桐子
2025-02-28 23:15:13
2598文字
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美しい傷32(父水♀)


時は少し遡る。
時貞が消え、心地よく酒と薬に酔った男たちは、いよいよ狂乱の宴を始めようと美しい花嫁に手を伸ばした。しかし、沙代はにっこりと微笑むと、そばにいた男にしなだれかかった。
「わたくしにも、少しいただけますか。これからすることを考えると緊張してしまって……
恥じらう中にも、媚びを含んだ声音に、男はだらしなく鼻の下を伸ばしてうなずいた。Mには快感を増幅させる作用がある。美しい少女が乱れる姿を想像し、男はすっかりその気になってしまった。
沙代はほんの少し酒を口に含み、「わたくしだけではなく、皆さんもどうぞ」と酌をして回り始めた。男たちは沙代に勧められては断れず、次々と盃を傾けた。
「なんだか、眠くなってきたな」
「ああ、俺もだ……
男たちが異変に気付いた時にはもう遅かった。一人、二人とその場に倒れていく。護衛たちが慌てて主人の様子を確かめたが、彼らは心地よく眠っている様子だった。酒に何か混ぜられていたのでは、と思い当たったときには、沙代の姿は広間から消えていた。
「うまくいきましたわね」
「あの助平爺は腕は確かじゃからな。薬の分量もちょうどよかったようじゃ」
廊下を素早く移動しているのは、白無垢を脱ぎ捨てた沙代と砂かけ婆だった。
幽霊組の屋敷で今日の段取りを相談してきたが、あの短い時間に少し打ち合わせただけで、よくここまでうまくいったものだ。
計画は全部で三つある。
一つ目は、広間の客を足止めすることだ。眠り込んだ主を心配した護衛たちは、時貞や水木、沙代のことになどかまっていられなくなる。その隙をついて、沙代と砂かけ婆が内部からゲゲ郎達を招き入れる。砂かけ婆は花嫁の着付けの手伝いとして、呉服屋を通してなんなく入り込むことができた。また、子泣き爺とねずみ男も影で活躍した。ねずみ男は出入りの業者を装い、龍賀家の酒の注文を取ってきた。子泣き爺はその酒に、即効性の睡眠薬を混ぜたのだ。今夜の宴にはその酒が出されている。これで広間は混乱し、動きやすくなる。
二つ目は、水木の救出である。だがこれには思わぬ横やりが入ってしまった。当の水木本人が、時貞の懐に自ら潜り込んだのだ。
「仕方がない。水木さんの安否が気になるところじゃが、ここは親父さんに頑張ってもらうしかあるまい」
砂かけは、屋敷の裏手に向かいながらそうつぶやいた。沙代は固い表情でうなずきながら、屋敷の裏口へとたどり着いた。逸る心臓を押さえながら、そっと木戸を開く。ぎい、と軋んだ音を立てて扉が開いた。

「待ちかねたぞ」

闇夜に、髑髏蜘蛛が浮かび上がる。
幽霊組の親分は、髑髏蜘蛛の着流しに御所車の羽織を羽織り、まるで幽霊そのもののようにすうっと立っていた。
「外の護衛は片付けた」
ゲゲ郎はそう言って、いぶかしげにあたりを見回した。予定では、ここに水木も来ているはずだったのだ。
「水木はどうしたんじゃ」
「お姉さまは、おじいさまに連れられて寝所へ……
沙代の言葉に、ゲゲ郎は表情を少しも変えずに「そうか」と頷いた。だが、あたりの温度が急に下がっていくような、そんな恐ろしい気配が漂ってくる。ぞくりと鳥肌が立った。――――これが、祖父が恐れた幽霊組の親分なのだ。沙代はひりつく空気に喉を鳴らした。
「場所を教えてくれ。わしが行ってくる」
ゲゲ郎は、沙代と砂かけ婆にそう告げた。その声音には有無を言わせぬ響きがある。沙代は勇気を振り絞り、「お待ちください」と制止した。
「どうした?」
「わたくしも一緒に行かせてください。お姉さまを助けたいんです。それに――――この屋敷はじきに焼け落ちます。時間がかかれば、あなたもご無事ではすみません」
そう言うやいなや、屋敷の中から火の手が上がった。ゲゲ郎は険しい顔で炎をにらみつけた。
「一体誰が……
「ここまでことがうまくいったのは、ある人の力添えがあったからですわ。親分さん、もう時間がありません」
沙代の言葉に、ゲゲ郎はわずかに考え込んだが、すぐに頷いた。
「よかろう。ついて来い」
強い風にあおられ、ゲゲ郎の羽織がはためいた。その腰には刀が差し込まれている。
龍賀時貞に報復すること――――それこそが三つ目の計画であった。




懐かしい人の後ろ姿を見つけて、水木は抱きついた。
「お父さん、お母さん!」
やっと会えた。ちょっと情けないところもあるけれど、優しくていつも水木を抱っこしてくれるお父さん。長い綺麗な黒い髪をした、きれいなお母さん。大好きな二人しがみついたまま、水木はぼろぼろと涙をこぼした。
「ふふ、甘えん坊ね」
母は優しく笑って水木の頭を撫でた。
「ごめんなさい、お母さん、お父さん。熱かったよね。苦しかったよね」
「馬鹿だな。そんなの平気だよ」
「そうよ。あなたが生きていてくれて本当に嬉しいの」
その言葉にまた涙が溢れた。ゲゲ郎の言ったとおりだ。父も母も、ちっとも水木を恨んでなどいない。優しい目をしてこちらを見つめている。
「幸せになってね、水木。大好きよ」
不意に、母の声が遠くなった。また置いていかれる。水木は目の前の両親に夢中でしがみついた。
「いやだ、行かないで!もう一人はやだ!」
しかし、必死の願いもむなしく、両親の姿がどんどん遠くなっていく。

「あなたはもう一人じゃないわ。あなたはお母さんになるんでしょう。ほら、あなたの大事な人が、もうすぐそこまで来ているわ」

すぐそばで、女性の声がした。優しい、あたたかな声音だ。母の声に似ている気がしたが、母のものではない。

――――その声に促されるようにして、水木は覚醒した。部屋中に煙が蔓延している。頭がガンガンと痛み、ひどい吐き気がこみ上げてきた。水木は体をくの字に曲げて激しくせき込んだ。
「ゲホッ、ゴホ……っ」
咳き込むたびに体が痛む。だが、まだ生きている。痛みは生きている証だ。もしかしたら本当に、ゲゲ郎がすぐ近くまで迎えに来てくれているかもしれない。
「ゲホッ……うう」
煙のせいで涙がにじんだ。まだ死ねない。お腹の中の子どもも水木もまだ生きているのだ。両親に守られた命を、自ら捨てるわけにいかない。水木は床に落ちていた懐剣をもう一度手にとった。手を切り落としてでも、這ってでもここから脱出する。水木は深呼吸して息を整えると、懐剣で帯を切り始めた。