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霞
2025-03-02 20:43:26
4629文字
Public
★【2023.03.22-23】展示小説
円が退院した日の話です。
※桃円/恋愛要素ほぼ無し/巴家や学校生活について捏造あり
※野球・方言の誤りがありましたらすみません…
金属製の外階段を一段飛ばしで駆け上がった。そのドアの前に立つと、甘い匂いがした。
今日、円が退院した。
玄関の呼び鈴を押すと、いつものチャイム音とボタンが軋む音がした。
「おォ、待っとったで!」
すぐに飛び出してきた相棒に、今までの心配が爆発して殴りかかってやろうかと一瞬体が動いたが、円の顔を見た桃吾は次の瞬間には喜色満面で「おん!」と返事をしてしまった。
「六限やろ、早かったのォ。そないわしに会いたかったんけ」
円は食卓の上を片し始めた。プリントの山を端に寄せ、コンセントを繋ぎっぱなしにした学校用タブレットの画面をオフにして山の上に載せた。
円と澄子は午前中に帰ってくると聞いていたが、今は澄子は不在のようだ。
甘い匂いが漂う中、昼食の名残りなのか薄らとだし醤油のような美味しそうな匂いもする。
「ほれっ、おやつあんで」
円は台所のケーキクーラーもとい揚げ物の油切り網の上に一つ残してあったカップケーキを指差した。
「ナイス! そういや腹減ったわ!」
円が皿を手に取り、桃吾は「紙でええで」といつも通りキッチンペーパーを取ろうとしたが、円はにこにこしてカップケーキを皿に載せて桃吾に出した。
「澄子作ったんけ。中もなんも入ってへんやんけ」
「シンプルなのが結局一番美味いで。何か飲むけ?」
「まだ水筒中身あるわ」
素朴なケーキを味わいながら、相変わらずな巴家を見回す。
昔は我が家と比べ、「円んち貧乏なん?」と心配した事もあったが、殺風景ながら整っていて二人の穏やかな暮らしが感じられるこの家が桃吾は好きだった。
ちらりと円に目をやり、ごくんと最後の一口を飲みこむと、桃吾は皿を持って立ち上がった。
「おォ、流し借りるで」
「ええで、そのままで」
「退院祝いや」
「おっ? ありがとな」
流水がステンレスの流しを叩く。
「ちゃうねん、退院祝い、あるねんけどな」
「えっ、あるん?」
「あるけど、ほんまお前
……
」
すすがれた泡がくるくる回って排水溝へ流れ落ちる。
「あるねんけど、お前ほんまに
……
!」
改めて感情が昂ってきた桃吾に珍しく円がなんと言い返そうかと一瞬間を開けると、すかさず桃吾が続けた。
「はー
……
、ほんでお前、眼帯取れてへんやんけ」
皿を振って水切りカゴに立てかける。
円の右目にはまた大きな絆創膏のような眼帯が貼られていた。最近はずっと付けていなかったのに。
「おォ、取ってもええんやけど。慣れてもうて」
最後の手術からだいぶ日が経っていたが、この二、三日は検査やらややこしい点眼薬やらで、また眼帯をしていたらしい。
「ほーん。そんなんで学校行けるんけ? 明日からやろ? キリ良く来週からでよかったんちゃうん?」
「十分休んだわ。ちょっとずつ慣らすだけや」
桃吾は流しの脇に掛けられたタオルで手を拭きながら、むず痒そうに少しだけ顔を顰めた。
「桃吾と学校一緒なら良かったんに。助けてくれるやろ」
円も立ち上がると、桃吾の隣に来た。
「これ、今日、桃吾が来てから剥がそうと思っとってん。ちょお、外行こうや。キャッチボール!」
「はあ? 絶対危ないやんけ!」
ボール遊びができる公園は少し遠いからと、円は桃吾を近くの小道へ呼び込んだ。
「学校、サプライズで登校すんねん」
住宅の入り組むこの道は、車どころか人通りも少なく、クラスメイトにも会いそうになかった。
「みんな知ってんちゃうん、お前来る日」
「先生、バラしてもうたかな」
桃吾の学校にもチームメイトはいたが、少なくとも彼らにはまだ話は届いていないようだった。
「ほれ、西陽キツイ時間やけど、ここ日陰んなってええやろ」
「お前、全然ボール触ってへんの?」
「ちょお握ったりはしたけど、投げれる場所あらへんし。ベッドでボール触っとって転がり落ちたらアカンし。いっつも床キレイに掃除してもろてたけど、病院やでアカンやろ」
円は家から持ってきた子供の頃に使っていた柔らかいボールと、硬球を両手でにぎにぎとして感触を確かめている。左手には先日見舞いで見せてもらった義指をつけていた。
「ほーん
……
。ちゅうかそのぷよっぷよの球、なんなん、劣化で爆発せんやろな?」
「どんなボールやねん」
二人はまだ高校の物理で不可解なボールに悩まされる未来を知らなかった。
桃吾は持参した自分のグローブを脇に抱え、先ほど円の家から持って来た円のグローブを眺めて、円に手渡した。
それは土埃も落とされ、ワックスでほどよく艶々としていた。
円はグローブと硬球を足元に置くと、柔らかい方の球を軽く真上に投げ、片手でキャッチするのを何度か繰り返した。
「おォ、おォ、ええで」
自分の頭を大きく超える高さに投げた。
「おっ、おーこわっ」
ギリギリ両手で受け止めた。
「おん、声出すなって」
人通りは少ないが住宅街だ。幼い頃、時おり澄子と雛家のオカンの立ち話が終わるのを待ちながらここで遊ぶ事があり、一度近所の住民に注意された事があった。
「そやな」
「ちゅうて、明かりがついとる家、あんま無いな」
ここらは円が生まれた頃に売り出された新築分譲区画で、円たちより少し年上の子供がいる家が多い。
「おォ、その辺おってくれ。まずは近くでやろうや」
円は何歩か離れて振り返った。
二人とも軽く肩を回したり、腕や手首を振ったりしてからグローブをはめた。
「ほんま人おらんやん」
「ユウ君とか高校生やしな。まだ帰ってへんのちゃう」
円がふわっと上投げでボールをパスした。
「全然会わんくなったな」
桃吾がボールを受け取ると、同じように円に投げ返した。
「うわっと、
……
お、おん、取れた!」
一発でキャッチでき、驚いた顔で桃吾にグローブで掴んだ球を見せた。
「そんなん取れて当たり前や」
桃吾は一瞬感心したが、円からの球を雑にキャッチしてすぐに投げ返した。
またしても円はグローブに収め、にっこり笑って桃吾に投げた。
その調子でもう一往復、二往復。
「トモ君とかほんま会わん」
「俺、駅で会うたで。バイト行くっちゅうとった」
「そや、ハルちゃんマクドでバイトしとるらしいで」
ボールも会話もテンポよく往復する。
「誰や?」
「噴水の公園でいっつもスケボー爆速しよった、二個上の」
「あー、おったな」
「みんな大きなってもうて
……
」
「誰やお前」
「そや、アオイくん茶髪やったで。変わったのぉ」
「
……
お前なんか、指無ぉなったし」
「そやのォ、変わったのぉ」
ぱすんっと気の抜けた音を立てて、桃吾のグローブが球を受け止めた。
(
……
こんなショッボいボール、へろっへろに投げて)
まずは退院を喜ぶべきだし、こんなにスムーズにキャッチボールできるのは大したものだ。元の運動能力や練習で染みついた感覚があるおかげだろう。
円だから今こうしてキャッチボールができているのだと分かっているが、怒りなのか何なのかふつふつと腹の中が沸いてくる感覚が収まらない。
「おォ、もうちょい離れるで」
円の声に顔をあげてそちらを見ると、円はぺろんと眼帯を剥がした。
桃吾は一瞬、ぎょっとしたけれど、円のいつもの目が、にっと歪んでほっとした。
赤らんできた夕日が、もともと赤っぽい円の瞳を綺麗なオレンジに照らした。
円は桃吾に背を向けて少し駆け足で離れていくと、迷わずそこで止まった。
測らなくてもわかる。
マウンドとバッターボックスの距離。
円は軽く振りかぶって投げた。
「おっ!?」
先ほどよりブレのない球を受け取り、桃吾の声が少し跳ねた。
けれど円は、緩く投げ返された球を少しの差で捉え損ねた。
ぎこちないながらもキャッチボールを続けていく。
「んー、眼帯取った方が距離感分かるけど、取ったら取ったでムズイわ」
そう言いながら円はボールを硬球に持ち変え、握り方を確認しはじめた。
桃吾は心配になったが、円の集中力を感じて口を閉じた。
「行くどー?」
円が急に強く球を放った。
円のフォームは変わってない。
もちろんキャッチボールなのだから打席で見るものとは別物なのだが、大事なここ一番の球のような、慎重さが乗った投げ方にハッとした。
本調子ではないけれど、気持ちが伝わってくるみたいだ。けれど、届いた球は元の円の球とは速度もコントロールも程遠い。
「
……
おォ。ちょお手加減したるけど、俺ももうちょい強く投げたるわ」
桃吾も少し強めに投げた。
「うおっ!」
円は大きな声を出しつつも、グローブの中央でしっかりとキャッチした。
「取れたけどっ、エグいわー」
また強く、一往復。
「んー、まだちゃうのォ」
「でも取れとるやん」
何往復しただろうか。
少しは良い音が鳴るようになってきた。
指も目も、特別な手術で治らないのかだとか、思い通りに動かせる義指とか何か良いものは無いのかだとか聞きたいけれど、桃吾は口に出さないでいる。
もう少しだけ力を込めて、ビュンッと円に投げる。
「こわっ!」
かなり怖くて、円はつい声を漏らした。
投げ返し、また投げ返される。
「こわ
……
」
ぼそっと漏れる。次はわざと声に出してみた。
「むっちゃこわー!!」
冷たい空気に明るい声が響く。冷えた塀に届き、反響して震えた。
「おォ、黙ってやらんかい!」
桃吾はそう乱暴に言ったが、いつの間にか顔熱くなってきているし、涙が目の縁いっぱいにたまっている自覚があった。
(
……
円、今視力どんだけなんやろ、この距離なら見えへんか)
円の頭の中もぐるぐるしていた。
病気が分かった時。
何度もの検査とその結果を待つ間。
切断が決まった時。
手術の前。
指のなくなった手を見た時。
――
桃吾に、約束をやめようと言った時。
それが今、桃吾とこうしている。
振り切るように、まだ暑くなる前にいつものグラウンドで桃吾とキャッチボールをした時ぐらい強く球を投げ返した。
「円、明日! 学校行く前また寄ったるわ、肩あっためて学校行け」
円は桃吾にも見えるように大きく首を傾げた。
「明日体育ないらしいねんけど」
「ええやろ、肩ん調子良くて困ることなんかあらへんで」
「桃吾、お前朝練ーーは無いんやっけ」
桃吾はグローブの手の平を拳でドンドンと叩いてしゃがんだ。
「お?」
「おん、危ないけどな。お前、加減せえよ」
そう言うと、グローブをキャッチャーのように構えた。
「ほたら行くどー!」と、少し震えた声の割に、桃吾のグローブに強めのストレートが飛び込んできた。
夕日はあっという間に沈み、二人のそばの街灯が点いた。
昔は白熱電球だったけれど、いつだったかに替えられたLEDが、はよ帰らなあかんで!とでも言うかのように二人をけたたましく照らした。
円が桃吾の所まで戻って行った。
「あーあ。
……
円、おかえり!」
「おん、また、よろしく頼むで!」
円は桃吾の目を覗き込んだ。
桃吾は後ずさりしそうになったが負けじと腕組みをして目を合わせた。
「なん
……
、何なん?」
(こいつホンマ距離近いねん。俺がおらんくて平気なんやろか)
円は桃吾の目元がやっぱり赤くなっていたことに胸が痛んだ。
(桃吾て、あっちゅう間にごっつい決断する根性あんのにおもろいやつやわ。わしがおらんで三年も大丈夫やろか)
それでも、桃吾の瞳に映っている自分は、いつも通りの笑顔になっていた。
おわり
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