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青海かなえ
2025-02-26 09:39:18
10802文字
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dawnシリーズ
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dusk
殊更ゆっくりまばたきをすることで、潮風に奪われる瞳の水分を取り戻そうとした。
男は黒いチェスターコートのポケットに両手を突っ込み、崖から海を眺めていた。断崖の下で、暗い波が静かに揺れ動いている。女に叩かれた頬が、ひりつくように痛んだ。男が、落下防止用の柵に背を預けると、ぎしりと低く軋んだ。男は懐から、一本の煙草とライターを取り出した。潮風を避けるように身を丸め、煙草を咥えた。そうして、すうっと息を吸い、煙草に火をつける。まるで漁火のような橙色の火がぽうっと灯った。男は、俯く。たいして好きでもない苦い味が口内に広がった。
カット、という短い声で、名取は顔を上げた。時間が切り取られたのではないかと思うほど、空気ががらりと変わる。しばらくして監督のオッケーと言う声が聞こえて、心の底からほっとした。なにせ、今回の仕事はリテイクがいつもと比べ物にならないほど多かった。監督の声を皮切りに、先ほどまで息を潜めていたスタッフが慌ただしく動き出す。携帯灰皿を渡たしてくれたスタッフに礼を言いつつ、名取は煙草を押し消した。
♦︎♦︎♦︎
色が抜けたような灰色な空が、名取と的場を見下ろしていた。頭上を飛び回るうみねこが、ひっきりなしにみゃあみゃあ鳴いていた。
海。入り組んだところにあるくせにどうやら観光地らしい。シーズンオフのためか、立地のためか、閑散としていて、人っ子ひとりいやしない。道中も人間がいないことをいいことに好き放題にしている、小物の妖とすれ違うくらいだ。けれど、観光地という心意気のようなものは、至るところに感じられる。外国語の看板が立っていたり、なんだかよくわからないモニュメントのようなものが、なんの脈絡もなく置かれていたりしていた。この白い展望塔もそのひとつだろうか。
展望塔。遠くから見たときは、白い物体が海中から突き出しているように見えた。展望台から岸辺にまっすぐ伸びた浅橋は、真っ白で細く、魚の背骨を思わせる。その様がどこか奇妙な絵画のようで、名取は少々不気味に思ったが、隣にいる的場は心底興味深そうにしていて、結局そのあと的場の誘いで橋を渡ることになった。意外と浅橋は長く、半ばで立ち止まった。何せ、二人とも一仕事終えた後だった。一日で終わる簡単なものだったけれど、山道を登ったのは事実だ。疲れがどっと肩にのしかかる。
「煙草でも吸い出しそうな振る舞いですね」
海を見ていた的場が、茶化すようにまと
「吸いませんよ
……
知っているでしょう」
「この前のドラマで吸ってたじゃないですか。そういえばあれ、面白かったですよ。女にふられたところは笑えました。なんでしたっけ、あの役
……
詐欺師でしたっけ?」
「観てたんですか」
「はい。適当に見ていたので内容はあなたが女に引っ叩かれるシーンしか覚えてないんですけど」
「またなんでそんなシーンを」
「興味深いシーンだったので」
名取は横目で的場の表情を伺った。的場は本当に興味があるのかないのか、いまいちわからない。いつものことだった。
的場が言っているのは、数日前に最終回が放送されたドラマのことだ。
警察を舞台にした、よくあるサスペンスものだった。名取には、詐欺師の役としてオファーが来た。連続ドラマのオファー、その上重要な役回りというのは貴重で、事務所の勧めもあり受けることにした。幸か不幸か、裏の仕事も落ち着いていた。
はじめは警察の情報を得るために女に近づいたが、だんだんと情に絆され、最後には本気で愛し始める。しかし、結局詐欺だと気づいた女に袖にされる
……
。そのあと、女は終始険悪だと思われていた幼なじみと結ばれた。
結論から言うと、名取は、演じていた詐欺師の気持ちが最後までよくわからなかった。そもそも、名取が役に共感することはほとんど無い。いつも無感動に、淡々と、けれどどこか献身的に与えられた役を演じてきた。それで、名取も周りも満足していた。他者に望まれる姿を演じていけばいくほど、望まれた姿と、本当の名取自身の間に、明確な境界線が引かれていく。それで、名取はずいぶんと生きやすくなった。誰かの望む姿を演じ、称賛されるのは悪い気はしない。誰にも知られていない自分がいるということは、生きやすくて、安心で、安全だ。けれど、名取が今回もらったあの詐欺師という役は、いつものそれとは少し違っていた。いつも名取がもらう役は、恋愛ドラマの相手役だったり、ミステリーの探偵役だったり
……
どちらかというとクリーンなイメージの役柄が多かった。クリーンで、華やかなキャラクター。ある意味、いい意味で記号的だと言ってもいい。それに比べて今回の役は、人間味があると言えば聞こえがいいが、人の愚かさに焦点を当てたキャラクターだった。台本を読んだ時から、細い境界線の上に立たされたような心許なさはあった。少なくとも、演じていた名取はそう思っていた。案の定、現場に入ってみると、いつもよりリテイクが多かった。少し気落ちする名取に、名取さんがこういう役って珍しいですから、と、マネージャーが慰めてくれたが、曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかった。
「あなたも人から袖にされることがあるんだなあ、と。興味深かったです」
海は、近くで見ると存外くすんだ色をしていた。ねずみ色に鈍くかがやく海を、的場はただじっと見ていた。どんな顔をしているのだろう、と伺ってみようとしても、口元には、いつもと変わり無い不遜な笑みが浮かべれていて、名取にはいまいち読み取れなかった。目は海を見ているのか、はたまた何か別のものを見ているのか、もしくは何も見ていないのか
……
。けして短くない付き合いのはずなのに、相変わらず彼の真意に知ることはできない。最近は、それをもう仕方ないと諦めがついてきた。
「なんですかそれ
……
」
潮風で、的場の黒い髪がなびく。たいして手入れをされていない長い髪が、名取の視界の端で舞う。まるで、無数の糸のようだった。
「あなたの表の仕事自体には、さほど興味はないんですけどね。あのシーンだけは印象に残りました」
「表の仕事って
……
あなた、そもそも私にさほど興味ないでしょう」
名取は、当然のことを言ったつもりだった。けれど的場は数秒だけ口を噤んだあと、唐突にこちらに顔を向けた。その顔に浮かんでいるわざとらしい微笑には、見覚えがあった。次の言葉は、予想できた。
「そう見えますか?」
出た、と思わず溢れそうになった言葉を、名取はぐっと飲み込む。的場はときおり他人の質問を煙に巻く。幼い頃から次期当主として育てられて身に付いた性質だろうか。他人の誤解も、無理解も、ろくに訂正することはない。あなたにはそう見えるんですね、と言って唇だけで笑う。質の悪い誤魔化しだ。上手く生きろと言ったのはどこのどいつだと、的場の襟首を引っ掴んでやりたくなるのを、あと少しのところで堪えた。
「
……
そう見えます」
名取が少しの沈黙のあと、深く息を吸い、正解の分からない問いに答えるように慎重に答えた。的場は視線だけを名取に寄越し、くすりと笑う。傲慢さや不遜さがなりを潜めた、慈悲ばかりの笑みだった。名取は急に自分がとんでもないことを言ってしまったのではないかという気になってしまって、的場から視線を逸らした。的場の慈悲は、いつも少しだけ失望に似ていた。私はね、と的場が口を開く。
「あなたがなんだかんだ結局幸せになるような役をやることに対して、なんの感慨もないんです」
的場の声は、淡々としていた。
「
……
はあ」
「なんというか、つまらないんですよね。知っているので、あなたのそういうところは」
♦︎♦︎♦︎
「つまらないこと?」
「ええ」
鉄橋のちょうど真ん中で、彼女は流れる川を見ていた。だから気にしないで、と涙を拭う彼女の指先に、男はやさしく触れた。彼女は俯いたまま、顔をあげなかった。日が暮れ、空に橙色の中に白んだ水色が滲む。まるで水彩画のようだった。
彼女が、幼なじみの男に素気無く扱われているらしい。それを知ってから男は、チャンスとばかりに彼女に微笑みかけるようになった。重そうなものを持っていたら手伝ってやるし、苦手な書類整理に追われていたら手伝ってやった。観察していく中で、不器用な正義感や、本来の仕事の上司に、彼女に近付くように言われたのは、ひと月ほど前だった。
彼女の長い髪が、風になびいていた。手すりに触れた指先が、微かに震えていた。
「泣いてしまうほど苦しいことに、つまらないことなんてありませんよ」
男は、真剣な声色でそういった。彼女の小さく白い手を、そっと包み込むと、はっとしたように顔をあげた。男は心の隅で、小さく笑った。男にとって、人が恋に落ちる瞬間は、いつ見ても興味深いものだった。まるで世界が急に色付いたような、はたまた世界の全てが色を失ったような
……
自分の世界がひっくり返ってしまったこと鮮烈に刻み付けられたような顔をする。興味深くて、面白くて、かけらも理解ができない。男はふっと微笑み、そのまま彼女を引き寄せて、唇を合わせた。
カット。その声を合図に、名取は目の前の女優から、そっと身体を離した。
♦︎♦︎♦︎
「ここは展望塔といっても、海中展望塔らしいです。上がるのではなく、降るらしい」
細い桟橋を渡ると、白い展望塔の入口が、がばりと口を開けていた。展望塔は、近くで見てみると、そこら中ペンキが剥がれかけている。端が錆びた看板の古臭いフォントが、年季を感じさせる。入り口を覗き込んでみると、階段が、下に向かって螺旋状に伸びていた。名取は思わず息を飲んだが、的場は臆せずに降りてゆく。
「的場さん」
「はい」
「さっきの知っている、ってなんですか」
横幅が狭い螺旋階段に、こつん、こつん、と硬質な靴音だけが響く。的場は何も答えなかった。言いたくないのか、言えないのか、言わないのか、言う必要がないのか
……
。名取に推し量ることはできない。問い詰めても良いが、機嫌を損ねても面倒なので名取も沈黙に徹した。長いような短いような階段を下りると、そこは、まるで小さな宇宙船のようだった。不思議な部屋だった。部屋全体が八角形の形をしていて、至る所に角がまるい長方形の窓が取り付けられていた。窓の外は宇宙でもなんでもなく、濁った海が広がっている。どうやら海で泳いでいる魚を見物する部屋のようだ。透き通った、という表現とは無縁の海の中を、名前も知らない魚たちが悠々と泳いでいる。明かりはわざと落としているようで、窓から差し込んだ青銅色の光が、緑色の安っぽい床に、波のような模様を作っていた。
「おや、スズキですねえ。煮付けにしてほしい」
「あなた絶対水族館に行かないでください」
相変わらず情緒がない。きょろきょろと興味深そうに見回す的場は、会合ですれ違うときよりずっと幼く見えた。幼い、と言っても的場の年齢を考えると妥当なのかもしれないが。
「名取、あれを見てください」
的場が、窓の外を指で差す。名取が恐る恐る覗いてみると、白い光を纏った魚が泳いでいた。魚の群れの中で、まるで自分もその一員のように泳いでいる。またたきのように、明滅を繰り返していている魚を見ながら、名取は心のどこかで安心していた。妖が見える人間の世界は、どこまでも不安定だ。存在するものが、一方の人間には見えているものが、もう片方には見えていないなんてよくある話だ。日常茶飯事だと言ってもいい。的場より力が劣っている自覚がある名取は、的場が指を差したものが見えるかわからない。いつも少しだけ緊張してしまう。それなのに、的場は無邪気に見てよ、と指差す。そういう傲慢さが、憎らしかった。
「あの魚、光ってるでしょう」
的場の声はどこか弾んでいた。横顔に、わずかに学生時代の無邪気な面影を感じる。
「そうだな」
「うまそうだ。妖って食えるんですかね?煮付け? 刺身? ちょっとアジに似てるのでヒラキにしてみりん干しとかでもいいかもしれませんね」
「そんなホイホイ妖を食おうとする人間、あなた以外にいませんよ」
「不老不死になれるかもしれませんよ」
「なりたいんですか」
「いえ、まったく」
名取は窓の外を見ていた。魚群の中にいても、どれが妖なのか名取でもよくわかる。すいすいと、海の中に消えゆく。妖は、いつまでもまたたいていて、まるで星のようだった。
♦︎♦︎♦︎
「まさか本当に来てくれるとは思わなかった」
浮つきと喜びを意識したおかげで、ずいぶん楽しげな声になった。ただ軽薄さの一歩手前になってしまった事は、反省点だ。男はそんなことを考えながら、彼女に視線を送る。長い髪が、うまく横顔を隠していた。
男と彼女は、大きな水槽の前に並んで立っていた。自分の何倍も高さがある分厚い硝子越しに透き通った作り物の海を眺めていた。男には興味も意味もないような魚が、水槽のなかを自由に泳ぎ回っている。男はその様子を、どこか無感動に眺めていた。
「あなたが誘ったんじゃないですか」
男と彼女は身長差があって、たまに声がききとりにくい。静かな場所でよかった
……
と男は内心胸を撫で下ろしていた。
「断れられると思っていたよ」
「あなたも、弱気になることがあるんですね。ずっと自信満々で、鼻につく人だと思った」
「何事も、一面を見るだけでは推し量れないんだよ」
男は、ちらりと横目で彼女の表情を盗み見る。髪の隙間から、懸命に作った仏頂面が覗いていた。どうしてそう意固地になるのだろう。こうして彼女に近づけば近づくほど、わからないことが増えてくる。
「見過ぎです」
「ごめんね」
「もう」
彼女は、変な人、と小さく呟いて、顔をかくしていた髪を、そっと耳にかける。なだらかな曲線を描いた頬や、長い睫毛があらわになった。
「さっきのお話の続きですが、ずっと、あなたのこと怖いと思っていたんです。なに考えているかわからなくて。それに、人を試すことばかり言う」
独白のように、彼女はぽつりぽつりと話す。
「もしかして払拭できたってことかな」
少し茶化すように男が言うと、彼女は勢いよく顔を上げた。失敗したか、と男が思った束の間、彼女の薄い唇が弧を描いた。
「ずいぶんかわいい人だとわかりました」
「は?」
惚けた声が出てしまった。彼女がなにを言っているのか、男には全く理解できなかった。瞼に施された化粧が、人工的な青い光に反射してきらきら輝いていた。
彼女は、堪えきれないと言ったようにひとしきり笑うと、少しいじわるそうな笑みを浮かべ、嬉しい、と口を開いた。
「初めてあなたの本当の声が聞けた気がします」
♦︎♦︎♦︎
そうだ、といきなり的場が口を開いた。言い忘れていた、という風に、けれど、なんの悪びれもない様子で続ける。
「さっきの質問の答えですが」
「え?」
「面白いと思ってますよ。あなたのこと」
「は?」
どの質問の答えだよ。名取は喉元まで迫り上がった言葉を飲みこむ。魚の姿をした妖は、もう見えなくなってしまった。しばらく言葉に迷っていると、堪えきれなかったように的場が吹き出した。
「おかしな顔をしないでくださいよ」
名取は露骨に怪訝な顔をしていた。。
「どんな顔ですか」
「この前のドラマの
……
水族館が出てきた回があったじゃないですか? あの回のラストでアップになった時の表情とよく似ていました。あぁ、笑った笑った」
ラストシーン以外覚えていないと嘯《うそぶ》いたくせに、ずいぶんよく覚えているんだな、とあと少しで口から出そうになった皮肉を、名取はぐっとの見込んだ。
あのシーンは、散々リテイクを出された場所だった。名取くん、ここは君の演じる男が、恋に落ちる場面なんだ。監督に、何度も繰り返し言われた。彼女の存在は、男にとって未知なんだ。理解できたと安心した瞬間、また彼女は男の予想を裏切る。そして、散々翻弄されて、よくわからないまま、男は恋に落ちるんだ
……
。何度も何度も言われたせいで、そらで言えてしまう。あまり良くない記憶を思い出してしまい、げんなりする。一方、的場は一通り笑って満足したようだった。
「あのシーン、リテイクが多かったんです」
「へえ、そうなんですか。素人目だといい感じでしたよ。私にはよくわからないですが」
どちらかというと、言葉を飲み込むほうだという自覚はあったが、的場との会話は口に出す言葉より、飲み込む言葉の方が多いくらいだ。今だってそうだ。学生の時分は、ぽんぽん好きなように口にだしていた気がするが。付き合いが長くなるにつれて、飲み込む言葉の量が増えていく。
「今までで一番いいように思いましたけどね」
「あなた、私の出演作とか見ないでしょう」
「確かに」
的場は、年齢不相応なスーツのポケットに手を突っ込んで、面白そうに窓の外を見ていた。名取も、的場の視線の先を追った。窓の外に広がる本物の海は、水族館で見た作り物の水槽より、ずっと生々しく濁っていた。
♦︎♦︎♦︎
「言いたいこと?」
「ええ」
彼女の口元には、一等うつくしい笑みが浮かんでいた。
数回目のデートで、彼女が男に紹介したカフェは、いつも人がひしめき合っていた。テラス席も用意されている開けたカフェで、店員の愛想もいい。カップルや、友人だと思われるふたり組で、だいぶ席が埋まっていた。至る所でいろんな人間の話し声が飛び交っていて少し騒がしいのが難点だった。それなのに、どうしてだろう。彼女の声は、男にまっすぐ届いた。
つまらないことが聞きたいの。彼女の声は、どこまでも静かに凪いでいた。彼がプレゼントしたシルバーの華奢なブレスレットは、彼女の左手できらりと光っていた。彼女のきれいに整えられた爪や、長い睫毛に縁取られた大きな目や、丁寧に手入れされた黒髪。男の目には、そのどれもが鮮烈に映る。彼女はその大きな目で男の表情の動きをひとつも取りこぼさないようにじっと見ていた。
「私、あなたのことが好きなの」
「そうだと嬉しいよ」
「あなたは私のことが好き?」
「
……
ああ」
自分の声が、想定したものよりもずっと優しいものになってしまったことに、男は言葉もなく驚いた。そして、もう戻れないことを、静かに受け止めた。彼女はしばらく口を閉ざしたあと、その華奢な手で男の頬を打った。長い爪が頬を掠め、一筋の傷ができる。乾いた音が、カフェに響く。あんなに騒がしかった客たちが皆揃いも揃って静まり返った。しばらく男は口を開くことができなかった。そのまま時間だけが経ち、痛み出す頬に男は触れた。
「嘘つき」
彼女は席を立つ。テーブルの向かい側には、シルバーのブレスレットだけが置かれていた。
♦︎♦︎♦︎
「あのシーン、結局どういう気分だったんですか」
「あのシーン?」
宇宙船じみた海中展望室から外に出る頃には、すでに日が落ちていた。まだ仄明《ほのあか》るい空に、半円の月が浮かんでいた。
名取の数歩前を、的場が歩いている。学生服を着ていたときより、ずっと広くなった背中から、名取は目を逸らした。
「女から袖にされるところです」
「ああ
……
」
ずいぶんあのシーンを気にするんだな、と思いながら、名取は腕時計を見る。時間を見ると、十九時を過ぎていた。日が落ちると、少し肌寒く、頬を撫でる風も冷たい。名取は表の仕事について的場に話したことはなかった。揶揄《からか》われたことは何度かあったが、こんなに深入りされることはなかった。よっぽどストーリーがお気に召したのだろうか。だが、そんなに的場が好きそうな話ではないように感じた。的場が、名取からすれば趣味がいいとは到底い難いものを好む人間だということを、けして長くない付き合いの中で充分わかっていた。
「
……
あのシーンは、難しかったです」
指摘を書き込みすぎて真っ黒になった台本が頭を過ぎり、身体がどっと重くなる。
「水族館のシーンも大変だったのでは?」
「あの仕事自体、いつもよりやりづらかったんですよ」
役が特殊で、と言おうとしたところで、ふむ、と的場が考えるような仕草をした。なんですか、と名取が促と、的場は口を開いた。
「利用しようとしていた女性を本気で恋をしたけれど、利用しようとしていたことが相手にバレて引っ叩かれる
……
あなたの人生で一度もないでしょう」
「そんなの、あなたもないでしょう」
「さあ」
「さあって
……
」
あるわけないだろう、と思いながら、感情を相手に悟らせない的場の横顔に、もしや、と思わずにはいられなかった。的場がこれまでどんな恋愛をしてきたかなんて、名取には知る由もない。遠くない距離で見てきたつもりだが、そんな気配は今まで感じられなかった。そもそも、的場と恋愛というワードが、名取の脳内では全くと言っていいほど繋がらなかった。
名取の目の前にいる的場は、どこまでも祓い屋だった。当たり前の話だ。名取と的場は、祓い屋として出会っていて、今日まで腐れ縁が続いている。当たり前すぎて、きちんと考えたことすらなかった。祓い屋ではない、的場静司。そんなもの、本当に存在するのだろうか。
「そもそも、芝居というものは、役を演じている役者を見るものではなくて、役者が演じている役を見るものでは?」
「おや、芝居論ですか?」
ご立派ですね、とからかうような声が堪に触るが、喧嘩をするほどの気力はなかった。
「前にも言ったでしょう」
「何を」
「どこにいても、あなただとわかると」
的場が表情は、彼自身の長い髪で隠されてしまった。
名取は、学生の時分に的場と二人で見た朝焼けの海を、思い出していた。今思うと、さほど遠い場所でもなかったのに、高校生だったあの頃は、ちょっとした旅行気分だった。ろくに寝ていなかったこともあり、あの日の思い出は断片的で、前後の記憶はあまりない。けれど、あの朝焼けの海のことはよく覚えていた。澄んだ空気も、潮の香りも、波の音も
……
的場の言葉も。
「無理に思い出さなくてもいいですよ」
「覚えていますよ」
「おや、珍しい」
核心を避けるような会話。的場は、いつも言葉に対して躊躇いがない。自分が思ったまま、言葉を選ぶことなく口に出す。もちろん誤解を呼ぶし、そばで聞いてる名取のほうがヒヤヒヤしていることも多い。それなのに、今日は、核心を捉えているのか、いないのか、曖昧な質問ばかりが飛んでくる。なんなんだよ、と、名取は段々と苛立ちを募らせていた。
「お前、言いたいことがあるならはっきり言えよ」
溢れるように言葉が出てきた。少し語気が荒くなったかもしれない。謝ろうか、と名取が逡巡していると、的場が、突然
堰
せき
を切ったように笑い出した。謝ろうかなんて考えはどこかに行き、名取はその様子を棒立ちで眺めることしかできない。一応情緒がある場で、こんな情緒もなにも感じさせないように、大笑いするのは逆に的場らしいのか、と全く関係ないことを考えることしかできなかった。
「はー、笑った笑った」
「は?」
「こんなに笑ったのは久しぶりです」
「は?」
的場は、さっきの話ですが、と、もう一度口を開いた。
「とりあえず、周一さんに言われたくない」
的場のはっきりとした言葉に、名取は目を白黒させる。的場に怒りの色はなかった。それどころか、ひとしきり笑って、付き物が落ちたようにすっきり顔をしている。
「はあ
……
お前がいうな、とはまさにこのことですね。あなたはそんな人だ。自責の念が強いと思ったら、すぐ自分のことを棚に上げる」
「え?」
まるで話についていけずに、名取は目を白黒させていた。的場は息を吸い、吐き出した後、名取の方に身体を向けた。
「本当、あなたのことを袖にするのは楽しそうだ」
的場は、笑いすぎて目尻に滲んだ涙を、人差し指で拭う。口元に浮かぶ笑みがやさしくて、名取は何を言えば良いか、余計にわからなくなる。
「でも残念ながら、私はあなたが好きなので」
袖にできないんですよね。
聞いたことがないくらい、柔らかい声だった。名取は少しの間、息をするのも忘れてしまった。的場は、くるりと名取に背を向けて、勝手に歩き出す。話は終わりだと言いたげな様子に、名取は妙な焦りを感じた。遠くなる背中を小走りで後を追い、的場の手首を掴かんだ。そのまま乱暴に振り向かせようと思ったが、的場が弓を使う人間だということを思い出して、結局、それ以上何もできなかった。そのまま何もできずにいると、振り返った的場と目が合った。的場は、名取の次のじっと待っていた。
「
……
勝手に終わらせるなよ」
口を突いて出た言葉は、あまりにも情けなかった。急にいたたまれなくなってしまった。しばらくお互いに口を開かずにいた。日が落ち、冷たさを増した潮風が、名取の頬を掠める。なのに、的場の手首に触れる名取の指先は、確かな熱を持っていた。それがどういうことなのか、わからないけれど。
名取はぎゅっと眉根を寄せた。的場が次に口を開くとき、どういう言葉を吐くのか、まったく予想できなくて、それがたまらなく怖かった。
「
……
久しぶりに、あなたの本当の声を聞いた気がします」
やっと口を開いた的場がこぼした言葉に、名取は目を剥いた。それは、水族館のラストシーンでの、彼女の台詞だった。男が、彼女への恋心を自覚する。それは、男にとって初めての恋で、背を押されたように、滑り落ちてしまう。その先に、なんの明るい未来がなかったとしても。
呆然としていると、的場は自分の手首を掴んでいた名取の腕を、もう片方の手で引いた。油断していた名取はよろめき、的場に受け止められた。離れていると、大きく見えた的場は、意外と自分と対して変わらない体躯だった。腕を回そうか迷っていると、的場はゆっくりと名取の身体を離した。
「周一さん、帰りましょう」
とっくに日は沈みきっていて、お互いの表情もわからない。帰りたくないといったらどうなるのだろう、と考えて、それではあの時と逆ではないかと苦笑する。冷たい夜の潮風が的場の背広をはためかせる。名取は、殊更ゆっくりまばたきをすることで、潮風に奪われる瞳の水分を取り戻そうとした。
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