私達の新しい住まいは、モアモアハウスのときよりずっと簡単に決まった。「取っ手が取れそうなお部屋はなかったわね」と雫が囁いて、ふたりで笑った。
駅から徒歩7分の2DKのマンション。ひとつは雫の、もうひとつは私の部屋。それから広めのダイニング。部屋もベッドも別々にしようとふたりで決めた。互いに忙しくて時間も不規則だし、私達にとって睡眠不足は大敵だ。
でも最初の日は一緒に眠りたいな、と賃貸の契約をした帰りに話した私に、雫はふふっと笑った。
「朝、目が覚めたとき、一番最初に雫の顔が見たい」
「素敵ね。私は一番最初に遥ちゃんの顔が見られるのよね」
なんだか急に照れ臭くなって、繋いでいた手をぎゅっと握った。雫を家まで送った後、扉の影でこっそりキスをして、またね、と言って別れた。次に会ったときに帰るのは同じ場所。いつもなら寂しい別れ際が、その日は少しくすぐったかった。
***
ドアを閉めて、電気をつける。パチ、と小さな音の後、すぐに廊下は明るくなった。私が帰ってくるまで誰もいなかった部屋はどこかひんやりとしていた。
ドアの鍵をかけて、部屋にあがる。ダイニングの部屋の電気を点けて、廊下の電気を消した。オープンキッチンの水切りには伏せて置かれた雫のコップ。一度帰ってきたんだ、と、雫の残していった跡にほっとして、それからまた少し寂しくなった。
冷蔵庫に一枚、朝にはなかったメモが貼ってあった。
『冷蔵庫の中にプリンがあるから食べて』
見慣れた雫の字だ。少し字が右に流れている。急いで書いたのかもしれない。
冷蔵庫を開けてみたら、ちょこんとプリンが置いてあって、その下に小さなチラシがあった。プリンの説明書みたいなもので、それによるとこれは低糖質のプリンらしい。顔が自然と綻ぶ。明日はオフだし、明日ゆっくり食べよう。
同棲初日は一緒に眠ったけれど、それから別々に眠る日が続いていた。特に雫はドラマ撮影が始まって忙しくて、ろくに顔も合わせていない。今日も遅くなるとメッセージがきていた。
仕方ない、最初からわかっていたことだから。
そう自分に言い聞かせて眠るのは、何日目だったかな。会いたいな。せめて夢で、とも思えない。目が覚めた時の虚しさを味わいたくないから。
***
いつもより少し遅い時間に目が覚めて、最初に感じたのはいつもと違う背中への感触だった。
「……ん?」
ペンギンのぬいぐるみじゃない。暖かい。そして身動きが取れない。様子を伺うようにじっとしていると、私のものではない寝息が微かに聞こえる。後ろから雫に抱きつかれているんだと気付いたのはすぐだった。
雫、と口にしかけて慌てて止める。疲れている中、熟睡している雫を起こしたくなかった。
「……」
雫は私のお腹に腕を回して、ぴったりと張り付くように身体を寄せていた。首筋をくすぐる前髪や寝息、背中にあたる胸の柔らかさ。一度意識してしまうと穏やかな気持ちになんて戻れなくて、心臓がドキドキと高鳴りだす。
昨日、私がベッドに入ったのは11時くらいで、その時雫はまだ帰っていなかったから、少なくともそれ以降に帰ってきて、私のベッドに潜り込んできたということだ。きっと今日も朝早く出ていくだろうに、休息の場所に私の隣を選んでくれたことが、じわじわと沁み込んでくる。
お腹に回された雫の手をそっと包み込むように手を重ねた。こんなに雫と私の身体がぴったり重なるようにできてるなんて知らなかったな。胸のドキドキは収まらないけれど、それさえ心地良かった。
何時に起こしたらいいかな。雫は私がいつも起きる時間を知っている。もしその時間に一緒に起きるつもりだったとしたら、もう起こした方がいいのかもしれないな。どうしようか迷っているうちに、後ろで雫が身じろぎした。
「ん……」
「……雫?」
身体を傾けて顔だけで振り返る。雫はまるで猫みたいに私の背中にぐりぐりと額を押し付けた。
「……雫、今日は何時に出るの?」
ダメ元で聞いてみたら、ん、と唸った後、「6時……」とまだ寝ぼけたような声で答えが返ってきた。6時か、じゃあまだ余裕があるな、と思った瞬間、
「……に、現場集合……」
と付け足されて、さぁっと血の気が引いた。ここ最近の撮影現場だと1時間半くらいはかかるはず。
「ーーし、雫!」
がばっと起き上がって、雫の肩を叩く。
「……ん……」
「雫、起きて」
「……ん」
雫はまだ寝ぼけているのか、急に離れた私の身体を探すみたいに手を動かした。その手が私の太腿に触れて、安心したようにすり寄ってきた。
「……」
可愛い、けど、すごく可愛いけど、ここはちゃんと起こさないと。
またすぐ眠ってしまいそうな雫の頬をそっと撫でたら、ふにゃりとしあわせそうに笑った。ぽわぽわした私の大好きな笑顔。ーーでも、堪能している時間なんてないはず。
「雫、もう4時半過ぎてるよ」
「うん、平気……」
「え?」
「今日から30分くらいで着く現場だから……」
「……そうなんだ」
ほっとして力が抜けた。ふふっと雫が笑う。もうほとんど目が覚めてしまったらしい。
「ごめん、起こしちゃって」
「いいの」
またふふっと笑うと、雫はゆったりとした動きで起き上がって、それから勢いよく抱きついてきた。
「うわっ」
そのまま雫を抱き抱えて後ろへ倒れ込む。雫は私の上で顔を上げて、ふふっと幸せそうに笑った。
「遥ちゃん、今日はオフよね?」
「うん」
膝枕の体勢になった雫の頭をそっと撫でたら、気持ちよさそうに目を閉じた。こうして雫とふたりきりで過ごすのはずいぶん久しぶりな気がした。実際はそうでもないし、同棲するまでは数週間会えないこともザラだったのに。
「……あのね、遥ちゃん」
「なに?」
「もしよければ、なんだけど……、いつものランニングは私が出掛けてからにしてくれないかしら」
雫は少し頬を赤くして言った。だめかしら、と言いたげな少し不安そうな顔に笑顔を返す。
「そのつもりだよ」
時間が許す限りこうしていたい。そんな想いを込めて雫の前髪をかきあげた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.