桜霞
2025-02-25 20:40:04
14260文字
Public 【RKRN】しのぶれど【雑夢】
 

【RKRN】しのぶれど【ZAT夢】5

※つどい設定があります
※雑高要素があります
※捏造がたくさんあります
※夢小説です

 日が昇る頃に出ていく夫を見送り、いつ帰ってくるとも知れぬ夫を家事をしながら待ち、比較的早く帰ってきた日は必ずと言っていいほどに体を開かれる日々が続いた。彼女が月の障りで痛がったり、少しでも嫌悪が混じれば雑渡は手を出さなかったが、それ以外の晩はほとんど必ず彼女の体を昂らせた。必要であれば自身の全てを使ったが、手指だけで済ませる時もあった。
 彼女は一体どういう機微で雑渡がそうなるのか全く分からなくて、ただされるがままだった。そうと伝えたなくても雑渡には体の火照りがばれてしまうし、夫に求められても断っていいものだと知らない彼女は、従順に体を差し出していた。
 不規則に帰る雑渡より、城下町に居を移した尊奈門の方がよほど規則的に屋敷を訪れていた。雑渡に預けられた洗濯物や忍具の類を、彼女の知らぬ隠された収納にしまうためだ。
「おじゃまいたします、奥方さま」
 尊奈門は、入り口で必ずそう声を張り上げる。一拍後、屋敷のどこかから「はーい」と彼女の声が響いてくる。
「おかえりなさい。また背が伸びましたねえ」
 ひょこりと顔を覗かせた彼女に、尊奈門は「はい!」と嬉しそうに破顔した。
「おやつにでもしましょうか。干した果物があるけど、諸泉殿はどうなさいます」
「ング、」
 尊奈門が音を立てて動きを止める。いつもと違う様子に、なんだどうしたと彼女が尊奈門の方を見やれば、彼はいつになく不機嫌そうに眦を吊り上げている。
……どうなさいました?」
 瞬いて様子を伺う彼女に対し、尊奈門はタソガレドキ忍軍詰所近くの訓練所でのことを思い出していた。

 ───まだまだ修練が足りんぞ、『諸泉殿』!!

 発破をかける高坂に、刀でギッタンギッタンにされ、焙烙火矢でドッカンドッカンされ、あらゆる忍軍でボコボコにされたのは記憶に新しい。尊奈門は、高坂があからさまに自分にだけ当たりが強いのを確信していた。厳しすぎませんかと訴えても、雑渡は素知らぬふりで、山本は苦笑するだけで何も言わぬ始末。そうこうしていると高坂に「弱音を吐くな!!」と再びズタボロにされる。
 尊奈門の、タソガレドキ忍軍の一員としての始まりは、終始そんな感じだった。
 復帰のための訓練をする雑渡に基本的な動きは一通り教示してもらっていた尊奈門の心は、予備のぶんまで全て粉々に砕かれている。
「奥方さま……
「あ、はい、なんでしょう」
 おどろおどろしい声に、彼女は思わず居住いを正した。
「もう私を、家名で呼ぶのはおやめください……!!」
「え、またどうして」
「どうしても何もありません!!」
 とにかくやめてください、と喚く尊奈門に、彼女は「はあ」と生返事をした。
「では……尊奈門、くん?」
「くんもいりません!!」
「尊奈門?」
「はい!!」
「おやつはどうしますか?」
「私などに敬語を使うのもやめてください!!」
 ほとんど怒鳴るように言い募られて、彼女は思わず顎を引いて目を丸くした。
 雑渡の傍で働くために城下に居を移したこの数ヶ月で、一体何があったのか。よく見れば彼女を睨む表情にほんの少し精悍さが増したような気がしないでもないが、とにかく尊奈門は真剣である。
 彼女は神妙な顔で頷いた。
「分かりました。……あ、」
「姉上ぇ……しっかり、あ、違った。失礼しました、奥方さま」
 かしこまる尊奈門。まだまだ形ばかりのそれに、彼女はそっと苦笑した。
「では、おやつにしましょうか」
「はい! 道中で団子を買ってきました!」
「まあ嬉しい」
 茶を淹れてきます、と尊奈門が勝手場の奥に消える。奥方さまはゆっくりしていてくださいと声を張り上げられ、彼女は嘆息した。
 団子を頬張り、茶で喉を潤しながら、彼女はなんでもないことのようにして聞いた。
「それにしても、どうしてまた呼び名を変えて欲しかったんです」
「私が仕える雑渡さまの奥方さまに、私のような若輩が家名で呼ばれるのは畏れ多いだけです」
「なるほど」
……別に高坂さんにボコボコにされたわけではないので」
 高坂殿にボコボコにされたんだな、と彼女は察したが、変わらぬ表情で「もちろん、お前がそう言うのなら、そうなのでしょう」と神妙に頷いて見せるなどした。
 ほんの少し気まずそうな尊奈門を視界の端に、彼女は「ところで夫はいつ帰宅されるのか」という問いを、茶と共に飲み下した。
 一方、雑渡は上役達へ根回しをしたりだとか、南蛮の商品を取り寄せて浪費しようとしている城主を止めたりだとか、部下からの報告を取りまとめたりするなどしていて、家に帰るどころではなかった。
 できるだけ早く帰ろうと心がけてはいるものの、どうしても仕事を優先してしまう。高坂には気遣わしげに「宜しいのですか」と何度か口を挟まれているが、いかんせん、仕事を置いて帰ろうという気にはなれない。
 山本も、「これでは小頭がまた帰れなくなるな……」と部下の前で首を捻ってはいるが、結局のところどうにもできぬかと雑渡に仕事を持っていくしかなかった。
 結局、雑渡が家路についたのは東の空に曙の光が差す朝ぼらけだった。徹夜には慣れたものだが、今日は特に朝日が目に染みるような気がする。
 雑渡は、笠を更に目深に被った。雑渡は忍装束から小袖と絞袴に着替え、口元を布で覆い、網代笠を深く被っていた。この頃の雑渡の通勤服である。
 城下町を通らずに、忍装束のまま近道をして里まで戻る者が多いところ、雑渡は庶民の服に着替えて、途中までは街道を通る。彼女に忍軍のことを伏せるためである。
 忍軍には未だ目付の役職、引いてはそれらを取りまとめている監察をよく思わぬ者も多い。そういう者たちが彼女に触れぬようにするためであり、ひいては彼女の安全のためでもあった。
 雑渡は帰る前に腹に何か入れておこうと料理屋に寄った。火傷を負う前、彼女に文でこの店の煮付けが美味しいと教えてもらったのをふと思い出したのだ。
 暖簾をくぐって店の中に入ってきた大男に、店内にいた何人かがぎょっとしたが、店主と店員らしき娘は「いらっしゃいませ」と雑渡を迎え、娘が席に案内した。
「ご注文は何になさいますか」
「煮付けを」
「えっ」
 娘の狼狽を感じ取って、雑渡は瞬いて娘を見遣った。
 目を見開いた娘が、ぽかんとしたまま固まっている。
……もしかして、頼んじゃダメだった?」
 伺うように問う雑渡。
 直後、娘の瞳の輪郭がぼやけ、小さな口がわなわなと震えた。
「につけ、は、っ」
 えっ、泣きそう、と雑渡が俄かに慌てるよりも早く、娘の表情がくしゃりと歪む。
「ひいさまの……っ、」
「え」
「っうぇ……!!」
「あっ、ご、ごめんね、」
 ひぐ、としゃくりあげる娘に、どうしたものかと慌てふためく雑渡。傍目にも恐ろしい大柄な包帯男に泣かされる若い町娘という絵面になってしまい、雑渡は泣き止みそうにない娘を前に、この店で腹を満たすのは諦めようと腰を浮かせた。
「香! お前まーた泣いてんのか!!」
「だってえ!!」
 店の奥から店主のものだろう怒号が飛んでくる。雑渡は思わず動きを止めた。
「いい加減にしろい!! ったくしょうがねえな、下がってろ!!」
 嗚咽を堪えながらよたよたと下がる娘と入れ替わりに現れたのは、雑渡の腰にも及ばぬ背丈の男の子だった。
「あねうえが、すみませんでした。ごちゅうもんを、おききします」
 辿々しく、けれどもしっかりと雑渡を見上げる少年。雑渡はできるだけ背を屈めて、「煮付けが美味いと聞いて来たんだが」ヒソヒソ話をするように抑えた声で言った。
「につけは、めつけのおひいさまがきたときにだすので、ちゅうもんできないんです。きょうのひがわりていしょくはいかがですか?」
「じゃ、それで」
「しょうちしました!」
 ひがわりていしょくひとつー! こどもが奥まで駆け抜けて行く。雑渡はやれやれと座り直した。そこへ、先ほどのやりとりを見ていただろう、近くの席に座っていた客が「どうも」と会釈して向かいの席に座る。
「お侍さま、この店は初めてですかい」
「まあ……
「さっきのことなら気にしなさんな。変わり者の姫さまが嫁いでからこっち、あの子はずっとああですから」
……変わり者の姫さま、ですか」
「ええ、随分と懐いてましてね」
 あの子だけじゃなく、どこそこの店の娘もね、と客は饒舌に話を続けた。
「監察のお役目の、目付の武家があるでしょう。そこの姫さまがね、やたらめったらあちこちに顔を出しててね。すわお取り締まりかと思えばそうでもないってんで、すぐ男衆どもとも仲良くなっちまって。姫さんだの姐さんだの呼ばれて、娘たちなんかはおひいさまなんつって、目えキラキラさせてましたよ」
 ペラペラとよく舌の回る客の話に雑渡が相槌を打っている間に、日替わり定食が運ばれてきた。五穀米、焼き魚、味噌汁、小鉢と、なかなか豪華である。
「もう、余計な話ばっかりしないでよ! あっち行って!」
 定食を運んできた娘が客を追い払う。くわばらくわばらと退散した客の代わりに、今度は娘が雑渡の向かいに座った。手を合わせて箸を持ち、味噌汁に伸びた雑渡の手が止まる。
……なんでしょう」
「煮付けの話、誰から聞いたの」
 娘はぶっきらぼうに言った。雑渡を厳しく見つめる目元は少しだけ赤らんでいた。
「この辺りの常連さんやご近所さんなら、姫さまとうちが出す煮付けの話は知ってる。でも、あなたみたいな人、一度見たら忘れないわ」
……そうだろうね」
 物珍しい見目であることは重々承知だ。雑渡は味噌汁を啜った。
「誰から聞いたの」
 重ねて聞く娘に、雑渡は答えなかった。
「姫さまから聞いたの? それとも、姫さまの旦那さまから?」
 旦那さまと言う娘の声が震える。
 雑渡は、姫さまの旦那さまは自分だと、訂正する気も起こらなかった。
「ご想像にお任せするよ」
「───」
 癇癪で膨れ上がった娘は、しかし、言葉を形にすることはなかった。
 萎んだ肩を落とす娘は俯いて、焼き魚の皮が破れる音や、箸と腕が小突き合う音などを、聞くともなしに聞いていた。
……姫さまは、お元気でいらっしゃるんですか」
「うん。お変わりなく過ごされていらっしゃる」
……煮付けのこと、なんておっしゃってたの」
 雑渡は、数年前にやりとりした文を思い起こした。
「出汁がよく染みていて美味しい、と」
…………
 娘は、どこか懐かしそうに、口元だけで笑った。
「煮付けなんて、お客様には出さないんです。前の日の残った野菜と、残った出汁で炊いて、温め直しただけだから」
 どこか自嘲するように、娘は話を続けた。
「最初は意地悪で、私が作ったのを出したの。武家のお姫様だからって、何を偉そうにって……でも、おひいさま、美味しかった、また食べたいって、言ってくださって……その後も、何かと面倒見てくれて……立場のある方なのに、そんな、鼻につく素振りもなくて……
 すん、と娘が鼻を啜り、目元を拭う。
「ごめんなさい。おあいそはいりませんから」
 顔をなんとか笑みの形にして、娘はぱたぱたと店の奥へ消えて行った。
 雑渡は黙って食事を続けた。皿を空にすると、代金を机に置き、静かに店を後にする。
 店の味が美味かったかどうか、もはやよく分からなくなっていた。
 彼女が城下で遊んでいるという噂は有名だった。その実、庶民に混じって日銭稼ぎの真似事をしているらしいというのは、雑渡も聞き及んでいることだった。嫁ぐ娘に桂男がいたのでは面目丸潰れもいいところだからだ。

 ───あなたのような方に、誰もいらっしゃらないなんて、それこそ嘘でしょう

 初めて会った時に言われた言葉を思い出す。
 当時は世間知らずのお嬢様などと誰が言ったのかと薄ら寒ささえ覚えたものだが、あの時の言葉は、真実世間を見てきたからこそ出てきたものなのだと、雑渡は数年越しに知った。
 雑渡の前では涼し気な表情をすることが多い彼女も、尊奈門の前では朗らかに笑う。それでなくとも、彼女は、左半身が不随になった男に過不足なく見舞い品を寄越し、気遣いを寄越し、八つ当たりをされても寛容に受け止める。
 彼女のようなおなごに、誰もいなかったなんて、それこそ嘘だ。
 あの娘のように、彼女を慕っていた男や女など、溢れるほどにいてもおかしくはない。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 雑渡が屋敷に辿り着いた時には、太陽が天頂に差し掛かっていた。
「お風呂にされますか? それとも、お休みになられますか」
 朝帰りどころか昼帰りになった旦那に対して、心配そうに労ってさえくれる彼女。雑渡は溜息をつきたいのを、すんでのところで堪えた。
……風呂は後でいい」
「承知しました。掛布をご用意しますね」
「? どうして」
「どうしてって……不寝番か何かお勤めになられていたのでは?」
 お顔が眠そうですよ、と揶揄い交じりに言われて、雑渡は二の句を失った。
 彼女は手早く湯を沸かして盥に張った。雑渡の包帯をほどき、湯で手拭いを絞ると、それで雑渡の体を丁寧に拭う。雑渡はされるがまま、爛れた肌に薬を塗り、包帯を巻き直して、清潔な単衣に着替えさせられた。
「夕餉の頃にお声がけいたします」
 それまでお休みくださいと言った彼女は、障子を閉めて寝室を暗くすると、朝方に干した洗濯物を集め始めた。縁側に置いて、さあ畳もうと腰を下ろすと、正座をした膝にごろんと何かが転がってくる。
「、あ、あなた?」
 転がってきたのは雑渡だった。彼女の膝を枕に、縁側に寝そべっている。
 戸惑って固まる彼女に、雑渡は飄々と言った。
「こちらのことは気にせずどうぞ」
「えぇ……?」
 困惑を隠しきれない彼女。雑渡はまんじりともせず、そこから動こうともしない。
……どうかされましたか?」
 優しい声音が、雑渡を穏やかに甘やかす。洗濯物から離れた手が、そっと雑渡の頬を撫でた。
 なんでもないよと、雑渡は隻眼の瞼を下ろしたまま答えなかった。



 雑渡はこれまで以上にできるだけ早く屋敷へ帰ることを意識したが、現実はそう簡単にうまく運ばなかった。
 周辺国に戦を仕掛けては領地を切り取るタソガレドキは、夏が来る毎に、じわじわと領地を拡大させていた。新しく支配下に置くことになった地域から反目がないように取り締まり、きちんと税を納めさせるのも目付の役割であり、そのために情報の裏どりをするのは忍達の役割だった。
「小頭、次はこちらを」
「ん」
 火薬や銃火器の扱いが本分の狼隊とて、戦の時期でなければ諜報や情報収集に人手を割く。そしてそれらを取りまとめるのは、もちろん雑渡である。
 山本が事前に確認をしているとはいえ、敢えて小頭で止められている情報もあるため、雑渡の確認はほぼほぼ必須だ。
「元アカトキ領の差配はこれでいいだろう。後で組頭に報告しておく」
「は。では、今日の報告は」
「失礼します」
 山本様、と声がかけられる。雑渡と山本の視線を受け止め、何かを察した隊員は思わず固まってしまった。
「え、と」
「いいよ。報告でしょ」
 おいで、と雑渡が手招く。ちらりと雑渡の方を見遣った山本が嘆息して場所を空けたのを見て、隊員は肩身の狭い思いをしながら前に進み出た。時間帯的に今日の仕事がひと段落したというところで新たに仕事を増やしてしまったらしいことを申し訳なく思いながら、報告書を提出する。
「ああ、オーマガトキの。早いね、ありがとう。下がっていいよ」
「はっ。失礼します」
 隊員はさっさと二人の前を辞した。
……小頭」
「なに」
「それは明日にしたらどうだ」
「でもほら、うちと接している領地の実情がこんなに詳らかに」
「昆」
 山本が声を潜める。
「お前、いつから家に帰っていないんだ」
「帰ってるよ」
「深夜に寝に行くだけだろう」
 それは帰るとは言わん、と嗜められて、雑渡は半眼になった。
「今日はもう帰られる予定だったのだろう」
「そんなこと言ったっけ」
「そのように差配しておいて、何を言う」
 バレてる、と雑渡は内心首を竦めた。
 そしてバレているということは、雑渡が自分の帰宅時間を調整するために報告時間や隊員の実力など、いろいろな要素を鑑みて逆算して指示を出しているのはこれが初めてではないということもバレている。
「ちなみにいつから気づいてた?」
…………季節が変わる前だったな……
 もう少し早く言うべきだったという山本。雑渡は山本の仕事量ともうすぐ三人目が産まれそうで悪阻が始まっているらしい奥方のことを思い浮かべた。雑渡に諫言するだけの暇を見つけるのは無理というものだった。
「ん? ということは、それより前から」
「大丈夫だよ、陣内。あれも分かってるさ」
 新たな気づきを得ようとした山本を、雑渡は素早く遮った。実際、雑渡が秘密裏に調整をかけてから、季節は幾つか変わってしまっていた。調整の成果は、結局上がっていない。
 しかし、雑渡はこれ以上の無理をきかせるつもりはなかった。戦を仕掛けることは敵に刃を向けられることを許したも同義で、その切先は、刃を振るう忍軍や侍達だけではなく、その背後にいる無辜の人々にも向けられている。それが分かっていない雑渡ではなく、であるからこそ、仕事には手を抜けない。
 領地が広くなり豊かになるごとに、その土壌となった怨嗟はタソガレドキに向けられる。下手に手心を加えて仕舞えば、うっかり生き残った者達の凶刃が、彼女に届かないとも限らない。
 乱世は治まるどころか更に動乱の兆しがあり、情報戦にも拍車がかかる。撹乱された真偽を見誤った者から死んでいく。
「わしもそろそろ退くかのう」
 忍軍の中で、戦勝を喜ぶ者は少なかった。老齢の組頭も、その内の一人だった。
「もうわしの頭では追いつかぬ。歳じゃな」
 節くれだった手が、湯呑みを傾けるのを、雑渡と押都は黙って見つめていた。三人の間には地図が広げられ、周りには各地域の状況が記された報告書が広げられていた。
 先々代でもある組頭は、齢七十を目前とした押都の父であった。雑渡の父が死んだ直後に組頭に相応しい者がいなかったので、彼が隠居生活から出戻ったのである。
「わしらの世代で現役でおるのはわしくらいのものじゃぞ。まったく」
……お礼の申し上げようもございませぬ」
 姿勢を正した雑渡が言った。
「お主が礼を言うべきはわしではなく山本であろう。小頭の座くらい譲ってやれ」
「は……
「代わりにお主が組頭となれ」
「、……
 雑渡は押都の方を見遣った。押都の表情は蘇利古の雑面に隠されていて窺えなかったが、雑渡に向かって「それがようございましょう」などと言って見せる素振りは飄々としたものだった。
「しかし、」
「二度は言わぬ。わしは雑渡の尻拭いのために楽隠居を捨てたつもりはない」
…………承知仕りました」
 組頭という立場にいながら情に動いた父の後を継いで忍軍を率いて行くのは息子であるおまえの役目だと言外に告げられ、雑渡はそれ以上反論することなく、組頭に就任した。
 雑渡が三十三になった年の、秋のことだった。

 組頭になってから、雑渡は益々屋敷から足が遠のいた。これまでは日のある内に屋敷に戻れるのが五日に一度あるかないかだったのが、組頭になってからは十日に一度となってしまった。これまでは狼隊にのみ注力していれば良かったのが、全軍に気を向けなければならず、単純に仕事が四倍になったかのような錯覚が雑渡を襲っていた。文机の上の書類の山が、崩してもすぐに元通りになるからである。
 しかし、小頭になったことで俸禄の増えた山本が「おかげさまで、こども達に新しい部屋を用意してやれそうです」と目尻に皺を寄せるので、愚痴も「それは良かった」と穏やかな相槌に変わる。山本の家では三人目のこどもが生まれたばかりだった。
「こどもと言えば、押都殿のところにも二人目のややこが産まれるそうで」
「エッ、そうなの」
 初耳である。そしてその瞬間、雑渡は押都に組頭を押し付けられたことを悟った。こどもが産まれて忙しくなるから、組頭などはやってはいられないという前提があっての、あの飄々とした態度だったのだ。

 ───私なんか、最近は寝顔しか見ていないのに。

 内心で、雑渡は悪態をついた。
 情報を入手した隊員が帰ってくる筈だから、報告書が上がってくる筈だからと、雑渡は城や詰所に残ることを選択する場合が多い。判断が遅れることは敵に対して一手遅れることを意味する。例え配下が帰宅を勧めても、雑渡はできるだけ効率と合理を優先した。それ故に、全ての差配を終えて一段落ついても、次の差配まで間が無かったり、帰る頃には彼女が床についたりしている。雑渡はこのところ、屋敷に帰っても、眠る彼女の髪を手慰みに弄るくらいしか、やることがなかった。
 雑渡の見るところ、彼女はどうにも、自身を着飾ることに頓着しない性質らしい。実家から持ってきた衣服は最低限の枚数しかなく、どれも質素で、その辺の町民でも安価に手に入るものでできていたので、花嫁衣装だけが煌びやかに浮いていた。肌も少し日に焼けているが、白粉が減って新しく買い足したような気配はない。長い真っ直ぐな黒髪は、雑渡が帰る度に少しだけ傷んで艶を喪っている。雑渡はこのところ、彼女が寝静まった頃に帰宅し、用意されていた夕餉を平らげ、寝床に潜り込む前に、彼女の髪を梳いてやっていた。
 眠らなければならないと思うものの、肩肘の張った城からようやく帰って来られたというのに、次に起きればまた出仕しなければならないと考えると、少しでもそれを先延ばしにしたい欲が、雑渡を眠りから遠ざける。
 雑渡のことに気を遣わず先に休んでいてほしいと思う一方で、彼女の「おかえりなさい」を聞きたいとも思う。
…………ままならぬものだね」
 返ってくるのは、彼女の規則的な呼吸ばかりである。雑渡の胸中で虚しさが凝るが、どうしようもなかった。
 ───不意に、梟が鳴く。雑渡は嘆息し、音もなく起き上がった。











 は、と息を呑んで、瞼を無理やり押し開く。
……
 急速に覚醒していく体をそのままに、彼女は起き上がった。視線が勝手に部屋の中を彷徨い、部屋に自分以外の誰もがいないことを確認すると、自然、肩から力の抜ける。彼女は自分の体が変に強張っているのに気付き、意識して脱力した。
 隣に敷いてある布団は、既に片付けられている。彼女は静かに息を吐いた。切り替えるようにして瞼を上げ、テキパキと身支度を整える。
 眠る前に用意しておいた膳は綺麗に片付けられていた。昨夜遅く、雑渡が帰宅していた証左、……と、彼女が思っているものである。真実その通りで、せめてもの雑渡の心遣いと頭では分かっていても、彼女の推測を肯定してくれる者は誰もいなかった。
 帰っていたなら起こしてくれたら良かったのに、といった恨み言は、夫の帰宅を察して起きることのできなかった私が悪いのか、という自省に早変わりした。少ない変化で雑渡の帰宅を知ることが当たり前となってしまってからというもの、彼女はどこか、途方に暮れていた。
 井戸から水を汲み、家の掃除や洗濯を済ませ、畑の世話をして、夕餉の支度をする。日が沈んでからも雑渡を待ち、やがて今日もか、と諦念を交えた冷えた飯を一息飲み下す。
 できるだけ淡々と、同じ日々を繰り返す。同じ日々を繰り返すしかできないことが、なんだか焦れったいような気もする。
 もう少し早く帰って来てくださいと、夫の仕事に口を出して良いものなのだろうか。仕事のしすぎを心配していると口にしても、煩わしく思われないだろうか。せめて以前のように、日のある内に帰ってきて欲しいと強請られるのは、面倒なのでは……
 迷走する思考回路が、胸を塞ぐ。口を噤ませる。薬や包帯を調達して山本に運ばせたときのような、せめてもの心配りも思い浮かばない。
 答えの出ない、どうすればいいんだろう、ばかりが降り積もってゆく。ふとした瞬間に雑渡のことを想うと、黒く、重たく、どんよりと胸中が沈んでゆく。
「おかたさまー!」
「おはよーございます!」
 しかし、途方に暮れているばかりでもいられない。
 彼女は戸を開けて、腰を屈めた。
 曙を背に、歳はもゆかぬこどもが、手に手を繋いで彼女を見上げている。
「おはようございます。いらっしゃい、二人とも」
「はい! おじゃまします!」
 七歳になったばかりのこどもがきちんと礼をする。その隣で四歳のこどもが眠そうに欠伸した。山本家のこども達である。
「では、井戸で水を汲みましょう」
「はい!」
 元気いっぱいの返事に、自然と頬も緩む。
 彼女の気を紛らわせてくれたのは、山本家の上のこども達だった。赤子が産まれる前から、彼女は何くれとこども達の世話をした。悪阻が母御を勝手場から遠ざけたからである。
 米を炊いていると匂いで吐くのだという母御のために、彼女は家でこどもたち用の食事を用意し、家では母御のための重湯を用意した。掃除や洗濯なども手伝って、田畑は近くの家や諸泉家を頼った。
 赤子が産まれてからはこども達の世話もなくなるかと思いきや、末子は病がちでなかなか母親の手を離れないらしく、上の子達の日中の面倒はは引き続き彼女が見ることになった。
 こどもにもできる簡単な手伝いをさせて、朝と晩の食事や八つ時の間食の面倒を見て、時折書物などを読み聞かせ、物の道理を諭し、日が沈む前に山本家にふたりを送り届けるのが、この頃の彼女の日課だった。
「いつもありがとうございます、御方さま」
「困ったときはお互いさまです。今日もふたりは大変よいこでした」
「まあ、そうですか」
「私の方こそ、ふたりがいてくれるので、助かります。こちらでは、手は足りておりますか」
「はい。もう少ししたら、主人も帰ってきますから」
……そうですね。では、私はこの辺りで失礼致します」
 また宜しくお願いしますと頭を下げあって、彼女は踵を返した。夕暮れに照らされる道を進む足取りが、少しだけ重い。
 そうか、山本殿は帰ってくるのか。……では、今日は、雑渡も帰ってくるかもしれない。
 夕餉の膳に文でも置いておこうかと、彼女は思案した。そうして、夕餉の前に雑渡が姿を見せると少しも思っていない自分に気がつき、嘆息を堪えきれずに、息を吐き出す。
 そも、日の落ちた暗がりでは文も読めるまい。返書を認めるなど、もっと無理だ。どうせなら、帰ってきたら起こしてくださいとでもしたためようか。しかし、夜分遅くに帰ってくるのなら、妻の相手などせず、一刻も早く休みたいのでは。
 ぐるぐると考えて、結局、彼女は、広げた紙に書くことを何も思いつかなかった。おざなりにすった墨を、真っ白い紙が吸い上げて、黒く染まってゆく。硯を綺麗にした紙を丸めて竈門の中に放り込んで、彼女はいささか乱暴な手つきで道具を片付けた。その勢いのまま、褥を用意して、掛布にくるまって横になってしまう。
 彼女は無理やり瞼を閉じた。できるだけ早く、意識を失いたかった。

 翌日、屋敷を訪ったのは子供達ではなく、山本の奥方だった。
「実は昨日、主人から、近々戦があると伝え聞きまして」
「いくさ……
「はい。ですから、しばらくは無闇矢鱈とこども達を出かけさせるなと……
……そうですね。道中、何かあってはいけません。承知いたしました。おふたりに、どうぞ宜しくお伝えください」
「御方様も、どうぞお気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
 山本の妻を笑顔で見送る彼女の背後の板間には、冷たくなった膳がそのままで置いてあった。
……
 閉めた戸が、陽光を遮る。
 戦、と音もなく繰り返し、彼女はどこかぼんやりとしたまま板間に腰掛けた。
 戦となれば、男達はしばらくの間、タソガレドキを留守にする。
……
 屋敷の中は静かなものだった。耳を澄ませてみても、何の音も聞こえない。彼女が動かなければ、屋敷の時は動かない。
 よし、と彼女はわざと声を出した。
「物が高くなる前に買い溜めをしよう。それと、包帯と、薬の類も検めなければ」
……
 しん、とした静寂が、彼女を追い立てる。
 彼女は、独り言を言うのをやめようと、固く心に決めた。




 タソガレドキとアカトキの戦は、アカトキからの調略に傾いだ家臣がいることにいち早く気付くことのできたタソガレドキの勝利で幕を下ろした。
 家臣は領地外での蟄居、ならびに出家を命じられ、空席となった統治者には暫定的な対応として目付が選ばれた。これまでの納税と土地からの収穫量の差を確かめる作業と並行して、未だタソガレドキに反目する輩が潜伏していないかどうかの調査が行われた。
 また、新たに切りとった領地の調査もせねばならず、監察方は多忙を極めた。
 全ての作業が一段落して、上も下もようやく一息つけたのは、寒空に息の白くなる初冬だった。田畑はすっかり冬支度を済ませており、町は年の瀬の忙しさに活気づいていた。
 町で戦の行方を聞いた彼女は、今しばらく雑渡は帰って来ないかもしれないと、今日も先に床に就くことにした。夕餉の煮炊きをしている間に湯浴みをして、汚れを落とす。手早く身綺麗にして体を温めてから、急いで勝手場に戻って膳の用意をし、ひとりでいただきますと手を合わせた。
 皿の中身を全て綺麗にしたら、あとは膳を綺麗に洗って、眠るだけである。
「ただいま」
 がら、と引き戸の開けられる音がして、彼女の肩がぴゃっと跳ねた。反射的に音のした方を見れば、久方ぶりに見る夫が、笠を外すところだった。
「おかえりなさいませ、」
 慌てて前掛けで手の水気を切って笠を受け取る。雑渡を包む気怠い雰囲気に、彼女は思わず視線を伏せた。
「、……お食事を温め直しますね」
 身を翻す彼女に、雑渡は何も言わなかった。黙って板間に上がり、彼女ができるだけ急いで用意した膳に、静かに箸をつけた。
 何だか居た堪れなくなってしまって、彼女は「お風呂の用意をしてきます」と早々に雑渡の前を辞した。まだ少し温かった風呂はすぐに熱くなった。雑渡を呼びに板間に戻ると、膳は綺麗に平らげられている。
 雑渡が風呂に入っている間に、彼女は雑渡の膳を片付けた。着替えと、替えの包帯、そして塗り薬を用意して脱衣所に置き、寝所に褥を敷く。
 そこまでしたにも関わらず、夜闇に燭台が静かに音を立てると、本当にあの人が帰ってきたのだろうかと、ふと、不安がよぎった。彼女が起きているうちにあんまりにも帰って来ないものだから、幻覚でも見たんじゃないだろうかと、彼女は自分の目が見たものを疑い始めてしまった。
 ほどなくして、板の軋む音が彼女の背筋を正させる。彼女が固唾を飲んでいると、板間に続く廊から襖を開けて、雑渡が姿を見せた。一歩部屋に入った雑渡に、彼女は思わず息を呑んだ。
「───」
 顔の半分を包帯に覆われた大男が立っている。
 誰だ、と思った瞬間に、隻眼に射竦められる。
 動けない彼女の視界の端で、音を立てて襖が閉められた。











 は、と息を呑んで、無理やり瞼を押し開く。
 全身が重怠かった。何か重厚な毛皮の打ち掛けでも被せられているようだった。
 なんとかして腕を引き寄せると、胸や背中の筋肉がばき、みし、と音を立てる。足も同様で、彼女は立つことは難しそうでも、どうにかして体を起こした。
 腰が痛む。手で押さえながら部屋を見渡すと、誰もいない。隣を見遣ると、自分が寝ている褥以外は片付けられている。
……
 部屋に差す日差しは高く、既に昼近いことが察せられた。
 昨晩のことはともかく、家のことをしなければと重い体に鞭打とうとした彼女を、襖の開かれる音が遮る。
「あ、起きた」
 雑渡である。片手には膳を二つ重ねて持っている。
 昼日中の屋敷に雑渡がいるのが珍しくて、彼女は目をぱちくりと瞬かせた。
「体はどう。痛む?」
……いえ……それほどでも……
「そう? 痛むなら食べさせてあげようかと思ったんだけど」
 彼女は面食らった。食べさせるなど、雑渡が動けない時でさえしなかったのに。
 慣れた風情で、雑渡が彼女の前に膳を置く。多少大雑把なところはあるが、米に、味噌汁、漬物が並んでいた。
「味は、大丈夫な筈だよ」
 いただきます、と雑渡が手を合わせて箸を持つ。
 彼女もそれに続こうとして、けれども、腕がなかなか持ち上がらない。
 食べる気力が無いのかと雑渡が表情を覗き込もうとすると、ふい、とぎこちなく逸らされる。寸前、垣間見えた眉間の皺は険しく、深かった。
……
 彼女は、静かに、微動だにしない。
……顔を見せてくれないの」
…………
…………
 沈黙の応酬の間、雑渡がじっとしていると、ぎこちなく、彼女が身動いだ。おそるおそる、そろりと、彼女が雑渡の方を向く。
 水の張った瞳は、静かに揺れて、今にも溢れそうだった。
……いつ、出て行かれるのですか」
 不意に空気を震わせた小さな声に、雑渡は思わず固まった。
 ようやくちゃんと日のある内に帰ってきて、一緒に飯を食えているのに、次はいつ出て行くかと聞いたのか、このひとは。
 そんなに邪魔に思われるようなことをしたかしらとむくれる胸中は、しかし、瞬く間に萎んでいった。彼女は何に怯えているのか、俯いて、随分と身を縮こまらせている。膝の上で握り込んだ拳は、力が入りすぎていて白く、小さく震えていた。
 雑渡は、できるだけ穏やかな声音を心がけた。
……休みを頂いているから」
 ひく、と彼女の肩が震える。
「しばらくは、おまえの傍にいるよ」
 おそるおそる、そっと顔を上げる彼女の瞳は、どこか純にきらめていて、どこか困惑しているようにも見えた。
……ほんと、……まことです、か」
「うん。寂しくさせて、すまなかったね」
…………
 ややあって、彼女が首を横に振る。潤む瞳は、けれども安堵に満ちている。

 そうか。あの、胸の内の重たく沈む、凍えるようなあれは、寂しいというのか。

 箸を置いて、雑渡は彼女の方に膝を進めた。腕を伸ばした雑渡が、彼女を抱える。直に伝わる熱が、彼女から余計な力を奪っていく。
 寄り添うようにしなだれかかる彼女に、雑渡は囁くようにして聞いた。
「寂しかった?」
……ずっと、お慕いしておりました」
 そう、想っていた。自分ばかりが、雑渡に心を注いでいると。
 雑渡は、胸を衝く言葉の威力に思わず呻きそうになったのをなんとか堪えた。
…………私も。お前に会いたくて仕様がなかった」
 嬉しそうに、彼女が柔らかく微笑む。堪らなくなって、雑渡は今度こそ堪えきれず、彼女の微笑を食んだ。