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青海かなえ
2025-02-26 09:36:26
5364文字
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dawnシリーズ
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赤い爪
「塗ってください」
そう言って的場が差し出したのは、赤いマニキュアだった。
学校からの帰る途中に、蛾の形をした紙人形に纏わり付かれた。目玉のような、的のような模様が描かれた羽を見ると、思わずため息が出た。今日は家に帰って蔵でも漁ろうと思ったのだが
……
。しかし、だいたいこういう時は、大人しく向かうのが賢い判断なのだ。あいつと付き合っていると嫌でもわかる。式が示す方向にのろのろと歩くことにした。歩いたこともないような小道をしばらく進むと、小さい日本家屋の目の前に辿り着いた。塀が高く、中の様子を覗くことはできなかった。恐る恐る玄関の門に手をかけたところで、周りを飛び回っていた式が、音を立てて焼き消えた。うわ、と情けない声が漏れる。声が聞こえたのか、家屋から学生服を着た的場が顔を出した。
「あれ、周一さん」
「お前が呼んだんだろう」
「本当に来るとは思わなかった」
今までの行いを思い出してほしい。選択肢があるように見せかけて強引な手段を取るのは、的場の習い癖だ。自覚がないのだろうか。
「まあいいや。入ってよ」
的場は玄関の引き戸を開けた。ダークブラウンに塗られた引き戸に、薔薇のステンドグラスが嵌めこまれていた。的場静司の趣味ではなさそうだ。どちらかと言えば女性が好みそうな装飾だった。遠くからみたらただの日本家屋だが、よく見てみるとところどころ持ち主の好みに改築されているようだった。家屋は、外から見た時よりもさらにこじんまりとしていた。古い家だが、室内も外観と同じように、きちんと手入れはされている。レトロモダンというのだろうか。的場静司どころか、的場家好みでもない気がする。やはり、女性のものなのだろうか。不思議そうに後ろをついてゆく俺を見た的場が、二代前の的場家頭首の妾が住んでいた家だと教えてくれた。廊下の一番奥にある戸を開けると、六畳くらいの畳部屋だった。家具もない部屋だった。縁側に面した部屋で、西日が畳を照らしていた。日に焼けた畳の上に的場は座る。座りなよ、と言われて渋々座った。なんで呼んだんだよ、と聞いて帰ってきた答えが、冒頭の台詞だ。
「そのためにここに呼んだのか」
「俺の家に呼ぶわけにもいきませんし、周一さんの家にも行けないですし。ここ、建てられた理由はあれですけど、まあまあ便利なんですよ。塀も高いので、隠れ家にもなる」
差し出されたものを思わず手に取る。小さな硝子瓶は、想像していたより重かった。小瓶は、爪を彩る塗料で満たされていた。血よりもっと艶やかで、薔薇よりずっとグロテスクな赤い液体。傾けると、瓶の中を這うように移動していた。それが、一匹の奇妙な生き物のようで、思わず眉間にしわが寄る。一体これは何なんだという気持ちを込めて的場に視線を送った。けれど彼の口元には、笑みのようなものが浮かんでいるばかりで、真意などまるで汲み取れなかった。
「なんだこれ」
「知らない? マニキュアですよ」
それくらい知っている。聞いているのは、なぜお前がそれを俺に差し出してくるのだということだ。的場がなにか提案する時は、きちんと真意がある。そして、だいたいこちら側にも利があることが多い。損得感情がしっかりしていて、自分にも相手にも損をさせないようにする。だから、今回もどうせなにかあるんだろう、と思っていたのだが。
「本当にこれだけか?」
「普通に塗ってくれればいいよ」
「聞けよ」
「はい、どうぞ」
差し出された手は、どう見ても男子高校生のものだった。触れてみると、俺の手よりもだいぶ冷たかった。相変わらず体温が感じさせない肌だ。弓道をやっているせいか、硬い。皮も厚く、おおよそ女性の手と似ても似つかない。けれど、よく見てみると、爪の形はきれいだった。他人の爪なんて見る機会はないが、的場の爪は短く切りそろえられているものの、縦に長く、整った形をしていた。
俺は、的場から受け取ったマニキュアの蓋を開け、塗料がついた刷毛を淵で拭った。
「あれ、本当に塗ってくれるんだ」
「茶化すな」
「茶化しているように見えた?」
「見えた」
右手の親指の爪に、小さい刷毛を滑らせた。的場の爪は、桜より少し淡い色をしていた。慎重に塗ってゆく。俺が刷毛を滑らせるたびに、的場の爪が塗りつぶされてゆく。俺は胸の底をちりちり焼くなにかから目を逸らし、平静貫く。的場の顔をちらりと見ると、ひどく満足気な表情をしていて勘に触った。
「ねえ、周一さん。面白くないこと話してもいい?」
「妖の話か?」
「似たようなものですね」
親指が塗り終わり、人差し指に取り掛かる。
「昨日、朝起きると姉がどこにもませんでした」
刷毛を持っていた手がぴたりと止まる。的場は右手をこちらに差し出したまま、こともなさげに言った。どんな顔をしているのだろう。きっと、的場はまた不遜な笑みを浮かべてる。顔を上げて、あいつの顔を見ても、きっとなにも変わらない。それなのに、なぜか顔を上げることはできなかった。
「朝は別々に食べているんだけど、朝起きるとちゃんと姉がいるか探してしまう癖があるんです。だからなんだという訳じゃなくて、探して、ああいるなと思うだけなんだけど。昨日は、家中どこを探してもいなかった」
俺は黙って的場の話を聞いていた。
的場の姉とは、数回会合で顔を合わせたことがあった。顔も雰囲気も、あまり的場と似ていない女性だった。彼女は、祓い屋にしては珍しく華美な色柄の着物や華やかなワンピースを着ていた。高いピンヒールや華奢な下駄が、随分歩き辛そうだと思ったのを覚えている。一応、挨拶くらいはしたことがあった。一言二言会話を交わしたあと、彼女は俺の顔をうつくしいと褒めた。初対面で口に出されることは珍しく、少し戸惑ってしまった。彼女は少し申し訳なさそうに、うつくしいものが好きなの、と目を細め、そのあと、ごめんなさいね、業のようなものなの、と付け加えた。今思うととてもうつくしい人のような気もするが、その時は的場とはあまり似ていない人だな、ということばかり考えていた。そういえば、その時の彼女の爪はこのマニキュアと同じ色で塗られていた気がする。
「以前からこそこそと準備していたようで、部屋は隅から隅まですっからかん。金も、服も、化粧品も、本も、術具も、姉のものはなにもなくて。うちが便利に使ってた術師の男もいなくなってたんです。まあ、二人で逃げたんでしょう。まるで三文小説だ」
じっと、的場の話に耳を傾ける。今日の的場は、ずいぶん饒舌だ。元々口数が少ないわけではないが、それにしても今日はよく喋る。
「流石の俺も驚きましたよ。実の姉がまるで最初からいなかったように姿を消したら
……
でもね、周一さん」
俺、なんだかその時ひどく安心したんだ。的場の声が、うまく飲み込めない。慣れないシンナーのにおいに、そろそろ酔いそうだった。口を開こうにも開けない。何かを失った時に、安心するということはどういうことなのだろうか
……
。
ふいに、幼い頃亡くした母のことを思い出した。母親。命日は覚えているが、誕生日はずいぶん昔に忘れてしまった。幼い時分は覚えていた気がするのだが。いつのまにか、生きていたという記憶が、もういないという事実に塗り潰されていった。俺の場合、それはさざ波が砂浜を削るように、静かに長い時間をかけて起こっていったが、的場は、一晩にして一気に塗りつぶされてしまった。蝶が飛び立つように、消えた姉。なんて、鮮やかで軽やかな絶望だろう。世界が反転するような? 時間が止まったような? どんな比喩を用いたら、的場のその時の心境を説明できるのだろうか。俺には、想像もつかない。
「予感に震えるより、いなくなってくれたほうがずっといい」
言葉に詰まっているおれに業を煮やしたのか、的場がなんでもないように付け加えた。赤く塗られた的場の爪。一枚一枚が艶めいて、鮮烈だ。それだけが、この凡庸な和室から浮き出て見えた。的場は、それっきり口を開かなかった。俺もなんといったらいいかわからず、平静を装いながら、言葉を探していた。
「そうか」
注意深くなりすぎて、口から出てきた言葉はひどく簡素なものだった。もっと、別の言葉をかけてやれたんじゃないかと思ったが、もう遅かった。けれど、思ったより的場は気分を害してはいないようだった。
もしかしたら、的場はその二人を探しに来たのかもしれない。止まっていた手を再開する。高い塀、貼られた符。妖が見えるふたりの逃避行には、ちょうどいい場所だろう。
「そのマニキュアも、姉のなんです」
「そうだろうな」
「どうやらこれだけは忘れてしまったようで。箪笥と壁の隙間に入ってたんだ」
「そんなとこに落ちてるの、どうやって見つけたんだよ」
「まあ、色々あって。行方をくらますということは、的場一門を離反したのと同義なんですよ。現的場頭首がそれはそれは怒ってしまって。あまり感情的にはならない人なんですけどね。出て行った日、姉の部屋をひっくり返して何か残ってないから探していました。それで、出てきたのは、このマニキュアだけ。父が投げ捨てたのを、気づかれないように拾ったんです」
ゾッとした。会合で目にする的場頭首は、冷淡な印象を受けた。感情を切り取ってるのだろうか、と疑ってしまうほどに。そんな人が、箪笥の裏側が見えるほど、部屋を荒らしている姿を想像する。机も、箪笥も、引き出しも、押し入れも全て乱暴に開けられた部屋。そして出てきたものはこの小瓶ひとつ。その嵐のような光景を、一歩離れたところで見る的場
……
。身が振るえた。
「頭首は、姉に執心していましたしね」
「執心
……
」
それは、実の娘に対して使う表現なのだろうか。疑問に思ったが、自分の親子関係が一般的なものではないことがわかっていたので、口を噤むことにした。日が落ち、夜の闇が部屋を覆う。日の中で見る的場と、暗闇の中で見る的場は、どこまでも同じ人間だった。僅かな同情を傾けてしまうくらいには。
「まあ、姉は父の感心は全部俺に向いているって思ってたみたいだけど」
俺はそうは思わないと言いたげな口調だった。話している間に、最後の左手の小指を塗り終わった。完成だ、と一人ごとのように呟いたあと、わざと少し雑な仕草で手を離した。的場は気にせず指を広げて、興味深そうに眺めていた。やはり、凡庸な和室には不釣合いだった。
「ふうん、周一さん、上手だね」
「普通だろ」
そもそもなにがうまくて、なにが下手なのかわからない。的場はしげしげと自分の赤い爪を眺めていた。しばらくすると、ふいに彼の目が細められた。
「なんだか名前を書かれたみたいだ」
「
……
どういうことだよ」
突然なにを言い出すのだ、という意味を込めたが、的場には届いているのだろうか。
「小学生の頃、自分の持ち物に名前を書いたでしょう? あれに似ている、と思いました」
「名前
……
」
「そう、名前」
無邪気に言っているが、こいつは自分の言っていることがわかっているのだろうか。なんだか、聞いているこちらのほうが動揺してしまう。それを知ってか知らずか、的場はこの上なく楽しそうだった。
「悪くない気分だ」
「は?」
「姉が、例の一緒に逃げた男に塗らせてたのを見かけたことがあって。奇妙な光景で、どんな気持ちでそんなことしてるんだって思ってたんですよ」
こんな気分だったのか、と。的場は、ひとり言のように呟いた。言葉の真意がわからない。わからないようにしているだけなのだろうか。的場が指を動かすたび、赤く塗られた爪が視界に入る。つやつやと光るそれは、爪というより、小さな花びらのようだった。
的場の姉と術師の男は、もしかしたら本当に恋仲だったのかもしれない。男が女の爪を塗るという光景は、とても親密な間柄のように思える。恋仲か、それに近いもの。そして、そんなことをどういう気持ちで俺にさせたんだろうか。こいつは本当にわかってないのだろうか。姉の気持ちが知りたかったから? だったらなぜ俺に? 完全に翻弄されているのはわかっていたが、考えることがやめられなかった。段々と苛立ってくる。
「お前は」
「はい」
「どちらかというと名前を書きたいほうだと思ってた」
なんでもないように言おうとしたら、余計に嫌味のような声になってしまった。的場は一瞬目を見開いたあと、すうっといつもの的場静司に戻った。
「そう見えます?」
「
……
ああ」
的場が短く笑う。
「ねえ、周一さん、手を出してみてください」
塗ってあげますよ、と的場が言う。口元には笑みが浮かんでいた。いつもの不遜な態度とは、少し違うものを感じて、思わず目を逸らす。的場は、ぶら下がった俺の右手を、やわらかな仕草で手に取った。その時、ふと的場の姉が言った業という言葉が気になった。業。それは目の前のこいつも抱えているのだろうか。的場が目を細める。その表情は、俺の顔をうつくしいと言った彼女によく似ていた。
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