猫澤
Public
 

BLUE

夏のるいつかよくばりセット


   一

 校舎の外から聞こえる青春の声。その断片を拾って、目を細める。
 近頃は陽が落ちるのが遅くなってきたから、つい時間を勘違いしそうになるけれど――もう夕暮れ時だ。どうやら思っていたよりも中庭の花の剪定に時間をかけすぎてしまったようだと、やや足早に廊下を進んで目的の教室のドアを開ける。
――司くん、お待たせ……って」
 すっかり通い慣れた二年A組の教室。その窓際の席に目当ての人物が突っ伏しているのが見えて、瞬いた。
 やわらかい色合いのグラデーションの髪。回り込んで顔を覗き込むと、その瞼はしっかりと閉じられている。
 次いで、微かに聞こえる寝息。それから、ゆっくりと上下する背中。
 机の周囲に散らばったルーズリーフを拾って、紙面に目を走らせる。次にやるショーの草案のようだ。しかし思うようにまとまらないのか、何度も消した跡が残っている。
 ひょっとして――寝る間も惜しんで考えてくれていたのだろうか。
 改めて司くんの表情を見下ろすと、目元にうっすらと隈が浮かんでいた。朝に会ったときは全然気が付かなかったから、きっとコンシーラーか何かで隠していたのだろう。
 小さくため息を零す。前の席の椅子を拝借して腰掛けながら、司くんの目元を隠す髪を軽く払った。
 夢中になるとどこまでも一直線なのは、彼のいいところだと思っているけれど。
……心配だな」
 至極当然のように頑張りすぎてしまう。限界を超えても、頑張れてしまう。そんな彼が、僕の目には眩しく映る一方で――危うげにも感じていて。
 髪を一房掬って、指で梳く。
 窓際の席で日差しに当たっていたからか、その首筋にはじわりと汗露が浮かんでいた。逡巡のあと、少しだけ椅子を動かして、日除けになる位置に移動する。じりじりと首筋が照りついたが、司くんの寝顔は少し和らいだような気がする。
 手を伸ばして、ひとつの躊躇いもなく彼の首筋の汗を拭った。どくん、と頸動脈が脈打っている。司くんが生きている証。彼の命を手のひらに感じて、人知れず息をのむ。
……このまま)
 このまま、僕と彼の境界線が曖昧になって――ひとつになれたらどんなにうれしいか。
 だけど、決してそうはなれないからこそ、僕は彼に惹かれてしまうのだろう。どうしようもなく、手を伸ばしたくなってしまうのだろう。
 指の背で頬を撫でる。やわらかい感触に口の端がわずかに持ち上がる。
 司くんは、まだ起きない。
……
 朱が射し始めた教室。カタン、と椅子が揺れ動く。立ち上がって、僕はそっと腰を折った。鼻腔を掠める制汗剤の香り。まるい耳殻に触れるだけのキスを落とし、吐息を揺らす。
 くちびるの先が触れたところで、何かが変わるわけでもない。僕は彼の王子様ではないから、運命の口づけで深い眠りから目覚めることもないだろう。
 だけど、それでよかった。……君はただ前だけを向いて、真っ直ぐに突き進んでくれたら。その翳りのない輝きを魅せてくれたら。
 それだけで、僕は十分だから。
――……類? 教室にいないと思ったらこっちにいたんだ」
「寧々」
 カラカラと引き戸を開ける音がして顔を上げる。
 教室の入り口に立っていた幼馴染みの彼女は、僕と、いまだ夢の中をお散歩中の司くんとを見比べて目を丸くさせた。
「あれ。司、寝てる? めずらし……
「疲れているようだから、まだ少しだけ寝かせてあげようかと思ってね。悪いけれど寧々、先にフェニックスワンダーランドへ行っていてくれないかい?」
「わかった。えむのこと待たせるのもだし……先に行くね」
 控えめに微笑んで、寧々が頷く。それから静かな司くんが物珍しいのか――寧々はわざわざ彼の顔を覗き込んだあと、床に落ちていたくしゃくしゃの紙くずを拾い上げた。
 丁寧に開いて、困ったように眉尻を下げながら、机の上にそっと置く。
「司……脚本、行き詰まってるのかな。学校で寝ちゃうくらい大変なら、わたし達に相談してくれればいいのに」
「おや。寧々がそんなことを言うなんてね。心配しなくても、きっと司くんならいい作品を仕上げてくれるさ」
「そうじゃなくて……待ってることしかできないのが歯がゆいだけ。わかってるくせに」
 僕達が手掛けるショーにおいて、司くんが妥協の姿勢を見せたことはない。僕ですら無意識に妥協しようとしてしまったことさえ見抜いて、それを指摘するくらいだ。
 だから、僕も寧々も――司くんならやり遂げると信じている。信じている、けれど。
 その、頼もしすぎる背中を……たまには僕達にも預けてくれないかと、思わずにいられない。
 遠慮してるわけではないのだろう。僕達が頼りないわけでもないのだろう。ただ、勝手に――そう、僕が勝手に心配しているだけだ。
 心に巣食う彼への情を、持て余しているだけだ。
……ていうか類、なんか顔赤くない?」
…………そう?」
「うん。ちょっと陽に当たりすぎなんじゃない? カーテン閉めればいいのに……。熱中症にならないように気をつけてね」
「肝に銘じておくよ」
 たしかにそうだと、苦笑いを零した。
 わざわざ僕が日除けにならなくても、カーテンで世界から君を隠してしまえば。あるいは、このささやかな時間を僕が独り占めできたのかもしれなかった。
 歩き出した寧々の背中を見送って、ギ、と椅子の背もたれにもたれる。
 じりじりと首裏が灼ける。……でも、まだ。まだもう少しだけ、彼には目を覚さないでいてほしい。
 ほんのわずかでいい。陽が落ちる一瞬の、青春の煌めきを――僕は感じていたかった。




   二

「ここが、えむの言っていた穴場とやらか……
「フフ。たしかにこの高台からだと花火がよく見えるね」
 言うが早いか、目の前で大輪が弾ける。
 ワンダーランズ×ショウタイムの四人で夏の思い出にと訪れた花火大会。会場である河川敷から少し離れた高台に向かった僕と司くんは、拓けた駐車場から花咲く夜空を見上げた。
「花火はフェニックスワンダーランドでもセカイでも見慣れているが……慣れない土地だとまた新鮮だな」
 手摺を掴んで笑顔をみせる司くんを横目に、そうだねえ、と呟く。
 この高台の先にあるのは、えむくんの家の別荘と、お抱えのレストランだけだ。そのためか駐車場に僕達以外の見物客はなく、まさしくえむくんに教わった通りの穴場であることが窺い知れた。
「しかし……えむと寧々は大丈夫だろうか。祭りとはいえ夜に女の子が二人きりで出歩くのは……
「それなら心配ご無用だよ。どうやら着ぐるみくん達が見守ってくれているみたいだからね」
……そうか。ならば安心だな」
 えむくんと寧々の二人は祭りの屋台を見てから合流する手筈になっている。
 はじめは司くんの言う通り、僕達も彼女達についていこうかと思っていたのだけれど――ボディガードの皆さんと、何より二人がやたらと僕に目配せをしてくれるので、自ずとその気遣いを察してしまった。
 ――僕と司くんが二人きりになれるように、はかってくれたんだろうな。
 誰に打ち明けたわけでもないけれど、相手は人の感情の機微に聡いえむくんと、長年の幼馴染みである寧々だ。僕が彼に抱く特別な気持ちを、きっと彼女達は気づいているのだろう。
 手摺に背を預け、肩越しに夜空に咲く花を見つめる。
 それとなく司くんの表情を窺えば、司くんは琥珀色の瞳に炎色反応を映してキラキラと輝かせていた。
「綺麗だな……
……うん」
 感嘆まじりの声に頷いてはみたものの、花火よりもずっと、彼の横顔に夢中になってしまっている。――花火よりも君の方が綺麗だなんて、そんな歯が浮くようなセリフ、口に出しては言えないけれど。
 無邪気なその表情が、どうしようもなく――
……好きだな)
 ふと考える。もしもこの膨れ上がる気持ちを、僕が一切制御できなくなってしまって。彼に伝えるようなことがあったとしたら、僕達の関係は何か変わるのだろうか、と。
 湿度の高い外気が肌にまとわりついている。
 光と影の明滅。耳に残る轟音。
 花火の音に紛れて君が好きだと伝えたら。――君は、どんな反応を示してくれる?
……
 音もなく。僕の右手と、司くんの右手の甲が触れる。司くんは何も言わない。僕も、何も言わない。
 ただ、ぬるい風だけが僕達の間を吹き抜けていく。
……
 ……意気地無しだな、僕は。
 関係が変わってしまうのがおそろしくて、その先を望むことができない。この手に絶対に手放したくない熱があるのに。目を離したくない輝きがあるのに。
 大事で、大切で、かけがえがないからこそ――失いたくないと思ってしまう。
…………好きだよ、司くん)
 もしも今だけ、テレパシーが使えたなら。触れ合った皮膚から、僕の気持ちが伝わってしまえばいい。
 そうして、途方もない僕の想いを知って、困ってしまえばいい。
……なんてね)
 ふ、と自嘲して、僕は自ら手を離した。
 空高く藤の花が咲く。一瞬の煌めきに照らされて、目をすっと細める。
 不意に、ぐい、と体が引っ張られて――平衡感覚が崩れた僕は、ぐらりと横に傾いた。
(え)
 倒れることはなかったが、右手が何かに包み込まれている。
 僕が驚いて隣を振り返ると、花火を見つめたまま――ぐっとくちびるを噛み締める司くんが、いて。
 ちりちりと焼けつく二つの琥珀が、僕を映す。
 夜目にもわかるほど、赤く色づいた頬。しかと握り締められた右手を、理由もわからないままに、僕もおそるおそると握り返す。
……
……
 花火の音が遠い。
 自らの鼓動ばかり聞こえてくるようだ。僕達はしばらく無言で見つめ合っていたけれど、す、と司くんの視線が花火に向いたのをきっかけに、僕も夜空の大輪を振り返った。
…………花火、綺麗だね」
………………ああ」
 つい、そんなことを口走ってしまう。けれど本当は、花火なんて気にならないくらい――右手の熱に動揺している。
 首筋を伝う汗と、手のひらから伝わる感触。どくどくと心臓が脈打っている。まるで鼓動が、まだ幼い僕達をからかっているみたいだ。
 ――変わっても、いいのだろうか。
 ――変わっても、君は。僕の側にいてくれるのだろうか。
……
 司くん。僕は、君のことが。
 瞳が揺れる。喉の手前まで、激情が訪れている。
 君の、ことが。
……っ、……
――あ! 司くんと類くんみっけー!」
「はあ、はあ……。こ、ここの階段、キツすぎ……
「!」
 はっとして咄嗟に手を放した。
 遠ざかるぬくもりを惜しむ気持ちと、安堵が胸の内でないまぜだ。
 急勾配の階段を軽やかに登り切った浴衣姿のえむくんは、カラカラと下駄を鳴らして司くんに駆け寄った。先ほどまで表情の見えなかった司くんは、がらりと空気を変え、ぱっと快活に明るく笑ってえむくんと寧々を迎えている。
「遅かったなお前達! ちゃんと目当てのものは買えたのか?」
「うん! 見て見て、寧々ちゃんとお揃いのキーホルダー!」
「ほう。いいじゃないか――
 はしゃぐ声を聞きながら、はあ、と小さく吐息を落として。僕はそっと、手摺に寄りかかった。
 空はまだ明るい。このあたりでは有名な花火大会らしいから、まだしばらく祭りは続くことだろう。
……
 どんどんぬるくなる手のひらを握り締める。
 じっと右手を見つめたまま動かない僕の隣に立って、寧々は少しだけ気まずそうに僕を見上げた。
……ごめん。もしかしてタイミング悪かった?」
「いいや? むしろグッドタイミングさ」
 ……きっと。二人が現れなかったら、僕は今頃考えなしに動いてしまっていたことだろう。
 ――よかった、と誰にともなく零す。司くんの気持ちは僕には見えない。でも、あのままだと済し崩しに彼は僕を受け入れてくれそうな気がした。……自惚れ、なのかもしれないけれど。
 刹那、ひときわ大きな花火が打ち上がって、辺りに歓声が轟く。
 儚くも一瞬で散る大輪の美しさ。その輝きに見惚れて――僕はただ、この切ない想いを胸に留めておきたくて。
 そっと、まだ熱の残る手のひらを開いた。





   三

『すまん。夏風邪をひいてしまったようだ。大事を取って今日の練習は休ませてもらう』
 めずらしく彼からそんな連絡が届いたのが今朝のこと。
 そして僕は今、天馬家の玄関の前で立ち尽くしている。
(うーん……
 元より今日は軽い読み合わせだけの予定だったから、ショーの練習は午前で切り上げた。万が一にも風邪が移ったら大変だからと、こうして三人のうち代表して僕が司くんのお見舞いに来たわけだけれど――……
……寝ているところを起こすのは偲びないし、また後日改めた方がいいかな)
 先日無人島に遭難するなんてハプニングもあったことだし、各々自覚はなくても心身ともに疲労が溜まっていることだろう。
 フェニックスワンダーランドの宣伝大使としての公演の予定はまだ立っていない。ならば休めるときにしっかり休んで体調を整えた方がいいはずだ。
 何より、役作りのためなら多少の無茶は押し通す司くんが、わざわざ練習を休むと言い出したんだ。症状まではわからないけれど、よほど辛い状態に違いない。
 うん、やっぱり、彼が快復してから会おう。そう思って踵を返そうとした――そのとき。
 ガチャ、とドアノブのまわる音がした。
……何を立ち往生しているんだ、類」
「え、司くん……? 起きていて大丈夫なのかい?」
「大丈夫ではないが……。たまたま、窓からお前の姿が見えたものだからな。……ゴホッ」
「っ……
 口元に手を当てふらつく司くんにギョッとして、僕は慌てて門扉を開けて彼の側へと駆け寄った。
 少しは楽になるかと背中を摩る。しばらく咳き込んでいた司くんは、参ったように細く息をついて、すまん、と小さく零した。
 パジャマ越しでもその体温の高さが伝わってくる。窓から僕の姿が見えたのなら、メッセージでもくれるだけで十分なのに。わざわざ玄関まで下りてくるなんて、本当に彼は律儀な人だ。
……あまり、無理をしないでほしいな。お昼は食べられた? 一応、レトルトのお粥とか買ってきたのだけれど……
「おお、助かる。実は今日家族が全員出払っていてな……。朝兼昼としてヨーグルトは食べられたのだが、夜はどうしたものかと思っていたところだった」
「全員? 咲希くんも?」
「ああ。幼馴染み四人でお泊まり会だそうだ」
 そうなんだ、と呟いて、口を噤んだ。
 司くんのことだ。発熱のことはご両親や咲希くんに伝えていないのだろう。そうでなければ、家族思いの彼らが不調の司くんを置いて家を空けるとは考えづらい。
 直前まで寝ていたのだろうか。髪に寝癖がついている。
 夏日とはいえあまり無防備な姿で外に立たせるわけにもいかず、一刻も早く彼をベッドに戻してあげたかった僕は、「それなら」とつとめて明るく切り出した。
「上がってもいいかい?」
……構わんが……。あまり長居するんじゃないぞ。風邪が移ってしまったら申し訳ない」
「大丈夫さ。免疫力には自信があるんだ」
「はじめて聞いたが……? まあそれならいいか……
 どうやら熱で思考力も低下しているようだ。
 溌剌な普段の姿とは程遠い、弱った背中を支えて天馬家の玄関をくぐる。ご家族の出払った彼の家は、胸がつまるほどシンとしていた。
 いつも賑やかで温かい印象だったから不思議な感じだ。
 司くんの自室は二階にある。万が一倒れてしまっても抱えられるよう、司くんより半歩下がってゆっくりと階段をのぼっていく。そうして長い時間をかけてたどり着いた彼の部屋。力尽きたのか司くんはベッドに倒れ込んで、枕に突っ伏したままくぐもった声をあげた。
「そういえば……今日の練習は……
「軽く本読みだけして、解散したよ」
「む……。すまない。オレのせいだな……。ぬおお、おのれ風邪菌め……
 寝返りを打って仰向けになった彼の体に布団を被せる。
 力なく寝そべる司くんの額に手を当てれば、熱冷ましシート越しでも熱い体温が手のひらに伝わった。
 いつからこれを貼っていたのかわからないが、これだけぬるくなっていては意味をなさないだろう。
 替えは冷蔵庫だろうか。勝手に開けてもいいか訊ねようとその顔を覗き込むと、潤みきった瞳を見つけた。その顔が、悔しそうに歪む。
「何がなんでも明日には治してみせるっ……
「その意気込みは素晴らしいけれど……。普段の君の言葉を借りるなら、『しっかりと体を休めるのも役者の大事な仕事』だろう?」
「なんのこれしき……
「ダメだよ。ほら、じっとして。薬は飲んだのかい?」
「ああ……
「ならこのまま大人しく眠るといい。側にいるから、困ったときは呼んでおくれ」
「ぬうう……
 勉強机の椅子を借りてベッドの側に置く。
 ご家族の誰かが帰るまでは側についていようと、僕はそれまでの時間潰しに、トートバッグに入れっぱなしの読みかけの本を取り出し、開いた。
「はあ……。不甲斐ないな……
「そんなことないよ。人間誰しも、不調は起こるものだ。どんなに気をつけていてもね」
……ん」
 僕自身、看病の経験はほとんどないけれど、される側なら何度かある。
 幼い頃の僕はそれはもうやんちゃで、熱が出ると殊更テンションが上がってしまうタイプだった。親の目を盗んで機械いじりなんてざらで、母さんは特に寝かしつけるのに苦労したことだろう。
 そんな昔の記憶を辿って、司くんのおなかのあたりをぽんぽんと優しく叩く。速すぎず、遅すぎず。一定のリズムを繰り返せば、そのうちとろりと彼の瞼が下りていった。
…………るい」
「うん?」
 布団の端から手を出して、司くんが僕の手を握り締める。はっと息をのむ僕のことなど気づく由もなく、司くんはいつになく眠たげな声で続けた。
「正直……ひとりで心細かったから、お前が来てくれてうれしかった。感謝する」
……。それならよかった。来た甲斐もあったというものだよ」
「うむ……
 熱で紅潮した頬。こめかみにうっすらと滲む汗をハンカチで拭うと、ほんの少しだけ、苦しそうな彼の表情が和らぐ。それでも眉間には皺を寄せたまま、瞳を閉じたまま――司くんは、言いづらそうに口を開いた。
「それで……もし、よければなんだが……。このまま手を握っていてはくれないだろうか」
「もちろん。お安い御用だよ」
 二つ返事を返せば。
 司くんの口元がわずかに緩んで――体力も限界だったのだろう――安心したように彼は夢路へと旅立った。
 浅い呼吸で胸を上下させる司くんを見下ろして、繋いだままの手を握り返す。
「これくらい……いくらでも頼っておくれよ。僕は……
 君の力になりたいと、いつだって願っているのだから。
 ――海の底。宇宙の果て。遠い未来にだって連れて行ってみせようじゃないか。他でもない君が望むのなら。君という星が、いっとう輝くためならば。
 汗ではりつく前髪をよけて、熱冷ましシート越しにそっとくちびるを落とす。
 彼の辛さを少しでも僕が肩代わりしてあげられたらいいのに。せめて眠っている間だけは、楽しい夢が見られるようにと――額を合わせ、そっと囁いた。
……はやく元気になってね」
 お日様のような君の笑顔が、今はとても、待ち遠しいから。




   四

 青い空気の残る早朝に、ひどく切羽詰まったノックの音。
 夏休みも終盤といったところで、完全に昼夜逆転の生活を送っていた僕はしぶしぶソファーから体を起こした。
 一体何事だろうかとガレージのシャッターを開ければ、すかさず弾丸のように飛び込んできた彼が、寝ぼけ眼の僕に突進を仕掛ける。
「るいぃぃぃぃいいいい! 助けてくれ……‼︎」
……うーん」
 まったくもって状況が読めない。
 寝起き頭ではどうやら僕の腕の中で司くんが男泣きしているらしい、ということまでしか分析できず、ついでに彼にほのかに恋心を抱く僕は抱き締め返すこともできず、すっかり困り果てて頭を掻いた。
 ひとまず命乞いさながらの迫力で縋る理由を訊ねようと、彼をガレージの中へと招き入れる。それから床に散らばる設計図や小さなナットなんかを踏まないように、けんけんぱで進みながら、未だ僕の体温の残るソファーへと司くんを座らせた。
「一体どうしたんだい、こんな早朝に」
「うう、朝早くに押し掛けてすまん……! 頼む、課題を手伝ってはくれないだろうか……!」
「課題……? 司くん、夏休みの前半にもうほとんど終わってるって言ってなかったっけ?」
「終わっていると思っていたのだが……
 決まり悪そうにトートバッグから取り出した冊子を僕に手渡して。ほとほと途方に暮れた様子で司くんが大きくため息をつく。
 僕はといえば、新品同然の数学の問題集をひっくり返して眺め、なるほどね、とようやく事情を飲み込んだ。
「問題集をまるまる一冊か……これは骨が折れそうだね」
……るい〜……
「フフ。もちろん、僕でよければ手伝うよ」
 是非もなく快諾すれば、司くんはパッと表情を明るくさせた。そういう素直なところを好ましく思いながら、勉強をするためのローテーブルを引っ張り出す。
「問題集自体はそんなに難しいものではないから、まずはできるところまでサクッと進めていこうか」
「わかった……!」
 筆入れから出したシャープペンシルのお尻をノックして、司くんがテーブルに齧り付く。ノートにペンを走らせる音を聞きながら――大きく伸びをした僕は、ガレージ入口の蛇口を捻って顔を洗った。
 ぱふ、とタオルを濡れた顔に当てる。
 それにしても……絶賛大ピンチの司くんには悪いけれど、どうしても口元が緩んでしまう。今日はフェニックスワンダーランドでのショーは休演日で、会う予定はなかったから、こうして彼の方から会いに来てくれたのはうれしい誤算だった。
 夏休みといってもショーに旅行にとほとんど一緒に過ごしていたはずなのに。どれだけ共に生活しても、飽きない魅力が彼にはある。あるいは……僕が彼に心底惚れているからこそ、なのかもしれないが。
……類は、もう課題は全部終わっているのか?」
「全部ではないけれど、日数のかかりそうなものは済ませてあるよ。ショーの妨げになっては困るからね。あと終わってないのは――英表のプリントだけだったかな」
「英語表現か。類ならばすぐ終わってしまいそうだな」
「フフ。課題の内容が、かなり僕達の得意分野だったしね」
 たしか好きな洋画を観て、その感想を英語で書くというものだったはずだ。教師による評価はあるものの、英作文自体はプリント一枚に収まる程度でいい。数学に比べたらずっと軽い課題だ。ただ……
「好きな洋画、と言われると、かえって選ぶのに時間がかかってしまうところが難点だね」
「たしかに、オレもずいぶん悩んだものだ」
「司くんは結局どの映画にしたんだい?」
「『グリーンブック』だ! 先日配信で観たのだが、笑いあり涙ありの素晴らしい映画だった……
「ああ、あれは心震える名作だよね。僕も好きだよ」
 人種も育ちも性格も立場も何もかも違う二人が、旅の中で友情を築き上げるロードムービー。人種差別がテーマのひとつになっているけれど、監督がコメディの巨匠というのもあってとっつきにくさはなく、シリアスなシーンとのメリハリが巧みな作品だ。
 主人公のバディになる人が天才ピアニスト、というのも、司くんにとっては身近で噛み砕き易さがあったことだろう。
 そんなことを思いながらソファーに腰を下ろすと、辛抱たまらんといった様子で司くんは揚々と僕を振り返った。
「英作文はあまり得意ではないが……感動が新鮮なうちにしたためたおかげか、すぐに終わったぞ!」
「へえ……それは、僕も一度読んでみたいものだね」
「ハーッハッハッハ! ならば先生の評価が終わったら互いに見せ合いっこしようではないか! 類が選んだ映画も気になることだしな!」
「いいねえ。でも司くん? 楽しみにしてくれるのはありがたいのだけれど、先ほどから手が止まってしまっているよ?」
「ぬあっ! そ、そうだった〜……!」
 みるみるうちに萎れていくその姿は、まるで飼い主に叱られた子犬のような愛らしさだ。再び問題集と向き合う彼の背中を見つめて、ふ、と目を細める。
……
 ノートを覗き込むと、今のところは躓くこともなく至って順調そうだ。
 問題集の難易度は易しめだったし、問題の数こそ多いものの、ひたすら手を動かせば終わるくらいの量だったと記憶している。九九をノートに書き写すような単調な作業は好まないから、僕はいちばんはじめに片付けたくらいだった。
 この調子なら、休憩を何度か挟んでも夕方を迎える前には終わるだろう。
 昼には気分転換にどこかでご飯を食べに行かないか提案してみようか。いつものファミレスでもいいし、普段一人では行かないような店を開拓するのも楽しそうだ。
 ふふ、と笑みを零していると、ふと司くんの首筋が目に入った。少し、汗で襟足が湿っている。
 ガレージの中は空調が整っているけれど――この快晴だ。外は相当茹だる暑さだったことだろう。小中学校の学区も違うし、彼の家から僕の家まではそれなりの距離がある。
 たしか小型冷蔵庫に麦茶を入れていたはず……。立ち上がった僕は普段使いのコップを簡易食器棚から出して、取り出した茶色い液体をなみなみと注いだ。
 そのついで、視界に入った食べかけのラムネを見つけて「あ」と小さく声を漏らす。
「司くん、ラムネたべるかい?」
 ラムネのブドウ糖は集中力を高めるのに効果的だ。作業のお供としてストックしているそれを翳せば、顔を上げた司くんはぱちぱちと目を瞬かせた。
「ぬぅ……? ああ、お前がいつもたべているヤツか。では一粒いただこう!」
 そして。ぱかっと、あまりに自然に口を開けてみせるので、僕は驚いてその場に固まってしまった。
「えっ……と?」
……うい?」
 いや、不思議そうに首を傾げられても。
 たしかに司くんの利き手はシャープペンシルで塞がっているけれど、左手は空いている。だからまさか手ずから食べようとするなんて思わなくて、普通に渡そうと伸ばしかけていた手がわずかに震えた。
 垣間見える赤い舌に、不覚にも心臓が跳ねる。
 少し悩んだ末に、舌の上に載せるようにして小さなラムネを放り込んだ。細心の注意を払って気をつけたつもりだったけれど、指先がくちびるに触れてしまって思わず息をのむ。
…………やわらか……
 動けないでいる僕をよそに、司くんは顔色ひとつ変えないで呑気に「ありがとう!」とラムネを頬張っている。
 今頃あの舌で転がしているのか、なんて思考がよぎってしまって、……有り体にいえば、欲が出た。
「もう一粒、たべる?」
 言ってしまえば、魔が差した、の一言に尽きる。
 司くんは「いいのか?」と、疑いもせずまた口を開けて待っている。その姿はまるで親鳥からの餌を待つ雛だ。
 先ほどと同じようにラムネを放り込んで。僕は何も言わずに、そっと、床に座る司くんに目線を合わせるように屈んだ。
 彼が目を開けてしまう前に。
 ふに、とくちびるを触れ合わせる。一瞬だった、と思う。夢か現実かさえわからないくらいの、一瞬。
 それでも司くんは大きな瞳をこれでもかというくらい見開いて、唖然と僕を見つめ返していた。
――……
 ……やってしまった。
 黒波のように、瞬く間に自責と後悔の念が押し寄せる。心臓がみしりと嫌な音を立てて、苦い顔をしてしまいそうになるのを已の所で留める。
……ごめん」
 絞り出した声を聞いて、司くんは小さく息をのんだ。
…………なぜ謝る?」
「君の許可も得ずに、勝手に触れてしまって申し訳ないから……かな」
「そうか……。ならば」
 琥珀色が揺らいだかと思えば。勢いよく胸ぐらを掴まれて、僕はバランスを崩してしまった。驚いたのも束の間、引き寄せられた先で「がちっ」と前歯に衝撃と激痛が走る。
「っ……
 たぶん、司くんも痛かったのだろう。至近距離で見た彼の顔は一瞬苦悶で満ちていた。しかし、ここでも僕は少し、欲が出てしまって。くっついたままのくちびるをすぐに離してしまうのがもったいなく感じた僕は、目を閉じて、控えめに彼のくちびるを啄んだ。
 どのくらいの時が経っただろう。ゆっくりと、名残惜しさを感じながら離れる。
 今度は素直に現実だと思えた。というよりも、前歯の痛みが夢と疑う余地すら捨て去ってしまった。
 司くんはフッとどこか殊勝に笑って、どうだ、と胸を張ってみせる。
「これでお互い様だ!」
……そうかな? まだ歯がジンジンするのだけれど」
「うぐっ、それは……すまん……
……
 口を閉ざし、何も言わないまま司くんの隣に腰を下ろす。無防備なその手を覆うように重ねると、わかりやすく司くんの肩が揺れた。
「知っていたのかい?」
…………何をだ?」
「僕が、君を好きなこと」
……まあ……もしかしたらそうなのかもしれん、とは思っていたな、さすがに……
 だが、どちらかといえば。と前置いて、司くんが僕の手を握り返す。
「そうだったらいいな、の願望もあった」
……それって」
 僕には熱すぎる体温。彼の耳朶が、うっすらと赤く染まる。照れくささが込み上げてしまったのか――外方を向く彼の丸い後頭部を見つめて、僕は小さく息をのんだ。
 期待するなと言う方が、土台無理な話だ。
 いいのだろうか。変わってしまっても。一歩踏み出しても、君は変わらないでいてくれるのだろうか。……いや。
 ――僕と一緒に、変わってくれるの?
 花火の音は聞こえない。はく、と微かに喉が上下する。
「僕と……
……ああ」
…………僕と、お付き合い、してくれませんか」
 言葉尻が震える。だけど、もしもダメだと言われても、きっともう僕は彼の手を離せない。
 たとえこの先の未来で僕達を待ち受けるのが、互いの夢のために分かれた道だったとしても。どちらかじゃなくて、どちらも捨てない第三の道を。
 ――君となら、拓いていけるって信じているから。
 気持ちが乗ってしまったのだろう。手を強く握り締める僕を司くんは困ったように「痛いぞ」と窘めて。
――こちらこそ、よろしく頼む!」
 なんだか改まると照れくさいな、と、頬に朱をのせてはにかんだ。




   五

「つ、か、さ、くん♪ 昼休みにちょ〜っとスペシャルな実験……ではなくて、演出の確認に付き合ってはくれないかい?」
「断る‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
 快晴の空に轟く、司くんの声。神山高校の昇降口で靴を履き替えながら、思わず「えー」と不満の声を漏らす。
 パンパンに膨らんだリュックを背負い直して上履きの踵を慣らしていると、司くんは呆れまじりの声と視線を僕に向けた。
「お前、今朝はやけに荷物が多いと思ったら……学校になんてものを持ち込んでいるんだ! 没収だ、没収‼︎」
「そんなっ……! 僕はきっと君が笑顔になってくれるだろうって、その一心でこの『ビリビリ雷発生装置改良版デラックス』を完成させて来たのに……! まさか試しもしてくれないなんて……!」
「ぐっ、それは……。ってダメだダメだ、流されんぞ!」
 僕の背中からリュックを引き摺り下ろそうとする司くんと縺れあいながら中央ホールを進む。少し離れたところでは、ここまで一緒に登校していた寧々があからさまに僕達から距離をとって顔を顰めているのが見えた。
 ――高校最後の長い夏休みを終えて、今日からは待ちに待った始業日だ。白い夏服に身を包んだ司くんを見るのは久しぶりで、なんだかやけに眩しく感じる。
 僕が登校したことで一仕事終わったのか、司くんはやれやれとため息をつきながら風紀委員の腕章を外した。
「まったく。やはりお前のことは、このオレがしかとこの目で見張っておかねばな」
「フフ……。そうだねえ。ちゃ〜んと見ていてくれないと、とんでもないことをしでかすかもしれないからね」
「自分で言うな、自分で……
「どうぞこれからもよろしく頼むよ、僕の専属風紀委員くん」
「専属ではないが〜〜⁉︎」
 螺旋になっている階段を、僕と司くん、それから寧々の三人で並んでのぼっていく。
 主に二年生の教室がある二階に到着し、寧々を教室まで送り届ける道すがら――彼女は諦観のこもったアメジストの瞳を僕達二人に向けて、小さく肩を竦めてみせた。
「類……。司と同じクラスになってから、もっとやんちゃに拍車が掛かってない?」
「おや、そうかな? ……そうかもしれないね。おかげで毎日がとても楽しいよ」
「はいはい、よかったね」
 素っ気なくそう返しながら、がらりと寧々が二年A組の教室のドアを開ける。
 去年は幾度も通った教室。司くんがよく座っていた席に、今は寧々が座っている。学年が変わってすぐはなんだか変な感じもしたものだけれど、ひとつ季節が変わりもすれば、もうすっかりその光景に慣れてしまった。
「では寧々、また放課後にな。類と迎えに行くから教室で待っているんだぞ」
「わかった。……あんまりうるさくしないでよ」
「無論だ! ……む! 彰人おおおおおお! おはよう‼︎‼︎‼︎‼︎」
「げ、……朝からうるせえ……
「言ったそばから……
 フフ、と思わず笑みが零れる。
 騒がしくも愛おしい、僕の青春。それはおそらく、彼の――天馬司くんの形をしているのだろうと、思う。
「司くん。そろそろ僕達も教室に向かおうか」
「ああ!」
 ――ふと。
 トン、と手の甲同士が触れて、僕達は目を見合わせた。
 それから、どちらからともなく指を絡める。君が白い歯を見せて笑うたびに、僕は無性に体が軽くなったような気がして。
 どこまでも青く、広い学び舎の廊下を――駆け出さずにはいられなかった。