千代里
2025-03-02 09:15:37
10010文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その46


 見知らぬ貴族の令嬢を護衛する。そのような依頼をされたとして、もし依頼主がピヌヌでなかったら断っていただろう。
 昨日、ピヌヌの話を聞いた後、ノエはそう語っていた。
 彼は、貴族の持つ薄暗い側面をよく知っている。御伽話に出てくる如何にも悪人といった貴族はおらずとも、自分の地位のために他者の命を踏みつけることを厭わない者もいることを、ノエは父の一件でよく知っていた。
 実際、ピヌヌと話をしている場面でも、ノエは何度か渋い顔を見せていた。
 だが、オデットは「わたしはやってみたいです」と主張した。
「だって、これはわたしにしかできない仕事なのでしょう。ただの話し相手かもしれませんが、わたしのお仕事として頑張ってみたいです」
 貴族の屋敷ならば、オデットが苦手としている司祭の男性もいない。ノエではできず、自分ならできるという依頼の内容は、オデットの中に芽生えつつある自立心を、大いに盛り立てるものであった。
 実際、オデットはノエと引き離された今も、特段不安を覚えることもなく、依頼主――アガテル・ド・ルグロの後ろについていっていた。
 彼女の先導により辿り着いた先にあったのは、とりわけ豪奢な細工が施された扉だった。
 同行していた執事が扉を開くと、そこには先ほどと同じように春の花畑を思わせる豪華な内装の一室が三人の少女を出迎えた。
「ここでいいわ。あなたは、先ほどの客人の様子を見てきてちょうだい」
「お茶の用意はいかがしますか、お嬢様」
「ああ……そうね。適当に用意してちょうだい。茶菓子も好きなようにしていいわ。わたくしは、今は何か食べたい気分じゃありませんの」
 アガテルにとって、お茶の指示はあくまで自分が楽しむだけのものだったらしい。
 執事の提案を受けて、漸く思いついたと言わんばかりの様子で返事をすると、令嬢はさっさと部屋の中に入ってしまった。
(こういうのって、執事や召使いの方がずっとお嬢様に連れ添っているいるものかと思ったのですけれど……
 オデットの予想とは裏腹に、執事は恭しい一礼だけを残して、部屋を出ていってしまった。
 残されたオデットとゲルダは、このまま部屋に入っていいものかと、所在なさげに出入り口のあたりに立っていた。
「いつまでもそんな所に立っていないでちょうだい。あなた、一応わたくしの話し相手として雇われたのでしょう。あなたは立ったまま話をするつもり?」
 アガテルの指摘に蹴飛ばされるようにして、まずはオデットはおずおずと室内の奥へと足を踏み入れる。続けて、ゲルダがオデットの後を雛鳥のようについていく。
「オデット。なんだか、足がふわふわする」
「すごく柔らかい絨毯ですね。靴のまま入るのが申し訳なくなります」
 宿屋の硬い木の床や凍りついた地面を歩くのに慣れていたオデットには、毛足が長く、彩り豊かな織りの入った絨毯の上を歩くというのは、絹のドレスの上を土足で踏み荒らすような罪悪感を覚えさせた。
 もっとも、さすが貴族というべきか。アガテル本人は何を気にする様子もなく、室内にあるソファに腰を下ろしていた。
「ほら、あなた方もそちらに座って、わたくしに顔を見せなさい。さっきは慌ただしくて、よく見れなかったのですもの」
 扇子で対面のソファを指すアガテルに促され、オデットは腰を下ろす。同じように隣に座ったゲルダのスカートの裾を直し、何気なく顔をあげる。その視線の先に広がる部屋の豪華さに、オデットは本日何度目かの目眩を覚えそうになった。
 先ほどの面会用の部屋は内装こそ華やかではあったが、調度品は最低限のものしかなかった。
 だが、ここは屋敷の主人のの寝室と私室を兼ねているのだろう。
 天蓋つきのゆったりとした寝台、身だしなみを整えるための鏡台、何気なく置かれた文机から、今座るように促されたソファの前に置かれたローテーブルまで、どれも最高級の品とわかる調度品が並べられている。
 ノエの言ったように、この部屋や屋敷全体が一つの完璧な芸術品のようだ。
 その芸術品の中の住人とするには、オデットもゲルダもあまりに浮いている。だが、それを言うなら目の前の少女もそうだろう。彼女の喪服のようなベールは、春のような部屋の中に落としたインクのしみのようだ。
「顔をよく見たいと言っていましたが、わたしたちは何をすればいいでしょうか」
「そこにいればいいだけですわ。すぐに終わるから」
 言うや否や、アガテルは二人の顔をじっとベール越しに見つめる。
 ベールに邪魔されて見えないのではと懸念を抱くオデットをよそに、彼女は一分ほど経つと口元を満足げに釣り上げた。唇だけを動かして何ごとか呟いていたが、その言葉の内容まではオデットには分からなかった。
「ねえ、なんで顔を隠してるの?」
 疑問に思ったことは、聞かずにはいられない。そんな素直な気質の持ち主であるゲルダが、オデットに代わってベールの意味を尋ねる。
「言ったでしょう。話すつもりはありませんわ。強いて言えば、下々の前に顔を晒すのは危険だから、とでも言っておきましょうか」
「下々?」
「外にいる平民どものことですわ。この町の騎士団が、平民の要求を聞き流せずに、お父様のお耳を煩わせたのが、こんな場所にわたくしが来る羽目になった元凶。お父様も放っておけばよいものを……
 最後の方は半ば愚痴のようになっていたが、おかげで、アガテルがこの町に来た理由ははっきりとした。ピヌヌたちは町人の不安や訴えを、正しく町の管理者に届けてくれたようだ。
「実際のところ、どうなんですの。あなた方、この町に長く滞在しているのでしょう?」
「そんなに何ヶ月もいたわけではないですけれど、近頃は不安になることが沢山起きているせいか、町の空気が刺々しいのは事実です」
 下手に隠し立てしてもすぐに分かることだと、オデットは自分の目で見た最近の町の様子について語って聞かせた。
 明日、アガテルは領主や貴族に対して敵対心を抱く人々の前に立つのだ。本人がそう望んだわけでもなく、ただ領主の父親の娘として生まれたから、彼女のは責務を負わされた。
――わたしだったら、きっとできないことです)
 それが貴族たるものの責務(ノブレスオブリージュ)と言う者もいるのかもしれない。
 それでも、オデットの目には、目の前のベールの向こうに顔を隠した少女と、自分の隣に座っているゲルダ、そして自分自身ですら、皆揃って同じような『女の子』に過ぎないと思う。
 話している間、ベールの向こうに隠れたアガテルの顔は見えない。彼女が不安を瞳いっぱいに満たしているのか、それともノエとやりとりしたときのように不敵な笑みを浮かべ続けているのか。
 それすらも他者に悟らせまいとするのは、騎士が身を守るために鎧で体を覆っているのと同じだと考えるのは、自分が甘すぎるからか。オデットは思わず、膝の上に置いた両手にそっと力を込めてしまう。
 一通り話し終わった頃には、執事に頼んでいた紅茶も届き、部屋に入った時と比べるといくらか緩んだ空気が部屋に満ちた。アガテルもいくらか砕けた調子で、とりわけオデットに他愛のない質問を投げかけていた。
「あなたって、傭兵なのですわよね。魔物と戦ったりしますの?」
「わたしは、正式には傭兵ではなく冒険者なんですよ」
「ぼうけんしゃ? それは、前人未踏の大地に足を踏み入れる者のことかしら。雲海の浮島を見つけた者のことを、そのように表している書物がありましたわ」
「ええと……必ずしも、新しい土地を見つけた人に限る話ではないのですが」
「では、人々がまだ成し遂げていない偉業を達成する人のことかしら。凶暴な魔物を一人で退治するような?」
「エオルゼアには、冒険者という職業があるのです。冒険者ギルドという組織に所属して、商人さんや町の人のお願いを叶えるんです」
「それは、傭兵となにが違いますの?」
 アガテルは、オデットの説明に興味を持ったのか、根掘り葉掘り『冒険者』について尋ねた。オデットもすすんで、自分が冒険者として過ごした日々を語った。
 今まで引き受けた依頼。退治してきた魔物。潜り抜けてきた危難の数々。アガテルの質問に答えるのが徐々に楽しくなってきて、つい熱弁を奮っていた。
 普段ならば、アガテルに負けず劣らず、あれこれ質問してきそうなゲルダは、今日は依頼主の令嬢に質問役を譲ったようだ。お茶と共に出された焼き菓子を黙々と頬張っていた。
「単なる魔物だけでなく、妖異に竜……あなたみたいな子供が、そんな恐ろしいものたちをやっつけたなんて。にわかには信じられませんわね」
「もちろん、わたし一人で退治したわけではありませんから。先ほど一緒にいたヤルマルさんや兄さん……ノエと一緒に、です」
 彼らのことを話題に出して、別室に案内されてしまった二人を呼んでくれたらと思ったものの、あいにくアガテルは興味なさげに相槌を打っただけだった。
 むしろ、彼女が関心を抱いたのは別のところだった。
「あなた、今、あのエレゼン族の男を兄と呼びましたわね。あなたがた、兄妹なんですの?」
「いえ、違います。えっと……長くお世話になっているので、自然とそう呼ぶようになったのです」
 自分たちの関係を、見知らぬ第三者に全て説明するのは難しい。当たり障りのない説明で済ませようとしたところ、
「そうでしょうね。あなたって『混ざり物』でしょう」
――――
「違うと言いたいのなら、そう言い張っていればいいですけれど。エレゼン族の子供にしては耳が小さいですし、背が大き過ぎますもの」
 どれも他種族から見てみれば個人差と言われてしまいそうな部分でもあるが、同族の同年代ともなれば隠し切れるものでもない。
 それに、アガテルの物言いは無遠慮ではあったが、こちらを嘲るための話題としているわけでもなさそうだった。
……確かに、わたしのお母さんはヒューラン族だったみたいです」
「だったら、父親の方がエレゼン族ってこと? 物好きなエレゼン族もいたものね。わたくし、自分と二イルム以上身長差のある男を、夫にする気にはなれませんわ」
 ヒューラン族と比較すると、エレゼン族は同性同士であっても大きく身長の差が生ずる。
 エレゼン族の中では小柄なノエであっても、ヒューラン族の中では比較的大柄なルーシャンとの身長差は、同性であるというのに一イルム弱は存在する。まして男女ともなれば、ヒューラン族は女性の方が小柄なぶん、身長差は相当なものだっただろう。
(身長差……兄さんはどう思っているのでしょう)
 ノエと自分が並んだところを想像して、オデットは難問を突きつけられたかのように眉を寄せる。ノエとオデットの背丈は、実に頭三つ分ほどある。混血の自分が、この先も身長が伸びてくれる希望はどれほどだろうか。
「あなたは、あのよく話すエレゼン族の男を気に入っていますの?」
「兄さんは、普段はそこまでお喋りではありませんよ。むしろ、隣にいたヤルマルさんの方がよく話をするぐらいです」
 どうやら、皆を代表して質問をしていたノエを、アガテルはおしゃべりな性格だと勘違いしてしまったようだ。
「あら、そうなの。わたくし、口の回る男より寡黙な殿方の方が好ましく思いますの。ですから、あちらの方は少しはマシと思ったのですけれど」
「アガテルさん。ヤルマルさんは、女性ですよ」
 おずおずとオデットがそう言った瞬間、何気なく紅茶を飲もうとしていた――器用にもベールの下から差し込むように運んで口をつけていた――アガテルの手が、ぴたりと止まる。
 そのまま、中身を飲まずにカップをソーサーへと戻してから、こほんとひとつ咳払い。
「も、もちろん、知っておりますわ。あのような方で殿方であれば、という意味ですわ」
 意味もなく扇子を開けたり閉めたりしながら主張するアガテルの声は、わずかに上擦って聞こえた。
(ヤルマルさんの魅力は、種族を問わずに伝わるものなのですね)
 実際、彼女は中性的な容姿を持つ上に、エオルゼアではあまり見かけない種族でもある。遠く離れた別世界の空気を纏う麗人ともなれば、年頃の娘ならば興味を抱いてしまうのは当たり前だ。
「あの、アガテルさん。先ほどはわたしがお話をしましたが、わたしはアガテルさんのお話にも興味があります。貴族のお姫様のお話なんて、直に聞けることなんて早々ないですから」
「わたくしの話? そんなものに興味がありますの?」
「ええ、ぜひ」
 わざわざ話の主導権をアガテルに握らせたのは、喋り過ぎてオデットの喉が渇いてきたからもあるが、アガテルの方から自分の知る世界について誰かに話す機会などなかったのではないかと思ったからだ。
 彼女の友人となれば、それはもちろん同じような貴族の令嬢だろう。同じ立場にある者同士ともなると、貴族としては当然の内容なので話すまでもない、といった事柄もあるに違いない。
「わたし、アガテルさんがどんな風に暮らしているのか、すごく興味があります」
 先ほどの『同族の異性にしか興味がない』という話もそうであるが、オデットにとってアガテルは全く知らない見地を持ち、オデットでは想像もできないような世界の住人でもある。そして、アガテルから見たオデットたちも、通常ならばまず相対することもない人物のはずだ。
 ならば、この偶然の邂逅を活用しない手はない。
「そちらのあなたも? あなたも、わたくしの話に興味があると言うんですの?」
 アガテルが扇子で指したのは、これまで黙々と聞き役に徹していたゲルダだった。彼女は口の中に含んでいた焼き菓子を飲み込むと、「うん」と言葉少なに頷いた。どこか心ここにあらずのようにも見えたが、幸いアガテルは気にしなかったようだ。
「そ、そこまで言うのなら、話して差し上げてもよろしくってよ。……ちょうど、時間もあることですし」
 朝から屋敷を来訪し、昼食の時間までにはまだ一時間ほどあるらしい。
 アガテルは、紅茶を置いてからソファに体を凭れさせ、さあどうぞ質問してご覧なさい、と言わんばかりにつんと顎を持ち上げてこちらを見据えている。
 その振る舞いは、いかにも高慢な女主人の振る舞い――ではあるのだが、相手がオデットより小柄な少女では、子供の可愛らしい物真似としか見えなかった。
「では、アガテル様の家族の話を聞かせてもらえますか」
「家族……ねえ。……お父様とお母様。あと、弟が二人いますわ」
「弟が……では、アガテル様はお姉様なんですね」
「そうなりますわね。もっとも、わたくしはそのうち、分家か、運が良ければ本家ののどなたかに嫁ぐことになるのでしょう。家族といっても、あまり深い繋がりはありませんわ」
 特に弟が生まれてからは、とアガテルは小さく付け足す。
 女性の爵位を持つ者もイシュガルドにはいるようだが、ノエの家系と同様、この家も男性に爵位を継がせる方針のある家であるらしい。
「分家……といいますと、親戚のようなものですか」
「そうとも言えますけれど、古い祖先が一緒なだけで、そこまで濃い繋がりがない場合もありますわ。それに、元々この地域は別の家が管理していた土地。栄光あるルグロの家は、その家の血こそ引いてはいても、今の領主様の血と直に繋がっているわけではありませんわ」
「今の領主様と言いますと、ニヴェール様……ですよね?」
 オデットは頭の中に放置されていた勢力図や家系図を引っ張り出し、どうにか話題についていこうと思考を必死で回転させる。
 シュガーグレイヴだけでなく、ノエの父が治めていた領土の境界を潜った先は、全てニヴェールという家の管轄にあると聞いている。ニヴェールといえば、グリダニアにいる友人――エメーヌの母親が以前仕えていた家であり、その家の息子――ティエリーとは誤解による一悶着があった末に顔見知りになった仲でもある。
 そのうえ、オデットにとっては『お兄ちゃん』でもあるミラベルは、ニヴェール家が他家から回収した遺産の調査を進めているという話もある。
(月並みな感想ですけれど、こんなにも広い領土を持っていて、財産も豊かそうで……お家騒動の件もありますし、いかにも大貴族という印象があるのですよね)
 もっとも、広すぎる領土の管理は家一つで対応できていないようだ。だからこそ、ルグロ家のような、縁はあれど関係の浅い他の家が町の管理を手伝っているのだろう。
 アガテルは『ニヴェール』の名をきくと、ベール越しでありながらも、次の言葉に悩むような素振りを見せた。
「ニヴェール家が、現在のルグロ家に連なる者であるのは間違いありませんわ。……ですが、あの家には少々、気になる噂もありますの」
 ベールの下に、薄く笑みを引くアガテル。その様子は、子供らしい『無邪気な残酷さ』を秘めた笑みだった。
「噂、ですか?」
「ええ。広大な領土を得るために、夜陰に乗じて前領主の住まう家に火を放ったとか」
「えっ、それって放火になるんじゃ……
「事実なら、そうなりますわね。他にも、土地が欲しかったのではなく、前領主が隠し持っていた古の隠された魔法に関する研究を横取りするためだった、とか。実は、その魔法には呪いがかけられていて、一度存在を知った者は奪い合いをせずにはいられない、なんていう怪談もありましたわね」
 いかにもありそうに思える陰謀論から、徐々に与太話めいた内容に移り変わりながらも、オデットはつい身を乗り出して話を聞いてしまう。このような年頃の少女たちは、どこか暗さを秘めた噂話に興味を持ってしまうものなのであり、アガテルほどではなくてもオデットも関心を持つには十分の内容だった。
「もっとも、この手の話はどこにでもよくある話ですけれど」
「よくあること、なのですか」
「ありますわよ。誰かにとって都合の良いことがあったなら、きっと裏には何かあるって噂が生まれるのがいつものことですもの。ああ、でも――
 扇子をぱっと開き、ベールの上からも口元を隠しながら、彼女は言う。
「かの家の長子が『混ざり物』であるというのは、噂ではなく事実みたいですわね」
……
 先だっても思い返したように、オデットはアガテルの言う『ニヴェール家の長男』を知っている。
 青銅色の髪を一つに結び、ノエと同年代の小柄な青年だった。混ざり物という出自もあってからか、貴族への反発心が強く、加えて思い込みの激しい直情的な考え方の持ち主でもあった。
 だが、引っ越す友人にプレゼントを渡したいと弟に頼まれると、国境を超えてはるばるグリダニアまで馳せ参じた弟思いの人物でもある。それが、ティエリー・ド・ニヴェールという青年だ。
 本人から詳しい事情は聞けなかったが、血筋については人一倍敏感な貴族が異なる種族と結ばれるのが容易いことではないとオデットはもう知っている。
 ティエリーがグリダニアからなかなかイシュガルドへ帰ろうとしなかったことからも、彼が家庭内で肩身の狭い思いをしていることは容易に想像できる。アガテルが何気なく言葉に込めた嫌悪の感情も、ティエリーが晒されてきた棘の一つなのだろう。
 それは、貴族にとってはごく当たり前のことであったとしても。
「アガテル様。あの」
「それでも、長男という理由だけで、わたくしの見合いの候補に入っているのですから驚きですわ」
 オデットの懸念とは全く違う方向からの驚きに襲われ、オデットは素っ頓狂な声をあげてしまう。
「えっ、アガテルさんはもう、その……ご結婚を?」
 見た目は自分とそう変わらない上に、自分より小柄なため、ともすれば年下に見えかねない少女に向けて、オデットは目を丸くする。
「まさか! 流石に結婚には早すぎますから、何かするとしてもまだ婚約の段階でしょう」
 婚約だけでも、十分オデットにとっては一大事である。
 アガテルは「まだ」と言っているが、オデットは彼女と同年代なのに婚約という単語を頭の端にも置いたことすらなかった。
 そう考えると、婚約という単語が自分の世界に急に姿を現したようにも思えて、オデットは妙に高鳴る胸を片手で押さえる。そんなオデットをよそに、アガテルは不服そうに続ける。
「それにわたくし、十も年も離れている殿方はごめんですわ。ニヴェールの長男はわたくしとそのくらい離れていると聞いていますもの。お父様も、前の領主様は悪趣味だと言っていましたし、その辺りはわかってくださると思いますけれど」
「前の領主様の奥様は、そんなにも歳の離れたお方だったのですか」
「奥様じゃないわよ。愛人の方よ」
 愛人という言葉に、オデットは思わず体に力を込めてしまう。思い出してしまったのは、別室に残されたノエの横顔だ。
「噂では、自分と親子ほども歳の離れた娘を、辺境の別荘に囲っていたんですって。しかも、ヒューラン族の娘で種族も違う。随分と変わったことをしていると、分家の間では半ば公然の秘密になっていたそうですわ」
「親子ほども……
 貴族の恋愛とはそこまで多様なのか。矢継ぎ早に降り注ぐ情報の渦に、オデットがくらくらしかけたときだった。
 
「たしか、名前は……オディール、とかいったかしら」
 
――――!?」
 冷や水をいきなり浴びせられたようだった。
 体が硬直し、一瞬息すら止まりかけた。本当に心臓が止まったかもしれない。
(え――――
 何気ない貴族の令嬢のお喋りに耳を傾けていたはずだった。
 雲の上の人たちの生活はまるで波乱万丈の物語のようだと思いながら、心の距離を程よく置いて、お喋りのひとつとして楽しんでいただけなのに。
「オディー、ル……?」
「ええ。今はどうしているのかしらね。前の領主様は亡くなってしまったし、愛人もきっともうどこかで死んでいるでしょうけれど」
 頭全体にわんわんと何かが鳴り響くような感覚。耳の奥がきーんとして、喉の奥に焼き菓子が詰まってしまったかのように呼吸が急に浅くなる。
 ――魔法使いさんは遠くに行ってしまった。
 かつて、母はそのように友人に語ったと聞いている。
 その魔法使いとは――彼女が夫とした人は、誰なのか。
 ヒューラン族の母親との間に生まれた自分がハーフエレゼンならば、その父親は間違いなくエレゼン族。だったら、その相手は――アガテルの言うとおり、『前領主』なのか。
 だって、母親は、元領主様の愛人と同じ名前だ。同じように愛人だったノエの母は、貴族の父親の妻だった。ノエは二人の間に生まれた子供だった。じゃあ、自分も――
 オデットの頭の中に、無数の『もしかして』がぐるぐると渦を巻く。ソファに座っているのか、それとも自分が倒れているのか。それすらも、一瞬わからなくなったときだった。
 ――がちゃん。
 陶器同士がぶつかる激しい音に、オデットはハッとする。オデットの体は、まだソファの上に座ったままだった。
 耳に響いたのは、ティーカップとソーサーがぶつかるにしてはあまりに大きく、嫌な予感がする音。皿を割ってしまったときのような音に、オデットが身を震わせたときだった。
「まあ、ゲルダ。あなた、どうしましたの?」
「ゲルダ……?」
 オデットの隣で今まで無言に徹していたゲルダが、自分の体を抱えるようにして、うずくまっていた。具合でも悪いのかと、オデットが手を伸ばした瞬間。
 ゲルダの上体が、ゆっくりと前に――崩れ落ちていく。
「ゲルダ!!」
 ローテーブルに体を打ちながら、少女が絨毯の上へと倒れる。陶器同士がぶつかる音が、先ほどの何倍もの騒々しさで響き渡る。
「ゲルダ、どうしたの! ゲルダ!!」
 オデットが用意したドレスが、花のように絨毯の上に広がった。そして、ドレスに包まれた少女本人は、ぴくりとも動かない。
「アガテルさん、誰か人を呼んでくれませんか!!」
「ええ。隣室に用意していたあなた方の寝所に運ばせましょう。全く、具合が悪いのならさっさとそう言ってもらいたかったですわ」
 召使を呼ぶためか、アガテルが呼び出し用のハンドベルを鳴らしている音が聞こえる。
 だが、その音すら今のオデットにはどこか遠く聞こえた。
「ゲルダ、しっかりして、ゲルダ……!」
 思わず伸ばした手が触れた頬は、いつもと同じ、氷のように――人形のように、冷たかった。
 まるで、ふと眠りに落ちただけのように安らかな表情。だというのに、オデットの胸中には先ほどの混乱すらも吹き飛ばす不安が黒雲のように渦巻いてた。