素朴な民家が立ち並ぶシュガーグレイヴの街並み。粉砂糖を振りかけたような、名前の通り、華美さはないものの懐かしさや暖かさを思わせるありふれた街並みが特徴だ。
見るものに郷愁の気持ちを湧き立たせるそれと比べると、郊外に建てられていたこの建物は、少しばかり浮いて見えた。
不可解な依頼を受けた、その翌朝。約束の集合場所である屋敷を前にして、オデットは最初、そんな感想を抱きながら屋敷を見上げていた。
町にある平均的な住居の三倍を優に上回る大きさだけでも、存在感は抜群。もし、ここに誰かが住むようなことがあれば、必ず町中の噂になるだろう。
但し、この建物を人が利用する機会はなかなか訪れなかったようだ。シュガーグレイヴにそれなりに長い期間滞在しているにも拘らず、ノエたちが、この屋敷の存在を気に留めなかった理由の多くはそこにあった。
もし、毎日この建物に灯りが点っていれば、さぞかしよく目立ち、華やかに存在を主張していただろう。しかし、貴族の別邸として建てられた屋敷には、領地の視察に来た貴族が訪問するとき以外、灯りが点ることはなく閑散としていた。
普段は、村長とその関係者が時折風を通す以外では、家の中に人の気配を感じることすらなくなっていた。夜になれば町の灯りも届かない郊外の屋敷は、暗闇に沈んで全く見えなくなってしまう。
――しかし、今は違う。
屋敷の中に据え付けられた無数とも思える照明には全て灯りが灯り、シュガーグレイヴ中の灯りすらも飲み込むような眩い光が、廊下や部屋を照らし出している。
「わぁ……」
屋敷の中へと招かれ、案内役の執事を先頭に、主人のいる部屋に向かうまでの途中。廊下を通りながら、オデットは思わず感嘆の声を上げた。
壁紙には本物の金を塗料としたのではないかと思うほどに煌びやか。天井にみっしりと描かれた装飾的な模様は、華やかを通り越して圧倒されるほどの絢爛さだった。
「これはまた……見事だな。屋敷そのものが一つの芸術みたいだ」
オデットに続いて、ノエも素直な感想を口にする。すると、執事はちらりとこちらへと視線をやってから、
「この屋敷の壁紙、絨毯の模様、床のタイルの一枚まで、我が家お抱えの画家にデザインさせ、全面的な改修を行なったものです。お気に召していただけましたかな」
一同を案内するため先頭を歩いていたエレゼン族の執事は、一度足を止め、天井や壁を示してみせる。好好爺然とした柔和な面差しの彼は、ガイドのように屋敷内のあちこちを示してみせる。
「改修をしたのですか? では、もと違う壁紙が使われていたのでしょうか」
「ええ。前領主は、屋敷の手入れに全く興味がない方でした。そのため、我々がシュガーグレイヴの統治を任された頃には、この屋敷も悲惨な有様だったのです」
当時の頃を思い出してか、執事は悲しげに眉を寄せる。
「壁紙の色は落ち、絨毯も本来の柔らかさを失うほどに傷んでいました。タイルに至っては、施工当時からのものを使用していたのでしょう。所々が剥げているという始末です。当家の関係者を招き入れるための住居として、全く相応しくありませんでした」
「前の領主さまは、屋敷の手入れにお金を使わない人だったんですねえ」
前領主を非難するような物言いの執事に対して、ヤルマルは同調するように頷いておく。
仮にも、この執事は、依頼主の従者なのだ。陰口を叩くような人間であったとしても、適当に合わせておくのが処世術というものである。
「ねえ、おじいさん。この家は、おじいさんや、これから会いに行く人がよく使ってるの?」
「いえ。今回のように、視察に赴くときだけですね」
横から口を挟んだのは、ゲルダだった。今日のゲルダは銀色の髪を一つに結い上げ、オデットが選び抜いた、厚手の上質な生地をたっぷり使ったイシュガルド風ドレスに身を包んでいる。
しかし、どれだけ着飾ったところで、ゲルダの本質が変わるわけではない。
「だったら、使わない屋敷のためにこんなにお金使うぐらいなら、町の人のお願いを聞いてあげても」
「でも、今回のような時のために屋敷を綺麗にする必要があるか分からないのですから。当主様は、先見の明があるのですね」
ゲルダは思ったままに口にしたのだろうが、彼女の発言はルグロ家を非難していると取られかねないものだった。
実際、執事は『礼儀がなっていない』と言わんばかりの顔でゲルダを見つめている。これ以上、相手を不機嫌にさせてはならないと、オデットはゲルダの発言に被せるようにして、適当なお世辞を並べておく。ついでに、ゲルダへと人差し指を立てて静寂を促してみたが、どうやら伝わっているとは言い難いようだ。
(多少の無作法は、目を瞑ってくれるって話でしたけれど……)
ピヌヌはああ言ってくれたものの、実際に対面すると、口にして指摘されないものの執事の顔には嫌悪、あるいは侮蔑に似た感情が浮き上がっている。
目を瞑ってはいるのだろうが、顔に出されてしまっては、こちらとて完全に無視はしづらい。波風を立てないように、今まで以上に発言に注意しようと、オデットは口を引き結ぶ。
そうこうしている内に、再び執事は歩みを進める。玄関口から歩いて、ざっと十五分ほど経っただろうか。歩く速度を落として、飾られた絵画や調度品の蘊蓄を聞きながらではあったが、見た目に違わず、廊下一つとってもかなり長いようだ。
階段を上り、二階の一室にたどり着いた執事は、ノックの後に仰々しいと思うほどゆっくりと扉を開いた。中に入れと視線で促され、ノエを先頭とした一団はなるべく音を立てないように気をつけて、室内へと足を踏み入れる。
廊下から室内に入った瞬間、目に飛び込んできたのは、
(すごい……。まるでこの部屋自体がお花畑みたいです)
感嘆の声をあげる代わりに、オデットは目を丸くして眼前の光景にただただ圧倒されていた。
廊下の壁紙にも細かい装飾があしらわれていたが、この部屋はそれと同等か、それ以上の緻密さで、春の花園を思わせる装飾が施されている。天井にも若葉の芽吹を思わせる意匠が施されており、天井そのものがさながら一枚の絵画のようだ。
室内の調度品こそ、比較的質素なものではあったが、細々と置かれた日用品――おそらく外から運んできたもの――は、櫛や手鏡一つとっても、細かな金飾りがあしらわれている。
それ一つだけで、ノエたちが任務で稼いだお金を軽々と上回る値段がつきそうだった。
部屋の中央にはこれまた豪華な装飾が施されたソファが置かれており、その上ではゆったりと肘掛けに身を委ねている者がいた。彼女の背後には、護衛と付き人を兼ねてか、全身甲冑の騎士が二人、控えている。
(あの子が、わたしたちを呼んだ人……?)
視線を室内からソファの人物へと向けたオデットは、そこで思わず声をあげそうになった。
(え――?)
見知らぬ貴族の家の只中であると意識していなかったら、思わず疑問が口をついて飛び出していただろう。それは、傍らに立つノエやヤルマルも同じであると気配で分かる。
唯一、ゲルダだけがいつもの調子で、目の前の人物の挙動を窺っていた。
「随分と遅かったですわね。わたくし、退屈しすぎて眠ってしまいそうになっていましたわ」
鈴を転がすような声は、ソファに君臨していた者――小柄な少女の喉から発せられたものだった。
肘掛けからゆるりと身を起こすと、あわせてアイスブルーの柔らかそうな髪が肩から流れ落ちる。どこか気だるげにそれをかきあげる様も、貴族の令嬢として妙に様になっているように見えるのだから不思議だ。
少女はようやく上体を起こして、ソファに座り直すと、
「さあ、みなさんも。どうぞそちらにお座りになって」
少女は如何にも招待主らしく、ソファを『指差す』。
客人をもてなすというには、ぞんざいな振る舞いではあったが、一同が受けた――未だ受け続けている衝撃に比べれば彼女の態度など瑣末なものだ。
「オデット。ゲルダさんと二人がけの方に座るといい。僕たちは、一人がけの方を使わせてもらうから」
小声でそう言ってから、ノエは少女に一礼し、
「ルグロさまのご厚意に感謝します」
と告げてから、少女の向かいに置かれていた一人がけのソファに腰を下ろした。ヤルマルも同様にソファに座り、追従するようにオデットもおずおずと、二人かけのソファに腰掛ける。
以前、ノエの家に訪問したときも感じた、腰がぐんぐん沈み込みそうなほどに柔らかな座面が、オデットの体を受け止めてくれた。けれども、いくらソファが極上の柔らかさを誇ろうと、部屋に入った直後のオデットの驚きを隠せるものではない。
「さて、まずわたくしの自己紹介の前に……みなさん、何か言いたいことがありそうですわね」
「では、不躾ながら。なぜ――ルグロ様は、お顔を隠していらっしゃるのでしょうか」
真っ先に切り出したのは、ノエであった。目の前の少女は、部屋の中であるにも関わらずつば広の帽子を深く被っており、そこから垂れたベールが彼女の顔をすっかり包んでいた。
帽子もベールも夜空のように黒く、そこだけ闇を切り取ったかのようである。
照明のおかげで、微かに口元こそ見えるものの、そこから読み取れるのは彼女がオデットと同年齢であろうということぐらいだ。髪から飛び出た尖った耳を見れば、彼女がエレゼン族であることは予想がつく。しかし、外見から読み取れた情報はそこまでだった。
「何か理由があってのことでしたら、教えていただけると助かります。護衛の仕事に差し障りがあるといけませんから」
やや無礼かと思いつつも、ノエは率先して話題を広げる。こうして彼が先陣を切って会話を広げているのにも、理由があった。
多少の無礼があったとしても、ノエならば、父親の名と家名を出すことで貴族間の揉め事をある程度切り抜けられる。ノエ自身の心情はともかくとして、そのような理由から、ひとまず依頼主との対話はノエが率先して対応すると決めてあったのである。
「安心してくださいませ。このベールには、ちゃーんと意味がありますのよ」
問われた少女は、何やら機嫌良さそうに答えてくれた。
「とはいえ、歌劇のヒロインのように顔に傷があるわけでも、特段わたくしの顔が醜いというわけではありませんわ。故あってのこと……とだけ、今は言わせてもらいますわ」
くすくすと抑えきれずに溢れたと思しき笑い声は、ベールをしていてもはっきりと響いた。
本人自ら理由を説明していないにも拘らず、理由が分からない様子のノエたちを揶揄っているような笑い方だった。
「質問は以上でよろしいかしら。それではまず、皆さんのお名前を聞かせてくださる? その後、わたくしも名を名乗らせていただきますわ」
少女に促され、ノエは代表して自分たちの名前をざ告げる。
四人分の名前を聞き終えた後、彼女は片手に持っていた扇子を弄ぶような所作を見せつつ、
「わたくしは、アガテルと申します。アガテル・ド・ルグロ。栄光あるルグロ家の血を引くものですわ」
自らの名を名乗る場面だというのに、彼女はどこか退屈そうに視線を落としていた。
(兄さんの妹のお二人とは、また随分と雰囲気が違うのですね)
同じような貴族の少女といえば、オデットが覚えているのはあの二人だ。二人とも、自らの出自に誇りを持っているかのように、堂々と振る舞っていた。しかし、目の前の少女は、所作に気品こそあれど、どこか心ここにあらずのようにも見える。
「アガテル様、でよろしいでしょうか。よろしくお願いします」
「ああ、別に名前は覚えていただかなくても結構ですわ。どうせ、三日後には皆さんとお別れしますし、その後にあなた方がわたくしと話をすることなど、あり得ないでしょうから」
一礼してみせるノエに、ころころと笑いながらも、取り付く島もない様子で返すアガテル。気ままな猫のような彼女の返事に対して、ノエはどう反応していいか判断に迷っていた。
(典型的な貴族のお姫様……として扱っていいのだろうか)
顔が見えないということが、こんなにも厄介とは思わなかったと、ノエは内心で呟く。
彼女がこちらを侮っているだけなのか、それとも策謀があっての態度なのか。ベールの向こうに隠されているせいで、彼女の表情から読み取ることはできなかった。
「ボクたちを雇ったのは、滞在の間の世話係ということでよろしかったでしょうか」
「ええ、そうでしたわね。もっとも、わたくしはあなた方二人まで招き入れるつもりはなかったのですけれど」
招かれざる客として、アガテルが扇子で示したのは質問者であるヤルマルとノエだ。こればかりは彼女の言う通りなので、言い返すわけにもいかない。
「そうはいっても、わたくしも無茶を通すには多少の我慢が必要であるということは存じておりますわ。あなた方には、わたくしたちの滞在が終わるまでは別室で待っていただけるよう、準備をさせていただきましたわ」
要するに、オデットとゲルダと別れて待機していろということらしい。オデットと離れ離れになるのは、ノエ個人の考えとしては避けたいところだ。
できる限り、人好きのされそうな笑顔を浮かべながら、ノエは貴族の姫君へと提案する。
「ここに来るまでに屋敷の中を拝見しましたが、護衛の数も使用人の数も十分ではないように見受けました。もしよろしければ、労働力として、アガテル様に力をお貸しすることもできますが――」
「結構ですわ」
ぱしん、と扇子を手のひらに打つ音が、ノエの提案を中途で叩き折った。
「護衛も側仕えも、今の数で間に合っておりますもの。余計な客人が増えても、邪魔になるだけですわ」
そこまで言われてしまっては、ノエとしても強固に主張はできない。何せ、招かれざる客はこちら側なのだから。
「護衛はお父様がつけてくださった騎士の方だけで十分です。そちらの二人……オデットとゲルダ、というのでしたっけ。彼女たちは……そう、わたくしの暇つぶしの話し相手ですわ。わたくし、仲良しの女中も家庭教師も皆、家に置いてきてしまいましたもの。ここに来るまでの間でも雪原に放り出されたように退屈でしたのに、これ以上無益な時間を過ごすのはごめんですわ」
依頼主として、なぜ自分が二人を雇う必要があったか、説明するべきだと思い直したのだろうか。アガテルは滔々とオデットたちを側仕えに急遽任命した理由を語り始めた。
ノエの予想通り、彼女は辺境の町に名代として送られることに不満を抱いているようだ。不遇な己の心を癒すために、いっときの暇つぶし相手を欲した――その結果が、同年代の同性の話し相手、ということのようである。
「わたくし、長旅でほとほと疲れておりますの。早速ですけれど、そこの二人はわたくしの部屋についてきなさい。カミュアン、保護者のお二方は別室に案内して差し上げて」
騎士の一人が一礼するのを見届けてから、アガテルはソファからすっくと立ち上がり、つかつかとオデットたちへと歩み寄る。
ついていくべきかとオデットが躊躇していると、背後に控えていた執事が目線で立つように促してきた。
できればまだ部屋に残っていたい。オデットとてノエと離れたくはなく、恐る恐るといった様子で腰を上げ、すでに先に行こうとしているアガテルの後を追う。
ノエの座っているソファの隣を通りがかったとき、
「オデット。何かあったら、連絡してくれ」
小声で、ノエが指で耳の辺りを触って知らせてくれた。
何かあった時のために、リンクパールはお互いに装着している。アガテルを放って通話をすることは難しいだろうが、互いに一瞬連絡を取り合うくらいならば、気難しいお嬢様も許してくれよう。
「兄さん、また後で」
「うん」
ごく短い別れの言葉を交わしてから、オデットはどこかぼうっとした様子のゲルダの手を引いて、ベールを被った少女の後を追う。
めかし込んだ服に慣れないからか、それとも珍しく緊張しているのか。俯いて、ぎゅっと口を噤んでいるゲルダの様子もまた、オデットに一抹の不安を与えていくものだった。
***
「あいつら、今頃どうしてるだろうな」
何気なしにノエたちのことを話題に出したのは、オランローからだった。
「そろそろ、屋敷について依頼主と会っている頃合いじゃないか。存外、歓待されてるかもしれない――なんてな」
「せめて、ノエの父親のように話せばわかる貴族だといいんだが……」
振られた話題に応じたのは、ルーシャンだった。冗談めかして彼が口にした内容にも、オランローは言葉の裏にあった懸念を正しく読み取っていた。
「あんな貴族、特例中の特例だぞ。爵位を持ってるやつを百人並べて、一人いるかどうかだ」
「随分と詳しいんだな」
「イシュガルドには長く滞在してるんでね。貴族と上手くやっておかないと、こちらも食い扶持がなくなるんだよ」
「……二人とも、口を動かす前に手を動かして。さもないと、あなたたちの食事を無しにする」
どん、と書類の入った箱が机に置かれる音と共に、氷よりも冷たいサルヒの声が飛び込み、ルーシャンとオランローは揃って口を噤んだ。
ルグロ家から当主の名代としてやってくる令嬢の護衛に向かったノエたちを見送った後、居残り組のオランロー、サルヒ、ルーシャンは、いつも通り町外の巡回任務に向かおうとした。
だが、今日は貴族の来訪もあって、不測の事態が入り込まないように、各種の仕事は騎士団内で完結するよう調整を済ませた後だった。忙しさもあって、ピヌヌやイレーナはこのことを伝え損ねていたようだ。
とはいえ、ノエたちが働いているのに、こちらが休暇を貰うというのも気持ちが落ち着かない。それなら代わりに「書類整理でもなんでもするぞ」などと言ってみたところ、本当に書類整理を任されてしまったのである。
騎士団の人手不足は、純粋な戦力不足の他に、事務作業の遅滞も発生させていた。重要な書類はピヌヌが作成し、優先して処理もしているので、騎士団の活動において致命的な影響は出ていない。
しかし、処理が終わったものや外部から確認済みとして送られてきたものは、後で整理すると称して木箱の中に詰め込まれたまま、倉庫の奥深くで堆積を重ねていた。
これまでの騎士団の活動に使われた経費、派兵の記録、外壁の修繕に関する請求書などなど。羊皮紙に丁寧に記されたものから、ちぎり取った切れ端に書き殴った走り書きのようなものまで、体裁すら整っていないそれらを、年次と種類ごとにまとめられないかと依頼されたのだ。
「外で凍えながら巡回するよりはましか。年寄りに今日の天気は厳しいものな」
「書類整理は、昔やっていたことがある。並び順は古い順でいいか」
「それなら私は、倉庫から書類を出してくるのを手伝う」
かくして、下っ端と思しき事務員が感涙しながら案内してくれた作業部屋にて、地味な整理の作業が始まったのである。
しかし、作業を始めて一時間ほど経ったころ、これは巡回任務より大変な作業になりそうだと三人は気が付いた。記述の体裁が整っていないため、文章を一から十まで読まなければ、日付がどこに書いてあるかすら分からないものもある。文字も、癖の強い文字や綴りのミスも多い。町人が書いた領収書に字の綺麗さを求めても仕方ないとはいえ、オランローは何度か綴りのミスのせいで首を捻る羽目になっていた。
かくして、作業の難易度の高さに気づいた頃には、時すでに遅し。今更放り出すわけにもいかず、オランローとルーシャンは書類と睨めっこをする地道な作業に囚われていたのだった。
「日付を見て、分けるだけでいいって話だったが、日付すら書いてないやつはどうすりゃいいんだよ」
「ルーシャン、それは何の書類だ」
「武器の購入記録だな。槍が三十、剣が十七、盾が五。弓の補填に使う弦が……」
「それなら、この年のものだろう。帳簿にも記述がある」
オランローが自分の座っている横に置いてあった紐で綴じた紙束を、ぱらぱらとめくり始める。どうやら、会計記録をまとめた帳簿のようだ。
ルーシャンは渡された帳簿を受け取り、ざっと目を通す。後ろからそれを覗き込んでいたサルヒは、
「帳簿があるなら、どうして纏まっていない書類を片付ける意味があるのでしょうか」
「勝手な内容を書いていないか、裏取りをするために承認印やら決済印やらが捺された書類も別に必要っていう決まりがあるんだろうよ。この手の組織にはよくある話だ」
帳簿を最後まで見終えたルーシャンは、オランローへと返す。
「金を無駄遣いしてないか、こっそり盗み取ってないかってお上に疑われたときに、ちゃんと同時期に同じ内容の捺印済み書類がありますよって、すぐ出せた方が信じてもらえるだろ」
「あくまで、こちらは内部で使用する記録に過ぎないというわけだ。公的に外部に提示できる証拠は、別に確保しておく場合が多い」
「でも、その記録を使って書類の日付を割り出していたら、照会の意味がなくなるのでは」
サルヒの指摘に、二人は思わず沈黙する。
彼女の言う通り、帳尻が合わない部分をどうにか合わせるような『裏技』は、本来なら不要なもののはずだ。
しかし、全て完璧に整えられた書類が用意されていたのなら、ルーシャンもオランローもここには不要だっただろう。
「何事も本音と建前ってやつだよ。上手く誤魔化しをするのも、時には必要なのさ」
不服そうなサルヒを丸め込むと、ついでにルーシャンはうんと大きくのびをする。
「さーて、おじさんはちょっと外の空気を吸ってくるかね。締め切ったところでやってると、息が詰まっちまう。ついでに、少し休憩にしようや」
わざとらしく大きく伸びをして見せてから、ソファから立ち上がるルーシャン。周りが何か言うより先に、彼はさっさと部屋の出入り口から廊下へと消えていってしまった。
パタンと閉まる音が響いてから、数秒後。
「サルヒ。あいつが戻ってこなさそうだったら引きずってでも連れ戻してくれ」
「分かってる」
サボりは許さないと、どこかギラギラした目のアウラ族二人は、深く頷き合っていた。
*
「……ふう。まさか、本当に事務作業を任せるとはな。ただの書類整理とはいえ、騎士団の情報ともなれば、それなりに機密事項じゃないのか?」
とはいえ、騎士団が何に金を使ったか、などと知ったところで、それを一体何に使うというのか。ピヌヌはあの通りの生真面目な性格だ。横領のような後ろ暗い悪事には手を染めていないので、裏金を指摘して強請ることもできない。だからこそ、ルーシャンたちのように少しばかり顔馴染みになっただけの傭兵を、片付け係に任命できるのだろう。
息の詰まる作業部屋に背を向けて、廊下の冷えた空気を肺に流し込みながら、ルーシャンはぶらりとあても無く歩いていた。戻るつもりはあったが、今はまだ細かな字と首っぴきになる時間からは遠ざかっておきたい気分だった。
「厨房でも借りて、茶でも淹れてくるかね。適度に機嫌はとっておかないと、サルヒに叱られちまう。それにオランローも、あれは息を抜くタイミングを自分じゃ掴めなさそうだものな」
元が軍属のためか、それとも本人が師事したという隊長の性格からか。オランローも、なかなか潔癖で融通が利かない所がある。
彼の好きそうな渋い味のものも用意できないかと考え、階段の手前まで辿り着いた――そのときだった。
「ん?」
窓に向けた自分の視界に、ちらりと灰色のものが通り過ぎていく。小さく見えた羽ばたきから小鳥を類推した彼は、すぐに方向を変えて窓辺に近づいた。
「……まったく。あちらさんも、一度繋がりを得られたとわかったら、随分とはしゃぎやがる」
窓辺に立ち、こんこんと窓を突いている灰色のもの。それは、石からそのまま削り出されたような姿をした、一羽の小鳥だった。昨日、ルーシャンの元にやってきたそれと似ているが、窓を開けて中に小鳥を招き入れている途中で、彼も気がつく。
「あの野郎、負けず嫌いなところは変わってなさそうだな」
ルーシャンの手の上にやってきた小鳥の背中の部分が、少しばかり毛羽立っている。まるで、石から生き物になろうとして、成り損なったかのような形だ。昨日、ルーシャンは生きた鳥に似た姿の使い魔を送り返した。それを見て、相手も『自分もできる』と主張したかったのだろう。
「だけど、足はまだ石の質感のままだな。ま、物が届けば何でもいいけどよ」
鳥の足にくくりつけられた小さな紙を解き、ざっと目を通す。読み終えた手紙は、指先から生み出した炎ですぐさま燃やされ、灰となって窓の外へと散っていった。
だが、ルーシャンの顔には手紙を燃やす手際の良さとは裏腹に、渋面が浮かび上がっている。顔に手を当て、悩んでいると分かる態度をとってから数秒。
「……とりあえず、やるだけやってみる、と返しておくか。こちらが下手に出てやりゃ、調子に乗りやがって」
毒づきながら、ルーシャンは窓枠で行儀良く返事を待っている小鳥に指を乗せる。
昨日のような小細工はせずに、瞑目すること数秒。小鳥はその内側に託された伝言を抱えて空へと戻っていった。
窓を閉め、人気が少なくなった騎士団の詰め所の階段を下る。厨房に顔を出す頃には、彼の顔にはいつもの笑顔があった。
***
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