青海かなえ
2025-02-26 09:40:48
5884文字
Public dawnシリーズ
 

room


 触っていいかと聞かれたとき、的場はマグカップに口をつけていた。

 
 海辺で告白めいたことをしてから数ヶ月、的場と名取は、説明しがたい関係性を続けていた。
 元々、友人というには遠く、ただの同業者というには近い関係だった。それが、どういうわけか、告白を境に、的場が名取の部屋に押しかけ、適当に話して帰るという不可思議な関係性になっていた。名取からは、何のアクションもない。ただ訪ねてきた的場を部屋に通し、的場が帰るというまで話の相手をして、的場が帰ると言ったら、玄関先まで見送る。さようならも言わず別れるとき、名取の向こうにがらんとした彼の部屋が見た時、的場はいつも寂しくなった。庭先にやってきた野良猫に対する対応となんら変わりがないのに、何故だか的場を家に上げる。今日も、いつも通り、名取が出演するドラマの台本を読んでいる横で、的場は持ち帰った書類仕事を整理していた。オフホワイトの柔らかそうなセーターを身につけた名取は、じっと、台本の文字を追っていた。会話もなく、それぞれがそれぞれの仕事に向き合うなか、名取が口を開いて飛び出してきたのが冒頭の台詞だった。
 正直、名取が突拍子がないことを言い出すのはいつものことだった。それにしても脈絡がなさすぎる。的場は口をつけたマグカップに注がれたココアを飲むことなく、テーブルに置いた。
「なぜ?」
「いや変なことを言っている自覚はあるんですが」
 名取は視線を彷徨わせる。的場は頬杖をつき、名取の次の言葉を辛抱強く待った。名取が、貝のように口を開けたり閉じたりする。この人のことだから、きっとまた同じ場所をぐるぐると回るように、不毛なことで悩んでいるんだろう。的場が思うに、名取は煮詰まっているとき、だいたいロクな結論に行きつかない。案外、直感的に選択した方がうまくいく男だとすら思う。本人は、あまり、自分のそういうところは好きではないようけれど。
「わかりました。いいですよ」
 二つ返事で了承すると、なぜか頼んだほうの名取が眉をしかめた。
「あなた……もう少し自分のこと大事にしたらどうですか?」
「何を言ってるんですか?」
 本当に何を言っているんだ? 名取の咎めるような口ぶりに、的場は目を丸くした。
「触っていいか聞いたのはそっちでしょう」
「いや……いや、そうなんですが」
 的場が当然のように投げると、名取はあからさまに言い淀んだ。暖房が効きすぎているのかもしれない。名取が空調に視線を移すと、電源すら入っていなかった。



 ぎしり。ふたりぶんの体重を乗せたソファーが、派手に軋んだ。
 名取の手が、的場の頬におそるおそる触れた。名取は、いつも体温が高い。その内側から滲むような熱に、的場は毎回驚かされる。的場は昔から体温が低いらしく、前から何かの拍子に触れるたびに、名取は眉を顰めた。
「冷たい」
 名取が、独り言のようにこぼした微かな声は、恐ろしいほど鮮明に的場の耳に届いた。
 本当に触れられているのかわからなくなるほどの優しさで、名取は的場の頬をするりと撫でた。急に、心臓を掴まれたような気がして、的場は口を結ぶ。名取の親指が、的場の唇に触れる。爛れそうなほど熱い指先だった。
「手」
 的場が口を開く。
「え?」
「手、熱いですね」
 名取は一度、ばつが悪そうに眉を顰め、そっと目を逸らした。周一さん、と呼ぶと、戸惑いながらもう一度的場と目を合わせる。その目は、確かにいつもと違う色をしていた。的場は、自分の口角が無意識に上がるのを感じた。
 首筋や、喉仏に、名取の指が触れる。はたから見たら、艶めかしい光景なのかもしれない、と的場は考える。けれど、どちらかというと緊張感の方がまさっていた。どんな政治家との会食より息が詰まる。時計の秒針の音や、空調の音、普段は気にもとめない音が、やけにはっきりと聞こえる。昔も、こういうことがあった。赤いマニキュアで遊んだ時だった。あの時、的場の手に触れる名取の指先は、どこまでも慎重だった。名取は、華奢でもなければ、柔らかくもない手を、まるでガラス細工か何かのように丁重に扱っていた。名取は下を向いていて、的場がどんな顔をしていたかなんて、知るよしもない。的場は名取のそういう意気地がないところに助けられていた。的場は、赤く染められてゆく爪の先を眺めながら、安心していた。けれど、それと同時に、心のどこかで、目の前の男に失望していた。
 熱い手が、的場の身体の輪郭を確かめるように、こわごわと動く。着物の衿に差し掛かると、名取の手が、ぴたりと止まった。
「別にいいですよ。減るもんでもなし」
 名取の眉間に、また皺が寄る。ああ見えて、名取は考えていることが顔に出るほうだった。いつものことだが、あまりにもあからさまだった。的場は、思わず吹き出してしまった。
「何か面白いことでも?」
「いいえ?」
 名取は、帯を緩めようと的場の背中に腕を回した。自然と抱き寄せられる体勢になって、ぽすんと、名取の肩口に顔が触れる。名取のやわらかい髪が、的場の頬をくすぐった。残念ながら。そう、とても残念なことだが、触れられるたびに、自分がこの男を好いてることが突きつけられる。自分にまだそんな繊細な心のようなものがあったのかと、的場は静かに目を伏せた。
「あなた結構表情に出ますよね」
「そんなこと、言われたことないです」
「心配せずとも、別に誰にでも触らせてるわけじゃないですよ」
 私は高いので、と的場が冗談めかしていうと、名取の機嫌が余計に下降する。
「冗談ですよ」
「わかってます」
 笑い混じりに言う的場の声が何故だかとても腹立たしく、名取は投げやりに応えた。的場の肩から、着物が滑り落ちてゆく。決して華奢ではない剥き身の肩に、名取が躊躇いがちに触れた。普段は気に求めない空調の音が、名取には、嫌に大きく聞こえた。本当に生きているのかと疑ってしまうほど冷たい頬と比べると、さっきまで服に包まれていた的場の肩は、ずいぶんとあたたかった。的場が呼吸するたびに、筋肉質の肩が上下に揺れていた。
「あなたも生きてるんですね」
 名取は先程までの気まずそうな様子から一転して、悪びれもせずに呟く。感心したとでもいいたげな口調に、的場は、ただ、にくらしい、と思った。
「生きてますよ」
 的場は、名取の手首を掴み、自分の胸に持っていく。硬い胸骨の内側で、とくん、とくん、と鼓動が鳴っている。規則的で小さな音。熱されているのか、冷えているのか、もはや自分でもわからない名取の頭では、ああ人間だ、と、当たり前だが、どこか場違いの感想しか出てこない。皮膚に触れる指先に、力が籠る。名取が、いくつもの言葉を飲み込んでいると、狙ったように、ヤモリがするりと薬指に這い寄ってきた。
「すみません」
 名取は、サッと手を引く。的場は目を丸くしたあと、もう一度名取の手首をにぎった。
「お、おい」
 焦ったように声を上げる名取を気にも留めず、珍しくじっとしているヤモリの影を、的場は観察していた。離してくれ、と声をあげようとした瞬間、名取の指先に、突然鈍い痛みが走った。的場が、名取の薬指に歯を立てていた。口内の湿った温い感触に驚いて、手を引こうとしても、的場にがっちりと掴まれた右手は、びくともしなかった。動揺して、うまく息ができない。すべての感覚が薬指に集中しているのかもしれない。鋭い痛みに混じって、心臓がどくりと音を立てた。急速に、思考が掻き乱されてゆく。高い波に、呑まれてしまったようだった。マニキュアを塗りあった、あの小さな和室の光景が混乱する頭の隅を掠めた。塗ってあげますよ、と、的場の指が、名取の手に触れたとき、同じように鼓動が波打ったのを、鮮明に覚えている。嫌悪というには、熱を帯びすぎている波の正体を、十七歳の名取は、わからないまま蓋をした。満足したのか、的場は口を離した。名取の薬指には、赤い歯型がくっきりと、滲むような痛みが残っていた。的場がふっと顔を上げる。いつもより熱を孕んだ赤い瞳と視線が合う。思わず、生唾を飲む。的場の弧を描いている薄い唇が開かれた。
「周一さん、なんて顔してるの」
 的場が言い終わると同時に、名取は、的場に口づけた。的場は、順々にそれを受け入れる。どちらともなく手が触れ合う。名取の手の甲に浮かんだ骨に触れた時、腹の底から衝動が迫り上がってきて、思考が掠め取られてゆく。夢でも見ているようだった。夜明けの海で、名取への感情を思い知った時から、ずっと的場が望んでいたことだ。名取のキスは、的場が想像してたよりずっと乱暴で性急だった。息も碌にできない。ただひたすらに気持ちがよくて、なにも考えられなくなる。気づいた時には、狭苦しいソファーに押し倒されていた。的場の剥き出しの背中に、硬いスプリングと、冷たいレザー生地があたる。散々貪りあって、やっと唇が離れた。目を開けると、名取の顔が目前にあった。
……どんな顔してた?」
 名取の声は、苛立ちを押し殺して、平静を保とうとしている時の声と似ていた。瞳の奥で、欲情が炭火のように滲んでいた。的場はなんだかおかしくなってくる。突然笑いが込み上げてきた。ずっと手に入れたかったものが、目前に来ている。手を伸ばせば消えてゆくものばかり目で追ってしまう性分なのは、これだけ的場静司として生きていれば受け入れざるを得ない。いつも、あと少しで届きそうだったものが、不意に背を向けるものを、諦念まじりに眺めていた。噛み殺すことができなかった笑いが溢れる。的場は、右目を失うことすら、恐ろしいと思わない。けれど、確かに目の前の男を失うことを怖くて仕方がなかった。恋を自覚するということは、底無し沼に足を突っ込んでることを気付いてしまうことと同義だ。自分がまるで普通の人間のようで、この上なく笑えた。笑いすぎて、目尻に涙が浮かぶ。的場が好き勝手に笑っていると、興が削がれた名取は、身体を的場から離した。見えやすくなった名取の顔は、不機嫌そうに眉根を寄せていた。
「なにか面白いことでもありましたか」
 いえ、と、的場が笑いまじりに口を開く。
「人を好きになるって、そら恐ろしいなあって」
 目を見開く名取を尻目に、的場は身を起こして、中途半端に脱がされた着物の襟に触れた。名取がそっと視線を床に移すと、的場が身につけていた帯が転がっていた。名取は、帯から的場に視線を移した。
「なんですか」
 的場は、涙が滲んだ目尻を拭いながら言った。
「なんでもないです」
 そんな触れるような視線で、なんでもないと言われてもより気になるだけだった。的場は、帯を拾うためソファを降りた。名取の視線に気づいた的場は、にやりと笑う。
「します?」
「しませんよ」
 おや、残念。茶化すようにいうと、的場が拾い上げるより先に、名取が帯を拾い上げた。
……すみませんでした」
 名取は、帯を的場に渡す。別に怒ってはいなかったが、名取があまりに申し訳なさそうな顔をしているのが面白くて、思わず口角が上がった。
「結局、なにをしたかったんですか」
 的場は、名取に脱がされた着物を直していく。まるで、何事もなかったように服を身につける的場から、名取は目を逸らした。
「あなたが、私のこと好きだって言ったじゃないですか」
「はあ」
「ちゃんと、考えようと思って」
 ちゃんと、触れてみたらわかると思った。
 そう歯切れ悪く続けた名取の声は、どんどん尻すぼみになって、最後にはぎゅっと唇を結んでしまった。的場は、名取の様子に驚いたように、目を瞬かせた。
「常々思っていたんですが、周一さんって思考を巡らすこと自体が向いてないですよね」
「馬鹿にしてます?」
 的場は、気にせずに続けた。
「いや、頭の回転が早い人なので、向いてないことはないか。考えれば考えるほど、毛糸玉が絡まるみたいに思考が絡まって、いつの間にか自分自身が雁字搦めになっているというのが正しいでしょうか」
……貶してるんですか?」
「事実では?」
 帯を締め、最後に着物の襟を適当に整えると、すっかりいつもの的場静司に戻ってしまった。ひとつに纏められた長髪が、黒い着物に包まれた背中に垂れている。的場が身体を動かすたびに、さらさらと揺れていた。
「でも」
「でも?」
……初めてお前に触った気がした」
 的場は振り向かない。名取は、的場から自分の右手に視線を移した。見つかったとばかりに、右手の甲にいたヤモリが、服の中に逃げていく。袖口から、ちろりと見えているヤモリの尻尾が、的場の背中に垂れる、一房の黒髪と重なった。
「何かの拍子に手が触れたとか、身体が触れたとか、そんなことは何度もあったでしょう」
 子どもに言い聞かせるような声だった。背中越しの的場の声は、いつもよりうんと優しい。けれど、名取は、的場に優しくされたいわけじゃなかった。
「それとは全然違うでしょう。 ……言い聞かせないでください」
「すみません」
 的場は、壁際に掛けてあった羽織をはおった。時間ですね、と呟いた。時計はちょうど九時を差していた。
「帰ります。明日、早いんですよ」
 そうですか、と名取が答えた。いつものように、名取が見送るために玄関口までついてきた。玄関のドアが開いて、それでは、と的場が背を向けたときに、それまで黙っていた名取が、口を開いた。
「人を好きになるって、どこかそら恐ろしいんですね」
 そんなこと、今日の今日まで知らなかった。
 的場はぴたりと止まって、振り返った。ふたりの視線が、かちりと合う。いつもは、名取が考えていることなんて、手にとるようにわかるのに、名取が何を思ってそんなことを言ったのか、さっぱりわからなかった。ただ、意志の強い瞳で、じっと的場のことを見ていた。こういう駆け引きじみた空気になったのは、何度目だろう。朝の海、小さな和室、海辺の手首を掴まれているわけでもないのに、的場はその場所から動くことができなかった。的場は、名取の手首を引き、そっと口付けた。数秒に満たないささやかな触れ合いだった。
「また来ます」
 はい、と名取が答えた。玄関のドアが音を立てて閉まる。先ほどまで熱を持っていた指先が、外の空気に触れて、しんと冷たくなっていた。帰りたくないなあ、とぼやいた言葉は、白い息と共に、冷たい夜に消えていった。