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やまだ
2023-02-23 16:51:13
48355文字
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原神
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青いワインの話
デガ モンドで色々あって最終的に璃月の山が燃える話
モンドの風は大樹から立つ。
浮かれ弾んだ軽やかなステップで湖を渡り、青くみずみずしい草原を吹き抜けながら葉裏の銀色を海のようにさざめかせ、羽を広げた鷹の尻をぐうっと押し上げてやる。テイワットをあざやかに、いきいきと輝かせる何もかもと遊びながら、やがてモンド城までたどり着くのだ。
城門を颯爽とくぐったところで、居並ぶ露店から夕暮れの実の甘く馥郁とした香りを選んで身に纏う。気に入った花のしっとり柔らかな花弁を注意深く揺らしてゆく。
鉱石を叩く鍛冶屋を覗くついでに火加減を調整してやる。民家にひるがえる洗濯物は、吹き飛ばしたりしてしまわないよう慎重に洗濯ひもへかけ直す。きっと乾いたとき、この素敵なワンピースからはほんのりと木の実の甘い香りがするだろう。
機嫌よくくるっと渦巻いた風はさらに奥へと進むのだ。日々を自由に謳歌する人々の隙間を縫い大階段を駆け昇る。徐々に強く重くなるワインの芳香は極上で、階段を昇りきった場所にあるレストランでじゅうじゅういっている厚切りステーキをより一層魅力的に引き立てるのだ。
体があれば遠慮なく鼻をひくつかせていたし、閉じきれない口の端からよだれを垂らしもしていただろう。あいにく風は風なのでそのどちらもできない。ステーキの焼ける匂いとワインの香りを丁寧に混ぜ、広場へ拡散させるのが限界だった。
「
……
やれやれ、今日も鹿狩りは繁盛していて結構なことだな。前を通りがかるだけで腹が減ってかなわん」
最後に風は、哀れっぽく呟きながら広場を渡る男の白くひらひらしたマントを吹き上げ、風立ちの地の湖より深く青い色の髪を掻き混ぜてやってからそこを後にした。
もっと高い場所に行けば神がいる。モンドの風神は気まぐれだけれど優しくて面倒見がいいので、きっと風が遊びに行ったら喜んでくれる。得意のハープをつまびいて歌を聴かせてくれるかもしれない。
わくわくしながらモンド城内でもっとも高い場所を目指す風は、もちろん後に残された男の惨状など忘れている。
「今日は珍しく風が強いな
……
」
突風にめくれ上がったマントをぱっと後ろへ払い、ガイアは見えるはずもない風を追いかけてちょっと目を上げた。眼帯で視界の片方が塞がっていても疑う余地のない、抜けるような青空だ。雲ひとつない。
「こんにちは、ガイアさん! もうお昼ですよ、鹿狩りでランチはいかがですか?」
「ああ、サラ、ありがとう。だが残念だ。今日は飯を食う店がもう決まっていてな」
「あら
……
声をかけるのが遅すぎたみたいですね。次はぜひうちをご贔屓に!」
快活な看板娘へにこにこと手を振って広場を渡る。噴水の近くで弁当を広げる親子連れや木陰でボードゲームに興じる老爺たち、忠実に職務を遂行する西風騎士たちも、ガイアを見つけると気さくに声をかけてきた。
「よっ、ガイアさん! あんたが昼下がりになってもきっちり働いてるなんて。何かあったのかい?」
「おいおいパーシィ、奥方と子どもの前で誤解を招く台詞はよせ! 何もないさ。第一、俺はいつだって真面目じゃないか」
「ガイア! いいところに、ちょっと来い。今夜の一杯を賭けてこのジジイと一戦やりあってるんだが、おまえならここからどうする」
「
……
ロランじいさん、残念だが今のうちに小遣いを前借りしてきたほうがいいな」
「お疲れさまです、ガイア隊長! いやあ、この時間帯の噴水広場の警備は空きっ腹に堪えますよ」
「ははっ、確かにな。ポール、ご苦労さん!」
噴水のぐるりを時計回りに歩きながらそれぞれに返事をしていく。
朗らかに挨拶をされるのはそれだけで気分がいいものだし、ガイアの存在を彼らが受け入れている証でもある。素直に嬉しかった。
ガイアがまたすれ違ったひとりと挨拶を交わしたその向こうに、小ぶりなテントの軒先で額を突きあわせる人影がある。おやっと思ったのは、三つある大小の人影のうちのひとつが、この温暖なモンド城ではほぼ見かけることのない人物だったからだ。
思わず興味を引かれて近寄った。練金台とそれが紡ぎだす奇跡にすっかり魅了されている三人は、ガイアがにゅうっと首を伸ばして後ろから様子を窺っても歯牙にもかけない。
そもそも、小さな人影ふたつにじいっと見つめられてしょぼくれている一番大きな人影には、ほかのことに気を向ける余裕がないようだ。
ティマイオス、と大きな人影に呼びかけながら、ガイアの顎の下にある小さな頭がななめに傾いだ。どんなときにも穏やかで優雅な彼をして困惑させるような事件が、どうやらこのテントで起きたらしい。
「
……
うん、確かにボクは独創性あるポーションを作ってみろと言ったね。けれどこれを作って、キミはいったいどうしようと思っていたんだい?」
「ううっ
……
すみません、アルベド先生
……
」
ティマイオスはひたすらアルベドと、アルベドの隣に立つスクロースに向かって恐縮している。スクロースは手に今日の空を煮溶かしたような青色の液体が満ちた小瓶を持っており、騒動の主役がなんなのかは部外者のガイアでさえ推し量ることができた。
「急激な興奮作用に、幻覚、中毒症状と依存症。いくらモンドが自由の国だからといって
……
いや、だからこそ、だ。もしもこんなものを流通させてしまったら、キミは相応の責任を追わなくてはならなくなる」
「はい
……
その、課題に夢中になりすぎて、作ったあとにどうするか、なんのためのポーションなのかを全然考えていませんでした」
そう、と呟いたアルベドが一瞬上向く。盗み聞きの相手がガイアであることを確かめるだけ確かめて、西風騎士団首席錬金術師は再びティマイオスへ向きあった。
「今回はスクロースが気づけたからよかったけれど
……
」
「それとアルベド先生が近くにいてくださったおかげですよ! 今日が講義の日で本当によかった」
胸を押さえてほおっと息をつくスクロースも、しょんぼり俯くティマイオスも、モンドでは見慣れた光景だ。ここに普段は氷雪吹きすさぶドラゴンスパインで活動しているアルベドが加わるのは珍しかったが、耳を澄ませてみればなんてことのない、単なる錬金術師たちの日常だった。首を竦めて、ガイアはそそくさと彼らのもとを離れにかかる。
「そうだティマイオス、材料の毒草はどこで揃えたんだい? 囁きの森? クレーの遊び場の近くだったら危ないな」
「ど、毒草
……
いえ、その、他国からの行商人がバザーに出店していて
……
」
「そう。なら大丈夫か」
「
……
大丈夫でしょうか
……
?」
ガイアもスクロースとまったく同じことを考えていたが、言葉にするにはもう距離が離れすぎていた。鹿狩りの胃袋を刺激する匂いを背に、ワインの香りが濃く漂う路地へとブーツの爪先を向ける。サラへ言ったように、今日は昼食を摂る店が決まっているのだ。
やれやれ、と歩きながら伸びをするガイアの髪とマントがまたもや風で煽られる。
マントに髪が絡まって痛い。指先で毛束をほぐしつつ、つい、遙か高みから穏やかな笑みとともにモンドを見守っている風神像の方角を恨めしく見上げてしまった。
「バルバトスめ、今日は随分ご機嫌じゃないか。さてはうまい酒でも飲んだのか?」
始まりから終わりまで忘れない。
モンドでこのフレーズを口にすれば、大抵の者が笑顔で同一の店名を返すだろう。
エンジェルズシェア、という酒場を、モンド人ならば成人のみならず子どもですら知っている。エンジェルズシェアに卸されるワインもぶどうジュースも同じワイナリーの製品で、アルコールを含んでいようがいまいが愛飲者の心を掴んで離さないからだ。
バーらしからぬ勤勉さをみせるこの店は、昼間も喫茶スペースを開放している。昨晩さんざんふるまわれたワインとウイスキーの残り香のなか、甘い紅茶やコーヒーを楽しむのもまた、モンド人にとって非常に贅沢なひと時だった。
ガイアが樺材の扉をひらいた瞬間店内から流れ出る空気はそういうふくよかで蠱惑的な香りに満ちている。だが、カウンターから放たれた舌打ちの容赦のなさは対極のふてぶてしさでガイアを出迎えるのだ。
「遅い」
「遅くはないだろう? 正午過ぎ、としか言われていなかったはずだぜ。ディルックの旦那?」
にこにこ笑うガイアを不機嫌そうに見据える男こそ、今日の昼食の選択肢を奪っていった相手だ。
ここエンジェルズシェアのオーナーのくせに、もったいぶって滅多に顔を出さない。だからこそディルックがカウンターに立つとなれば噂話が風よりも早くモンドを駆け巡り、その晩エンジェルズシェアは国内一の売り上げを叩き出す。
見目麗しい「モンドの貴公子」が作るカクテル、というだけで一定の需要は生まれるものだ。だがディルックときたら、それに留まらずバーテンダーとしての腕前もとびきりなのだ。美酒をこよなく愛するモンド人がみすみすこの機を見逃すはずがない。
日が高いうちはどうしても鹿狩りに客を奪われがちだが、目敏い常連客がすでに大はしゃぎで触れ回っているに違いなかった。きっと今夜も混雑することだろう。
今のうちに一席予約しておくべきかを悩みつつカウンター席に座るガイアは、間髪置かず差し出されたぶどうジュースに思いきり顔をしかめる。
「
……
おい。酒が駄目でもせめてコーヒーとかあるだろ? 飯と一緒にジュースってのはどうなんだ?」
「いいから食べろ。いちいち細かいんだ君は」
「おまえが大雑把すぎるんだよ」
表面をかりかりに焼いたバゲットと、添えられたローストビーフはうまそうだ。サラダも見るからに新鮮でみずみずしい。夕暮れの実を擦り潰して作ったソースがよく合うだろう。
「もしぶどうで作ったサラダソースがあったら、俺は発狂したかもしれないな」
熟れたトマトにさえ果実ソースを添えるのがモンド流だ。今でこそガイアも慣れ、また好ましく思ってもいるが、初めてモンド料理を頬張ったときのことは今でもはっきり覚えている。
何もかもが湯気をたてて温かく、そして顎の付け根が痛むほど、そのせいで泣きたくなるほどに、甘かった。
「昔からうちで出ていたじゃないか」
「
……
嘘だろ?」
愕然とするも、しらっとした顔でガイアを見るこの男が本当に嘘をつくとは思っていない。
ディルック・ラグヴィンドは正直な男だ。ガイアはそれを知っている。もしかすると、今、世界で一番ディルックを知るのはガイアなのかもしれなかった。
「
……
おいディルック、つまり俺は不幸にもサラダソースなんぞに加工されたぶどうを、そうとも知らずに食って成長してきたってことなのか
……
?」
「その通りだ。
……
君、いつもソースの一滴すら残さず完食していたのに。本当に気づいてなかったのか」
心底訝しげに問いかけられるとへらへら笑うしかない。かつて同じ屋敷できょうだいとして暮らしていたこの正直者がこう言うのだ。残酷な事実だが、受け入れるしかないだろう。
ディルックは椅子を使わず、カウンターに立ったまま優雅にカトラリーを使っている。モンドの酒造業を牛耳るラグヴィンド家の若き当主は、自分から食事へ呼びつけたくせにガイアの隣に座る気はないらしい。頑固者め、と吐息で笑う。ディルックが嫌味たらしくソースをたっぷり絡めた野菜をバゲットに乗せて齧るのを眺め、ガイアはフォークでくるくる巻きとったローストビーフをこれ見よがしに頬張った。
「エレンのやつがおかしな場所に罠を仕掛けでもしたんじゃないのか?」
頬を膨らませて口の中のものを咀嚼しながら横を見る。やや奥まった、裏通り側のテーブル席だ。ガイアたちと同じく和やかな食事を楽しむ面々のうち誰かが、おどけたように声を高くするところだった。
「清泉町の狩人たちだ」
ガイアの質問よりもディルックのいらえのほうが早かった。喋る前に口の中をなんとかしろ、と眉をひそめつつ、小さく顎をしゃくってカウンターに並ぶローストビーフを示す。貴公子らしからぬ雑な仕草だ。
「納品の帰りだろうな。随分羽振りがいい。今からボトルの予約を何本も入れている」
「ほお、ドゥラフもいるのか。またディオナに嫌われるなあ。旦那様」
しっかり嚥下してから揶揄するガイアに対して、ディルックは黙って鼻を鳴らした。
清泉町の狩人を取り纏めるドゥラフは、腕は立つもののすこぶるつきで酒に対する自制が効かない。彼がエンジェルズシェアの領収書を握りしめて帰宅すると、翌日必ずキャッツテールの天才バーメイドが物凄い目でディルックを睨むのだ。
おそらく今夜も、辣腕狩人の娘たるディオナは父親の荷解きをする際にでも決定的な証拠を見つけるはずだ。誰も彼も懲りんことだ、と呆れるガイアは、食事を進めながら今夜飲むワインを何にしようか考えている。
「いや、あいつじゃない。エレンはまだ罠の留め金の掛けかたも知らん。何か捕まえられるような格好に辿りついてもないさ」
そのドゥラフが、今はまだ立派な猟師の顔をして仲間の意見を否定している。するとほかのひとりがすぐに、でも、と声をあげた。
「俺たちはフクロウの棲家を荒らしたりしない。あの辺の森はヒルチャールの縄張りでもない。エレンじゃないなら、いったい何が毎晩あんなにフクロウたちを騒がせてるんだ?」
「そうだよ。つがいの片割れが怪我をして動けないんじゃないか? なんにせよ確認くらいはしたほうがいいと思うがね、ドゥラフさん」
「そうだなあ
……
」
ふうん、と今度はガイアが鼻を鳴らす番だった。フォークを持ったまま頬杖をつき、上目遣いに義兄を窺ってみる。ガイアがこんなにはっきりと狩人たちの会話を聞き拾うことができたのだ。涼しい顔でぶどうジュースを飲むディルックも、当然聞いていただろう。
意図的に空けられた数秒の沈黙ののちに目が合う。
「
……
何か? ガイアさん?」
「いやいや」
ガイアはにこにこ笑いながら顔の前で片手を揺らした。
「向こうから興味深い話が聞こえると思っただけだ。ドジなフクロウもいたもんだ、とな。なあ旦那様、おまえもそう思うだろ?」
すうっとディルックの目が細くなる。食事の手を止め厳かに腕を組む姿は、どことなくディルックの父、ガイアの義父でもあるクリプス・ラグヴィンドを彷彿とさせて懐かしかった。
「思わない」
あまりにも予想通りの反応はガイアを失笑させた。
「だろうな。まったく、つまらんやつめ」
「フクロウは注意深く賢い鳥だ。異常があるなら、それは外的要因のせいに決まっている」
「わかったよ。そんなに睨むな」
「君が下らないことを言うからだ」
返事代わりに首を竦め、ガイアは大きく開けた口にバゲットを放りこむ。ほのかな塩気があってワインが恋しくなる味だ。
「なあ旦那、夜もこれ出してくれよ。炙ったチーズもあれば最高だ」
「チーズ!」
絹を裂くような悲鳴がドアの開閉の軋みを掻き消した。
それなりの勢いで閉じた扉を背に立つのは、ごく最近から気まぐれにモンドを渡り歩いている小柄な吟遊詩人だった。
夢見る少女のような白くあどけない顔が、店内の暗さのせいだけでなく青ざめているように見える。
「だめだめだめ、なんの話をしてたのか全然わからないけどチーズはだめだって! あんな臭くてべたべたするもの、絶対無理!」
「そう言うが、吟遊詩人。おまえが食べるわけでもないのに」
「それでもさ!」
モンドの草原そのもので染め抜いたようなマントをなびかせ、ガイアの隣席へひらりと飛び乗った吟遊詩人は、そのまま気持ちがいいほどの自然さでローストビーフをひと切れ攫っていった。うーん、と幸せそうに頬を緩めるさまを見ると腹を立てるのも馬鹿らしくて、ガイアはただ苦笑する。
「こんな時間にここでおまえと会うなんてな、ウェンティ。今日はディルックの旦那がいるから昼に酒は飲めないぜ」
「それが当たり前なんだ」
ディルックの皿はすっかり綺麗になっている。ウェンティが抜かりなく彼の皿まで確認したところを、ガイアも見逃しはしなかった。
「あらら。それは残念」
カウンターに両肘を乗せて頬杖をするウェンティは、床に届かない足をゆらゆらさせる。これで成人しているというのだから世界は広い。
大きな目を意味ありげにくるりとやって、ウェンティはさっさと自分の皿を洗おうとしているディルックを親しげに呼んだ。
「でもわざわざ昼間に来たのは、君に用があったからなんだよねえ。ディルック」
ディルックはまずゆっくりと瞬きした。
「
……
僕に?」
汚れた皿はそのまま水桶の底へ沈む。濡れた指先をふきんで拭いつつウェンティへ向きあうディルックを、ガイアはぶどうジュースで口内を洗うついでに横目で窺った。
「用件は? ここで歌いたいのなら好きにすればいい。大道芸のようなやりかたは承服しかねるが」
「違う違う。そんなこと、ボクはいちいち誰かに許可をとったりしないさ」
人懐っこい微笑みで、ウェンティはディルックの厚意を吹き飛ばす。
「歌は風が運んでくるものだよ。風に囁かれたそのとき、その場所が、ボクにとってのステージだもの。周囲の声なんて関係ないのさ」
「歌ではない? なら
……
」
「酒だ! だろ? 吟遊詩人」
「当たり!」
ぶどうジュース入りのグラスを持つ手の、人さし指だけを伸ばしてウェンティへ向ける。ディルックはじろりとガイアの行儀の悪さを咎めたが、知ったことではない。わざとななめ上に視線を向けて唇を尖らせる。当のウェンティはにこにこ笑って頷いているではないか。献立にけちをつけたガイアをディルックは叱ったが、いちいち細かすぎるのはこの男のほうだ。
「そう、アカツキワイナリーのオーナーでもある君に
……
あと酒びたりの騎兵隊長さんにも、訊きたいことがあるんだ」
興味深い話を風の噂に聞いてね、と言ってウェンティは陽気にウインクした。
「最近アカツキワイナリーで、なんだか珍しいワインを出したそうじゃないか。どうせ奥に大事にしまってあるんでしょ? ねえねえ、また夜に来るからさあ。そのとき少しでいいから味見させておくれよ」
「
……
珍しいワイン?」
淡い困惑の滲む声を追いかけてガイアがゆっくり顔を動かすと、カウンターに立つディルックにたどり着く。口元にゆるく握ったこぶしを置いて沈思する様子だったが、ガイアの視線に気づくと片眉を少しだけ上げた。おまえは知っているか、と問われている。
返事の前にまず肩を竦めた。
「こと酒に関して、おまえが知らないものを俺が知ってるはずないだろう?」
こればかりは嫌味や謙遜ではない。ただの事実だった。ディルックが所有するアカツキワイナリーはそれだけの規模でもってモンド内外に名を響かせている。
「
……
そうだな」
そして、だからこそ何気ない世間話の奇妙さがくっきりと浮き上がるのだった。
モンドにディルックの知らない酒はない。たとえ新発売の銘柄があろうと事前に酒造組合から連絡はあるものだし、そもそも組合を通さない酒は、基本的にモンドでの流通が不可能だ。
それなのにウェンティは未知のワインを求めてエンジェルズシェアへやって来た。
もう一度すばやく視線を交わしてから、ガイアは食べかけの皿を押しのけてウェンティに向け身を乗り出した。大袈裟にしょぼくれる吟遊詩人へ同情の笑みを浮かべることも忘れない。
「しかしさすが吟遊詩人だな。耳がいい。寡聞にして俺もディルックの旦那もそのワインの存在を今知ったんだが、おまえはいったいどこでこの話を?」
「璃月さ」
「璃月?」
予想外の地名についつい素っ頓狂な声が出た。このあどけなくさえある吟遊詩人が外見に反して活発なことは知っているが、それにしても隣国璃月まではるばる旅をしているとは驚きだった。ウェンティの細脚でよく帰離原を往復できたものだ。
「うん
……
」
ガイアの驚きをよそに、ウェンティはまるで世界の終わりを告げられたような落ちこみようだ。
薄い肩をがくりと落とし、額もカウンターへ沈みこんでいきそうなほどうなだれている。よほど楽しみにしていたらしい。
同好の士としてガイアにもその気持ちは痛いほど理解できるので、そっと背を撫でてやる。ちなみにディルックはひたすら冷めた目でこの光景を見下ろしていた。
「アカツキワイナリーがモンド以外の場所で先行販売をしたことはない。もちろんこれから先もだ」
「そっかぁ。うーん、残念
……
絶対ここのワインだと思ったのになあ」
「なぜ? 璃月の酒家が売り出したものかもしれないだろう。いや、むしろその可能性のほうが高い」
これにはガイアも頷いた。それはそうだ。璃月で珍しい酒の話を聞いたのなら、普通は璃月の酒だと思うはずだ。
「一度飲んだら忘れられないらしいんだ。そのワイン」
とうとうウェンティは完全にカウンターへ突っ伏してしまった。くぐもった声はとても詩歌を紡ぐ者のものとは思えないほど暗く濁っている。
「一度飲んだら忘れられない、他のお酒なんてもう飲めなくなる
……
ねえ、モンドで暮らしているなら浮かんでくるフレーズがあるでしょ?」
「
……
なるほどなあ」
ガイアは思わず店の扉を振り返ったし、おそらくディルックも扉の向こうにあるものに目を向けていただろう。
始まりから終わりまで忘れない。
モンドに生まれ育ってこの文句を知らぬ者はない。あまりに馴染みがありすぎて、似たような言葉回しで恋愛歌を奏でる吟遊詩人の前を通りがかっただけで行き先をエンジェルズシェアに変更するような人間が複数出てくるような国がここだ。
「やっぱり璃月のお酒なのかなあ
……
探してみようかな。また来たのかって嫌がられそうだけど」
「嫌がられる?」
もそもそと重たげに体を起こしながら、ガイアに向かってウェンティはうん、と頷いた。
「あっちにいる古い知りあいにね。この話もそのじいさんから聞いたんだ。どうせおまえはこれ目当てで来たんだろう、って」
「
……
そのじいさんの耄碌ってオチじゃないよな?」
「とんでもない! ボケるようなかわいげがあればどんなによかったか!」
こぶしを握っての力説だ。昔馴染みだからこそなのか、随分と遠慮のない口ぶりだった。
「あーあ。これを楽しみに帰ってきたのになあ
……
」
「
……
なあウェンティ、もし璃月でその酒を見つけたら俺にも買ってきてくれよ。この店のワインと並ぶほどの逸品、実に興味がある」
「いいよ。でもあとでちゃんとお金払ってね」
「ああ。もちろんだ」
胸に手をあて、しかつめらしく頷くガイアの脳天に、氷点下の視線が突き刺さっている。
「
……
バカバカしい」
酒を好まぬモンド酒造業の帝王らしい捨て台詞だ。ウェンティが風船のように頬を膨らませても、ガイアが心底呆れたと見せつけるために思いきり眉尻を下げても、ディルックの仏頂面は揺るがない。
「そうなんでもつまらながるもんじゃないぜ、ディルックの旦那。気にならないのか? 璃月産の珍しいワインだぞ」
「何が珍しいかも不明なのに、どう興味を持てと言うんだ? だったらうちの今年のぶどうのできのほうがよほど気がかりだ」
「それは俺も非常に気になるところだが」
「ボクも!」
ふん、と鼻を鳴らしたディルックは、先ほどガイアが押しのけた皿を再び寄せてきた。まだ料理が半分近く残ったままであることが不満らしい。
「今夜ここでワインを飲みたいのなら、まずこの皿を空にしろ。なんなら僕がそのぺらぺら喋るばかりの口にほかの使い途があることを教えてやってもいい」
「ははっ、ご冗談を。旦那様に食事の介助をしていただけるほどにはまだ出世してないぜ、俺は。第一
……
」
「御託はいい。さっさと食べろ」
ぴしゃりと遮られてさすがに鼻白んだガイアをウェンティがけらけら笑う。清泉町の狩人たちが使うテーブルもますます賑やかだ。この喧騒を聞きつけたのか、外で踊り遊ぶ風も店の窓ガラスを陽気にノックしては覗き見していく。
「今日は本当に風が強いよな」
少し表面の乾燥した葉野菜を噛みながら、ガイアは独り言のつもりで呟いた。今ディルックに話しかけてもまた睨みつけられるだけだし、ウェンティも用は済んだとばかり椅子から滑り降りている。帰りがけを無理に引き留めるほどには親しくない。
「よっぽどバルバトスの機嫌がいいのか悪いのか。俺はてっきりうまい酒でも飲んだのかと思っていたが」
「いやあ
……
」
耳聡いウェンティが店の扉に手をかけながら苦笑いしている。
ガイアを見ていやにしみじみと、奔放な吟遊詩人は口をひらいたものだ。
「おいしいお酒を飲めると思ってご機嫌だったけど、それが台無しになって落ちこんでるのかも
……
」
「それはおまえだろ?」
ははっと笑って言い返してやったガイアに、ウェンティはただ弱々しく手を振った。
「璃月でもワインって作れるのか?」
「作れないことはないだろう。極論、ぶどうが実ればワインはできる」
ふむ、とガイアは粉っぽい指先で下唇を弾いた。
夜に向けた仕込みのため、現在エンジェルズシェアは店を閉めている。今はひろびろとした店内にガイアとディルックだけだ。狩人たちも一度宿に戻ってくちくなった腹を休め、夜の大宴会に備えているだろう。
「質問を変えよう。
……
ディルック、璃月でうちに勝るほどのワインが作れるものか?」
「無理だ。絶対に。風土が違いすぎる」
「だよなあ」
グラスの数を確認するディルックと背中合わせに、ガイアは小さな調理台でパン生地を練っている。食事を済ませればガイアを遊ばせておく理由などなく、ディルックがランチタイムの最後の客が捌けるなり無慈悲にカウンター内へ引きずりこんだのだ。こういった工程をこなすにはディルックの体温は高すぎるため、たまにこうしてガイアが呼びつけられることになる。
昼食を出してやるから代わりに仕込みを手伝え、というぶっきらぼうな一声が、今日ガイアがエンジェルズシェアを訪れなければならなかった理由だ。
手伝い嫌さにのろのろと食事を遅延させようとするガイアの思惑などすっかり見通されてしまっていたが、それはそれとして興味深い話が聞けた。
「珍しいワインか。なあ、どんなものだと思う? 辛いとかか? 色が真っ黒なのかもしれないな?」
「黒ワインならうちにもあるだろ。珍しくもない」
「そうだが、そうじゃなくてだな。俺たちの知らない、何か本当に黒い謎の果実から作ってるとか」
「
……
君、それを飲みたいのか?」
「いや。ちっとも」
正直にかぶりを振る。背後から短い溜め息が聞こえた。
「しかし璃月か。俺には遠い国だ」
「
……
僕にだってそうだ」
パン生地が終われば次は挽き肉が待っている。
仮にも西風騎士団騎兵隊長とやらであるはずの自分が、なぜ薄暗いバーのキッチンで義兄にこき使われ、せっせと料理の下ごしらえをしなければならないのだ。氷神から授かった神の目は、神の目を得たことで低くなった体温は、このためにあったとでもいうのだろうか。
考えるごとに少々むなしくなるので思考を切り替える。
「ごっそり密輸でもされれば事だが、それを許す組合とおまえじゃないだろうし」
「当然だ」
ディルックの答えはいつも迷いない。こっそりとそれを笑うと、なぜか絶妙のタイミングで背後からディルックのブーツの踵がガイアの尻を蹴り上げた。
「いってえ!」
「へらへらしている暇があったら手を動かせ。まだ仕事は山ほどある」
「おいディルック、俺の本職の休憩時間も有限なんだぞ」
「そうだな。それがどうした? どちらにせよ君が急げばいいだけの話だ」
ぶうっと膨れっ面で唇を尖らせるガイアなど、ディルックからは見えないはずだ。それなのに今度は呆れ声で拗ねるな、とたしなめられる。
「なんでわかるんだよ」
ふん、と鼻を鳴らす気配がした。
「どうしてわからないと思うんだ」
「おかえりなさいませ。ディルック様、ガイア様がお待ちです」
ほとんど夜明けに近い深夜、当然のようにディルックの帰りを待っていたメイド長アデリンの開口一番がそれだった。コートを脱ぐ手を止めず、ディルックはただ天井に視線を向ける。
「いつから?」
「月が沈む前ですわ。お食事は結構とおっしゃいましたので、直接ディルック様のお部屋へお通ししました」
「そうか。ありがとう」
ディルックのコートを丁寧に抱きかかえ、アデリンはほんのりと苦笑した。
新米メイドを叱咤するときには決して見せない、穏やかで好意に満ちた表情だ。かつて、幼いディルックとガイアが彼女に頻繁に浮かべさせていたものでもある。
「ただ、お覚悟を。少々
……
お部屋に、ワインの香りがこもっているかもしれません」
「
……
ああ」
あの男、と舌打ちしてやりたいところをどうにかこらえる。自分たちきょうだいに甘いアデリンがたまたま手隙で、たまたまガイアを最初に応接した時点でこれは仕方のないことだ。あるいはガイアは、それすら見越して屋敷を訪れる時間を調節していたかもしれない。あの男ならやりかねない。
隻眼をにんまり得意げに笑わせるおとうとの幻覚を脳内でぶちのめし、舌打ちを溜め息に変換させる。改めて苦笑を浮かべたアデリンがの持つランプを追いかけて歩きだしながら、ごく低く囁きかけた。
「例の件については?」
普段から姿勢のよい背中がさらにすんなりと伸びる。
「申し訳ありません。まだ調査中です」
「謝らなくてもいいさ。急ぎというわけじゃない。僕が個人的に気になって調べてもらっているだけだから」
「ただ酒造組合のエルザーに声をかけたところ、璃月でそのようなワインを見たことはないと」
「そうか
……
」
ディルックがアデリンに指示していたのは、数日前にエンジェルズシェアで聞かされた珍しいワインについての調査だ。
ウェンティが真っ先にアカツキワイナリーを連想したように、おそらくほかにもそのワインの謳い文句を耳にしてやって来る者が出てくるだろう。本当にそんなワインが存在しているのかからの裏付けになってしまうのが面倒だが、噂が本格的にモンドで広まったときの手間を考えると動かざるをえない。
以前、璃月に、アカツキワイナリーを騙って酒を売り捌く商人が現れたことがある。
大したことではないと対応を後手後手にした結果、小悪党の芽は隣国からでは摘みきれないほど萌え出でて、現在でも地方でこまごまとした売名に使われてしまっているのだった。ガイアから珍しく本気で呆れられ説教された、ディルックにとって非常に苦い失敗である。
「ディルック様。ワインとは直接関係のない話なのですが、よろしいですか」
「なんだい?」
階段を昇る足音はディルックのものだけだ。アデリンはごく自然に足を進めているが、靴に布を巻いているわけでもないのに無音で動く。階段を軋ませもしない。
そのアデリンの手元でランプが油を吸ってじりっと炎を揺らした。
「これもエルザーからです。近頃石門の近辺や璃月港で酔客のトラブルが多い、と。流血沙汰も一件や二件ではありませんでした。郊外へ避難する住人までいるようです」
二階の廊下に立ったディルックの足音が止むと屋敷の中は途端に静寂に支配される。
口元に運んでいた指先で下唇を弾き、ディルックは一段下に佇むおそろしく有能なメイド長を振り返った。
「アデリン、遅くまですまなかったね。ありがとう。今日は下がってくれ」
「かしこまりました、ディルック様」
「引き続き調査を頼む。人は割けないがモラはいくら使ってくれても構わない。君の判断を僕は信用する」
「承りました」
「頼んだよ」
ラグヴィンドの家を陰に日向に長く支えてくれている人は、ディルックを仰いで静かに微笑んだ。
「お任せください。ディルック様」
案の定、ディルックの寝室はうんざりするほどワイン臭かった。
「よおディルック、遅かったな。さすがに寝てしまおうかと思ってたところだ」
ひとのベッドにどっかと腰かけ、にこにこしながらワイングラスを掲げる男を、ディルックは自室のドアを開けたままの格好で睨み据えている。
「ガイア。あまりにも度を越すなら金を取るぞ」
ふふん、とガイアはディルックの恫喝を鼻で笑った。
「おっと、お生憎だ。対価ならアデリンに支払ってある」
「
……
なんだと?」
「まあこっちに来いディルック。ああ、ドアは閉めろよ? ほかの奴らはもう寝てるんだからな」
ぬけぬけと言うものだ。はあっ、と見せつけるための溜め息をつき、しかし確かにこんな場所で突っ立っていても仕方がないので、言われた通りドアを閉じて施錠する。ディルックがベッド脇にたどり着くまでの時間で、ガイアは素早く数本のワインボトルとグラスを壁際にまとめていた。
にこっと笑ったガイアは目の前に立つディルックへ向けて両腕を広げてみせる。
「ほら」
「
……
まさか対価か? これが?」
「たまには甘やかしてやらないとだろう? おまえはすぐふてくされるくせに溜めこみすぎるからなあ」
ここ数日、ディルックが裏に表に何をしているのかを知り尽くしている声音と表情だった。
溜め息が出る。今度はふーうと、全身から力を抜くように長く長く息を吐き出した。
上から覆いかぶさるようにガイアの背を抱き、首筋に顔を埋める。
「アデリンとはどう交渉したんだ」
「うん? そのままさ。旦那様のお守りなら俺がしてやるから、おまえも早く休めってな」
ディルックがぐっと体重をかけるとガイアは楽しそうに笑って背中からベッドに倒れた。慣れた動きでディルックの髪紐を解き、こぼれる髪を指先で梳く。
「璃月港で物騒な事件が増えてるらしいじゃないか」
「今聞いた」
そうか、と言いながら、首筋から流れたガイアの指がディルックの襟元を探っている。タイを引き抜き、ベストを剥がし、ひとつひとつもったいぶってボタンを外す仕草の軽薄さが、慎重な声音にそぐわない。
「まあ無関係だろうが、一応な。タイミングが合いすぎてる」
「モンドはどうだ?」
「何も。平和なもんだ。
……
ああ、だが、明日は闇夜の英雄様の噂話で持ちきりだろうな?」
にやっと笑う小生意気な唇上を前歯で挟む。手助けがほしいわけでは決してないが、ディルックが悪党を蹴散らしているあいだもガイアはこの部屋でのんきにワインを楽しんでいたのだと思うとさすがにおもしろくなかった。
何より、こういう思考をすっかりガイアに見通されていることが一番おもしろくない。ディルックの肩や背を撫でるおとうとの手は、まるきり幼児をあやす大人ぶって得意になっているのだ。
「何事もなけりゃ、それが一番なんだけどな」
当たり前のことを呟くガイアのブーツを引き抜いて床に捨てる。ゆったりしたシャツは軽くくつろげるだけで肩から落ちた。
「それを確かめるために調べさせてる」
「そりゃそうだ」
ふふっ、とディルックの下でガイアはのんびり笑った。瞳がぼんやり滲むのはワインのせいだろう。煤の匂いがする、と鼻先に落ちたディルックの髪のひと房にいやそうな顔をしながら、緩慢な動作で両腕を差しのべてきた。
うなじにガイアの両手のひらの重みが心地よく乗る。
「ほら」
「ほら?」
「もういいのか? 何もしないなら寝るぞ、俺は」
「何もなければそれが一番いいと言われてしまったからな」
小首を傾げたディルックを、ガイアは興醒めだ、と声の代わりに顔つきで表現してきた。それを少し気が晴れた思いで見下ろしていると、首の後ろにかかった手が甘ったれてディルックを呼ぶ。
「
……
ああ、ああ。俺の言いかたが悪かったってことにしてやるさ」
促す手に従って顔を伏せてやる。ディルックの耳元に唇を押しつけて、ガイアは笑い含みに囁いた。
「まったく、察しがいいのはお仕事中だけか? わかれよ。せっかく脱がしやすい服で来てやってるんだ」
ふざけてディルックの髪を引く手は子どもじみていて、それにやっと安堵する。今度こそ真下にいるガイアへ遠慮なくのしかかりながら、ディルックは深く長く息を吐いた。からかうような笑声ももう気にならない。
たまには甘やかしてやりたい。
すぐふてくされるくせに、なんでも溜めこんで吐き出さない。
それはこちらの台詞だ、と舌先にまでこみ上げてきた言葉を、ディルックは形にしないまま直接ガイアの口中へ流しこんでやった。
アデリンが一本の小瓶をディルックのもとへ持ち帰ったのは、それから四日後の夕刻だった。
騎士団本部でジンとともに書類仕事に明け暮れていたガイアのもとへ、今夜店に来いとだけ書き殴られたメモが届いたのがすでに空に星が瞬きだしたころだ。
いくら訓練されているとしても、鷹にこの時間の街中を飛べというのは酷だろう。ガイアはディルックの不器用さに苦笑いつつ主人のために無理をしてくれた鷹をよくねぎらい、さらに青い顔で机に齧りつく代理団長をどうにか丸めこんで帰宅させることにも成功した。残った仕事を優先度順に並べ替えるところまで終えてから、指示通りエンジェルズシェアに顔を出したのだ。
どうせまたカウンターから舌打ちで出迎えられるのだろうと思っていた。
「
……
おっ? なんだよディルックの旦那。今日は酒を作ってくれるってわけじゃあないのか」
ところがディルックはガイアの予想を裏切り、出入り口至近のテーブルでじっと腕を組み黙りこくっている。
脂の焼けるかぐわしい香りや酒精のもたらす熱気も、頻繁に外気に洗われるこの場所からは少し遠い。ガイアとしてはいつものようにカウンターで向かいあい、料理の香りや周囲のお喋りを楽しみつつ酒を飲む気でいたので残念だ。今夜の接客は雇われバーテンダーのチャールズがしており、交代の予定もなさそうだった。
「何か頼んでもいいか? 喉が乾いてるんだが」
「後にしろ」
「だと思ったぜ」
ディルックの正面へ座りながらさりげなくエンジェルズシェアの中を窺ってみる。
店内の奥まった、薄暗く雰囲気のある席や、バーテンダーと直接やりとりをして酒を楽しむカウンターはすっかり埋まってしまっている。大きなテーブルではボトルを抱きしめたウェンティが常連客とわいわいやっているし、そもそもあんな場所をディルックとガイアがたったふたりで占有するほうがおかしい。目ざとくガイアという飲み仲間を見つけて騒ぐ彼らへ軽く片手を振った。
来店した客が自分からは選ばず、気にも留めない場所といったら逆にこういう席なのだ。そしてすなわちディルックにはこの場所が必要だったということになる。
ガイアはつい、湧き上がる期待にうきうきと口角を上げてしまった。
「それで、どうしたんだ? わざわざ俺を呼びつけてまで聞かせたいような面白い話があるんだよな?」
この世の中に愉快なことなどひとつもないという顔で、ディルックはコートの袖口から華奢なガラス瓶を取り出した。水差しと、注文が届くまでのサービス用のドライフルーツが乗るテーブルにきちんと立てる。ガイアやディルックの手にすっぽり隠れてしまうほどの大きさしかない。
「アデリンが璃月で手に入れた。一度飲んだら忘れられないワインの、そのサンプルボトルだそうだ」
「ほお。これが例の
……
」
小瓶をつまみ、ディルックの不景気極まりない顔を遮るように掲げてみる。店内に満ちるあたたかな灯りを内側に含んだワインはガイアの指先でとろっと輝いた。
隻眼を細める。首を傾げると、小瓶の向こうではディルックが視線を逸らしもせずにガイアの反応を待っていた。
「
……
俺の知ってるワインとはだいぶ違うみたいだな?」
ガイアとて仮にもラグヴィンド家の養子であったから、一本のワインが完成するまでにどれだけの苦労と情熱が傾けられているかは知っている。「エンジェルズ・シェア」を経て熟したワインをグラスにそそぎ、その深い赤を確かめて誇らしげに微笑む義父の横顔をガイアは今も覚えている。あの光景が心に残っているために、ガイアにとってただワインと言えばそれは赤ワインだ。
くるっと小瓶を回す。ガイアの知っているワインと真逆の色をした何かが小瓶の中でちゃぷちゃぷ跳ねて光る。
「璃月じゃ粒が真っ青のぶどうが獲れるのか? 我らがモンドの風神がまっとうな色彩感覚でいてくれてよかったなあ。いくら俺でもこの色はさすがにためらうぞ」
「岩神を軽んじて璃月人になぶり殺されたいならひとりのときにしてくれ、ガイアさん。僕を巻きこむな。
……
どうも向こうではうちの看板が安く見られているみたいだな」
「ん?」
瞬くガイアに、ディルックは顎をしゃくった。よく見ろということらしい。無言の指示に従うため鼻先まで近づける。
ほんの僅か紫がかって青い、透明度の高いワインを密閉する瓶には、あまりにも見慣れた刻印を模したマークが刻まれていた。
描くわけではなく、わざわざ一手間かけて刻みこむのが嫌らしいしわざだ。悪評が立てばアカツキワイナリーになすりつければよく、売れている限りは知らぬ顔で販売を続ければいい。
溜め息とともに小瓶をテーブルに転がす。小瓶はガイアが半目で睨むディルックの手元まで転がり、そこで止まった。
「みたいも何も
……
他人事にするなよ。これはおまえのドジじゃないかディルック。璃月の小悪党どもを野放しにしてのさばらせたツケってやつだ」
数年前のこの失敗は、今のところガイアがディルックをやり込めてやれる唯一のできごとだった。今もディルックは勢いよく眉を吊り上げたが、それだけだ。この世の誰よりもディルックが責任の所在を知っている。
「
……
そうだ」
地を這うような声だった。
モンド無冠の王とすら呼ばれる男が、自分のミスをかつてのおとうとから指摘されてへそを曲げている。
昔からガイアは、自分が腹を立てていてもディルックが拗ねはじめるとすうっと頭に昇っていた血が冷めてくるたちだった。ぶすくれたディルックにふっと苦笑がこぼれて、そうするともうこの義兄をいじめる気が失せてしまう。
「それで、どうするんだディルック? 璃月への輸出を増やして模倣品を擦り潰してでもみるか? それとも逆に減らすのか」
「
……
下手に璃月の市場を荒らして七星に目をつけられるのは避けたい。特に今の天権は油断ならない」
「どうも商売ってのは面倒だな、しがらみが多くて」
ドライフルーツを噛みながらディルックのほうへ手を伸ばす。目的は義兄の指先ではなくその手前に転がったままのものだ。
片手で小瓶の蓋を抜き、片手で水差しとともに伏せられていたコップを反転させるガイアに、ディルックは胡乱な目を向けた。
「おい
……
」
「喉が乾いてるって言っただろ? なにせここに来るぎりぎりまで働いてたもんでな」
小瓶を逆さにすると青色のワインは一滴残らずコップの中に落ちきった。軽く揺らして色を見る。コップに鼻を寄せて香りを確かめる。
「
……
一応ぶどうの匂いはするんだな。なあ、本当に璃月に青いぶどうってないんだよな?」
「ない。もしそんなものがあればワイナリーで真っ先に買いつけている」
それもそうだ。天下のアカツキワイナリーで取り扱いがないのなら、そしてオーナーであるディルックがここまで言うのなら、そんなぶどうは存在しないのだろう。ふうん、と唸ってもう一度匂いを嗅いでみる。強いアルコール臭とぶどうの甘い香りのほかに、もう少し手がかりが欲しい。
軋んだ音とともにガイアの背後から流れこんできた新鮮な空気が、一瞬ワインの香りを吹き飛ばした。
「あっ、ガイアさんにディルック様! 今日は珍しくこちらの席にいらっしゃるんですね」
にこにことガイアを見下ろしているのは、モンド屈指のうっかり者として名高い男だった。普段ならカウンターに陣取って口論に勤しんでいるガイアとディルックが、こんな入り口近くの落ちつかない席にいることに驚いた顔をする。それからパラドはガイアの持つコップを見て目を輝かせた。
「なんです、その酒? 青い酒なんて初めて見ましたよ。あっ、もしかしてアカツキワイナリーの新商品ですか?」
「これか? そうだなあ
……
新商品のような、そうでないような」
「おい。ふざけるな」
今すぐガイアの舌を断ち落としたくてたまらないという声だ。ディルックの不興を笑いながら、ガイアはパラドに見せつけるように顔の横でコップを揺らしてやった。
どれだけうっかり者だろうとパラドもモンドの男だ。未知の酒など飲みたいに決まっている。期待でパラドの瞳が明るく輝きだす様子に、ガイアはにっこり親しげに微笑んだ。
「ふふん。飲みたいか? だが、まさかタダで味わえるなんて思っちゃいないよな?」
「ううっ
……
そ、それはもちろん」
さてこの酒を餌にパラドから何を釣り上げてやろうか、と思う。
こう見えてパラドも冒険者協会所属の冒険者なので、ガイアやディルックとはまた違った情報源を持っている。うっかり口をすべらせがちなのもよかった。
そして何より、ガイアは他人が窮極の選択を迫られ追い詰められたときの顔を見るのが大好きなのだ。ディルックは駄目だ。この生真面目で融通の効かない男は、躊躇なんて言葉を人生のどこかに捨てて今日まで来てしまった。
「よしよし、パラド、まあ座れよ。おまえも一緒に飲もうぜ。ゆっくりとな」
「
……
ガイアさん、あんまり突っこんだ話はできませんからね? 訊かないでくださいね?」
「もちろんだとも。俺は、そんなことはしないぜ。俺からはな」
「
……
ガイアさん、ふざけるのもいい加減にしろ」
璃月付近の治安状況について、騎士団の認識と擦り合わせてみるのもいい。近頃不審な荷物の運搬や商隊の護衛などの任務がなかったかも気になる。
知りたいことは山ほどあり、さらにガイアは良心の呵責と欲望のままふるまう快感のはざまで苦しむ様子を眺めることもできる。コップ一杯の珍しい酒でそれらが買えるなら安いものだった。
おそるおそる近寄ってきたパラドへ、笑ってコップを差し出してやる。話を聞くだけ聞いて報酬を後回しにするのでは三流だし、酒を飲んだほうが舌も回りやすくなるだろう。
「
……
あっ、おい!」
ガイアの手から離れたコップが、パラドへ渡らずディルックの掌中にある。蹴り飛ばした椅子が壁に当たり跳ね上がるのに構わず、燃え盛る炎すら一瞬で凍りついてしまいそうな目でガイアを睨んだディルックは、なんとそのままコップの中身を一息に喉へ流しこんでしまった。
ああっ、と情けない悲鳴をあげるパラドをからかってやる暇がもうガイアにはない。自身も勢いよく椅子を蹴り飛ばし、床にコップを叩きつけて俯くディルックの胸ぐらを強く掴んで引き寄せた。
「
……
ディルック! アカツキワイナリーのオーナー様が客から酒を奪うとはご立派なことだな。恥を知れ!」
「ガ、ガイアさんっ
……
俺は平気ですから」
「いいや、パラド、おまえも怒鳴ってやればいい。言ってやらなきゃこのお坊ちゃんはわからないのさ」
ディルックからの反論はない。眉をひそめ、口元にこぶしをあててじっとガイアを睨み据えている。
いつの間にかしんと静まり返っている店内を一顧だにせず、ガイアも真正面からその視線を受けて歯を剥いた。
「昔からおまえのそういうところが気に食わなかったんだ。この世のすべてが自分のためにあるような顔しやがって」
来い、とシャツを掴んだままの手を引く。抵抗がないのをいいことに、ガイアはそのままディルックを引きずり葬式会場のような店内を大股で横切った。
吹き抜けの階段に足をかけたところでようやく思い出したようにカウンターを振り返る。
「チャールズ。屋根裏を借りるぜ。すまんがしばらく誰も近寄らせないでくれ」
「ああ
……
言われなくてもそうするよ」
苦々しい表情でガイアたちを追い払うように手を振るバーテンダーの陰では、うなだれたパラドがしょんぼりとガイアたちの暴れた跡を片づけている。ただ気持ちよく酒を飲みにきただけの彼に、とんだ迷惑をかけてしまった。
「
……
今度会ったら何か奢ってやるか」
「
……
君が出せよ。君のせいなんだから」
口元を押さえたまま、ディルックがぐったりと疲れ果てた声でガイアの呟きに言い返してくる。
ガイアはまだ表情を崩せない。眉間に皺寄せ、肩をいからせて、滅多にない騎兵隊長の激昂を店にいる全員に見せつけなければならない。
「おいおい勘弁してくれよディルック、そこは折半だろ?」
「
……
こんなときばかり甘えるんじゃない」
「どういう意味だよ?」
「自分で考えろ」
それでもディルックの理不尽な物言いには階段を上りながら柱の陰で囁かずにはいられなかったし、ついうっかりにゅうっと唇を尖らせるところだった。
もう少し余裕があれば実際にそうして拗ねて見せてやっていた。だが、ほんのコップ一杯程度の酒を飲んだだけで早々に足元のおぼつかないディルックを担いで三階まで階段を上るのはそれなりに気を遣う。
店の裏に引きずりだすふりで外に出たほうがよかったかもしれない、と、遠慮なく体重を預けてくる体にうんざりするあまりそんなことを考えてしまった。できるわけがない。
モンドの貴公子ディルック様は、瑕疵ひとつない完璧な紳士で通っている。ガイアからすると噴飯ものの話だが、とにかくそんな男が千鳥足でふらふら家路を辿る姿など他人に晒せるものではなかった。
ディルックの持つ資産も人脈も権力も、蟻の一穴から漏れ出たものだけであってもとてつもない価値がある。だから隣国でも怪しげな酒に勝手にアカツキワイナリーの名を使われるのだ。
「おいディルック、頼むから吐いてくれるなよ」
「当たり前だ
……
」
エンジェルズシェアの三階部分は、予備の家具や保存の効く食材の倉庫になっている。定期的に物の出し入れがあるため清掃も行き届いているし、階下の魅力的な香りを立ちのぼらせる湯気やふくよかな酒の香りがないぶん、倉庫のほうが空気がいいような気さえするのだった。
階段を上りきったガイアはまずディルックをそのあたりの床へ転がし、コートをひん剥いて喉元のタイを緩めてやった。ボタンをひとつふたつ外すついでに汗ばむ首筋を探ってみる。もともと体温の高い男ではあるが、それを加味しても少し熱い。
眉をひそめる。
「
……
ワイン、なんだろ?」
「
……
あんなものをワインと呼んだら二度と父さんに顔向けできない」
ディルックの、無理に汚泥を含まされたような顔を上から見下ろす。次にガイアは清潔な倉庫内に視線を走らせ、ぶどうジュースの詰まった木箱と、薄紙に包まれたワイングラスのありかを確かめた。
「まったく、泣いて感謝しろよ? 俺がジュースを奢ってやる相手なんて、クレーかおまえくらいなもんだぞ」
一緒にするな、そもここにあるものはもともとすべて僕のものだ、と大きな目が言葉よりも雄弁にガイアをなじってくる。強情者のディルックをして、声を発することもつらくなってきたらしい。
「ほら」
しかめ面のディルックを、壁を背にして座るよう抱き起こす。やはり体が熱い。グラスに半分ほどそそいだジュースをちょっと眺めてから、氷元素で軽く冷やしてやった。
飲め、と手渡してやろうとするのに、ディルックの指先はあさっての方向に伸びて虚空を掻きとろうとする。
いよいよらしくない。
グラス片手に顎を撫でてから、ガイアはディルックと前髪が触れるほどの距離になるまで床を膝でにじった。鬱陶しそうな瞳にちらっと笑いかけ、すぐに真顔になる。
「
……
いいかディルック、絶対に、絶対にだ。絶対に吐くなよ」
つ、と人さし指で顎を掬いあげるとディルックはたちまち諒解してうっすら口を開けた。
こんなときでもディルックのふっくらした唇は柔らかそうにつやめいている。ただそれを見ても色っぽい気分になるどころか、ガイアは風邪をひいた幼児の口にパン粥を流しこんでやる気分だ。
ふう、と鼻から息を抜き、舌の上で凍らせたひと口ぶんのぶどうジュースをそうっとディルックの口内へ押しこんだ。
嬉しそうに口の中でもぐもぐと氷を転がす無邪気な義兄の、汗で貼りついた前髪を横に流してやる。
「少しはマシになったか? 喋れるか? 自分の名前はわかるよな?」
「
……
炎水だ」
「
……
おまえの本名がか?」
「違う。
……
真面目に聞け」
普段の叩き斬るような勢いこそないものの、一応視線を合わせて会話もできるし、ガイアの悪ふざけをあしらう余裕も意地も出てきたようだ。ひと言ひと言を噛みしめ、意識的に発音するディルックの白い頬を、次々に汗が伝い落ちていく。
「こんなものはワインじゃない。ベースが炎水、ぶどうのリキュールと、あと何か
……
ビターズに、おそらく
……
秘密がある」
「炎水なあ
……
」
ディルックは酒嫌いだ。酒の味が嫌いなんだとぶすくれた顔で白状された日、ガイアは天を仰いで蒼穹に今は亡き義父の姿を探したものだ。当然そのあときつく睨まれた。
決して娯楽のために杯を湿らせることはしないし、社交の場ですら何くれと理由をつけて乾杯だけでごまかしている。今夜のように自ら手を伸ばして酒を飲み干すのは本当に珍しいことなのだ。
そんな筋金入りの男だが、同時にディルックはモンドで名を知られたバーテンダーでもある。ディオナのような天才でもない限り、酒を知らなければカクテルは作れない。
ディルックの舌は肥えている。それをガイアもよく知っている。だからこそディルックの汗を吸いながら顔をしかめた。
うっかりガイアの道楽のために、パラドへこんなものを飲ませるところだった。
「しかし、また話がややこしくなってきたじゃないか。いったいうちの看板を盾に悪さをしてるのはどこの誰だっていうんだ?」
「それを調べてるんだろ
……
」
ガイアの好きにさせながら、ディルックも今ばかりはさすがに疲れた声で投げやりに呟く。脳裏に赤字で明滅する名前を口にしたくないのはガイアも同じだった。
炎水、という名の酒はモンドではほとんど手に入らない。あまりに酒精がきついため、甘党の多いこの国では需要も少ないだろうとディルックがスネージナヤからの輸入を絞ったからだ。
実際、クレームはほとんどない。
スネージナヤから押しかけてくる厄介な外交官たちが、夜ごと高圧的にごねる程度だ。
「璃月で見つけた怪しい酒がモンドに流れてきてスネージナヤのファデュイに繋がるって? 勘弁しろよ。今日代理団長と丁重にお見送りしたばかりなんだぜ」
ガイアとジンに多大なストレスと始末書の山を残していってくれたかの国のくせ者たちを思う。いてもいなくても迷惑なのだから羽虫よりもたちが悪い。ディルックのこめかみを舐めながら天井を仰いでしまう。
汗はまだ止まる気配もない。
「
……
おいディルック、おまえ本当に大丈夫か?」
「ガイア
……
」
「うん? きついか? 吐くか?」
せっかく心から心配してやっているというのに、ディルックはそんなガイアに向けて自分の歯並びと赤く濡れた舌を見せつけてきた。ぶどうジュースの氷塊を舐めきったようだ。
「ああわかった、わかったよ。ちょっと待ってろ」
クレーだってそんなことしないぞ、と呆れて笑いながらジュースの瓶に手を伸ばす。
ディルックの酒の回りが早いのは、めったに飲まないせいだろう。酔うと普段よりもほんの少しだけ愉快なことになって、そして翌朝自分の失態を悟り、照れ隠しに不機嫌になる。いつもそうだ。ガイアはそのたびディルックをからかうのが楽しくてたまらない。
「ガイア」
「だから待てって」
笑ったまま振り返ると目の前に赤い髪と赤い目と赤い口が見えた。
ああ、食われるな、と、ガイアは悠長に視界を埋め尽くす赤を見ながらそんな馬鹿なことを考えて、実際その通りになった。
容赦ない腕に引きずり倒された背中の下では、酔客が何かうまい冗談でも言ったのか、どっと朗らかな笑声が弾けるところだった。
「
……
にいさんって、絶対目を逸らそうとしないよな」
いつものからかうような口調ではなかった。唇に挟んだスプーンの柄をぶらぶら上下させ、うんざりと、ガイアはそう言ったのだ。
「
……
そう? 気にしたことがなかった」
モンド城は今日もうららかな晴天だ。運良くランチタイムに滑りこめた鹿狩りだったがすでに店内の席が埋まっていて、ディルックたちが案内されたのは店外にみっしり並ぶテーブルのひとつだった。心地よいざわめきといい風のあたる、明るい席だ。
特製のステーキを頬張るディルックの手元に、パラソルで遮りきれなかった光の粒がぽろぽろと踊って弾ける。おとうとが咥えるスプーンにも、食べかけのポタージュの表面にも、同じ輝きがある。
「ガイア、本当にそれだけで足りるの? 少し分けてあげるってば」
「騎兵隊と庶務じゃ燃費が違うんだ、俺はそんなに毎食毎食肉を食わなくても平気さ。太りたくないしな」
「格好つけて
……
図書館でお腹が鳴っても知らないからね」
ガイアはスプーンを持ち直して楽しそうににやっとした。
「そりゃあ知らないだろうな。俺が本部で仕事してるあいだ、にいさんは外で演習中なんだから。それとも俺の腹の音を聞きに図書館まで来るつもりか?」
「ガイアっ」
「ほら、にいさん」
何がほらなのかわからない。きょとんとするディルックへ、お手本のような行儀のよさでポタージュを口に運んでから、ガイアはそっと苦笑する。
「今までずっと俺から目を離してない。肉を切り分けるときすらだ。そんなに見られても俺から出せるのは財布くらいだぞ?」
「
……
僕はおとうとに奢らせる気はないよ」
「俺だってにいさんにたかる気はないさ。自分の給料で、自分の食べたいものを食べてる。だろ?」
隻眼でふっくら笑う義弟からそう諭されてしまうと何も言えなくなる。む、と口を噤み、意識的に俯いて皿に残るステーキをソースの中に転がしていたら、なんとガイアから行儀が悪いと注意されてしまった。愕然として顔を上げる。
「まさか君からそんなことを言われるなんて
……
」
「そこまで驚くか
……
?」
ガイアは不満げに半目になるが、いつもはディルックが彼に同じことを言う側なのだから当然だろう。
同じ家で同じ教育を受けて育ったガイアはもともとから賢い子だった。やろうと思えばディルックと同じくらい礼儀正しくなるくせに、わざとふざけては周りに注意させようとするのだ。
この家は叱ってくれる人がたくさんいて嬉しい、とにこにこしながら言われたときから、ディルックはガイアのいたずらを絶対に見逃さないようにしている。
「
……
いや、というか、俺はどうだっていいんだ。けどにいさんはちゃんとしてなくちゃ駄目だろう。モンドの日射しは明るいし、風はここからクリプス様のもとまで吹く」
「そうだね。そして僕の未熟さと一緒に君がいまだに父さんのことを父さんと呼ばない頑固ぶりも伝わって、またがっかりさせるんだ」
じろっとディルックが睨むとガイアは少し顎を引いて唇を尖らせた。それとこれとは話が別だろう、などと口の中でむにゃむにゃ言っている。何が違うものか。ガイアもディルックも家族の話をしている。
「
……
にいさんにも、もちろんクリプス様にも、俺は本当に感謝してるよ。嘘じゃない。きっと心から俺はこの国が好きだ」
「わかってるよ」
ちらりと苦笑したおとうとの頭を撫でてやりたかった。なぜだか目の前のガイアが急に初めて会ったときの、緊張と怯えをじっと耐えるやせっぽちの子どもの姿と重なって見えたのだ。
「ガイア」
「ただ、
……
ただ、まだ折り合いのついてないことがいくつかあるんだ。俺はたぶん、それに答えが出てからじゃないと、あの人を父さんと呼ぶ資格がない」
うまい食事と快適な陽気に浮かれる人々の声のほうが、ぼそぼそ呟くガイアの声よりずっと大きい。ディルックは溜め息をついておとうとのポタージュの中に肉をひと切れ沈めてやった。
「
……
ひとが珍しく真剣に話したってのに、その報いがこれか
……
」
「自覚があってよかったよ。これから熱が出るかもしれないからね。栄養をとっておいたほうがいいよ、ガイア」
「優しいおにいさまに恵まれて、俺は本当に幸せ者だよ。涙が出てくる」
大きく肩を落としてポタージュ皿を掻き混ぜるガイアの、くたびれたような笑みをじっと見る。もうディルックがよく知る、陽気でいたずら好きのガイアの顔だ。びくつく子どもの影などどこにもない。
「
……
あのなあにいさん、俺ばっかり見てないでちゃんと食えよ。ドラゴンスパインのフクロウだってもう少しはよそ見するぞ」
「たぶん、もう癖になってるんだよ。ガイアを見てるほうが考えが纏まる気がする」
「俺は落ちつかないんだよな
……
」
ガイアの切実な呟きには聞こえなかったふりをする。脂の浮いたポタージュの湖から掬い上げたステーキ肉をうんざり見つめるガイアの顔が面白い。意を決して口に放りこむおとうとのタイミングに合わせて、ディルックも肉をひと切れ頬張った。
「
……
大変だ。にいさん、案外うまいぞ、これ」
隻眼をいっぱいに見開き、まるで世界の神秘を暴いたかのような重々しい声で報告してくるおとうとが愉快でけらけらと笑った。
残りのステーキはふたりでポタージュに浸して綺麗に平らげた。そして後日、不思議なことになぜかそれを知っていたクリプスから、きょうだい揃って手紙で渾々と説教されるはめになったのだった。
あのとき食べたステーキの味がする、と思った。ではここはあの日のモンドだ。まだディルックが何ひとつ間違えていないと愚かに信じていた、無邪気な過去の日だ。
「ディルック」
もぐもぐ顎を動かすと舌が濡れた。脂の浮いたポタージュよりもかなり喉にねばつく、錆っぽい味がする。
「ディルック。わかるか? おまえが食ってるそいつはまだ生だ。腹壊すぞ?」
頭の中でわんわんと音がうなってうるさい。
口はずっと弾力のある肉を噛んでいるのに、視界が暗いのでその正体がわからない。五体の感覚がはっきりしない。ただ、背中を柔らかくぬるぬると撫でられているのはわかった。ディルックの傍に何かがいるのはわかった。
……
ディルックがこれほどの至近を許している人間は今、この世界にひとりしかいない。
心臓を冷たい手で握り潰されたような感覚のあと、あーあ、と溜め息のような声が、はっきり聞こえた。
「おまえに食い殺されるっていうのも、まあ悪くはないんだがなあ。ただせめて正気のときにしてくれよ」
肉に食いこませていた歯を引き抜くと強張る顎がぎこちなく軋んだ。視界がきかなかったのは床板にうずくまって抱えこんだものに食いついていたせいだ。ちらつく視界に見慣れたものがいくつも映る。鹿狩りではない。ここはエンジェルズシェアだ。アカツキワイナリーのオーナーである自分の店だ。
ぶるぶるわななく両手で汚れた口元を覆う。粗末な酒を飲んでも耐えきった嘔吐感がもう舌の付け根までせり上がってきている。
「よう。お目覚めか、ディルック? とっくに下はおひらきだぞ」
脂汗にまみれてにこにこ笑うガイアの、あちこちがどす黒く濡れて腹まで捲れ上がったシャツを見る。その下の肌を確かめ、下半身を見る。
肩の噛み傷よりも肉のちぎれた手首よりも、繋がったままのそこがどこよりも酷い。認識したとたんに血や諸々の体液の臭気が濃くなった気がする。
「大したことじゃない。気にするな。遺跡守衛に背後からぶん殴られたときのほうがよっぽどこたえた」
「大したことじゃない
……
?」
腰を引き剥がす動きだけで得意の薄ら笑いを歪めるくせによく言う。
パラドのもとへ渡りかけていた酒を奪ったときのような激昂を、演技でもしてくれたらよかった。ディルックは何よりも優先してガイアの怒りを浴びなければならない。軽蔑を真正面から受けるべきなのに、ディルックの下でぐったりと床に転がる男はまだ笑おうとしている。
「
……
ガイア」
「ディルック。意識がはっきりして早々悪いんだが、ジュースを一杯もらえないか? 喉ががらがらなんだ」
少し離れた場所にぶどうジュースの瓶が倒れて床を濡らしていた。おそらくグラスもどこかで同じように転がっている。
ぎしぎし痛む体を無視して新しいジュースとグラスを選び、ガイアの怖くなるほど冷たい体を抱き起こした。
壁際に座らせると、阿呆のような速度で酒を飲む男が、さっきと逆だなと笑いながら舌先を濡らすようにジュースを舐める。そのあいだに最低限の身なりを整えたディルックには、スラックスの前面に染みこんだ鉄臭さを殺したい気分で眺めるしかできることがない。
「おまえも飲めよ。口の中を洗ったほうがいい」
「
……
僕はいい」
ふーう、とガイアは鼻から大きく息を抜いたようだった。
「ディルック」
ぼろぼろの腕がディルックの肩に回る。もたれかかる勢いを利用してガイアはディルックの唇を割り、ぬるいジュースを流しこんできた。
睫毛が触れる距離でガイアの瞳が露骨な呆れを浮かべる。
「おまえって本当にバカだよなあ」
こんなにぼんやりしていて大丈夫か、仕事以外のものに対して勘が鈍りすぎてやいないか、とディルックを揶揄する口元が濡れている。それがぶどうジュースなのか傷のせいなのかすらも、ディルックにはわからない。わからないから反論できない。
「まさか俺がたったこれっぽっちのことでおまえから逃げると思ってるのか? 本気で? 嘘だろ? こんなつまらんことで終わりにできるなら、俺たちとっくの昔に赤の他人だったぜ。そうじゃないか?」
ガイアは父クリプスの死因にも関係がある亡国の間諜役であり、父の死に際し嘆くよりも先にまず愉悦を感じた下衆で、そしてそんな自分を深く恥じて嫌悪した男だ。ディルックのかけがえない義弟で、友人で、相棒だった。
好き嫌いというかわいらしい名前ではとても区分できないところにガイアはいる。
冷たく硬直する胸の内へ、湿った空気を無理矢理取りこんだ。
「
……
そんなことは、思っていない」
「よしよし。愛しているぜディルック」
ディルックの鼻の頭をかるく噛んで笑ってから、ガイアは疲れきった顔を少し引き締めた。
「で、だ。頼みがいくつかある」
「
……
聞こう」
「直近のところからいくが、今日は昼営業を休みにしてくれ。単純に俺がまだ動けない。すまんがここで休ませてもらう」
当然のことなので頷いた。
「おまえが知るなかで一番口が堅い、そうじゃなければ俺が殺しても後腐れのない治癒術師をここによこしてほしい」
「わかった」
「これは俺なんかよりおまえのほうが思い知ってるだろうが、ちょっとこの酒はやばすぎるな。酒以外の輸入品に似たようなものがないか、組合会で目を光らせられるか」
「もとよりそのつもりだ。騎士団は」
「もちろん動いていただくさ。だが人手不足が痛いな
……
」
ガイアはまだディルックの歯型がくっきりと残る腕を上げ、指先で下唇を何度か弾いた。
「ディルック」
自分の惨状など何も見ていない顔で先の予定を組み立てていた男が、ふとディルックを呼ぶ。
ディルックを眺める隻眼はおもしろそうにふっくらしていた。
「おまえってこんなときでも本当に目を逸らさないよな。いつだったか、鹿狩りで似たような話をしたの覚えてるか? ほら、犬みたいな食いかたするなって父さんに手紙で叱られたことがあっただろ」
きょうだいとして過ごしていたころ、結局ガイアは一度もクリプスのことを父とは呼ばなかった。
今になって懐かしく慕わしげにそう呼ぶのだ。
覚えているに決まっている。あのとき鹿狩りで交わした会話も、後ろめたそうに唇を尖らせたおとうとの俯く顔も、ディルックは掌中からひとかけらも取り落としはしなかった。
「
……
ああ」
かろうじてそれだけを絞り出すと、ガイアはまるくした目をぱちぱち瞬かせた。
ふっ、とひび割れた唇から笑声を噴き出して小憎たらしい顔をするくせに、いつかの昼の日射しのようにディルックを呼ぶ。
「俺よりよっぽどひどい面だな」
ひとの目玉を鏡代わりにする男は軽薄に笑った。おまえが目を逸らさないおかげでよく見える、と、深更の倉庫の物陰でしゃあしゃあと言うのだ。
頬の肉を噛み潰す。食い破ることをさせない今更の理性が憎々しかった。
こんなときですらこの男は、ディルックを守ろうとする。
ディルックはご丁寧にガイアが欠勤する旨を騎士団へ伝えていたらしい。のんきに昼下がりから出勤したガイアが庶務課の騎士に声をかけたところ、そう教えられた。
騎士も驚いていたが面食らったのはガイアも同じだ。あのディルックが、ガイアなどのために、わざわざ大嫌いな西風騎士団へ赴いて騎士たちと言葉を交わしたという。その光景を想像するとどうしても口元がにやついてしまって、庶務課の騎士に訝られた。
「ガイア隊長?」
「ああいや、なんでもないんだ。忙しいのに手間をひとつ増やして悪いが、遅刻に書き換えといてくれ」
「ええ
……
わかりました」
ひらっと手を振り歩きだす。ガイアがへらへらしているのはいつものことなので、表情の変化を知らずに擦れ違う同僚たちからは重役出勤をからかわれるだけだ。
昨夜のディルックの、今すぐに自分のはらわたを抉り出して握り潰してしまいたい、と書いてあった顔を思い出す。
どうやら自分で自分を殺す前に少しは頭を冷やせたらしいが、それにしても欠勤連絡は過保護すぎだろう。新人騎士の母親ですら躊躇するというのに、それをよりにもよってあのディルックがしてのけた。ぐっ、と喉に笑いがこみ上げる。
甘やかされている。しみじみそう思う。
ディルックがワインを飲むきっかけは元を辿ればガイアだったし、好きでもない酒を飲み干したあげく不本意なふるまいで傷ついたのもディルックだ。決してガイアではない。
おまけに今日のエンジェルズシェアは、ガイアのせいで半日ぶんの売り上げをふいにしている。
どう考えても損が大きいのはディルックのほうだった。おひとよしめ、と、執務室の扉を開ける隙に短く苦笑する。
さらになんとも救いがたいのは、ガイアにこの無愛想で不器用な思いやりに浮かれている自覚のあることだった。
「すまん代理団長。眼帯を探していて遅れた」
ガイアの予想通り、西風騎士団の誠実で勤勉な代理団長は、書類で埋まった巨大な机の小さな空隙で何か書き物をしていた。本当なら朝からガイアと手分けして処理していたはずの業務だ。さすがに胸が痛む。
しかしジンのほうはガイアのなけなしの良心につけ込むようなまねはせず、どころか顔を上げるなり安堵のような笑みを浮かべてみせる。
「ガイア! よ
……
よかった、よく無事で
……
!」
「
……
うん?」
ガイアがちょっと首を傾げているあいだに、ジンは席を立って足早に近寄ってきた。初めの数歩でふらついたように見えたが、昨日あれからきちんと休んだのだろうか。
華奢だが皮膚の硬い、モンドのために剣を振るう手がしっかりとガイアの両腕を掴んだ。
「昨日エンジェルズシェアで君とディルック先輩が口論の末乱闘になったと
……
怪我は? もう動いていいのか? 休んでくれて構わなかったのに」
「
……
なるほどな。代理団長、ちなみにそれは誰から?」
「城下町の皆からだ。私が本部に着くまでに十数回は声をかけられ、同じ回数だけ君たちのことを聞いたぞ」
「ははっ」
笑うしかないガイアの体のあちこちへ慎重に触れ、ジンは異常のないことを検めようとしてくれる。
「さすがはディルックの旦那だ。知名度はモンドいちだな」
「何を言うんだ。皆、君のことを心配しているんじゃないか」
最後にガイアの胸をとん、と叩き、ジンは幼児をたしなめるような笑みを浮かべた。
「もし大怪我でもして街で会えなくなったら寂しいと。なんなら孫を看病に使ってほしいと言うご老人までいたんだぞ」
「ほお。つまり、俺はあいつより弱いと思われてるわけだ」
「ガイア」
困ったような、呆れたような顔でジンはガイアをたしなめる。ガイアが肩を竦めると彼女も苦笑して同じ仕草を返してきた。
「まったく
……
それで? ディルック先輩との揉め事と眼帯と、どちらが遅刻の本当の理由なんだ?」
腕を組むジンの問いへ答える前にガイアはにこっとした。
わざとらしく芝居じみた動きでジンに窓辺のソファーを勧め、彼女が腰かけるのを確かめてから手近な椅子を引き寄せる。組んだ脚の上でゆっくりと指先を重ねた。
「安心してくれ、代理団長。揉め事ってほどのもんじゃないさ。もちろん殴りあったりもしていない。実際、俺の体には擦り傷ひとつなかっただろう?」
「それは、確かに
……
」
「ただちょっと気になることがあったんだ。それについて旦那様と話しこんでいたのさ」
そう言った瞬間、窓からのうららかな日射しを浴びてほどけていたジンの眉間が再び緊張した。
「気になること
……
?」
「ゆうべ、ディルックの旦那が変わったワインを出してきてな」
作用についてはすべて伝聞のていで説明したが、それでもジンの表情はみるみるうちに険しさを増した。背後から降りかかる光が今ではすっかり逆効果で、影になった白い顔は整っているからこそ迫力がある。
「そんなものをこのモンドへ広めるわけにはいかない」
厳然と、ジンはそう述べた。烈日のようなまなざしは現在の西風騎士団を見事に御しきる長のものだ。その目で射抜かれて、ガイアもうっすら笑いながら首肯する。
「酒造組合のほうはディルックが圧をかける。俺たちも俺たちでできることをするべきだと思っているんだが、どうだ? 代理団長」
「もちろんそうする。
……
話を広げれば、逆に興味をもってしまう者が増えるかもしれない。確証を得られるまでは秘密裏に、ということにはなるが」
「まあ、何しろものが酒だからなあ。モンド人は酒と大風にはすこぶる弱い」
「へえ。まるで自分は違うような物言いだね。ガイア」
脚を組み替えながら肩越しにドアを振り返り、ガイアはにやっと笑った。
「ノックもなしに入室するのはマナー違反じゃないのか? アルベド?」
「
……
ガイア、ちなみに君もノックはなかったぞ」
困り顔で呟くジンへはにっこりする。失礼、と今更改まってドアをノックするアルベドの背には、小さな赤い影がぴたりと貼りついていた。彼女には珍しい落ちこんだ様子に、ガイアは瞬きながらアルベドを見る。
「クレーはどうした? せっかくおまえと一緒なのに元気がないな。何かあったのか?」
「まあね」
アルベドが椅子に座るとクレーもその膝によじ登る。だがアルベドの腹に顔を押しつけると丸くなってそのまま動かなくなってしまうのだった。いたわるように、アルベドは繰り返し背を撫でてやっている。
「レザーが、最近クレーと会ってくれないそうなんだ。家族の体調が優れなくて看病しなければいけないからと」
「レザーの家族っていうと
……
狼たちか。狼の具合が悪い?」
ほとんどモンド城には近寄らないが、狼とともに育った少年にはガイアも面識がある。たまにアカツキワイナリーでこっそりぶどうを盗み食いし、その後ふたり並んでオーナーから説教される程度の仲だ。クレーと草原を走り回る姿もよく見ていた。
「あのね、レザーも元気がなかったの
……
」
アルベドの腹から、しょんぼりとした声がする。
「クレー、レザーに一緒においでよって言ったんだよ。アルベドお兄ちゃんに診てもらったらすぐ元気になるよって。だけどね、家族みんなはお城に連れてけないから、それなら意味がないからって、断られちゃった
……
」
ぐすん、と鼻を鳴らすクレーの肩にジンの手が乗っている。
「そうか
……
偉かったな、クレー。困っている人に手をさしのべるのはとても立派なことだ」
「でも
……
でもね、ジン団長。クレー、ちゃんとできなかったよ」
小さな騎士は、震える小さな声で、小さな胸をいっぱいにする巨大な無力感を呟いた。
「クレーはレザーも、狼のみんなも、元気になってほしかったのに」
「できなかったと決めるのはまだ早いさ。クレーはアルベドにそれを相談したじゃないか。大丈夫、私たちに任せてくれ」
「
……
うん。わかった
……
」
普段のクレーからは想像できないほどか細い返事を聞きながら、ガイアは指先で下唇を弾いている。
最近どこかで似た話を聞きはしなかったか。思い出そうとはしているのに、どうしても直近の記憶がなまなましいせいで脳裏には派手な赤毛と赤い口ばかりがちらつく。
胸の内だけで嘆息してから、ガイアはアルベドへと顔を向けた。あまり感情を露呈させない男だが、クレーを見守る視線は気遣いにあふれて穏やかだ。こんな表情もできるのだな、と、つい失敬なことを考えてしまった。
「これでもクレーの兄を自負しているからね」
ガイアの思考を読んだようなタイミングだった。ふと顔を上げたアルベドが、ガラスのような目でガイアを見つめる。
「こんなに落ちこんで寂しがっているんだ。さすがにボクもクレーを放置してドラゴンスパインに引きこもろうとは思わないよ」
「そうか。頼もしい兄貴がいてくれるならクレーも心強いだろうな」
「キミの実体験かい?」
「ん? なんの話だ?」
にこにこ笑うガイアにアルベドも微笑んだ。
「まあいいさ。ガイア、キミにそう言われて悪い気はしない。兄として、大事な妹に甘えてもらえるのはやはり嬉しいものだから」
ただ、とアルベドは低い声で呟いた。ジンの励ましでようやく顔を上げるようになったクレーの背を撫でる手つきと、その声がそぐわない。
「
……
だからといって、クレーを落ちこませている原因にまで感謝するつもりはないが」
ジンとガイアを呼ぶ声もアルベドにしては低い。沸点などないようにどんなときでも凪いだ対応をするアルベドの、見つけることすら困難な逆鱗を、いまだ全容見えざる愚か者の指先が掠めてしまったようだ。
「キミたちがさっき話していた青いワイン。もう一度入手できたら、ボクの所へ持ってくるといい。ディルックよりは詳しく成分を調べられると思うからね」
「それは助かるが
……
狼の不調にワインが関係あるのか?」
「大体の推測はできているよ。だが、騎士が動くには確証が必要だろう?」
「推測? これまでの話だけでか?」
首をひねるガイアにアルベドは淡く微笑んだ。
できの悪い生徒を根気よく教える教師の目だ。そしてその奥に、ほんのひと匙ぶんのからかいが見える。
「おや
……
おかしいね。ガイア、キミもあの日、噴水広場でボクたちの話を盗み聞きしていたじゃないか」
「盗み聞きだって? おいおいアルベド、まさか俺がそんな不名誉なまねを
……
」
していた。
たしか風の強い日だった。ディルックに呼びつけられて、パン生地を捏ねるために嫌々エンジェルズシェアに向かう途中だ。アルベドがティマイオスに説教するところを通り過ぎたのだ。
ティマイオスが作ってしまった使い途のないポーションは、目の醒めるような青色だった。
「
……
まさか俺のお行儀のよさがこんな形で役立つときが来るとはな。日頃の行いってやつか?」
ひらりと立ちあがる。アルベドはクレーを抱いたまま微笑み、その傍らのジンは瞠目してガイアを仰いだ。
「ガイア? どうしたんだ、突然」
「代理団長、すぐ戻るから机の上の仕事は残しておいてくれ。眼帯を忘れた、取りに行ってくる」
「嘘が雑すぎる!」
もっともすぎる指摘だ。笑顔を返し、ついさっき入ってきたばかりの扉を再び通り抜ける。一歩出たところでぶつかってしまった人影を支え、ついでに勢いを使ってくるりと一回転させた。大きな赤いリボンも動きに合わせて揺れる。
「おっと。気をつけろよ、アンバー」
「ぶっ
……
ぶつかってきたのはガイア先輩ですよ! あと遅刻! あとどこ行くんですか? 仕事! ジンさん朝からずっと心配してて! こ
……
こらーっ!」
周囲の同僚に呆れられ笑われながらすたこら逃げる。
モンドの風は風神像に向かって吹いている。
だから外に出てしまえば、エンジェルズシェア目指して階段を駆け下りてしまえば、アンバーのおそろしい叱声もすぐに聞こえなくなるのだ。
エンジェルズシェア二階の、そのさらに奥の階段から軽装で現れたディルックを見て、一階ホールのウェンティは不思議そうに目をまるくするところだった。捲り上げていたシャツの袖を戻しながら、ディルックはそんな彼にこそ不審で目を眇める。
「準備中の札を下げていたはずだが?」
「そうなの? 見てなかったよ。ごめんね。でもドアには鍵がかかってなかったよ? あっ、誰かと待ちあわせ?」
「
……
用件は?」
にこっ、とウェンティは人懐っこく笑った。どうもこの吟遊詩人の、こちらの勢いを柔らかく制する間の取りかたは、ディルックの義弟に似ている気がしてならない。どれだけの時をかけて人間を注意深く観察すればこうなるのか。
「実はゆうべ、璃月でいいものを見つけたんだ」
「
……
昨夜? 昨夜なら君もここで飲み食いしていなかったか?」
ガイアに向けて、ウェンティら数人がおまえもこっちで飲めとうるさくしていたのを覚えている。あのあとモンドから璃月まで出かけて昼下がりに帰ってくるのは不可能に近いはずだ。
ディルックが眉をひそめるとウェンティはまたにこっとした。
「ええ? えへへー」
「
……
君もなんでも笑ってごまかせると思っている種類の人間か? ならその認識は大間違いだぞ」
「まあまあ、大事なのはそこじゃないからさ。ほら、ディルック! ボクを睨んでないでこっち見てよこっち」
じゃじゃーん、と、ウェンティは吟遊詩人とはとても思えない安直極まりない効果音とともに懐から青い小瓶を取りだした。
もうその時点でディルックは十分に辟易していたが、カウンターに置かれた小瓶が実は透明であること、中で揺れる液体こそが青いこと、そして表面に見慣れた刻印が彫りこんであることを確かめて心の底からうんざりした。ディルックが今この世でもっとも目にしたくないものが、昨日の今日で再び現れた。
「
……
君もサンプルを?」
「うーん
……
そんなところかな。知り合いがね、買ったからってくれたんだ」
「
……
サンプルを?」
「そう。サンプルを。おかしいでしょ? おっかしいんだよ、あのじいさん」
癖でカウンターの内側に入ってしまうディルックと向きあうように、ウェンティも椅子へ飛び乗った。頬杖をついて苦笑する顔に普段とかけ離れた沈毅さがある。
「モラを介さないやり取りは信用できないから、向こうの言い値で買いとったんだってさ。ほーんと、さすがの石頭!」
「璃月人らしい
……
と、僕が言ってもいいものかな」
ふふふ、とウェンティは上品に目を細めて笑った。
「いいんじゃないかな? 喜ぶと思うよ。凄くね。とても古い璃月人だから」
ディルックは、てっきりウェンティもガイアのようにすぐ飲みたがるものだと思っていた。だからグラスを所望された際すぐ断り、さらにこの忌々しい小瓶を没収するつもりでいたのだ。
「はい。君にあげる」
まさか日々いかにして酒を浴びるか考えて暮らしている吟遊詩人から、ぽんとあっさりワインを譲られようとは夢にも思わなかった。
カウンターを滑りディルックの前にやって来た小瓶と、にこにこ笑うウェンティをしばし見比べる。
「
……
僕に?」
「だって必要なんでしょ? 昨日パラドを庇ってたじゃないか。君はガイアに味見させたかったように見えたけど、違ったかい?」
それが肯定になるとわかっていても黙りこむしかなかった。
結果として昨日ワインを飲み、唾棄すべき行為に及んだのはディルックだったが、もともと酒嫌いなのもあってガイアに味の判別をさせるつもりでいたのだ。
万が一何か不調を来してもガイア相手ならばどうとでも対応できる。だが第三者に得体の知れないものを飲ませるわけにはいかなかった。ガイアも本来ならそれをよくわかっているのだが、昨夜のように気まぐれを起こして遊びたがるのが悪い癖だ。どうせ本人もそれを自覚するからこそ、自失したディルックから逃げもせず暗い天井をただ眺めていたに決まっている。
どうしようもない、面倒臭くて手のかかるおとうとなのだ。
ふっと息を吐いて、カウンターの隅に小瓶を追いやる。
「璃月の御仁は味見を?」
「してないよ。ボクに渡すために
……
うーん、いや
……
ちょっと違うかな。ボクを介して君たち自身の手で解決させるために、彼はこれを買ったからね」
ウェンティはにっこり笑ってディルックを見上げた。
「そうだ、ディルック。あのじいさんのことは必要以上に当てにしちゃだめだよ」
今回こんなに手を貸してくれるのは特別中の特別なんだ、と、いやに重々しく念を押してくる。ディルックが少し首を傾げるとウェンティはながながと溜め息をついた。
「ボクがあんまりうるさく付き纏ったものだから、もうかんかんでさ。もしも次手ぶらで来たら岩を食わせてやるって言われちゃった」
「岩で体が重くなれば、少しは酒場巡りも減るだろう」
「冗談じゃない! ボクはねディルック、いざとなれば何をしてでも目的を果たす主義なんだ
……
!」
「バカバカしい
……
」
ふん、と鼻を鳴らしたところで店の扉が開いた。隙間から、午後の暖かな風を負ったガイアがひょっこりと顔だけを覗かせる。
勇ましくこぶしを振りあげるウェンティと無表情のディルックへ不思議そうに瞬いて、ガイアはななめの顔をさらに傾げて角度をつくった。
「
……
取りこみ中か? 修羅場なら出直すぜ」
「ううん、平気さ。ボクはもう行くよ。用事は済んだしね」
「
……
ウェンティ」
軽やかに椅子から滑り降りたウェンティを呼び止める。なあに、と無邪気な顔をする吟遊詩人の鼻先へ、ディルックは保管棚から引き抜いた蒲公英酒のボトルを突きつけた。
「ワイン代だ。受け取れ。
……
頼んでいいなら、これを璃月の御仁に届けてほしい。それなら君も岩を食わずに済むだろう」
「
……
助かるよ、ディルック!」
ウェンティの大きな目がきらきらと輝いた。
ボトルを宝重のごとくうやうやしく抱きしめ退出するその背に、ガイアが心から羨ましそうな視線を送っている。誰も彼も本当に、と思いつつ、今更すぎる嘆きよりも優先すべきもののためにこつこつとカウンターを叩いた。
「ガイア」
「
……
んっ? ああ、そうだ。おまえに話したいことがあったんだった」
「僕も君に見せたいものがある」
押しやっていた青い酒を引き寄せると、さすがにガイアも一瞬だけ複雑そうな顔をした。
ただ後ろ手にウェンティが出ていったばかりの扉に桟をかけ、ディルックの前に立つころには、普段の薄笑いを取り繕っている。
「なんだなんだ、一本見たら三本はあると思えって? 飲むなよ、ディルック」
「
……
飲まない。
……
ウェンティが知人から譲り受けたそうだ」
「なあ、これ俺がもらってもいいか?」
小瓶を矯めつ透かしつしているガイアを半目で睨む。
「
……
飲むなよ」
「飲むかよ! アルベドが今本部にいるんだよ。見せれば原料を特定してくれる」
「アルベド?」
通年ほぼドラゴンスパインで活動しているアルベドが、特別な行事もないのに下山するのはあまりに珍しい。よほどのことがなければ彼は錬金術の研究を優先する。
ディルックの瞬きを見て笑ったガイアが、押しのけられて動いた椅子を直しながらそこに座る。
実は騎士団でこれこれこういうことがと簡単な説明をするあいだ、ガイアはディルックが騎士団へ赴いてしたことについて何も触れなかった。ただジンがアルベドがクレーがとそれぞれの思惑を順番に話して聞かせ、最後にそっと優しげな苦笑をみせる。
「クレーのあの落ちこみようは見ていて胸が痛むが、アルベドが側にいてやるなら大丈夫だろう。ああ見えてあいつもいい兄貴だよな」
普段のディルックなら聞き流したか、皮肉のひとつも返してやれた。
だがなにしろ昨日の今日であったのでディルックも心身がささくれている。舌打ちは不可抗力だろうし、声が低くなるのもしかたがなかった。
「どうせ僕は畜生以下の外道だよ」
店内にふたりきりだ。街の喧騒は遠く、今日は風も穏やかで、つまりディルックの言葉ははっきりとガイアの耳へ届く。常時浮かべる軽薄なへらへら笑いを忘れたガイアの、ぽかんと口を開けた間抜け面を見て、ディルックはようやく失態を自覚した。
横を向いて唇を噛む。カウンターの外でふふっ、と控えめに始まった笑声は、あっという間に大きくなった。
「おまえ
……
ディルック、まさか昨日のことを言ってるのか? 気にしすぎだろ。とっくに終わった話じゃないか」
「
……
君は僕に謝らせもしない」
ガイアは隻眼に浮かべた涙を指で払っている。
「謝ってもらう理由がないじゃないか。そもそもそうするなら俺がおまえに、だ。本当なら飲まずに済んだものを俺のせいで飲ませた」
黙って鼻を鳴らした。案の定パラドの前でふざけたことを気にしている。
「君の自罰に僕を使うな。僕は
……
」
僕は、の先をうまく紡げなかった。ガイアへ伝えたいものが多すぎて喉を詰まらせる。昨夜についての謝罪も、血なまぐさい屋根裏で与えられた言葉への返事も、まだディルックは何もできずにいる。
「
……
ディルック? どうした?」
眉をひそめて下から覗きこんでくるおとうとの、まるい頭に手刀を落とす。いてえ、と店内に響き渡る悲鳴に少しほっとして、同じだけ情けなくなった。いくつになっても、いつまでも、ディルックはこんなやりかたしかできない。
「
……
なんでだよ! おいディルック、これについては謝っていいんだぞ、今すぐ!」
「ガイア」
ガイアの脳天へ垂直に立てていた手を伏せる。ぐいぐい撫で回す手のひらの下をなめらかに泳ぐ、細い髪の柔らかで冷たい感触がディルックは昔から好きだった。
「なんだよ。撫でるならもう少し優しく頼む」
「この件に片がついたら奢ってやる」
「酒をか?」
「なんでもいい。決めておけ」
ディルックがなんでも、と言えばそれは本当になんでもなのだ。それを知っているからガイアはたちまち隻眼をきらきらさせる。そしてそれを見下ろすディルックからは深い溜め息が出るのだった。ディルックもディルックだが、ガイアもガイアだ。単純すぎる。
「おまえの奢りか
……
せっかくだ、豪華にいきたいな」
それからしばらく、ガイアは目を閉じてうんうんうなっていた。ディルックはそんなガイアの頭に手を置いて、ただぼうっと陽射しの中を舞う埃の粒を眺めていた。
ガイアがよし、と明るく声を上げるまでの静寂は、沁みるほど懐かしかった。
「決めた」
「どの酒だ?」
「酒じゃない。いや、酒だけじゃないと言うべきか」
にやっと笑うガイアはまだディルックに撫でられている。
「フルコースが食べたい。それも食前酒からデザートまでぶどう尽くしのやつだ。面白くないか?」
子どものような顔をする、と思った。ずっと昔にふたりではしゃいで父やアデリンを手こずらせた、あのときの顔だ。
指の腹でおとうとの頭皮をくすぐりながら、ディルックは静かに溜め息とは違うやわらかな息を吐き出した。
「
……
サラダにはぶどうのソースをかけて?」
「ああ。もちろんだ。アデリンが作るあのサラダソースでな。パンにだってぶどうを練りこんで、ぶどうのフルーツスープ、グリルの付け合わせだってぶどうだろ? ああ、ワインは赤がいい。去年の一番できのよかったやつを一本」
大きな画用紙に絵を描くように、ガイアは次々と献立を決めていった。ディルックがワインに文句を言わなかったので、こんなときばかり素直な口元が嬉しそうににんまりしている。
「デザートはパイかな」
「いやいや。俺はもっといいものが食いたい」
ふふっ、と笑うガイアの指が、ディルックの指先を拾って絡める。ディルックが瞬きで先を促すと、口笛でも吹くように機嫌のいい声が望みを告げた。
「デザートは、この国で一番ぶどうの匂いがする男がいい」
咄嗟に返事ができなかったディルックに、ガイアは満足したらしかった。肩を揺らして笑いながらディルックの指を繰り返し撫でている。
「おまえだって俺を食ったんだ。なら俺が食い返したって文句はないだろ?」
緩んだ唇からふっ、と吐息が漏れた。ガイアの体温の低い指があたたかい。
「悪食だな」
「
……
ここまで世界で一番おまえに言われたくないって台詞もないな」
半目のおとうとを見下ろして、ディルックはことさらにゆっくりと瞬いた。
「僕は」
慇懃に、この上ない礼儀正しさでガイアへ微笑みかける。
「食にはこだわりがあるほうだ」
「
……
ああ、そう」
ぷいっと横を向いたガイアの目元がつやめいて色濃くなったように見えるのは、窓からさんさんと振りそそぐ、昼下がりの一番強い日射しのせいかもしれない。
アルベドによるガイアたちへの呼び出しがあったのは、青いワインを彼へ預けてから二日後だった。図書館へ、と告げられたとたんに眉を寄せる馬鹿正直な義兄を宥めすかして連れこんだ叡智の蔵に、思いがけない顔を見る。
ガイアが瞬きすると、アルベドとの待ちあわせのテーブルにつくウェンティがにっこりしながら手を振った。
「
……
吟遊詩人? こんなところで歌うつもりか? さすがに代理団長に止められると思うぜ」
「自分に、じゃないのがキミのいいところだよねえ」
「褒めるな。
……
君も。へらへらするんじゃない」
「ああディルック、この前は本当にありがとう。おかげで岩を食わずに済んだよ」
詩集を探しに来ていたのだ、と、ウェンティは最近でもっとも吟遊詩人らしいことを口にした。アルベドの持つ小瓶に見覚えがあったため声をかけ、自分も関係者だとあながち嘘でもないことを言って合流したと胸を張る。いずれにせよ、大した度胸だ。
「さて。諸君、集まってくれてありがとう」
そして穏やかに微笑むアルベドの背後では、リサが腕を組んで膨れっ面をしている。アルベドもアルベドで、こう見えてなかなか肝が太い。
「わたくしの特製釜を使いたいと言われたときからいやな予感はしていたのよ。もう。わたくし、当分あそこで紅茶を飲む気になれないわ」
「すまないと思っているよ、リサ。でもドラゴンスパインまで戻る時間が今は惜しいし、何よりキミの意見を聞きながら考えを纏めたかったんだ」
真後ろに立つ怒れる魔女へ体ごと振り向いたアルベドがどんな表情をしていたのか、ガイアたちからはわからない。しかし、リサが彼を見るなり険しかった顔つきを揺らがせたところからおおよその予想はついた。
薔薇の魔女は紅茶と、そして美しいものをこよなく愛する。
「ありがとう。実に有意義な時を過ごせた。やはり薬学に関してキミの右に出る者はいない」
どういたしまして、と、魔女はついに溜め息をついて錬金術師の誠意に屈した。
人形めいて整った錬金術師の花顔へ、怒りの持続を諦めたともいえる。
「あなたのかわいい妹ちゃんの、そのお友達のためだもの。ジンもまた忙しそうにしているし
……
だからわたくし、今回だけは折れてあげる」
受付カウンターへ戻る前に、リサは遅れて合流したガイアとディルックへ、間違ってもここでワインを飲んだりしないようにと釘を刺していった。さすがのガイアもそれには胸に手を置いて頷いたし、ディルックなど言わずもがなだ。酸っぱいぶどうを思いきり噛み潰したうえ、種まで飲みこんでしまったような渋面でいる。
「リサがああまで念押しするのは珍しいな。
……
それでアルベド、有意義な時間を過ごした成果はいかほどだ?」
椅子を引く音すら耳障りに感じる静寂の満ちる場所だ。声はおのずと低くなる。
テーブルの上にぽつんと立つ小瓶を見つめるアルベドの、うん、という呟きも、そのあとに続く声も、耳を澄ませずとも十分に明瞭で聞き逃しようがない。
「では実験の結果から話そう。この青い液体
……
暫定的にワインと呼ぼうか。原料は炎水とぶどうジュース、ファイアオイル」
「
……
ファイアオイル? アルベド、あれって飲めるのか?」
「無論、有害だ」
あまりにさらりと答えられたので、質問したガイアも簡単に頷いて流してしまうところだった。実際半ばまで顎を引きかけていたし、そこでようやく隣に座る男のことを思い出しても横目に様子を窺うのがせいぜいだ。ディルックは相変わらず不機嫌な顔で黙りこんでいる。
「ファイアオイルの、元素付与以外の効果についてはあえて言及はしない。もう周知のことだからね。
……
これらを一度に摂取するだけでも十分すぎる悪影響があるが、最大の問題はこの青色の原因でもある毒草だ」
毒草、とディルックがごく低く囁いた。隣にいるガイアですら聞き逃してしまいそうな、他者へ聞かせるつもりのない声だった。
聞いてしまったな、と思いながら横顔を眺めていたら目が合った。てっきり顔をしかめられるかと思ったのだが、どうしたのかディルックはそのままガイアを凝視して、そして前を向くなり鼻を鳴らすだけだった。
「過日、うちのティマイオスも、純粋な探究心に突き動かされてこれを使用したポーションを作っている。おかげで幸か不幸かワインの色と摂取後の反応を聞いてすぐ予想がついたよ」
急激な興奮作用、幻覚、中毒症状、依存症、とアルベドが毒草の作用を挙げるごとにディルックの瞼が震える様子を見る。聞き流せばいいのに律儀な男だ。
酒とファイアオイルに加えてこの毒草だった。もともと炎元素を操る、酒慣れしていないディルックなら鋼の理性も燃えて融け落ちるに決まっている。何もかもとの噛み合わせが悪すぎたのだ。
「ボクは、狼たちの不調の原因もここにあると考える。彼らは人間より何倍も感覚が鋭敏だ。精製時の成分が運悪く奔狼領まで風で運ばれているのではないかな」
「ほお。狼の様子がおかしいのは風向きが原因か。風神の気まぐれにも困ったもんだな」
「ほんとにねえ」
頬杖をついて話を聞いていたウェンティと笑いあう。さすがに場所を考慮しているのか、陽気な彼らしくない控えめな声量だった。
「
……
フクロウもだ」
「うん?」
ディルックは軽く俯き、指先で下唇を弾いている。口元へ触れたままガイアへ流し目をくれ、ドゥラフだ、と短くそれだけを呟いた。
「清泉町の狩人たちが話していただろう。フクロウの様子がおかしいと。
……
あれも原因はこのワインじゃないのか」
「
……
ふむ」
つられて考えこむガイアは、自分がディルックとまったく同じ仕草で唇を弾いている自覚がない。目を伏せ、脳裏に描くモンドの地図を西側に向けてスライドさせる。
動物たちの不調の原因へ辿りつければ、そこがすなわちこの物騒なワインの醸造所だ。モンド最高のワイナリーで育った身としても、ディルックのかわいいおとうととしても、騎士としても、拠点を少しでも早く特定できるに越したことはない。
ガイアが想像上の地図にピンをいくつか挿しているうちに、席を立ったウェンティが現実の地図を取りに本棚へ向かっていた。アルベドが小瓶を文鎮代わりにしてそれを広げ、テーブルの上に平坦な風と牧歌の国が現れる。
ディルックの指が奔狼領の綴りの上に影を落とした。北風の王狼の遺跡が残る場所だ。
「
……
レザーたちはよくこのあたりで過ごしている。狩人たちが話していた場所は
……
」
「まあ、このへんだろうな」
遺跡の東、アカツキワイナリーからは真北にあたる位置を今度はガイアが指さした。
「だが残るヒントが風向きか
……
」
モンドの風は大樹から立つ。草原を吹き過ぎ、モンド城の巨大な風神像から空へ抜けていく南東からの風だ。
そう考えるとアカツキワイナリーが一番怪しいということになってしまうのだが、あの家に、ディルックの下にそんな輩が存在するわけがない。ガイアはあの美しい場所で働く人々がどれほどラグヴィンドの名を誇っているかを知っている。それだけは、何があってもガイアのなかで揺るぎない。
湖のほとりは、もっと北の地域では、と意見を交わすガイアたちの陰から、ふふっと無邪気な笑声が上がる。
「モンドの勇士諸君、ひょっとして風が南からばかり吹くと思っているのかい?」
ウェンティがテーブルの隅でにこにこしている。
「風向きは変わるものさ。もちろんこの国だって例外じゃない。
……
風龍廃墟では風立ちの地とは違う風が吹くことを、君たちは知っているかな」
微笑む吟遊詩人は、ちょうど地図の北端に近い場所に座っていた。
白い指がかつてモンドだった遺跡にそっと乗り、反時計回りに円を描く。
「渦巻いた北風が、こうやって吹き降りてくる。だからボクの想像では
……
」
紙上に生まれた風は回転しながら一部がモンドの国境を越えていた。ぐるりと動くウェンティの指先は風を従え、璃月の山間部を渡ろうとする。
興味深そうにウェンティの示す風路を追っていたアルベドの、澄んだ瞳がゆっくりと瞬いた。
「
……
ふむ。ガイア、ディルック、ボクはキミたちほど詳しくはないが、酒造りには水が必要不可欠だったね?」
「
……
ああ」
ディルックの切れるような視線にガイアも目配せを返す。さすがにここまで範囲が狭まれば、浮かび上がる場所がある。
「軽策荘の湧水を使って作るのがこんなものとはなあ。俺たちにも璃月にもふざけた話だぜ」
軽策荘は古くから璃月の穀倉地帯として知られている。岩神モラクスの伝説が残るほどの土地だったはずだ。悪党が身を潜めるにはさすがに由緒がありすぎる。
「さあ、これで場所はわかった。
……
でも困ったね?」
地図の上に頬杖をつくウェンティはずっと楽しそうにしている。機嫌よく目を細め、孫を見守る老人のような穏やかなまなざしでガイアたちを見渡すのだ。
「軽策荘は外国だ。モンドじゃない。いくら犯罪者を捕まえるためだって、騎士団が突入なんてしたら国際問題だよ。
……
もちろん、これは個人でどうにかできるものでもない」
どうやら後半はディルックに向けて言ったものらしい。微妙な顔をするディルックは、ガイアが目で問いかけてもほんの僅かにかぶりを振るだけだった。
特に話せないというわけではなく、単純にこの男がガイアに説明するのが面倒で、しかもさほど重要ではない類の話題なのだろう。それならいいか、とガイアはウェンティへにっこりと笑いかける。
「その心配なら無用だぜ、吟遊詩人」
「
……
と、言うと?」
ウェンティは大きな瞳を宝石のようにきらきらさせて前のめりになった。その鼻先で、ガイアは機嫌よく人さし指を揺らす。
「なにせ我らがモンドには、決して権力に屈しない正義の味方、闇夜の英雄がいるんだ。あいつももうワインのことを知って動きだすころかもしれない。
……
なあ? おまえもそう思わないか? ディルックの旦那」
ディルックが返事をしないので、ガイアは身を乗りだしてその顔を覗きこんだ。
酸っぱいぶどうを一度に百個も食べたような仏頂面のディルックが、ガイアをきつくきつく睨みつけていた。
炎の巨鳥が突進する場所から暗夜が赤く焼け落ちていく。
あかあかと広がる翼が触れる先から木々が燃え盛り、炙られた竹が激しく弾けるさまに、ガイアは本気で感心しながら何度かしみじみ頷いた。
もちろんガイア自身の肌も火の光と熱に曝されている。眼前で一片の慈悲もなく閑寂な軽策の地を焼き払うディルックは、はたしてガイアと同じ感慨を胸にいだいているものだろうか。
すなわち、たかだが掘建て小屋一軒を打ち壊すだけのことをここまで大事にしてのけた闇夜の英雄殿に、胸いっぱいの嫌味と皮肉と小言を聞き入れる度量があるのかないのか、という話だ。どうせない。ガイアは今のところテイワットでもっともディルックを知る人間だ。この男はどうせぶすっとした顔で自分の理屈を言い返してくるだろう。
それでもガイアは焦げて煤臭い空気を慎重に吸いこんだ。自分は止めたのだ、という証拠を残しておく必要がある。怖い顔のジンに見送られ、クレーと手を繋いですごすご反省室に向かうのはごめんだった。
「外国の山中で、よくまあここまでやれるな。千岩軍がすっ飛んでくるぞ」
「そうでなければ困る。そのためにこうも派手にやっているんだ」
ばちんと弾けて飛んできた竹片を凍らせて地面に落とす。ディルックは氷元素も纏わずにただ突っ立っているガイアを胡乱な目で振り返り、すぐさま叱りつけるような口調で言い返してきた。まるでガイアこそがこの惨状を引き起こしたような口振りに、つい反射で唇が尖る。
「それにしたって燃やしすぎじゃないか? この山のすぐ下は畑だぞ。焼けた木が一本でも転がり落ちたら一気に火が回る」
「君がいるだろう」
ディルックは案の定の仏頂面で、当然至極と言わんばかりに炎を背にしてゆっくり瞬いた。あかく縁取られた肩の向こうに、焼けた小屋から身ひとつで飛び出して転がっていく男たちの影がゆらめいて見える。
彼らの悲鳴を聞き拾ったディルックが獲物を見定めた鷹めいた横顔を晒して駆けだすので、ガイアもぽかんと呆けてばかりいられなかった。足を動かしながら、火勢の強すぎる箇所や村に近い火へ氷を投げて鎮めていく。
ガイアたちの進行方向の火はあえて消さずにそのまま飛びこんだ。あの男たちがこちらに逃げる余地があると勘違いしては意味がないからだ。
このまま、ディルックが強引に敷いた道を逃げまどって山を降り、国境を越えてモンドまで「無事に」辿りついてもらわねばならない。麓には一隊を率いたジンと夜目の利くアンバーが包囲網を敷いて彼らを待っている。
炎は軽策荘の住民だけでなく、彼女たちにとっても、よい目印になっていることだろう。
「
……
なんでたまに、いきなり、そういうことを言うんだよ」
そういった思惑についてなら、ディルックに問わずともガイアはよくわかっている。好き勝手に猛進するディルックの尻拭いをするための自分だとわきまえてもいる。だがそう自覚するからこそ、ディルックのほうでもそういう認識でガイアの同行を受け入れていたことを開示されるとどうにも腹の中がそわそわしてしまうのだ。
予想通りの顔で思いがけないことを言われた。突き出した唇をなかなか元に戻せない。頬も額も首筋も熱かった。火のせいだ。
ガイアがいるから無茶をしている、とディルックに言われたのは久しぶりだ。本当に、久しぶりだった。
「
……
文句があるなら、君もジンたちと国境で待っていればよかったんだ」
ガイアの沈黙を勘違いしたディルックの、ふてくされた声を聞いてようやく軽薄さを思い出す。ひらりと笑って、燃える倒木を飛び越えるついででディルックのすぐ後ろに張りついた。
「知っているくせによく言うぜ。騎兵隊は俺以外丸ごと遠征中だ、数が必要な代理団長の役には立たない。それに、俺も一度くらい闇夜の英雄になってみたかったしな」
ディルックは走るばかりで何も返事をしなかったが、どうせまた心底嫌そうに顔を歪めているに違いない。見なくてもわかる。
この山火事は今懸命に山を降りている男たちの罪になる。
燃え落ちた小屋からは酒精の強い炎水や、炎元素を多く含むファイアオイルの残骸が見つかるだろう。中途半端に焼け焦げた、スネージナヤはファデュイの記章も現れる。アカツキワイナリーの刻印を模倣し刻みこんだボトルなども、不思議なことにそれと判別できる程度の損傷状態で出てくるかもしれない。忌々しい毒草はすべて燃え尽きて千岩軍の手に渡ることはないが、モンドの首席錬金術師は講義中に偶然できあがった奇妙な青いポーションを騎士団に提出することができるし、薔薇の魔女は件の毒草について、スメール教令院垂涎の論文を書きあげるだろう。
そして代理団長は事後処理に長けた庶務騎士上がりの騎兵隊長へそれらすべてを預けて処理を一任する。
ふふん、と、燃え上がる炎の中、ガイアは機嫌よく鼻で笑った。
「ディルック。悪人め。自分は矢面に立たず、結局最後に俺が一番苦労するようにシナリオを組んだな」
「悪党はどちらだ。僕には騎士団と協調して動く気なんてなかったというのに、ジンにまでバカなことを吹きこんで」
「そう言うな。あいつも少しは体を動かしたほうがいいのさ。もうずっと机に齧りついて、若い娘がろくに寝ちゃいない。まあ、今日はさすがにぐっすり眠れるだろう」
ちらっとガイアを見るディルックの頬が、火明かりで赤くつやめいている。ガイアは胸に手をあて、恭しく、慇懃に、暁のような薔薇色に染まる白い顔へ笑いかけた。
「なんなりとご命令を。闇夜の英雄様」
「火を消していろ。村へは火の粉ひとつ落とすな」
ディルックの返事はにべもない。言われた通りに適宜の消火活動に勤しみながら、ガイアはぶうっと頬に空気を溜めこんだ。
「それだけかよ」
「ほかに何があると
……
」
面倒臭そうに振り返ったディルックの目つきがふと変わった。ぱくりと口が一度開き、すぐに閉じる。
続く声を待って瞬くガイアに言葉より先に向かってきたのはディルックの手だった。ぐんっとガイアの胸倉を掴んで引き寄せる。あまりの馬鹿力に、互いの額がぶつかって余計な火花が散るところだった。
その距離でガイアはディルックを見ている。丸くひらいた口が近づいてくるのをただ待っている。
こんなときに、こんな場所で、ディルックがあまりにも慎重にガイアの鼻の頭を甘噛みするので笑ってしまった。
体を離すなり走りだす、むすっと不機嫌ぶるディルックの背を追いかける。追いかけながらガイアはまだ声を殺して笑っている。
「
……
笑うな」
「どうして俺が笑っていると思うんだ。見てないくせに」
「見なくてもわかる。
……
ガイア」
「なんだよ?」
にやにやしながら走るガイアを、ディルックは律儀に振り向いた。目を合わせて一語一語を噛み締めるように声にする。
「フルコースのために、せいぜい腹を空かせておけ」
今度こそガイアは声をあげて笑った。崖下へなだれ落ちかけていた燃える竹林を、通り抜けざま丸ごと氷塊にする。
炎を揺らす風の向きが変わりつつあった。
今日もモンドにはワインの香りの風が吹く。街灯の暖かな光の下で伸びる影を踏み踏み、文字通り山をなす雑務の切り崩しをどうにか終えてガイアは夜の城下町を浮かれ歩いている。
日中の朗らかで賑やかなモンドも、星が輝くころの穏やかに優しいモンドも、どちらもガイアは好きだった。昼は昼の、夜は夜の楽しみがこの国にはあるのだ。
夜の楽しみの、その最たるもの目がけてドアノブをひねる。その瞬間ドアの隙間から流れ出すワインの華やかな芳香、さまざまな料理の匂いがこもった湯気、吟遊詩人の歌声や噂話に笑い声、そしてカウンターからガイアを見とめていやそうに顔をしかめる赤毛の男、それらすべてがガイアの胸をわくわくと踊らせる。
「よおディルックの旦那。今日も景気の悪い面だな? こんなに繁盛してるんだ、もう少し喜んだらどうだ」
実際テーブル席はほとんど埋まっている。どうしたことか、カウンターだけが不思議と綺麗に空いていた。ガイアがにやっと笑ってそこに滑りこんでも、黙々と酒を作るディルックはそこをどけとは言わない。代わりに別の文句を口にする。
「ただテーブルが埋まっているだけでしかない。売り上げで言うなら、今日は酒の出が悪いぶんいつもより低いぐらいだ」
「ほお? そりゃまたどうして」
わざと目をまるくするガイアをシェイカーに入れて思いきり振ってやりたい、という顔で、ディルックは鼻を鳴らした。
「その風スライムより軽薄な口を閉じて耳を澄ませてみるといい。全員同じ話をしているからすぐに理由がわかるだろう」
ディルックがつんと横を向いてしまったので、ガイアはカウンターに頬杖をついてから言われた通りにホールのざわめきに耳を傾けてみる。
「
……
大したもんだ、ジン団長は!」
すっかり出来あがった、機嫌のいい大声がすぐに聞こえてきた。ディルックは酒の売り上げが悪いと愚痴をこぼしていたが、それでもここはモンドなのだ。ボトルの一本も空ける前からお喋りに夢中になるような者はそういない。
「モンド産を騙る偽ワインを売り捌いていた悪党の拠点を突き止めて、ひとり残らず捕まえたとさ。凛々しいねえ。さすがグンヒルド家の騎士だ」
「またそいつらが璃月でも悪さをしていたらしいんだよ。この前璃月七星の
……
なんとかってのから礼状が届いたそうだぜ」
「なんとかじゃ何もわからんだろうが!」
「
……
へえ」
酔客の笑い声に合わせて伏せていた目を上げる。ちょうどディルックが出してきたグラスワインを受け取り、ガイアは店内の明かりに透かした。深く美しい赤色だ。
「こりゃ騎士団に俺以上の喋りたがりがいるな。七星からの手紙は内々に受け取ったもんなのに、まさか噂になっているとは」
「だから騎士なんてものは信用できないんだ」
不機嫌そうにお決まりの文句を吐き捨てるディルックへ、にこにこ笑いながら自分を指さしてみる。半目でガイアをきつく睨んだあと、ディルックは重々しい溜め息をついた。
「僕に訊く前に、まず自分の胸へ訊いてみろ」
「難しいな。
……
このワイン一杯ぶんってところか?」
何気なく含んだワインはひと口でわかるほど上等なものだった。ぎょっと目を剥くガイアを、ディルックはなんともいえない顔つきでじっと見下ろす。
「
……
さすがにそこまでじゃない」
「
……
なんだって? 悪いが声が小さくて聞こえない」
とにかく周囲が浮かれ騒いでいるので、ディルックのぼそぼそ呟く声などガイアに届く前にかき消えるのだ。こちらの声が聞こえなかったはずはないのに意趣返しのつもりか、ディルックは少し身を乗りだして聞き返してやるガイアを見事に無視し、そっけなくワインボトルを突き出すだけだ。昨年産のワインだった。
にんまりと笑うガイアを、ディルックは見ない。
手酌で飲めということらしいので、少しずつグラスを傾けながら再びホールへ目を向けた。
赤や白、金に銀と、誰も彼も美しい色の酒を飲んで楽しそうにしている。青い酒などどの卓にもない。毒草に関しては騎士団を介して酒造組合からモンド内での取引制限をかけたので、ティマイオスの悲劇ももう起きることはないだろう。クレーは奔狼領でレザーと遊べるようになってはしゃいでいるし、安心したアルベドもまたドラゴンスパインへ引っこんでいった。ようやくいつもの、失せ物探しや迷い猫の保護、隣人同士のちょっとした諍いで駆けずり回る日々が戻りつつある。
多少残った問題といえば、礼状を携えて騎士団にやって来た璃月七星の秘書からぐさりとやられた極太の釘をどう抜くかぐらいだ。
火遊びはほどほどに。もし次があれば、モンドの英雄には璃月の仙獣が射る一矢へ挑戦していただくことになるでしょう、とにこやかに告げる少女は可憐だがおそろしかった。もちろんへそを曲げるのがわかっているのでディルックには告げていない。これは騎士団内で処理すべきものだ。
「それにしても、モンドの風はつくづく侮れないな。いつのまにか懐に潜りこんで、いつのまにかどこまでも流れていく。おまえもそう思うだろ?」
騎士団が、ジンが、と店内を飛び交う噂話はなかなか正確だった。闇夜の英雄の名が今回に限ってちらりとも出てこないところまで完璧だ。きっとかつて義父のもとまで吹いた風も疑いようのないものだったからこそ、ガイアたちはあれほど叱られることになったのだろう。
「また昔話か?」
ふん、とディルックは鼻を鳴らした。言うほどつまらなそうな顔ではなかったのでそうだと答えてやりたかったが、ガイアはそれよりも目の前にあるワインボトルのほうが気になってしかたない。
「なら先の話でもするか? そうだな
……
たとえば俺の休みが三日後なこととか」
カウンターの中に立つ男を見上げてのんびりワインを飲む。皿を洗っていたディルックの手が一瞬止まり、ガイアを窺う視線は揺らがない。グラスを口元へ寄せたまま、ガイアは機嫌よく笑った。
声をひそめればすぐ近くにいても聞こえづらくなると、たった今ディルックから学んだばかりだ。
「脱がしやすい服ばかりじゃおまえもつまらんだろ? ディナーにはしっかりめかしこんで行ってやるよ。一枚一枚脱がせていくのを楽しみにしててくれ、旦那様」
ディルックの照れてふてくされるところが見たくてそうからかってやったのに、当人は行儀のいい顔でじっとガイアを見下ろす以外の反応をせずにいる。面白くない。
するとガイアがむっと口を曲げるのを待っていたように、今度はディルックが愉快そうに目を細めた。
「
……
ではデザートの僕はその厚意に感謝して、君が焦れて癇癪を起こすほど慎重に相対させていただくとしよう。じっくりと味わって食べてくれ。ガイアさん」
ばたん、と勢いよくドアが開き、心地よく新鮮な夜風とともに陽気な声を店内に響かせる。
「やあやあモンドの愛すべき酔っぱらいたち、飲んでるかい? ボクは飲んでるし、まだまだ飲むよ!」
踊るようにカウンターまでやってきたウェンティもごく普通の酒瓶を抱きしめている。再び皿洗いに戻ったディルックへグラスを頼み、いそいそとガイアの前に置かれたワインを味見しようとした吟遊詩人は、しかしガイアと目が合うなり素っ頓狂な声を上げた。
「あれっ? その顔、どうしたんだいガイア。今日は随分ペースが早かったみたいだね?
……
ねえねえディルック、笑ってないで彼に水を出してあげなよ。首まで真っ赤になってるじゃないか!」
勘弁してくれ、と頭を抱えてうずくまるガイアの首筋を風が撫で、そして閉まりかけていたドアの隙間からぴゅうっと口笛を吹き鳴らしてモンドの夜へ駆けだしていった。
ツイッターで書いたものの再録です!本なんて作ろうと思うほど狂えたの久しぶりで本当につらくてしんどくて楽しかったです。手元に置いてもいい、もう一度読んでもいいと思っていただけて本当にありがたいです。覚えていてくださったこともうれしいです。
モンドの物騒わちゃわちゃ酒クズ物語、最後まで読んでくださってありがとうございました。お疲れさまです。
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