もう長い間聞こえる声は日に日に強くなっていて、すでに自我を保つのが難しい事を知っていた。深海に潜り侵食を止める手段を探す中で、傍にいる人の声よりも頭の中に響く声が上回る時間が増えたとき、もう潮時なのだとドクターは静かに目を伏せた。
「どうした、なにかあったのか」
海から上がり、一時の拠点として使っている洞窟にて。傍らに座り、焚き火にあたるウルピアヌスがドクターに向かって声をかける。
姿が変わってからというもの人の頃と違って随分と表情はわかりづらくなったはずなのに、いつもこの人は敏感に気配を掬い上げる。いつもはそれが愛しいはずなのに、今に限っては少しばかり悲しかった。ああ、気づかなくていいのになと。
ふるりと首を振って、伸ばしてくれた手からそっと距離をとる。何がきっかけでウルピアヌスの変異が進むかわからないのだから、既にそうなってしまったものの体に彼が触れる必要はない。たとえ互いに触れる事を望んでいたとしても。
「お前は……」
この姿となってから幾度と繰り返されたやり取りにウルピアヌスが微かに苛立ちを滲ませた。謝罪の意を込めて見つめれば、深々としたため息とともに手を引くのが優しくも苦しかった。
「何かあったのなら言え。たとえ声がうまく発声できずとも、お前の言うことなら必ず聞き取る。対話を、会話を諦めるな」
いつもであればため息の後にいいつのることはないのに、今日に限ってはそうではないようで切実な色を滲ませた赤色に見つめられてしまう。ウルピアヌスなりにきっと何かを感じているのだろう。ここのところ共に海の調査やシーボーンとの小競り合いをしていても、我ながら精細を欠いていた事を知っていたから。
「a……ah、わたしは、だいじょうぶだよ、ウルピアヌス。きみ、は」
ちゃんと、やすまないとだめだよ。
火のはぜる焚き火に照らされ、壁にもたれて眠るウルピアヌスをドクターは見つめる。説得してどうにか休んではくれたものの心労と疲労が重なる相貌は険しく、眠る姿は苦しげで。少しでも安らかでいるようにと手を差し出しかけて、もうその手がとうに無いことを知る。
シーボーンの因子に作り替えられた体には愛しい人を撫でる手も、隣を歩む足もなく。せめて寄り添うだけのあたたかい体温でもあればよかったものの、すでに海に近しいそれではたとえ夢でも凍えさせてしまうだろう。
近づきたがる体を押さえて小さくドクターは歌を口ずさむ。幼い子供のために歌う子守唄はいつかの褥でウルピアヌスが気まぐれに歌ってくれたもので優しい歌詞は心を穏やかにしてくれたものだ。これが歌える間はまだ自身を人であると信じていられるものの、それももはや。
人語ではない不可思議な音が喉から出てきた時点で歌うのをやめればみっともなくも涙が落ちる。本当に傍にいられなくなってしまったとウルピアヌスを見つめた。視線の先には先ほどよりも穏やかに寝息をたてる人がいて。ーーーああ、その腕の中でまた一緒に眠れたのなら。
叶いもしない願いに首を振って地面を嘴の先で音がしないように文字を刻む。これ以上傍にいれば、近いうちにウルピアヌスに過酷な決断をさせることになるだろう。かつて同僚に対して引導を渡していた過去を思えばこそ、これ以上罪の意識を抱いて欲しくなかった。ただ。
(一人にしてくれるなと、あのひとは)
アビサルハンターたちは既に海に呑まれ、ケルシーとアーミヤも海に消えた頃。傍にいるのが互いだけになってしまった日の夜にウルピアヌスはドクターを抱き寄せてそう言った事を覚えている。
シーボーン化が隠せない程に進み、傍にいてはいけないと話をしようと会いに行った先で、深くかき抱かれてこぼされた言葉はウルピアヌスの本心だっただろう。強い信念と精神力のある人が漏らしたやわい心に寄り添いたくて、離れずにいたけれどそれももう。ウルピアヌスを害する存在に成り果てるならば。けれどもそうしたらこの人は一人になってしまう。
(わたしは)
何が正解で、どうすればいいかがわからない。ただもう残された時間はなく、選べる選択肢がほとんどないことだけは確かだった。
優しい子守唄を耳が拾い、額をさらりと撫でる手の感触を皮膚が伝えてくる。何をしていたのだったかとぼんやりと視線をさ迷わせたところで穏やかな笑い声が聞こえた。
「君が寝起きにぼんやりしているなんて珍しいね」
いつもは寝覚めがいいだろうにと顔を覗き込むドクターがいて、遅まきながらに仮眠を取っていた事をウルピアヌスは思い出した。執務室にある来客用のソファーで長引く会議に来ない人を待っている間に眠ってしまったらしい。
「来ているならすぐに起こせ」
「随分と疲れていたようだから」
たまにはちゃんと休まないとだめだよ、と頬を心配そうに撫でられてしまうとどうにも弱くてウルピアヌスは微かにため息をついた。決まり悪げに身じろぎをして、遅まきながらにドクターに膝枕をされていることに気づく。
いつからそうしてるかはわからないが、か細い膝には酷だろうと起き上がろうとすれば、そっと頬に手を添えられた。
「もう少しだけこのままでいて欲しい」
どこか切実さを感じる声にウルピアヌスはドクターの顔を見上げた。穏やかに微笑んでいるはずなのに、どこか悲しい気配がする。頬に添えられた手もいつもよりも冷たいのは緊張しているのか、あるいは具合が悪いのか。
「それは構わないが。お前、どこか調子が悪いのか」
人に無理をするなと言える体温ではないと横になったままに頬に手を伸ばす。触れた頬はぞっとするほどに冷たく、思わず目を見開けば視界の先にいるドクターが微笑んだままにしらしらと涙を溢す。なぜそんな顔をする、お前に何が。
「ーーーああ、やはり今の私では君の傍には」
「何の話だ。まて、そもそも何をしようとしている」
起き上がり静かに離れる手を掴もうとして、その手は形を失ってしまう。溶けるようにして消えた後に現れたのは硬質な胸ひれで。なぜと問いかけて、ウルピアヌスは全てを悟った。ーーーロドスの執務室?そんなものはとうに失ったはずだ。それからそう遠くない日にドクターは人の形も失くして、それでもどうにか海に抗えないかと互いに連れ立ってはさ迷っていたはずで。
視線の先でシーボーンの姿と人の姿が重なる愛しい人がいずれの姿でも悲しげに涙を落とす。涙を拭おうとした手は眠る前と同じく触れることはなく。
「君の傍にずっといられたら。私が私でいられたらよかったのに」
かつて確かにあった優しい部屋が海に沈み、泣きながら別れを告げた人が背を向けて一人海淵へ行ってしまう。行くなとかけた声は冷たく沈んだ水に遮られて届く事は叶わなかった。
何かひどく悲しい夢を見たような気がする。寝起きには似つかわしくない胸騒ぎとともに傍らにいつもいるひとを呼んで、けれども鳴き声も身じろぎする音もない静寂が返る。どこだと辺りを見回して、確かに眠る前にいた地面には嘴で引っ掻いて書いただろう文字が書かれている。
わたしがわたしでなくなるから、もういっしょにいられない。
きみにかなしいことをさせたくないから、さいごはひとりでいい。わたしをさがさないで。
ずっとそばにいてくれてありがとう。おもいだせなくて、やくにたてなくてすまない。さようなら。
内容を理解した瞬間にウルピアヌスは洞窟の床を蹴って海に飛び込んだ。一人で終わらせるつもりなのか。そんなことを許した覚えはない。まだ、きっとなにか手段が。
海底火山の近く、熱水に焼かれて流れてきた体がそこにあった。ウルピアヌスに手を下させまいとした人は焼かれて一人で自死しようとしたのだろう。けれどもシーボーンの再生能力がすぐには死なせてくれなかったのだと。
「……ドクター」
焼かれた苦しみに痙攣する身体を抱き寄せた。その姿が痛ましくてどうにか治せたらと思うのに、一目見ては手遅れだとわかる自身の経験と知識が厭わしい。
「ah…a……ウル……ピアヌス。どう、して。さがさ、ないでと」
せめて最後は苦痛を短くと錨に手をかけるウルピアヌスを見て駄目だと首を横に振る。
「きみ、にかなしい、ことはさせたく、ない。わたしを、おいていって」
もうわたしは、きみのやくにたつような、ことはできない、から。
「―――ふざけるな。お前は俺が利害だけで傍にいた訳ではないことを知っているだろう」
シーボーンになってなお傍にいたのは、自らの役目だというのにドクターが変異してすぐに手を下せなかったのは、そんなものたった一つの理由しかないだろうに。愛しているのだと抱きしめた腕の中で体が変わってもただ一つ変わらなかった優しい色の瞳から涙が溢れて海に溶けるのをウルピアヌスは見た。
―――ああ、ぜんぶわたしのせいだとしても。あなたが、わたしのいとしいひとが、おだやかにわらえるようにできたらよかったな。
抱きしめる腕に小さく擦り寄ってごめんなさいと囁いてそれきり。
痛いのも寒いのも良くないと言っていたのはお前だろうに、なぜその当人が一番痛くて寒い場所にいるのか。苦痛と後悔のただ中で静かに眠る人をウルピアヌスは抱き上げる。せめて体だけでもあたたかな陸に戻してやりたいというのに、さらさらと端からくずれてしまう。まるでここにいるのがお似合いだというように。
「っドクター、こんな場所にお前を置いていけというのか」
海雪になる体を衣服で抱き止めて、けれどもこぼれ落ちるように愛しい人は形を失っていく。こんな終わり方を、別れ方をしたいわけではなくて。俺とてお前が穏やかに笑っていてくれればそれで。体に変異があってから申し訳なそうにしか笑わなくなり、変異が喉に進んでからはうまく話せないからと優しい声はほとんど聞けず。体が完璧に変わってしまった後は何かあってはいけないからと、体に触れないよう少し離れた場所にいるようになってしまったお前をどうにか救ってやれたら。
陸に持ち帰れた部分は本当に僅かに過ぎなかった。頭と首の少し先ばかりで、それから下はどんなに丁寧に泳いでも崩れてしまって形をとどめることは出来なくて。変異した時点でかつての穏やかな触れ合いをした形は失われていたが、それでもまだドクターの体は残っていたのに。傷痕を労って触れた手も、隣を歩いた足も形は変われどそこに有り続けて、寄り添っていてくれていたことを知っている。けれど、それももう。
「ドクター」
呼べば返ってきた穏やかにウルピアヌスの名前を呼ぶ声も、控えめな鳴き声ももう聞こえない。小さく冷たくなってしまった人を抱きしめて、けれどもそれよりしてやれることがなかった。人として生かして死なせてやることも、いっそシーボーンとなって互いに寄り添って生きることもできなくて。
―――ふふ、致し方ないとはいえど君はいつも堅苦しい表情ばかりだね。たまには笑ってくれ、ウルピアヌス。
なぜかいまさらいつかの執務室で聞いたドクターの言葉を思い出す。笑えなど、お前が傍にいないのに。一人になるのはごめんだと言っただろう。
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