この寂れた場所へやってきてどのくらいの時間が過ぎたのか。浜辺の岩の上に座って黄昏ている男は一瞬だけそんなことを考えたが、すぐに思考を放棄した。そんなのは瑣末なことであったと思い直したためだ。
どれだけ長くここにいようが、己が犯した間違いは消えないのだから。
いつも通りの晴れやかな空と澄みきった海の景色。だが濁りきった己の眼(まなこ)には、それが泥を混ぜたような澱んだ風景にしか映らない。ここ最近ずっと変わらず同じ景色を見ている。
世界はなんら変わっていない。変わったのは己自身と、大切な存在であった少女との関係性だけ。
「ーーもう二度と、私の前に姿を見せないで」
今まで聞いたこともなかった、地を這うかのように低く怒りに震えた声で、涙を滲ませた目で荒々しく睨め付けられながら言われた言葉だ。
この世に怖いものなど彼女の死以外、何もないと思っていたのに、彼女のその言葉は今までの苦難や試練よりも恐ろしいと思った。
完全なる拒絶。愛おしい存在からの有無を言わせない拒絶は、3000年生きてきた中で最も恐ろしいことであるとその時に気付いた。
なぜ、あんなことを言わせてしまったのだろう。他にできることがあったのではないか。
何度もそんなことを考えた。
*****
ーーマウイは、モアナとシメアに命の危険が迫った時、モアナを助けようと動いた。
あの時の、モアナの悲痛に歪められた表情は今も忘れられない。
彼女が妹のことを何よりも大切に想っていることは分かっていた。理解しているつもりだった。しかし、あの時の自分はモアナが一番だった。モアナを失うことの方が何よりも恐ろしかった。
結局は海の助けがありモアナもシメアも無事でいられたのだが、モアナの心境までは救うことが叶わなかった。
最後に見たのが、マウイをおぞましい悪魔かのように睨め付ける憤怒の顔だった。それ以上は耐えられなくなって、辛うじて謝罪の言葉を紡いでから鷹の姿となってモトゥヌイを去った。
所詮、自分は親から捨てられた子。そんな自分では、真に人を愛することなど出来ないのだ。だからモアナの気持ちを優先出来なかった。彼女の愛の上で胡座をかいていた自分に、相応の報いが来たのだ。
どこをどう飛んだのか、正直あまり覚えていない。ただ頭の中で、後悔の言葉だけがぐるぐると渦巻いて行き場をなくしていた。
*****
モトゥヌイにいた頃、マウイを見かけるたびに
「おーーい!マウイ!マウイ〜〜!」
と元気よく名前を呼びながら手をブンブンと振ってくれた。
マウイがモトゥヌイへの滞在に慣れた頃には、
「マウイ、今日の調子はどう?」
とこちらを心配する声かけに変わった。
マウイがモトゥヌイの村人たちにも受け入れられて、村人の一員のように扱われるようになった頃には、
「マウイも一緒にやろう!その方が楽しいよ!」
と、無理矢理にでも村の催しに誘われるようになった。
何度も2人で海を渡り、より一層互いの理解を深められた頃には
「あなたの全てが欲しい。私にはあなたが必要なの、マウイ」
と、モアナから気持ちを伝えられた。
まさに天にも昇る気持ちだった。
こちらから『愛している』と囁けば、
「私も愛しているわ」
と返ってきた。こんなに幸せなことは無かった。今までの人間たちから贈られた感謝のプレゼントより、モアナのその言葉が何よりも嬉しくて大切で、それ以上は何も望まないとさえ思っていた。
だというのに、
「あなたのことなんて、大っ嫌い」
「ーーもう二度と、私の前に姿を見せないで」
あの言葉達が、最後はこうまで変わるというのか。
*****
『……偉大なる神よ』
己自身も神だというのに、さらにその上に座す(おわす)偉大な神へ祈っていた。
『頼む…時を戻してくれ。彼女と、モアナと出会う前に』
そのためなら何だって耐えてみせる。もう一度1000年の孤独だって耐えられる。
今度こそは間違わないから。彼女との距離感、彼女とその他を護る方法を。
もう二度と、彼女の心に傷をつけるようなことはしないからーー
聞き入れてもらえるわけもないのに、この"石ころだらけのチンケな島"へやって来てから、毎日のように祈っていた。
あんなにも忌々しくてどうにか脱出をしたいと望んでいた場所に、自ら望んで足を踏み入れる日が来ようとは思いもしなかった。1000年の孤独をもう一度耐えたい、と願うが故にここへ無意識のうちに向かっていたのだろうか。
あの頃とは違い、テ・カァの影響がなくなった島には緑が増えていたが、それもマウイにとっては取るに足らない事である。
あいも変わらず濁った景色を無心で眺めていた。左胸に居座る相棒も今回ばかりは己と同じ気持ちのようで、ずっと静かに膝を抱えて顔を伏せている。
モアナがいない世界は、こんなにも色がない。世界が色鮮やかに輝いて見えたのはモアナのおかげだったと気付くのに、そう時間はかからなかった。それに気付いてしまうと、どうしても彼女への愛を手放せなくなった。ずっと胸の真ん中に、彼女への愛が留まっている。行き場を無くしたこの愛情を、モアナと初めて出会ったこの場所で抱え続けている。
気がつけば夜になっていた。これもいつもの事である。無意な時間が過ぎていくだけのこと。
いつか、偉大な神が気まぐれでマウイの願いを聞き届けてくれるのを待つだけ。それしか出来ることはない。
ありがたいことに、夜の間は景色が濁っていることが分からないので精神的に楽になれる。暗闇はどこまでいっても暗闇なのだ。この闇の時間は安寧の時のように、マウイの心を少しだけ癒してくれる。
見慣れた星空。それを眺めていたら、気がつけば東の空がほんのり明るくなりつつある。
東雲はあまり好きじゃない。美しい風景だと思うのだが、また長い1日が始まることを告げるサインでしかないからだ。また暗い翳を感じる景色を無意に見つめる1日が始まろうというのだ、気持ちは沈む一方である。
だが、いつまでも同じ日が続くとは限らないようだーー
背後から、感じるはずのない気配を感じた。
咄嗟に臨戦態勢に入って後ろを振り返ると、マウイは眼球が落っこちるくらいに目を見開いた。
「…マウイ」
忘れられない、燻った愛情の要因である、今もなお愛している少女がそこにいた。
*****
マウイへ声をかけた場所から、一歩も動かずにモアナは彼を見つめ続けた。
なぜ、ここにいるのか。疑問が頭には浮かぶのに声が出せない。口を開くのが怖かった。また拒絶をされてしまうのではないかと、心が怯えていた。
先に動いたのはモアナだった。
彼女はその場に膝をつくと、そのまま上体も前に倒して頭を伏せた。
「…ごめんなさい…っ」
彼女から、謝罪の言葉が聞こえてきた。
「私のせいで…シメアが危険な目に遭ったのに、私を助けてくれたあなたに対して、全てあなたのせいにして責めてしまって…本当にごめんなさい…」
モアナの肩が、震えていた。泣きながら、嗚咽をあげながらの謝罪であった。硬い岩に爪を立て血を滲ませながらのモアナの謝罪に、流石のマウイも黙っていられなかった。
体が勝手に動いていた。モアナとの距離をつめて、伏せられた体を持ちあげて血だらけの手を掴んだ。爪が何本か剥がれかけているようで、その痛ましい有り様に労る気持ちが芽生えてその手を包む。
「なんてことをするんだ」
「…こんなの、大した痛みじゃないわ。私があなたに与えたものに比べれば軽いくらいよ。もっと罰を受けないと、ダメなの」
「やめてくれ。俺はそんなこと望んでない。罰を受けるのは俺のほうだ」
「違うわ、ちがうわ……」
モアナが大粒の涙を流しながら首を振った。真珠のような珠の涙がハラハラと散り、彼女の手を包むマウイの手に落ちる。なぜこんなにも泣いているのか不思議でならなかった。
今もなお大量の涙をこぼす瞳がマウイを見上げた。必死な表情で、あの時よりも悲痛な表情で、マウイに訴えかけるようにモアナが言った。
「あなた、ここへ来てから海に釣り針を捨てたでしょう!?あなたの誇りの釣り針を…っ!なんでそんなことをしたのか、あなたの姿を見てから、分かっちゃったの…ッ」
嗚咽まじりに、悲痛な叫びのようにモアナが言った。…まさか、釣り針を捨てたことまで知られているとは思いもよらなかった。
ここへ来てからもう何処にも行くつもりが無かったのと、モアナがいない以上、神として成せることは既にないだろうと判断したうえで、ありったけの力をこめて釣り針を投擲していた。
海も釣り針をこちらへ持って来なかったから、これが正しいのだと思ってそれから気にも留めていなかったが、まさかモアナの手元に行っていたのか。
「なんでそのことを知ってるんだ?」
「…舟を走らせている途中に、海が持ってきてくれたの」
ーー本当に、海って奴は余計なことをする。悪態をつきそうになったが、とりあえず他にも気になることがあったのでそっちを優先した。
「…そうしたら、お前はいつからここに?」
「…夜中のうちに、ここの反対側に舟を寄せたのよ。あなたを見つけたけど、声をかけられなかった。怖くて…。今にも、闇の中へ溶けていきそうな雰囲気だったから…」
肩を震わせて、マウイの手に縋るように涙をこぼすモアナ。いつもの活力に満ちた彼女とは程遠い憔悴しきった様子に、こちらが落ち着かない気持ちになった。
モアナは、こんなにも不安定なところがあったのか。彼女のことを何でも知っている気になっていたが、それがただの己の驕りであったことに今気付かされた。
「私があんなことを言ってしまったから、マウイは…ここに来たのよね…?釣り針を捨てて、忌々しい記憶しかないこんな場所なのに、それでも閉じ籠ろうと思ったのよね…?」
その質問に答えられなかった。答えてしまうと、彼女を責めているようになってしまう。口を噤むしかなかった。
そんな様子のマウイに、さらに痛ましい表情を浮かべたモアナが、耐えられないと言わんばかりに慟哭をあげた。
「わたし、ここへ来てやっと自分の犯した過ちに気付いたの!どれだけマウイを傷つけてしまったのか…!あなたの心の傷を知っていたのに、その傷を抉るようなことをしてしまった…!」
ごめんなさい…!
子供のように泣きじゃくり、マウイの手に額を触れさせて懇願するように謝罪をするモアナに、マウイはどうすればいいのか分からず固まるしか出来なかった。
『ーーあなた、私がどれだけシメアを大事に想っているか知ってるわよね!?なんでシメアを助けようとしなかったの!?』
モアナが言う、マウイの心の傷を抉ったという発言である。
モアナが妹のことを大切にしていることは分かっていても、『子を想う母のような愛情』がどれだけ苛烈であるのか分かっていなかった。
自分には、その記憶がないから。
その劣等感を、己の不完全さを、どうやっても埋まらない心の穴を、モアナの糾弾の言葉でまざまざと見せつけられた。
自分が愛されていないから、モアナの気持ちが分からなかったのだ。少しでもモアナのように肉親から愛され、慈しむべき存在が自分にもいたのなら、モアナではなく小さくて護るべき存在であったシメアを助けられたのだろう。
全ては、己の未熟さが招いた結末である。
モアナのことを許すも何もないのだ。
「…とにかく、手当てしよう」
何を言えばいいのか分からず、とりあえず一番気になることから手をつけようと思った。そのままにしておくことをマウイが出来そうにない。彼女への愛が心の中にある限り、彼女に無関心を決め込むことは不可能である。
立ち上がってモアナの手を引こうとした。が、彼女が巌のようにその場に留まって立ちあがろうとしなかった。今までのふたりなら、そのままモアナを抱き上げて無理矢理にでも運んだだろう。だが今のふたりはそんな関係に値しない、すでに終わったふたりだ。マウイは困り果ててモアナを見つめることしか出来なかった。
「…モアナ、立てるか?」
「……」
「…なら、ここにいてくれ。薬草を摘んでくるから」
はらはらと涙をこぼすばかりで、モアナとの会話が成立しない。ならばとその場をマウイが離れようとしたら、今度はグッと力を込められて手を離そうとしない。
これにはさすがに困ってしまい、マウイはもう一度屈んでモアナと視線を合わせた。
「モアナ、一緒に薬草を取りに行くのかここに残るのか、どっちか選んでくれないか?」
「…ごめんなさい」
「謝って欲しいわけじゃないんだ。俺はお前のことを心配しているだけで、責めてるわけじゃない。分かってくれるか?」
…こくり。彼女の涙に濡れた顔が縦に振られた。
「…一緒に行く」
「そうか。なら立てるか?」
もう一度、重たげに頭が揺れるのを確認してから再び手を引いて立ち上がった。今度は素直にマウイの力につられてモアナも立ち上がる。
そのまま手を繋いで目的の場所へ歩き出した。
*****
「…ありがとう、マウイ」
「……いいさ、このくらい」
モアナの爪の手当てを済ませた。
薬草の群生地はマウイが黄昏ていた場所からさほど離れておらず、場所を移そうとも殺風景なことに変わりはなかった。
葉の繊維を糸のように使い、剥がれかけのモアナの爪を固定し終えた後に先の言葉を聞いた。
まさか、モアナの口から感謝の言葉をもう一度聞ける日が来ようとは思いもよらず、マウイは素っ気なく返事をするしか出来なかった。本当は心が温かくなり、筆舌に尽くし難いほどの歓喜の情が迸ったが素直な感情を出せなかった。
ーーさて、この後はどうしたらいいものか。
爪の手当ての後はどうするのか何ひとつ考えていなかった。目の前で、未だに愛おしく想う女が怪我をしたから放っておけなかった。ただそれだけで行動していたため、この後のことを思い描けていない。
どうしたものかと逡巡していると、先に動いたのはまたしてもモアナだった。
「…マウイ、さっきの話だけど…」
と、また話をぶり返すようだ。その話をしたところで、自分の罪は消えないしモアナを責める気持ちなど生まれないのだから、正直もういいのだがーー
「私の自惚れならごめんなさい。マウイがここへ来たのって、私があんなことを言ってあなたを傷つけてしまったせいよね?こんな場所へわざわざ戻ってきたのは…私のせい…よね?」
こんなの、どうやって答えたらいいのだ。
どう言ったってモアナを悪者にしてしまう。それはマウイの望むことではないのだ。
「……お前は何も悪くない」
結局、モアナが納得しないであろう返事しかできないのだ。
「…ごめんなさい…」
聡い彼女は、謝ることしかしない。そんなわけないとマウイを詰めることも出来るのに、あえて口を噤むマウイの意図を分かっている。自分がそうさせていることも。
苦しい。自分は何を選んでもモアナのことを苦しめることしか出来ない、そんなこの状況が苦しい。なぜここへ来たのかと、お門違いにもほどがあるのに叫びたいほどーー
(…そもそも、モアナは何をしに来たんだ?)
失念していた。マウイに対して烈火の如く怒り狂っていたモアナが、一体ここへ何しに来たと言うのか。気付いてしまえばそこが気になり、話を少しでも逸らすために問うていた。
「それよりも、お前はなんでこんなところまで来たんだ?航海の途中だったのか?」
目の前で正座をしているモアナがマウイと交わしていた視線を外して俯き、膝上に置いた拳がスカートを握りこんだ。
「…あなたに、モトゥヌイへ戻ってきて欲しくて…探していたの」
ぽたり、とモアナの拳の上で涙が跳ねた。再び涙をこぼし始めた彼女が、両手で目を覆うようにして語り始める。
「私がマウイに取り返しがつかないことを言ったのは分かってる…。許してもらうつもりで、あなたを探したんじゃなくて、私たちの島にいて欲しいの…。こんな、寂しい思い出の場所に、あなたに居てほしくないの…」
嗚咽まじりにモアナが辛うじてそこまで言うと、あとは言葉にならなかったようで泣き声だけをこぼす。
これもモアナの優しさなのだろう。忌々しいこの島に閉じ籠ろうとしたマウイを憂い、そうさせてしまった自分の言動を心の底から後悔しているのは分かった。しかし、あの時のモアナの言葉で自分の未熟さを痛感した以上、素直に戻りたいと思えなかった。
またモアナを、モアナの大切なものを傷つけてしまったらと思うと、あの優しい島へは戻れない。
「…モアナの気持ちは嬉しいが、やっぱり俺の居場所はモトゥヌイじゃない。俺は不完全な存在だからな…あそこにいてはまたお前を傷つけてしまう。俺は、モトゥヌイに滞在しちゃいけないのさ」
「…ちがう。マウイは私のことを助けようとしてくれた、傷つけようとしてない」
「そのつもりが無くても傷つけたッ!俺ではお前も、お前の大事なものも護ってやれなーー」
最初に感じたのは、饐えたような汗と蓄積された体の汚れの臭い。そして体には、いつの間にかモアナが抱きついていた。
久方ぶりの彼女の温もり。それは想像以上に温かく、強張った己の体も心もほぐすような優しい温もりであった。
不安で、怖くて、どうすればいいのか分からなくて、どうしようも無かった現状が、一瞬にして霧散するような包容力のある温もり。
未だに胸の奥底で燻っているモアナへの愛の火種が、彼女からの拒絶や憎しみの眼差しの恐怖を凌駕して盛んに燃えようとしている。
モアナを前にしても、再び傷つくことを恐れてその気持ちに蓋をしようとしたのに、もう出来そうにない。
自然と、マウイの目から涙が一筋流れ落ちた。
「ーーマウイ。もう私にこんなことを言える資格はないって分かってるけど…分かってるんだけど、聞いてくれる…?」
互いに涙で濡れた瞳で見つめ合った。
東から昇る太陽の光を受けて、宝石のように輝くモアナの瞳に魅入った。
顔は涙でぐちゃぐちゃ、肌も碌に手入れをする暇がなかったことが窺えるくらい荒れていて、おまけに鼻水も垂れた不細工な有り様なのに、今までで一番美しいモアナだと思った。
「わたし、今もマウイのことが大好き…あなたのことを愛しているわ。わたしには、あなたが必要なの」
今この瞬間は、夢であろうか。泡沫の夢でも見ているのか。彼女の温もりを感じ、視線も交わっているというのに、あまりに自分に都合のいいことばかりが起きて現実を受け入れられない。
固まるばかりのマウイにモアナはさらに続ける。
「虫のいいことばかり言ってごめんなさい。マウイはもう、私のことなんて何とも思っていないのは分かってる。でも、私はやっぱりあなたを忘れられない。あなたが大切なの…」
ギュッと、モアナの腕に力がこもる。マウイの胸に頬を寄せて、精一杯に気持ちを伝えようとしてくれている。そこでやっと、これは自分の都合のいい夢でないことを理解した。
理解ができると、涙が滝のように溢れ出した。左手で顔を隠すようにして涙を拭こうとしたが無謀だったようで、拭いきれなかった涙が砂埃で汚れたモアナの髪に落ちる。
奥歯を噛んで堪えていた嗚咽が漏れて、モアナがマウイの様子に気付いて顔を上げた。
モアナの両手が、マウイの左手を顔からゆっくりと剥がす。再び、涙で濡れた互いの瞳を見つめ合った。
「…マウイは不完全な存在なんかじゃないわ。みんな少しずつ、足りないところがあるものよ。私にもあるわ。だから、その足りないところを補い合いたいの、あなたと」
「……俺なんかで、本当にいいのか?」
「マウイがいいの」
ーー太陽のような、暖かな微笑みがマウイに向けられた。
もう、モアナと出会う前に戻りたいと願うことはないだろう。
涙のおかげで泥が落ちたのだろうか。
マウイの濁りきった世界が、再び色鮮やかに輝き始めた。
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