青海かなえ
2025-02-26 09:43:03
5041文字
Public dawnシリーズ
 

blind




 あなたの顔が見えないんです

 的場の唇が、そう言葉を紡いだ。
 アーケードを外れたところにあるこぢんまりとした喫茶店。的場に紙人形で呼び出され、おそるおそる入った店だったが、いい意味で予想を裏切られた。的場の趣味の割に、品がいい。愛想がいい店員に待ち合わせだと言ったところで窓側の一番奥の席にすでに座っていた的場と目があった。
 よく磨かれた窓に、気難しい顔をした自分が写っていた。外は、今にも雨が降り出しそうだった。雲がびっしり敷き詰められた空を見ていると、自然と気が重くさせる。向かい合って座っている的場は、その一言を言ったあと、口を開こうとはしなかった。ついさっき運ばれてきたコーヒーが、ふたりの間で白い湯気がたてていた。
 思えば一昨日の会合の時から普段と様子が違う気はしていた。一言二言、互いに祓い屋として挨拶を交わしたあと、ふと的場の目を見たが、的場は俺より遠くを見ているようで、それから彼が席を立つまでずっと目が合わなかった。普段、的場は圧を与えるほどにしっかりと相手の目を見る。その対象は、俺も例外ではなかった。そのはずなのに、何故か一昨日は結局それから一度も的場はおれのことを見ずに早々に席を立った。あのときは軽い違和感だったが、そう言われてみると納得できる。顔が見えなければ、目が合うはずがない。
「それはどういうことでしょうか」
「そのままの意味ですよ」
 的場はテーブルの隅に置かれていたミルクと角砂糖をコーヒーに入れて、ティースプーンでぐるりと混ぜていた。レコードから流れるジャズが、寒々しい沈黙を際立たせる。腹の底に湧いた苛立ちを誤魔化すために、自分のコーヒーに口をつけた。
 恋人の顔が見えなくなったのに、随分なんでもなさそうだ。
 カップをソーサーに置く。陶器が触れ合う音が大きくならないように、慎重に置く必要があった。
「見えないということは、顔がないということですか?」
「顔のパーツがなくなっているというより、霞がかっているように見えるんですよ」
「全ての人間がそう見えるんですか」
「いえ、あなただけです」
 的場がケーキを頼んでいいか聞いてきたので、手が空いてそうな店員を呼ぶ。的場はいつもの調子でメニューの中から自分が気に入ったものを注文していた。注文を確認した店員がにこやかに離れていった。
 恋人。それがどういう関係性だか、この歳になってもまだ掴みきれない。(恋がそんなによいものではないことはさすがにわかっていた。恋に落ちるということは、その瞬間から敗北が決まっているということと同義だ)
 交際経験は人並みにあるつもりだが、的場とのそれは訳が違った。男だからとかそういう表面的なことではなく、長い年月積み上げてきた拗れきった感情のせいだ。
 二人の間にある感情が、愛情だけではないことは暗黙の了解となっていた。幸福なばかりの関係ではないと、お互いに了承して付き合っていた。うれしくない暗黙の了解だ。劣等感や、嫉妬、それから同情……とにかくできることならば目を逸らしていたい感情が、死体のように積み上がっていることを、了解し合う恋人同士など聞いたことがない。なぜ、付き合うなんて頓狂な答えにたどり着いたのだろうか。こんな、不格好な縫い目のような関係なのに。
「顔が見えないというのに、いつもの調子ですね」
「そう見えますか」
 口角をあげた的場は、手元にあったコーヒーに口をつけた。視線から、指先から、声まで、すべてに余裕が滲み出ている。
「原因は?なにか変わったことはありましたか」
「いえ、別段普段通りに仕事をして寝ました」
「なにか少しでも変わったことがあれば」
 的場は、悩むそぶりをした後、口を開いた。
「花……
「花?」
「会合がある前日に、花弁が透けている花に触れました」
……なぜそんな奇妙な花に触れたんですか」
「きれいだったので」
 開いた口が塞がらない。あまりにも無用心だ。自分だったらそんな怪しげな花になんか触れたりなんてしないだろう。自分の知識が及ばないものは、危険であるかどうかもわからない。わからないものは、恐ろしい。それに引き換え的場は、わからないものに爛々と興味を示す。好奇心は猫を殺す。的場を見ていると、時々頭を過ぎることわざだ。慢心か、傲慢か……俺にはわからないけれど、軽率に危険なことをしようとする人間をみていると、あまりの無防備さに心配を通りすぎて苛立ってしまう。
「立場がある人なんですから気をつけてください。子供じゃないんですから」
……すみません、つい」
 的場が露骨に微笑む。気に障ったときに浮かべるそれに似ていて、内心戸惑う。的場がしでかしたことを俺がくどくど咎めることはよくあることなのに、なにも今更。
「いま、どんな顔をしているんですか?」
「え?」
「顔が見えないもので」
「まあ見えていたとしても、どうせあなたの考えていることなんて、私にはわからないんですけどね」
「わかってるでしょう」
「わからないですよ」
……そうですか」
「あなたと話していると、たまにすり硝子越しに会話をしているような気分になる」
 まあ、だから、もしかしたら今の状態とそんなに変わらないかもしれませんね。ぼやくような的場の声に、心がざわつく。的場の赤い目が、ゆっくり細められた。
 生まれながらの性質だろうか、後天的に身につけたものだろうか、的場はよく人を試すようなことをする。出会った当初はずいぶんな傲慢だと眉をひそめていたが、長くそばにいると手を伸ばし方を知らない幼子にも似ているのだと気づく。てのひらからこぼれ落ちるものの、掬い上げ方もわからないのだ。平静を取り戻したらしい的場は、俺が急に黙ったことを訝しむこともせず、悠々とコーヒーに口をつけていた。
……あなたは同情と軽蔑でしか人を愛せないのをどうにかしたほうがいい」
「どういうことですか」
 的場は俺の問いを拾わず、的場は続けた。
「私はもうそれが始まりだったのでべつに構やしないんですけど、夏目くんに対してはやめたほうがいい」
「なんで今夏目の話が出てくるんですか」
 だんだんと腹の底にある苛立ちが加速してくる。どうしてお前はそんなに強いんだよ。そう歯噛みするのは、これが初めてではなかった。お前がもっと、弱かったらよかった。そしたら、もっとまっとうに愛せたのに。思わず口から溢れそうになった言葉を飲み込む。
 こんな惨めったらしいことを、仮にも恋人相手に言うはずがない。関係性を問わず、言葉を飲み込むということは関係を続けていくためには必要だ。遠い人間には言わないことがあり、近い人間には言えないことがある。けれど、近しい人間には、言えないことを言わなければならないことがある。それを黙っていると関係を続けていく上で、齟齬が生じてくる。面倒な矛盾だ。
 張り詰めた空気の中に、あからさまに気まずそうな店員がパフェを運んできた。一言二言話した後、パフェを俺の前に置くと、足早に去っていく。目の前に置かれたパフェは、苺が施された華やかなものだった。的場の注文したものが自分の前に置かれるのはよくあることだった。もはやなにも言わず、自分の目の前に置かれパフェを的場に渡した。
「食べますか」
「全部食べていいですよ」
 相変わらずですね、と言いながら手を合わせる。的場の妙なところで行儀がいいところも、相変わらずだ。
「ねえ、名取。あなたはなぜ私と付き合っているんですか」
 的場がパフェに乗っかっていた苺にフォークを刺すと、押し出された生クリームが器から溢れた。突然の恋人らしい質問に、思わず持ち上げたコーヒーを飲む前に置いてしまった。心臓が跳ねる。喉元につっかえた言葉がうまく出てこない。
……的場さんこそ、なぜ私と?」
「あなただから」
 的場は、俺の問いかけから、少しの間も置くことはなかった。
「あなたが、あなただったから」
 時間が止まった気がした。真剣な口ぶりだった。顔に、的場の視線が刺さる。彼いわく、霞がかった顔をしている俺の顔を、ただまっすぐ見ていた。少しの沈黙の後、的場は苺を口に入れた。なんとか言葉を紡ごうとするけれど、呆気に取られて紡ごうとした端から消える。的場の言葉は、水面に投げ込まれた石のようだった。たった一言が、心に幾重にも波紋が広がってゆく。その時、何故だか恋が敗北だということを思い出した。
「あれ、言ってませんか、これ」
「聞いてない」
「そうでしたっけ。あまりにも当たり前すぎて、口にするのを忘れていたのかもしれませんね」
 的場は溶け出したアイスを細長いスプーンで掬った。けばけばしいピンク色のソースがかかったバニラ味のアイスは、パフェの中でどろりと溶けていた。
「私たちは、話しをしなさすぎましたね。短くない付き合いなので、どうせわかるだろうという慢心か、それとも……。まあ、とにかく私たちはしばしば本当に大切なことすら口に出さずにしまいこんでしまう」
 的場が言い淀んだ続きは、聞かなくてもわかった。直接触れると、自分も相手も、傷ついてしまいそうだから、口を閉ざすのだ。的場を、傷つけたいわけではない。きっとそれは、的場と同じだろう。
「それで、あなたは」
 何を言われても許しますよと、言いたげに目が細められる。
「私とあなたは、恋人である以前に祓い屋だ」
「はい」
 一片の曇りない、まっすぐな返事に射抜かれる。
「あなたはどこまでも祓い屋で、的場家一門の頭首です。強くて、傲慢で、背負うものだって私とは段違いで……きっと誰からみても、そう見えていると思います」
「はい」
「そんなあなたを暴きたいと思った」
 的場と視線が重なる。それまで的場の口元に浮かんでいた笑みが、ふいに消えた。数度の瞬きのあと、結ばれていた口元がうすく開かれる。何か言おうとしているのだろうか、それとも飲み込もうとしているのか。丸く開かれた切れ長の目が、どこか苦しげに細められた。的場の次の言葉を待つ。長いような、短いような沈黙。自分の心臓の音と、かすれたレコードの音が、やけに大きく聞こえた。
「ふと、誰も知らないお前がいるんだとしたら、見てみたい思ったんだ」
「あなた、とんでもないこと言ってる自覚あります?」
「話をしなさすぎたんでしょう?私たちは」
 一息置いて、そうですね、と的場が言った。カップをソーサーにそっと置くような、さりげない声だった。張り詰めた空気が綻ぶ。やっと附に落ちたような、ほっとしたような声に、こちらもつられて安堵する。そう言っても、とんでもないことを言った自覚はある。指先が震えているのを隠すために、机の下に隠した。
「ねえ周一さん」
「なんだよ」
「私、あなたのことが好きですよ」
 俺もだよ、と言えればよかったが、喉につっかえたその一言がうまく声にならなかった。ふと、付き合ったときのことを思い出した。もう何年か前の記憶だ。あの時も、こんな気持ちになった。浮つくような、縛りつけられたような……、他に類を見ない感情に、急に居心地が悪くなるあの感覚。
……妖をなんとかしないといけませんね」
「妖?」
……………おい」
 わざとらしく的場が口に手を当てた。手の向こうにある口元に、意地が悪い笑みが浮かんでいるのは明白だった。
「嘘をつくことがあまりないので、すぐにバレると思ったのですが……信じているのが面白いような腹立たしいような不思議な気分だったのでしばらくそのままにしようかと」
「腹立たしいって、お前なあ」
「恋人の嘘にくらい気づいてくださいよ」
 随分な言い草だと思ったが、もう怒る気力もなかった。的場は、最初の重い雰囲気とは打って変わって、妙に楽しそうだ。
「花は?」
「ああ、庭に咲いてますよ。私も最初は妖の類だと思ったのですが、人に聞いてみたらどうやら普通の花らしく。サンカヨウといって雨に濡れると透明になる珍しい花のようですよ。面白いので今度見にきますか?」
「遠慮します」
 そういいながら、どうせそのうち見にいくのだろう、と思った。張っていた気が緩み、窓の外に視線を移すと、いつのまにか雲の隙間から陽の光が差していた。窓硝子に自分と的場が映る。楽しげにパフェを突いている的場の向かい側に、妙に安堵した顔の自分がいた。