けろか
2025-02-28 19:07:38
8275文字
Public
 

書生(?)の竹谷くんと、社長令嬢の久々知さんな竹くく♀の話③


書生(?)の竹谷と社長令嬢の久々知さんな竹くく♀の話③
📛が先天女体化、ふんわり大正時代パロです。
身体の関係が先行してる二人の話!
ハピエンの予定です🫶

今回ちょっとモブが出張るかも。
[追記]完成しました!
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=24254306

①、②→ https://privatter.me/page/67b84bdf8c368

①、②たくさんうぇぼいただきましてすごく励みになりました…!ありがとうございました✨🙇
(ここが好き!とかあそこがえちとか死ぬほど励みになり今後の参考になりました!マジでありがとうございました😁)
https://wavebox.me/wave/6r44z335f7rhe3bn/

「兵助、これ。……その、悪かった」
「いいよ……ありがとう」
 真っ白に洗いあげられたハンカチを差し出しながら、八左ヱ門はおずおずとこちらを窺った。
 無意識のまま鼻先を寄せ、すん、と軽く息を吸う。
 ――お日様のにおいがする。彼自身のようなあたたかなものだ。思わず口元が緩んで、途端「え」と驚いたような声があがる。
「っ俺ちゃんと洗ったよ?! 二回洗ったし!! さらし粉もつかった!」
「あ、いや……ちがうんだ、なんかお前のにおいがするみたいで……その、お日様の……
……おお……
――照れるなよ!  こっちも照れるだろっ」
 八左ヱ門の頬に、じんわりと朱が差している。きっと自分も同じような色で染まっているのだろう。
 そんな顔をしないでほしい。視線が絡んで、胸の奥がふわふわ浮つく。甘い錯覚に溺れてしまいそうになる。浸かってしまわないように、意識をそらす。
……今日の豆腐料理、腕によりをかけて作る」
「おう、ありがと。楽しみにしてる」
「期待してて。――合格おめでとう、八左ヱ門」
 ずっと続くわけではないとわかっていた。わかっていたけれど、まだ――彼が大学を卒業するまでの三年間は、猶予があると思っていたのだ。

「八左ヱ門くんは、この春から親戚の家の養子に入ることが決まってな。この春から学校も、そこから通うことになる」
「え……
「今しがた手紙が来たんだ。――五年間よく働いてくれたね。これからは心置きなく勉学に励みなさい」
 父の言葉は、祝いの席にふさわしい華やかな響きを持っていた。
 新しい家の一員として迎えられ、大学に通える――書生なんて下働きすることなく、だ。合格の知らせも、養子になることも、何もかもがめでたい。
 ――理解できても心は追いついてこない。クラクラした頭に父の言葉が素通りしていく。水の底から聞こえてくるような、どこか別の世界の話のように感じられた。
「本当にお世話になりました」
 八左ヱ門が丁寧に頭を下げる。こんなときにでも無邪気に跳ねる浅い色の前髪を、ぼんやりと眺めた。
……兵助?」
「あ、……こちらこそ、お世話になりました。合格、本当におめでとうございます。――あちらでもお勉強に励んでください」
 頭の中が真っ白になって、耳の底からは悲鳴のような音が鳴り続けている。しかし身体に染み込んだ性というのはすごいもので、兵助は目の前の男に向かって微笑んでいた。
 いつもと変わらぬように見えていればいいと思う。この上なく不恰好な、人形みたいな作り笑いだと、見透かされていなければいい。
 けれど、八左ヱ門の目は驚きに見開かれ、悲痛に歪んだ。少しは取り繕えと思う。――好きだな、とも。
 味のしない豆腐を喉の奥に押し込む。咀嚼して、飲みこんで、飲みこまなきゃだめで、久々知林業の社長の娘として振る舞わなくては――父の言葉に穏やかに相槌を打ち、八左ヱ門とは朗らかに祝福の言葉をかけて。いつものようにうまく頭も口も動かない。痛ましげに揺れる彼の視線を浴びながら、感情を一つずつ削ぎ落とし、機械のように兵助は動いた。
 父の「ご馳走さま」という声が耳に届いた瞬間、張り詰めていた糸がふっと緩む。ほっとした――けれど、まだだ、まだだめだ、と自らに鞭を打つように言い聞かせる。
 ようやく辿り着いた自室の前で、限界が来た。喉の奥が痙攣し、こみ上げるものに膝が崩れる。
「っ……
 だめだ、駄目だ。わかっていたことじゃないか。いつかはこうなると、最初から知っていたじゃないか。
 身体が鉛のように重い。手足が思うように動かなくて、壁に手をついて膝を折る。呼吸が詰まる。お腹の奥がきしむように痛んだ。呻き声を噛み殺して、じっと耐える。誰にも見つからないように、息を潜める。
「っ兵助……!」
 ああ、どうして。どうしていつも彼は迷いなく踏み込んで、兵助を人形じゃいられなくするんだろう。――足音が近づいてくる。ぎゅっと目を閉じた。もう何も見たくなかった。聞きたくなかった。その大きな手のひらで、この焼けつくような痛みや奥に燻る欲ごと抱きしめてほしいなんて、そんな浅ましいことを願ってしまう自分が、一番嫌だった。
「っはなせ、……やだ、」
「兵助、」
――嘘吐き! きゅうにっ、いなくならないって言ってたのに……
……ごめん兵助、ごめん……ほんとにあの時はその話はなかったんだ、急に……
「聞きたくない! ――あ、やだ、はなして…………八左ヱ門なんてもう、」
 喉の奥までせり上がった言葉を、どうしても吐き出せなかった。言えたらどれだけ楽だろう。もう二度と顔も見たくない、大嫌いだと、そう言えたなら。
 何度も触れたたくましい腕が、強引に兵助を引き寄せた。抗う間もなく、その胸に抱き留められる。
 鼻の奥がツンと痛んで、潤んだ瞳を見られたくなくて俯いた。冷えた身体に八左ヱ門の高い体温と生気が伝わってきて痛い。胸に刺さるその温度に堪えたものが目尻から伝い落ちた。
 声を殺し鼻を啜る兵助を抱き込んだまま、八左ヱ門は息を潜めている。胸に寄せられた頬は彼の心臓の真上に当たっていて、そこはばくばくと鳴っていた。
……好き、ねえ、好きだよはちざえもん……
「うん、」
――一緒にいたいよぉ……
 お日様に抱かれているみたいに、彼の腕の中はあたたかくて、何度も繰り返した叶わない願いを口にした。
 早まる鼓動に、自分が好きだと言われているような、彼に取り縋る心が見せる夢を見る。
 この恋が叶うのは、前提からしてあり得ない――久々知家の後継として形をなす自分と、縛られずにどこへでも羽ばたける彼とでは、交わる道すら最初から存在しなかったはずなのだ。偶然の優しい幻に、兵助だけが固執している。
 春を待つ冬の夜は長い。けれど、気づけば終わりを告げるような眩しさの朝日が、障子の向こうから瞼を刺していた。
 
 八左ヱ門の出立はあっけなかった。
 あれから、ぬくもりに縋ったあの夜のことはなかったかのようにお互い振る舞って、交わす言葉もいつもの――兵助にとってはかけがえのない日常のそれに戻った。
 なんでもないことで笑ったりちょっとした言い合いをして、あっという間にその日はやってきた。
 笑顔で送り出したし、彼も笑ってくれたと思う。その笑顔に少し翳りがあったように思うのは、自分の身勝手な幻想だろう。
 
 滲んだ血はやがて薄い膜を張り、ゆっくりと時間をかけて塞がっていくものだと思っていた。触れずにいれば、痛みは和らぎ、痕だけを残して過去へと溶けていくのだと、願っていた。
 けれど――三年が経った今もなお、癒えたふりをする瘡蓋に指を這わせては、奥にまだ残る生々しい痛みを確かめ続けている。
 ***
「おつかれだね? 雷蔵」
「わ、兵助……、ありがとう」
 まだ五月だというのに、暑い。空気がじっとりと肌にまとわりつき、汗が滲む。
 冷えた麦茶を受け取ると、不破雷蔵はほっとしたように微笑んだ。飾り気のないのんびりとしたそれに、こちらも力が抜ける。
 
 女学校を卒業した後は、久々知林業の流通部門で働いていた。
 帳簿をつけ、出荷や在庫を管理し、日々黙々と数字と向き合う。几帳面で手際がいいと評価されることはあっても、それ以上深く踏み込まれることはない。何をしても「さすがですね」と無難に流される。
 社長の娘という立場から、周囲の態度にはどこか壁があった。こういうことは慣れていたはずだけれど、それでもふとした瞬間に、自分だけが遠くにいるような気がした。
 そんななか、雷蔵とは不思議とすぐに打ち解けた。彼は気負いなく話しかけてくるし、兵助の立場に遠慮しすぎることもない。ただ、ごく普通に、同僚として接してくれる。
「男の人はスーツだから大変だ。暑そうだよなあ」
「女性だって同じようなものだよ、シャツは襟元まできっちり閉めてるし」
「まあ……でも、学生の時の袴に比べたらマシ」
 紺色のスカートを摘んで、兵助は苦笑した。裾から軽やかに風が入り、袴の窮屈な履き心地を思い出す。
 脱ぐたびに、肩の荷がふっと軽くなるのを感じていた。湿気を吸った肌着が、思った以上に身体に張り付いていたことに気づくのは、いつも彼が紐を解いた後だった。――不意に傷が疼く。
「袴かあ。……兵助、すごく似合ってたんだろうな――はは、こんなこと言ったら君のフィアンセに怒られちゃうかな」
「それは……どうだろう? あいにく、顔を見たことがなくて。怒った顔が皆目見当がつかない」
 おどけたように雷蔵が言うので、兵助もそれに倣う。
 婚約の話は、二歩進んでは一歩下がり、また一歩下がる――そんな具合で、進んでいるのかいないのかわからないまま、三年間ずっと宙ぶらりんのままだった。己のことを考えて父もいろいろ口を挟んでいるのだろう。頭ではわかっていたが、やり場のない痛みに、早くとどめを刺してほしい気持ちでいっぱいだった。
――それ、少し私にくれる? やるよ」
「え、いいよ! 悪い」
「やることなくなって暇してるし……雷蔵は食事会やら外回りやらで忙しいだろう?」
「うーん…………じゃあ、それだけお願いしようかな」
 雷蔵はこのところ慌ただしくしている。外回りに、得意先との食事会。事務仕事に縛られる自分とは違い、外の空気を吸う機会も多い。
 ――不意に、見積もり書の端に記された社名に目が止まった。息が詰まる。どきんと心臓の鼓動だけが、胸の裡で大きく響く。
「あ、やっぱり気になる? 竹谷運送。最近、屋号を変えたんだよね。交渉も強気な値段で通してくるから、もしかしたら何かあるのかも……なんて、下っ端の僕にはわかんないけど」
「あ、いや……うん。別に珍しい苗字じゃないよな、竹谷って」
「え? まあ、久々知に比べたらそりゃあね……あ、でも、大学の同期にいたなあ竹谷って」
……どんな人だったの」
「御曹司とかじゃなかったと思うけど……面白いやつだったよ。喫茶店に一人で通ってばかりでさ、『彼女と来るための予行演習』とか言ってたけど、その彼女を見たやつは誰もいないんだ。彼女は猫なんじゃないかとか、いや虫なんじゃないかとか、いろいろ噂されてた」
 どきん、どきん。鼓動が耳の奥でうるさいくらいに膨れ上がる。
 聞きたいのに、聞きたくなくて、胸の奥がぎゅっと縮こまる、そのまま胃のあたりまでぐぅと引き攣れるように痛んだ。ごまかすように、奥歯を噛みしめた瞬間、雷蔵の表情がピシリと強張った。
 まずい、取り繕えなかったかと焦った矢先、彼が兵助の向こうへ静かに頭を下げる。
 振り向いた視線の先、廊下の向こう。窓からの光を背に受けて、父が立っていた。

「ようやく婚約者が決まった。顔合わせが明後日になってな。今日はもう家に戻って、準備をするんだ」
「明後日? そんな急に……
「先方たっての希望だ。これが釣書……見るのは、家に帰ったらにしてくれるか? すまないが、質問に答えている時間はない」
 足元の地面が急に不確かなものに歪む。婚約が決まった。明後日、顔合わせ。意味はわかるのに、うまく咀嚼できなかった。――いや、したくなかった。ただ呆然と、父の言葉を頭の中で繰り返す。
「私とは当日、現地で待ち合わせだ。服は……そうだな、この前贈ったワンピースにしなさい」
「振袖ではなく……?」
「そのほうがいい」
 誕生日に父から贈られた白いワンピースには、まだ袖を通したことがない。背中に並ぶ小さなボタンに手が届かず、一人ではどうしても脱ぎ着ができないからだ。誰かの手を借りることが煩わしくて、もらったまま箪笥の奥底で眠っている。
「あとは二、三日分の服の準備を」
……出張ですか?」
「お前の準備だよ。新居がもう用意してある。お相手と、そこの見学がてら泊まっていってはどうか、と言われている。だから、振袖じゃないほうがいい」
 理解するのに、数秒かかった。
 ――つまり、共寝をしてこいと親の口から聞かされたのだ。
 脳裏で、ぐちゃぐちゃと何かが絡まり合う。目を背ける暇も与えられないまま、頭の中に生々しい現実を突きつけられる。なおも父の声は淡々と続いた。
「もちろん、兵助が嫌ならば無理にとは言わない。泊まらずに帰っておいで――ただ、お前は拒まないと思うけどね」
 拒まない? そうか、自分は結局そういうものなのか。父の言葉に、どこか他人事のように納得している自分がいる。
 久々知兵助は人形なのだ。与えられた場所に収まり、求められた役をこなす。ずっとそうしてきたし、これからもきっと変わらない。――でも、「そうじゃない」と言ってくれた人がいた。生き物だろって、当たり前みたいに言ってくれた人がいた。
 あたたかいものの名残を必死に手繰り寄せて、足に力を込める。この人の前では、人形でいなければいけない。
「さ、行きなさい。迎えはよこしたから。――また、当日な」
……は、い……
 会釈もそこそこに、逃げるように部屋を出た。あれだけ暑かったはずなのに、いつの間にか汗は引き、身体の芯までからからに乾いて冷えていた。
 
 ***
「本当に、お綺麗でございますよ」
……ありがとう」
 光を柔らかく反射する絹の生地に、襟元と袖口を縁取る繊細なレース。腰のリボンがかすかに絞られ、ほどよく身体のラインをなぞる。華美ではないが、仕立ての良さが際立つ一着だった。豆腐より冷たいほど白いワンピースを、ぼんやりと指先でなぞる。
 朝から湯を浴びたせいで、頭がぼんやりする。今日はもう入れないかもしれないからと念入りに湯に浸からせられ、髪を整え、肌を磨いた。のぼせそうな熱がまだ残っているのに、手足の先は妙に冷たい。
 向かう車中で、顔合わせには不釣り合いな大きな鞄が否応なく目に入った。そこに詰められた二、三日分の衣類の重みが、そのまま現実の重さのようだ。わかっていたはずのことが、ひどく生々しく迫ってみぞおちのあたりが引き攣った。視線をそらし、膝の上の手をそっと握りしめる。
――あ、釣書……
 見てくるのを忘れた。というか、見ようとも思っていなかったのだなと、事ここにきてようやく自覚した。
……まあ、いいか……顔は今から見るし、年齢や経歴は最初に紹介あるよな……
 兵助はそっと息を吐いた。乱れる思考が煩わしくて、蓋をするように瞼を伏せる。
 集中、集中。うまく振る舞わなければ。そう繰り返しながら、ぎゅうと握り込むと、指先が冷えていることに気づく。自分のものではないみたいな手。その違和感ごと、何とか押し込めた。
 
 釣書を見てこなかったことを、死ぬほど後悔した。見ていたところで何も変わらなかったかもしれない。でも、せめて心の準備くらいはできたはずだ。何でもないふりをするくらいの余裕は持てたと思う。
 上等なスーツをまとった男が、まっすぐに兵助を見ていた。長めのジャケットの裾が静かに揺れ、ベストが分厚い体の輪郭を引き締める。立ち襟の隙間から覗くクラバットはきちんと結ばれ、きちんと磨かれた革靴まで寸分の乱れもない。
 あの頃の、着古した袴をまとった彼とはまるで違う。立ち居振る舞いも、身にまとう空気も、大人びて見えた。けれど、己を映したその瞬間、輝く瞳の色は全く変わっていなかった。
 名を呼ぶことすらできず、ただ立ち尽くす兵助の前で、彼は――竹谷八左ヱ門は、嬉しそうに微笑んだ。

「いやぁ、まさか久々知家とこんな縁ができるとは。身に余る話です」
「こちらとしても、願ったり叶ったりです。………竹谷運送さんとは業務提携を進めてまいりましたし、こうして縁が結ばれるのは喜ばしいことです」
「久々知殿と手を組めば、この先の商いも安泰だ。いずれは、グループの一員として力添えできるようになればと思っております――とはいえ、この八左ヱ門を跡取りに、なんておっそれ多い考えは毛頭ありませんので」
「はは、恐れ多いなどと。彼は書生時代、本当によく働いてくれましたよ。誠実で努力家で、何より実直だ。兵助も彼になら任せられると思いました」
「いやいや、それはありがたいお言葉です……が、跡を継ぐとなると、それはまた別の話でしょう。何しろ、うちは運送屋ですからな。林業のことは、やはり久々知の血を引いたお方が継ぐべきだ。――二人には、頑張ってもらわないとな! ……お前も何か言わんか、八左ヱ門」
……改めまして、このようなご縁をいただき、心より感謝申し上げます。書生時代から大変お世話になりました。これからも誠心誠意努めてまいります」
「と、このようにつまらん男ですが、どうかよろしくお願いいたします」
「あ……いえ、とんでもない。その……彼のことは素敵な方だと、ずっと思っていましたので、こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
 兵助が頭を下げると、親たちは揃って満足げに頷いた。――最後まで、八左ヱ門の顔は、直視できなかった。あのやわらかな眼差しに見つめられてしまったら、きっと人形じゃいられなくなると思ったからだ。
 
 鏡の前に立ち、ゆっくりとまばたきをする。
(夢……みたいだ)
 頬に触れる指先が熱い。さっきまで氷のように冷えていたのが嘘みたいに、今はじんわりと火照っている。深く息を吸うと、肺が焼けるようだった。その痛みすら、どこか甘い。
 ――嬉しい。嬉しい、嬉しい……
 熱に浮かされた頭は、同じ言葉を反芻しては、ぱちぱちと弾けさせ熱を生む。
(あの、なんか嫌な感じの人……は、血は繋がってない、んだよな? 仲、あんまり良くなさそうだった……
 そういえば、養子になると言っていた。大きな家に迎えられたのなら、それなら、そうと教えてくれれば――手紙の一つでもよこしてくれたら、よかったのに。
――スーツの八左ヱ門、格好よかったなあ……大人っぽくなってた、……
 ぼうっとしているうちに、溶けるように視界が滲む。彼の前では綺麗でいたい。――ハンカチを探して、ないことに気づく。
(あ、……あそこに置いてきちゃったのか、)
 まだ用を足す前でよかった、と安堵する。馬鹿みたいにふわふわ浮ついた足取りで先程の部屋へ戻る途中、男の低めた声が耳にざらざらと絡まった。
……噂には聞いていたが、本当に人形みたいなお嬢さまだな」
……ええ、本当に。彼女は美しい人だと思います」
「息子ながらお前は本当につまらん男だな。――まあ、うまくやれよ。あのお人形さんなら、お前がご執心の例の彼女とできたって文句は言わんだろう」
……ありがとうございます」
 ざぁっと血の気が引いた。足は根を生やしたように動かなくなる。その間にも、遠ざかる声の断片が耳を抉る。
 最初は言葉の意味をすぐに捉えられなかった。遅れてじわじわと、腹の奥から冷たい何かが広がりはじめる。
 人形みたいな女。それは自分のことだろう。そんなことはどうでもいい。これまで何度となく陰で言われてきたから、痛くも痒くもない。
 けれど――ご執心、例の彼女。
 瘡蓋が、剥がれた。二人で抱き合った夜、彼がくれたぬくもりが、鮮血になって流れていくような錯覚に襲われた。じくじく、ずきずきと熱は痛みに変わる。なのに、人より少しだけ出来のいい頭は、否応なく解を導き出す。
 八左ヱ門には心を寄せる相手がいる。婚約者となった兵助は別に、好きな人がいる。明快で、シンプルな答えだった。珍しくもない。彼は、――かつての自分のような状況にいるのだ。
 言わないだけで、言えないだけで、彼も己のことを好いてくれているのだと思っていた。
 ――好きだと言われたことはないし、ましてや愛していると囁かれたことも、一度もないのに。求めるままに差し出した手を、彼はいつも受け入れてくれたから、錯覚してしまった。彼の優しさに縋り、あつかましくも自分は彼の特別なのだと勘違いしていた。恥ずかしさを通り越して、変な笑いがこみ上げてきた。もし笑ったなら涙がこぼれてしまそうで、きつく唇を噛みしめた。ハンカチを探す。また、ない。拭えない。せり上がった苦いものを無理やり飲み下し、震える手で顔を押さえた。冷えた指が頬をなぞる。その感触だけが、やけに鮮明に残った。