桐子
2025-02-26 23:44:46
3363文字
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美しい傷29(父水♀)


水木のもとを訪れた沙代は、会うなり「おじいさまに、おねだりをしましたの」と美しい笑みを浮かべて言った。
「お姉さまのように、白無垢を着てみたいって。おじいさまのために知らない殿方の玩具になりに行くのだから、そのくらいのわがまま、ゆるされますわよね?」
まるで世間話のように朗らかに言われて、水木は目を瞬いた。年頃の娘であれば、恋や嫁入りに憧れもあるだろう。しかし、沙代は本当に嫁ぐわけではない。龍賀家のために、妾奉公に行くのである。そんなおぞましいことを強要されているというのに、彼女はどこか泰然とした様子だった。
「日取りは決まったのか」
「ええ。白無垢をあつらえてもらうのに、どんなに急いでも二か月はかかるのですって。十一月の末頃ですわね」
……そうか」
水木はため息をついた。時貞を止めるのに、あと二月しか残されていない。それまでに機会はくるのだろうか。
「婚儀は政界の皆さまをたくさん呼んで、大々的にお披露目をすることになったの。お姉さまも出てくださいますわよね」
沙代はぎゅっと水木の手を握り、意味ありげな視線を向けてきた。大々的なお披露目となれば、外から多くの客が来る。それも財政界の大物たちだ。時貞の周りには、長田をはじめとした鉄壁の護衛が常についている。だが、大物の客が訪れるなら、警備も手薄になるだろう。
――――機はそこにしかない。沙代はそう言いたいのだ。
「沙代はお姉さまの味方ですわ」
彼女は、水木の耳元に唇を寄せて囁いた。身を挺して、機会を作ろうとしてくれる彼女のためにも、時貞を止めてみせる。
目の前で揺れている艶やかな黒髪を見て、水木はふと思った。
「一つ頼みがあるんだが」
「ええ、なんなりと」


しゃきん、しゃきん、とはさみが小気味よい音を立てるたび、伸びかけだった水木の髪が、少しずつ短くなっていく。
沙代は器用で、この家にいるときはずっと彼女に髪を切ってもらっていたのだ。新聞紙の上に落ちていく髪を見ながら「美しい髪じゃ」と褒めてくれたゲゲ郎の顔を思い浮かべてしまった。短くなってしまった髪を見て、ゲゲ郎は何と言うだろう。せっかく伸ばしていたのにと、悲しんでくれるだろうか。
――――いや、もう二度と彼に会うことはないかもしれないのだ。そんなことを考えている暇などない。
「さあ、できましたわ」
沙代の声に促されて鏡を見ると、肩まであった髪がばっさり切られ、すっかり元通りになっていた。水木は鏡に映る自分の顔を睨みつけた。男のような口調と服装をし、髪も短く切りそろえる。そうすることで、水木は祖父から沙代と自分を守ってきたのだ。
「とても素敵ですわ」
……ありがとう」
昔と同じように、沙代が褒めてくれたのが救いだった。
甘い夢はもう終わった。女としての幸せも、誰かの腕に抱きしめられて眠る安寧も、何もかも振り捨てて――――それでも、大事な人たちを守れるのなら惜しくない。鏡に映る水木は、強い決意を宿した目で、こちらをまっすぐ見つめていた。





夏の暑さが永遠に続くような気がしていたが、いつの間にか秋の足音が忍び寄っている。
中庭に出た途端、ひやりとした風が首筋をかすめていき、水木は体を震わせた。首筋をそっと手のひらでさすった。そういえば去年の今頃、ゲゲ郎がマフラーをプレゼントしてくれたのだと思い出した。
『見ている方が寒いからのう。女は体を冷やしてはいかん』
そう言いながら、赤いマフラーを巻いてくれた。あの温かさを恋しく思った。ゲゲ郎と会わなくなってから、もう三か月以上経っている。その間、ずっと心に穴が開いたような喪失感を味わっていた。これまでは毎日のように顔を合わせ、一緒に眠っていたというのに、こんなに長い間離れているのは初めてだった。一人寝の夜は寂しくて、ゲゲ郎の布団に潜り込みたくなってしまう。
「会いたい」
ぽつりとつぶやいてしまった瞬間、ぽこん、と内側から腹を蹴られて、水木は微笑みながら腹をさすった。つい数日前に初めて、赤ん坊が動いたのだ。ここに、自分とゲゲ郎の子どもが本当にいるのだと実感して、思わず涙ぐんでしまった。この子を産んでやりたい、一目顔を見たいと、決心したはずの心が鈍ってしまいそうになる。
だが、今ここで時貞を止めなければ、さらに悲しみや苦しみの連鎖は続く。
沙代も、ゲゲ郎も、鬼太郎も、そのほかの多くの人たちが傷ついてしまうかもしれない。それを食い止めるために、今ここで自分が頑張らなくてはどうするのだと、毎日のように自分を叱咤していた。
「水木さま」
いつの間にこちらに近づいてきたのか、長田が貼り付けたような笑みを浮かべて背後に立っていた。
「呉服屋が参りました」
彼は淡々とした口調で続けた。水木は目を伏せ、ため息をついた。
「今行くよ」
沙代の婚儀に出席するにあたり、ふさわしい装いを揃えるよう言われていたのだ。着飾ることに興味がなかったので、屋敷にあった適当な黒留袖を着ることにしたのだが、残念ながら少し丈が短かった。そこで、沙代の白無垢を仕立てた店に頼み、丈を直してもらったのだ。ちょうどいい長さになっているかどうか、店主自ら、わざわざ屋敷を訪れてくれると聞いている。
「こんにちは」
水木が部屋に入ると、呉服屋の店主である老人が深々とお辞儀をした。
「龍賀さまからご注文を頂きまして、腕によりをかけてお直しさせていただきました」
包み紙の中から現れたのは、絹の光沢が美しい黒留袖だった。
「裾を少しほどきまして、五センチメートルほど丈を伸ばしております」
「見事ですね」
「一度袖を通していただけますか」
水木は頷いて、洋服の上から黒留袖を羽織った。丈がぴったり合っている。
……お嬢様を思い出しますねえ」
呉服屋は、しみじみとそう呟いた。
「沙代ちゃんのことですか?」
「いいえ。水木さまのお母さまのことですよ」
まさかここで母の名を聞くとは思わず、水木は目を見開いた。
「もしやご存じなかったのですか。この黒留袖は、あなたのお母さまが仕立てられたんですよ。水木さまは、お母さまによく似ていらっしゃる。まるで若い頃のあの方が生き返ったようです」
不思議な気持ちで、黒留袖を撫でた。母が仕立てた着物を、自分が袖を通すことになるとは夢にも思わなかった。目の奥が熱くなってくるのを感じて、水木は慌てて目を閉じた。
「とてもよくお似合いです」
……ありがとうございます」
こうして黒留袖を羽織ってみると、まるで母がすぐそばにいて見守ってくれているような気がした。これから水木がしようとしていることを知れば、母はなんと言うだろう。よくやったと褒めてくれるだろうか。それとも、馬鹿なことはやめなさいと叱るだろうか。
もの言わぬ着物を腕に抱き、水木は母に祈った。どうか力を貸してほしい。かつて母が自分を守ってくれたように、大事な人を守りたい。だから、今ここで自分ができることをしなくてはならないのだ。





いよいよ、沙代の婚儀の当日がやってきた。
屋敷は朝早くから、招待客を迎えるために慌ただしかった。着付けや化粧をしてくれる女中たちの様子をそっと伺いながら、水木は鏡に映った自分の顔をじっと見つめていた。プロのメイクで、目の傷はきれいに隠されていた。耳の欠けは、髪飾りでうまく隠れている。鏡の中に映る女は、いつもの自分とまるで別人だった。
傷を隠し、黒留袖を着た今の自分は、きっと美しかった母に似ているはずだ。
水木はずっと考えていた。
おじいさまを止めるために、言葉を尽くしたところで無駄だというのはわかった。それなら、もう方法は一つしかない。水木は自分が鬼になる覚悟をした。懐に忍ばせた懐剣を、着物の上からぎゅっと握りしめる。
――――おじいさまを殺すしかない。
それも、寝込みを襲ったり、不意打ちをしたりするのではだめだ。彼はいつも護衛に守られている。しかし、彼が唯一護衛を連れ込まない場所がある。女を連れ込んだ寝室だ。さすがに閨では、むさくるしい男の顔など見たくないと話しているのを聞いたことがあった。
傷を隠し、美しく装った今の水木を見て、時貞がどう思うか――――これは水木にとって賭けであった。