かいえ
2025-02-25 21:18:10
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【灰武】派遣先のものすごく怖いのに格好良くて綺麗な兄弟に迫られて困っています! ③

ハウスキーパー見習いの武道が、派遣先の灰谷兄弟に迫られる話
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 灰谷蘭は腹を立てていた。
 見た目はいつも通りのクールビューティーのままだったが、心の中は台風が近づいた海岸線のように荒れ狂っている。口で表せない感情がどす黒く畝って、殺意を抱くほどに苛立ち、暫くは落ち着く事も出来なさそうだった。 
 仕方なく、蘭はバスタブに浸かって頭の中を空っぽにすることにしてみた。お気に入りの入浴剤を入れて、ジャグジーのスイッチを入れると、ガラス張りのバスルーム中にラベンダーの香りが拡散され充満していく。
 浴室の床は乾燥して素足に気持ち良く、ガラス張りの壁は指紋一つなく磨かれていて、ハウスキーパーが真面目に仕事をしているのを証明していた。
 そのハウスキーパーの名前は花垣武道という。高校を中退後、職を転々とした後、ハウスキーパーになった男だ。
 一見、どんくさそうではあるが、この数か月、蘭と鉢合わせしないように仕事をしている稀有な人材でもある。仕事ぶりも真面目で、特に問題があるとは思っていなかった。 しかし、そのハウスキーパーが弟の竜胆と遊ぶ仲だとは、ついさっきまで蘭は知らなかった。
 竜胆を束縛はしないが、竜胆の事は何でも把握していたかった蘭にとって、それは青天の霹靂のような出来事だった。蘭との約束を破って、竜胆がこの家で他人と遊んでいたという衝撃は、予想以上に蘭にダメージを与えていた。
 蘭にとって、この六本木のマンションは、自分と竜胆だけが足を踏み入れる事ができる聖域だった。
 竜胆が蘭の弟として生を受けた日は、齢一歳で自分の命より大切なものを蘭が持った日でもある。
 蘭より薄い紫色の瞳に蘭自身を映しているのを見た時、初めて「にいちゃ」と呼ばれた時、小さな手がそっと蘭の手を繋いだ時、その全てで感じた甘い痺れにも似た幸福感を 蘭は今も鮮明に覚えている。
 自分の後を一生懸命追いかけてくる幼い竜胆の姿が、その全てが愛おしかった。竜胆は蘭の半身のような存在だった。神の手違いで別々に生まれてしまったように思える程に。蘭の竜胆に対する感情は、他人には理解でないくらい複雑なものだった。
 蘭は物心ついた時から、平凡な日常がつまらなくて仕方が無かった。母親は優しかったが、それは蘭が母親好みの容姿をしているからだと感じ取っていた。自分は母のアクセサリーの一部だと思っていたのだ。母親の関心は蘭をどのように着飾らせて、自分の傍に侍らせるかという事に集中していたからだ。自分は動く着せ替え人形なのだと、笑みを浮かべて蘭を見る母親を見ていた。母親は子供を産んでも、人形遊びに夢中になる少女と変わらなかった。そして、その時の蘭は分かっていなかったが、母親もまた父親の都合の良い人形だった。蘭と同じ見目麗しい動く人形なのだ。
 幼児期の蘭は線が細く、今より女性的な容貌をしていた。目が合えば誰でも「愛らしいお嬢さんですね」と、性別を間違われた。そんな蘭の髪を長く伸ばさせて結び「可愛い」と、満足そうに自分を見つめる母親の姿を見て、本当は自分に似た女の子が欲しかったのかもしれないと思った。だから蘭なんて女みたいな名前をつけたのだろうか。どうせ花の名をつけるなら、棘のある花の名を付けてくれたら良かったのにと子供の蘭は思っていた。
 蘭にとって学校は、そんな母親の束縛から離れられる自由な時間ではあったが、授業はつまらなくて同級生は幼稚過ぎた。
 学校も習い事も、何もかも楽しくなかった。教科書の答えは決まっていて、どうしたら成績が良くなるのかなんて、考えなくても分かり切っていたし、ピアノもヴァイオリンも予想通りの音しか奏でない。
 ドはドの音でレはレの音なだけだ。先生は蘭の演奏を手放しで素晴らしいと褒めてくれたが、楽譜通りに鍵盤や弦を押えただけなのに、大袈裟だと蘭は感じていた。蘭に才能があると言われて母親が嬉しそうだったから仕方なく楽器を弾いていたが、その実すごくつまらなかった。
 蘭はもっと変化も求めていた。日常とは違うありきたりではないもの。予測できない未来が欲しかった。ドの鍵盤を押したらラの音が出るくらい変わったことが、自分の身に起きて欲しかった。

 それは、ある日突然訪れた。

 授業が終わって、教室に担任と二人きりになった時だった。担任が蘭を特別な目で見ているのは、以前から知っていたのだけれど、それまでは完全に無視していた。
 今日もよく分からない理由で、担任は蘭を教室に残るように仕向けていた。蘭は机に腰かけて窓の外を見ていたが、蘭の横顔を刺すような担任の視線を感じ取っていた。そして担任は蘭と二人きりになった事でそわそわしている。
 意味も無く教室に居残りさせて、そのくせ何か話すわけでもなく、じっと蘭の顔を眺めている。気持ち悪いと蘭は思い、こんな異常者が先制をしている事が信じられなかった。
 蘭がそんな事を考えているなんてきっと微塵も思っていない担任は、相変わらずそわそわしながら蘭をじっと見続けている。
 ふと、この男に微笑みかけてやったらどうなるのだろうと蘭は思った。
 男は教職者のくせに、蘭に対して持ってはいけない感情を抱いている。蘭の微笑みを勘違いするのではないだろうか? 
 周囲に誰もいないのだから、担任は自分に手を出すかもしれない。
 それは想像すると、滑稽で愉快な気がした。蘭は早速行動に移す事にしてみた。
 「先生?」と優しく言って、蘭が微笑んでやると、効果は覿面だった。
 担任は「蘭君」と、感極まって蘭に抱き着いたのだ。普段氷の女王と称される蘭が蕩けるような笑顔を向けたのだから、箍が外れるのも当たり前だったかもしれない。ともかく大人が蘭の思う通りに動いたという事実が、蘭の胸を昂らせた。
 担任はハァハァと荒い息をして、蘭を抱きしめたまま机の上に押し倒した。そのまま日焼けもしていない真っ白な蘭の首筋に吸い付いてくる。じゅっと痛いくらい吸われ、さすがに蘭も気色悪いと思った。
 担任が調子に乗り過ぎていると蘭は感じ、自由になる方の足で担任の下腹辺りを思いっきり膝蹴りしてやった。担任は悲鳴を上げて、机をなぎ倒しながら真後ろの床に転がった。
「蘭君?」
 担任は信じられないといった顔で蘭を見上げて来る。荒い息をしている担任は、これ以上ないくらい汚らわしかった。
 机の上にあおむけで倒されたまま、何もかも凍らせそうな冷たい視線で担任を見ると「なんで蘭君」と、泣きそうな顔をしている。大人のくせに、年少の蘭に甘えようとしている態度に虫唾が走る。
 蘭をずっと邪な目で見ていた気持ち悪い男など生きている価値もないと思った。
「オマエなんて死ねばよいのに」
 そう言って、もう一度微笑んでやれば、担任は絶望的な目で蘭を見た。
 妻子持ちのくせに生徒に手を出すクソ野郎だった。子供は蘭とあまり変わらない年齢の筈だった。生徒に欲情するゴミは、死ぬのが妥当だと蘭は思った。
「何をしているんですか?」
 隣のクラス担任が、教室の入り口から叫んでいた。
「荒川先生! 一体何事です?」
 蘭の魔法から醒めた担任は、自分のした事の重大さに気が付き、うめきながら頭を抱えて縮こまってしまった。隣のクラス担任が教室にある電話の内線で応援を呼び、それから走って蘭の元に駆け寄って来た。蘭を抱き起すと蘭の腕を引っ張って急いで教室の外に向かう。
「灰谷さん、大丈夫? 何もされていない?」
 廊下に出たところで、隣のクラス担任が蘭の事を心配そうに見てくる。
「怖かった」と小声で呟き、目尻に涙を浮かべれば蘭は可哀想な被害者にしか見えない。
 蘭は先生の視線が自分の首筋に向くように手を動かすし、首筋の赤い印を見た隣のクラス担任が青ざめ「ヒッ」と息を呑むのが聞こえた。「なんていうこと」と呟きながら、隣のクラス担任は思考停止状態に陥っている。
 それと同時に、ドサッという鈍い大きな音がして、蘭は担任が教室の窓から身を投げたのを知った。二人が教室内を覗き込むと、教室の窓が大きく開き、クリーム色のカーテンが風に揺られているのが見えた。
 さっきまで担任がしゃがみ込んでいた床には人影が無く、教室は無人になっている。信じられない展開に隣のクラス担任が「なんていうこと」と絶句し、蘭は一人ほくそ笑んだ。
 学校側から事件について説明を受けた蘭の母親は激怒し、蘭と竜胆を私学の小中高の一貫校から、アメリカンスクールに転校させた。
 それからだった。
 変化は自ら求めないと訪れないと知った蘭は、スリルを求めて竜胆と共に学校をさぼるようになった。手始めに蘭は自分の髪を金髪に染めた。それを見た竜胆も「兄ちゃん、かっけぇ」と言い、蘭と同じ金髪に変えた。周囲は外国人の子供ばかりだったので、髪を染めても浮かなかったし、日本の学校と違って、校則はレイプされない服の着用くらいという緩さだったから何の問題も無かった。蘭と竜胆は見えない檻から解き放たれ自由を知った。
 蘭と竜胆は街に繰り出しては年上に喧嘩を売り、次々と自分達灰谷兄弟の支配下に置いた。相手が自分たちの事を子供だと思って舐めているのを完膚なきまで叩き潰す事が楽しかった。
 自分達より年上の不良が、なんで? という驚愕した、絶望的な顔を見るのはいつでもゾクゾクした。
 そして、蘭はいつしか六本木を牛耳りたいという野望を持つまでになった。人を意のままに駒のように動かすのはゲームより面白く、ようやく毎日が楽しく感じるようになっていた。
 それはドの鍵盤を押したら、ラの音が出る世界だった。ゲームは死んでも何度だってリセット出来るけれど、現実は一度でも負ければジ・エンドというスリルが、蘭には堪らなかったのである。
 六本木を根城にしている暴走族の総長とタイマン勝負を仕掛けた時、蘭は十三歳になっていた。
 今までになく最高に興奮して、総長とのタイマンに臨んだのに、蘭の相手をした総長は一撃で動かなくなってしまった。手ごたえの無さに蘭は苛立った。白目を剥いて足元に倒れている総長の顔を土足でガシガシ踏んでも気が晴れない。下腹を思いっきり蹴飛ばしてもピクリともしない。つまらなくて蘭はがっかりしていた。
 その時、隣で副総長に関節技を仕掛けている竜胆が目に入り加勢する事にした。殴るのと違って関節技はじわじわとダメージを与える技だ。そのまま放っておいても竜胆が仕留めると思ったが、動けない副総長の顔に警棒を何度も叩き込んだら楽しいかもと思った。暇つぶしだった。
 物足りなかった気持ちを盛り上げるのに必死だった。でも、どれだけ警棒を打ち込んでも、鮮血が飛び散り、骨が砕け、顔がひしゃげても、蘭の気は一向に晴れなかった。だから必要以上に殴打してしまったのかもしれない。気が付くと「兄ちゃん、そいつもう死んだかも」と竜胆に止められていた。
 副総長の顔は陥没し、運ばれた病院で亡くなったと警察署で聞かされた時も、あっけないと思うだけでそれ以上の感情は浮かんでこなかった。
蘭と竜胆は児童相談所経由で家庭裁判所に送致され、審判の結果、少年院に収容される事になった。
 ずっと伸ばしていた長髪を坊主にするのは抵抗があったし、自由も無く飯も不味かったが、竜胆が一緒だったので何とかやり過ごす事が出来た。
 少年院を退院後、両親は二人と暮らす事を拒み、兄弟にこのマンションを買い与え、生活費という名の手切れ金を渡してきた。
 蘭と竜胆は特に何とも思わず、自由が与えられた事に感謝するくらいだった。お揃いのタトゥーを入れ、これから先は二人で生きていくことを決めた。蘭が十四歳の時の話だ。
 あれから六年。
 この家にハウスキーパー以外で、他人が足を踏み入れた者はいない。ここは蘭と竜胆だけの聖域なのだ。それなのにと、蘭は眉間に皴を寄せる。
 バスルームの扉が開いて、竜胆が入って来るのが半分曇ったガラス越しに見えた。蘭が顎で入って来いと合図すると、竜胆は素早く服を脱ぎ浴室内に入って来た。最近は回数が減っていたが、蘭と竜胆は良く一緒に風呂に入った。蘭は竜胆の身体に彫られた蜘蛛と髑髏のタトゥーを見る。二人のタトゥーは合わせて一つになるデザインで左右対称になっている。これこそが、二人は一つだという意思表明に他ならない。
「兄ちゃん、ごめん」
 しおらしい声で竜胆が謝ってきた。
「ああ、分かってる」
 本当はそこまで分かっていなかったが、竜胆が素直に謝ってのだから、蘭としては受け入れないわけにはいかなかった。蘭の肩に額を押し付けて謝る竜胆は可愛かったのだ。
「タケミチをクビにしないでくれる?」
 だが、竜胆の次の言葉に、蘭の整った眉がピクリと動いた。
「さっきも言ったけど、俺が無理やり誘ったんだ。タケミチは嫌がってた。本当に悪くないんだ。もう二度と家でゲームなんかしないから、タケミチをクビにするのだけは止めてやってよ」
 竜胆が見ず知らずの他人の為に、蘭がする事を止めようとしているのが気に入らなかった。そいつの事を下の名前で呼んでいる事にも苛々してくる。けれども、竜胆が悲しむ顔は見たくないという思いの方が勝った。
 蘭は怒りを抑えて「今回だけだぞ」と返事をするしかなかった。竜胆は「ありがと」と言って、蘭の顔を見上げてニッと笑った。それから蘭の髪を洗ってあげると言ってせっせと洗い出した。小賢しいとは思ったが、蘭は竜胆のさせたいようにさせた。竜胆が武道の為に蘭へ媚びを売っているのは分かっていたが、竜胆が自分の為に何かをしてくれる事は素直に嬉しいと思ったのだ。
 思えば、花垣武道と言うハウスキーパーは、灰谷家に来た初日から蘭の心を掻き乱してきた。
 冷蔵庫にセロテープで貼られたメモ用紙を最初に見たのは蘭だった。
 捨てれば良い前日のピザをご丁寧にも皿に移しラップをして冷蔵庫に入れただけではなく、冷蔵庫の扉にセロテープを使いメモ用紙迄貼る周到さに苛立ったのだ。やった本人は気が利いているとでも勘違いしているに違いない。クビにしてやろうと、蘭はポケットの中にあるスマホに手を掛けた。連絡先にある派遣元の会社名を探す。苛々としながら空いている方の手で乱暴に冷蔵庫を開けると、アルコールとミネラルウォーターしか入っていない冷蔵庫の棚に、ラップされた皿があるのが見えた。
 刹那。
 遠い昔の記憶が波のように打ち寄せる。皿を持つ綺麗に整った爪の残像とニナリッチのフルール・ド・フルールの香り。
 まだ、何も知らなかった子供の頃の記憶が蘇る。切なさと甘い匂いの記憶。母の人形でしかない子供の狂おしいまでの母への思慕。もう随分前に捨てた感情に絡まれて、蘭はますます苛ついた。
 皿の縁を乱暴に掴み、床に叩きつけようとして我に返る。冷蔵庫に貼られたメモ用紙がチラつき、割ったら何かに負けた気がすると感じたのだ。
 むしゃくしゃして蘭は無言で残りのピザを電子レンジに入れて温めた。特有の音を立てピザを温めている電子レンジの前に立ち凝視する。どうして温めているんだろうと、蘭は自分が何をしてるか分からない。とても説明がつかない行動過ぎて謎だった。
 チンと音が鳴り、チーズピザから湯気が出ているのが見える。
 蘭は熱くなった皿の縁を掴みダイニングテーブルへ運んだ。ほどよく溶けたチーズのピザを一枚手で取り口に含んでみる。蘭は残り物など食べた事が無かったが、食べてみれば思ったより不味くなかった。もちろん、焼き上がりより味は落ちるのだけれど。
 食べ終わった蘭は冷蔵庫からメモ用紙を剥がした。メモ用紙に付いたセロテープを紙が破れないようにそっと除く。メモ用紙にボールペンで書かれた文字はあまり綺麗な筆跡ではなかった。書きなぐるような、子供が書いたみたいな筆跡だ。それを親指と人差し指で掴み、ヒラヒラ振りながら自室まで持って行き、ゴミ箱ではなくデスクの引き出しに入れた理由は、蘭自身もよく分からない。
 何となく捨てられなかっただけだ。
 周囲には気まぐれに見える蘭の行動も、蘭の中では明確な意思に基づいてした行動していた。だから、今回みたいに、どうしてしたか分からないというのは、ざらつくような気持ち悪さだった。
 余ったチーズピザを食べたのも、顔も知らない人間の書いたメモを捨てずに保管した事も、蘭にしてみれば全く説明がつかない行動で戸惑うばかりだ。
 そして今日。
 あのハウスキーパーは、竜胆迄たぶらかしていたのだから質が悪い。
 あの時、クビにしておけば良かったと、蘭は独り後悔した。
 その件はそれで終わりだと蘭は考えていた。だが、金の流れがおかしい場所があり、裏切り行為かとそこを任せていた男を呼んで問い詰めたところ、竜胆が関わっている事を知った。
 責任者は蘭も知っていると思っていたと土下座した。金額は百万にも満たない額だが、竜胆が自分に何の相談も無く動いている事が気に食わなかった。
 責任者は不問にして、引き続き竜胆の言う通りに動くように指示した。それから竜胆の最近の足取りを調べてみると、まだあのハウスキーパーと遊んでいる事が分かった。
 自宅では蘭に怒られるので、仕事終わりにバイクで連れ出しているようだ。リビングで竜胆とハウスキーパーが並んでゲームに興じているのを思い出す。竜胆は屈託なく笑っていて、確かに楽しそうにしていた。
 だが、蘭の目から見て、あのハウスキーパーは最悪だった。何と言っても着こなしがダサかった。どこで購入しているのだろうというセンスの服を着ていたし、背も中学生のように低く、容姿もパッとしていなかったように思えた。そんなちんちくりんが、竜胆を楽しませていたのかと思うと、やはり気に食わないという感情が先に出る。
 自分が選ぶ女の方が竜胆に合っていると思ったし、センスだって躰の相性だって良いに決まっている筈なのに、どうしてあんな奴に構うのか蘭には理解できなかった。
 蘭の記憶はずいぶん昔まで遡り、竜胆が目も開いていない子猫を拾って帰宅して、その子猫を飼いたいと言った事があるのを思い出していた。蘭と違って竜胆は生き物が好きだったので、犬を飼いたいと言った時もある。
 元の場所に子猫を戻してこいと蘭が言うと、竜胆はとても悲しそうな顔をしつつ、結局は黙って蘭の言う通りにした。でも、竜胆が蘭の目を盗んで子猫の世話をしているのを蘭は知っていた。
 竜胆は蘭と違って情があった。そんな情など何の役にも立たないと蘭は考えていた。立たないどころか自らの足を引っ張る欠点にしかならないとも。
 それでも、情なんて持つなと竜胆に言わなかったのは、蘭は自分と違って完璧じゃない竜胆が愛おしく感じていたからだ。それに、欠点も弱点も自分といることでカバーできると蘭は考えていた。至らぬ部分を補うのは兄として当たり前の事だった。
 竜胆は子供だったし、飼ったことも無い子猫の世話が、ちゃんと出来る訳が無かった。案の定、冷蔵庫で冷やした牛乳を子猫に与えたようで、子猫は腹を下して段ボール箱の中で死にそうになっている。
 母猫の胎内から出る乳が冷たい訳ないだろうに、竜胆は馬鹿だなぁと呆れながらも、やはり竜胆のする事は全て愛おしいと思ってしまう蘭は、重度のブラコンだった。
 蘭は段ボール箱の中から、にゃあにゃあと忙しなく鳴く子猫をしばらく無言で眺めていた。蘭が傍にいるから何とか助けて貰おうと鳴いているのだろうかと、蘭は冷めた目で見下していた。
 子猫の目の周りは目ヤニがこびりつき、ただ生えているだけの毛は毛並みと艶というものも無く、ただひたすら汚らしいだけの子猫だ。
 みすぼらしい毛玉のようだと蘭は思った。
 段ボール箱の中には、子猫は一匹しかいない。猫は一度に数匹の子を産むのだから、この子猫は母猫に見捨てられたのだろう。母猫は自ら生んだ子だとしても、足手まといになりそうな子は置き去りにするものだ。竜胆も含めて大抵の人間はそれを可哀想だというが、母猫の判断は生物学的に間違っていない。弱い個体は淘汰される運命にあるのだから、無理して連れて行き、そのせいで他の子も死んだら繁殖の意味が無くなる。
 それにしても、母猫に見捨てられた時点で死ぬと決まった命のくせに、どうしてこうも鳴き喚くのか、蘭は理解に苦しんだ。
 多分、自分が一生分かる日など来ないと諦めて、蘭は震えながら鳴く子猫を掴むと、その足で獣医に連れて行き治療を受けさせた。このまま竜胆に世話をさせても、きっと子猫がしんでしまい悲しむだけだと蘭は判断したからだ。
 獣医で必要な注射を打って貰い、保護猫カフェの経営者に引き渡す。猫アレルギーで飼えないのだと言えば引き取って貰えるのを蘭は知っていた。
 そんな蘭の行動を知らない竜胆は、学校から帰ると蘭の目を盗んで、いそいそと子猫の元に向かった。もちろん冷蔵庫にあった牛乳のパックも持ち出していた。
 竜胆は段ボール箱の中の子猫がいなくなっている事に気が付き、目に見えてしょんぼりした。少し離れた場所で見守っていた蘭は、その項を垂れてしゃがんだ後ろ姿が可愛くて堪らないと思っていた。
 ずっと動かない竜胆に蘭はどうにも我慢できなくなり、そっと近づいて「竜胆?」と声を掛ければ、竜胆は泣きそうな顔をして蘭を見上げた。
 竜胆は、そこにどうして蘭がいるのかと疑おうともしない。ただ、悲しみでいっぱいの瞳を見開いて、最初に二人が見つめ合った時のように、薄い紫の瞳に蘭を映すのだ。それは蘭にとって震えるほどの幸福に他ならない。
「兄ちゃん子猫がいなくなった野犬にやられたのかな」と、泣きそうな声で竜胆が蘭に尋ねてきたから、蘭の胸は甘くきゅんと痺れた。愛おしさに気が狂いそうになる。
 蘭は「親猫が迎えに来たんだよ」と、竜胆に嘘をついた。保護猫カフェに連れて行ったと言えば、竜胆はそこに押しかけてしまうのだから仕方がない。竜胆にとって蘭の言う事は絶対だったので、竜胆は素直に「良かった」と納得してくれる。そんな弟の姿が可愛くて、やはり蘭は堪らなく愛おしくなるのだ。
 そういう訳で、大人になった竜胆が、こんな時にする行動など、蘭には手に取るように分かった。
 蘭が行かないアジトのどこかに武道を連れ込んでいるに違いないのだ。そのアジトはすぐに判明した。管轄のリーダーを呼ぶと、やっぱり数日前に竜胆が突然やって来て今後は使用するなと言ったらしい。「何か問題がありましたか?」と、おどおどしているリーダーには、何でもないと言って口止めしてから下がらせ、しばらく様子を見る事にした。
 武道は子猫じゃない。蘭が無理に介入しなくても死にはしないだろう。それに、反対すれば余計に反発するものである。そっとしておけば、そのうち飽きるのではないかと蘭は考えた。
 竜胆は蘭と同じで飽き性なのだ。ちょっと毛色の違う人間を珍しがっているだけだ。そんな時に、蘭が過剰に反応すれば、竜胆は意固地になるに違いなかった。しばらくの我慢だと蘭は思い、観察するだけにした。
 だが、蘭の予想に反して竜胆は、どんどん武道にのめり込んでいった。とうとう、一日のほとんどをあのアジトの一室で武道と一緒に過ごすようになる始末だ。
 苛ついた蘭が、竜胆がいない隙に手下を調べに行かせたら、自分たちで壁紙を張り替えたり、組み立て式の棚を作ったりしているようだと報告があった。まさか、自分に黙ってあのハウスキーパーと同棲でも始めるつもりなのだろうかと、蘭は再びドス黒い感情が湧き上がるのを感じていた。
 多分、竜胆は蘭ほどスリルなど求めていない。兄がする事だからついて来ているだけだ。蘭がいなければ道を外さず普通に生きていける弟をこの道に引き込んだのは蘭だ。
分かっていても、蘭は竜胆の手を放す事は出来ない。竜胆は蘭にとって唯一無二の運命共同体だから、離してあげられなかった。
 蘭はもう一度あのハウスキーパーと対峙する事にした。気乗りはしなかったが、竜胆がこんなに執着するのだから、何かわけがあるに違いなく、蘭はそれがどうしても知りたかった。
 こうして蘭は武道が仕事で自宅に訪れる日を狙って、武道の前に姿を現した。
 武道は竜胆ではなく蘭の登場に青ざめて顔を引き攣らせた。
 改めて花垣武道と言う男を上から下まで観察した。分かったのは、やっぱり今日も超ダサい服を着ているという事だった。何故この人間が竜胆に選ばれたのか知りたかったのに、目の前で見ても全然理解できなくて、蘭の眉間に皴が寄るばかりだった。
 ただ、蘭が凄んでも逃げなかったところは評価できる。
 もしかしたら料理の腕が良いのかもしれないと蘭は思った。竜胆は好き嫌いが多かったが、最初に派遣された料理上手のハウスキーパーには懐いていたからだ。試しに「メシ作って」と言ってみたら「お掃除専門なんですすみません」と謝られた。
 掃除しか頼んでないけれど、掃除しかできない低いレベルのハウスキーパーをうちに派遣しているのか? と、蘭は唖然とした。
 どうしてそうなったかと言えば、蘭が次々にクビにしたからだったが、そこは棚に上げられていた。
 じゃあ、竜胆がこの男を気にいっている理由は一体何なのだと、蘭は段々苛々が増してきた。「役に立たないな」と言い放てば武道は「すみません」とまた謝る。
 これだけは違っていて欲しかったのだけれど、もしかすると躰の相性が良いのかもしれないと蘭は考えた。
 武道を持ち上げると意外と軽かった。ちょっと太めの女くらい。
「何するんスか!?」と武道がパニックに陥っていたので、蘭は「何するんだろうな」と、適当に返事をしてやった。
 躰の相性を調べるには、蘭がその気にならないと出来やしない。このちんちくりんで興奮できるかどうか、この時点では蘭にも分からなかったのだ。
 蘭が歩き出すと蘭の背中あたりの服の生地を掴む。高いところから降りられなくなって困っている猫みてぇと思いながら自室に武道を運んだ。
 クイーンサイズのベッドに武道を下ろすと、そのまま武道の身体に乗り上げた。武道は何が何だか分からないという表情で蘭を見上げている。その瞳は大きく長い睫毛に彩られ、瞳の色は晴れた日の湖のように澄んでいた。
 その水面のような瞳が蘭の姿を映していてドキリとする。その段階にきて、ようやく好みの顔かもと蘭は思った。
 とりあえず服を捲って武道の身体を見る事にした。武道の身体は蘭より二回り小さい上に筋肉もついておらず、ほとんど子供のような体型だ。当たり前だけど胸も平たい。
 顔が好みだとして、この平べったい体に欲情出来るのか分からない。でも、竜胆が出来るなら自分にも出来るかもと、蘭はあどけなさが残る頬から首筋に向かって撫でると、武道は「擽ったいっス」と身を捩った。
 触れた肌の手触りは嫌いじゃなかった。武道が特に蘭を拒絶していないので、首筋をぺろりと舐めると「何するんですか!?」と、今頃になってぎゃんぎゃん喚く。恐ろしく煩い。ベッドに運ばれた時点で詰んでるのに、どうしてそんな簡単な事が分からないのか、蘭には理解できなかった。どうせやられるんだから大人しくやらせれば良いのにと思うのだ。
 武道の両手の自由を奪ったまま、蘭は騒がしい唇を塞いだ。観察したいから瞼は閉じない。武道は目を見開いてびっくりした表情を浮かべたまま、蘭の唇を受け止めている。ほとんど固まっていると言って良い。おや? と蘭は思った。まるで慣れている感じがしないのだ。
 でも、驚いているだけかもと、武道の上唇を食んでみる。武道はびくっと躰を震わせるものの、それ以上のアクションが無い。もしかしてマグロ? と思いながら、武道の口内に舌を差し入れてみる。武道の舌の先に触れて、再び武道の躰が震えた。
 でも、それだけだった。
 マグロでは無くてマジで慣れていないのだと蘭は思い至ったが、止めようと思わなかった。柔らかな唇の感触が気に入ったというのもあるし、何も知らない無垢な感じが今までになく新鮮に映ったからだ。この後、どう変化していくか見てみたいと蘭は思った。
 そのまま唇を優しく吸うと、武道は固く目を閉じた。怯えているのかもしれないと思うだけで、蘭の中のサディズムな部分が刺激された。蘭は昂りながら角度を変えて唇を押し付けた。薄く開いた口に舌を強引に差し入れ、緊張したように動かない舌を掬うように絡めた。ゆっくりと武道の口内を舐め、逃げようとする舌を捉え吸った。どこが性感帯かを探る様にキスを繰り返すと、お互いの唾液が混ざり合いぐじゅぐじゅと淫猥な音がした。
 武道は抵抗する気も無くなったようで、蘭の躰の下で酸欠になってぐったりしていた。蘭は自身の下半身に血が集まっているのを感じて、なんだ、できそうじゃんと笑みを浮かべた。
 蘭が武道のズボンのジッパーに指を掛け下ろすと、緑色に黄色のパイナップル柄の下着が目に入った。服だけじゃなくて下着のセンスも最悪だという蘭は事を知った。
「な、なにしてるんすか!?」
「ジッパー下ろしてる」
「だからなんで?」
「ズボン脱がせないとできないじゃん?」
「なななな何を?」
「セックス♡」
 当たり前の事を何で聞くの? と、蘭は首をかしげた。
「でも、恋人同士でもないのにそんなこと!」
 はははと蘭は笑ってしまった。恋人同士じゃないとセックスも出来ないなんて、いつの時代だよと腹が痛くなるくらい笑った。「じゃあ、付き合おっか」と冗談を言えば、真面目な顔をして「どこに?」と聞いてくる。
「ウケる。そうじゃない。愛人にしてやるって言ってんの」
「あいじん?」
「そ,愛人 ♡」
「嫌です」と即答する武道に切れそうになって「ハァ? 拒否権無いって知らなかった?」と凄むと、武道は青くなってぶるぶる震えていた。
怖がらせたら駄目だよなと思い「感謝しろー。なかなか俺の愛人にはなれないんだぞ?」と、自分と付き合える事が、どれくらい価値がある事か優しく教えてあげた。それなのに、武道は泣きそうな顔をしている。感極まっているのかもしれない。
 その時だった。扉の向こうで竜胆が武道を探している声が聞こえた。声色から武道が見当たらなくて焦っているのが分かる。
 もうすぐ、竜胆が蘭の部屋に来るに違いなかった。竜胆がどんな顔をするのか楽しみで仕方がなかった。蘭がこんなにワクワクするのはかなり久しぶりだった。六本木の暴走族の総長にタイマンをはろうと持ち掛けた時のようにドキドキした。今度はきっと蘭の期待に応えた展開が待っていると確信できた。それはきっとドの鍵盤を押してラの音が出る世界だ。
 蘭はもう一度武道に口づけた。そして、どうせなら、三人で堕ちるところまで堕ちてみたいと思った。