最高審判官がここに!?」
……無茶なことを」
「キミが来てくれるって信じていたよ」
 フリーナが悪戯っ子の笑みで笑いかければ、これ見よがしに溜息をつかれた。
「それより、ほら。キミの出番だよ」
 困惑する男たちにヌヴィレットは切れ長の瞳を向ける。とん、と杖をつけば不定形な水が彼らを覆った。
 静かな路地裏に地面を揺らすほどの足音が響く。
「終わったね」
「ああ」
 見慣れた制服の人々が駆けつける。



 水神暗殺計画はこうして幕を閉じた。