手伝い兼勉強として携わっていた案件が一段落し、慰労会と称した飲み会に参加して、それなりに付き合いをこなして隅の席に落ち着いた俺の隣にさりげなく座ったのが、城瀬由鶴だった。
それまでも何度か顔を合わせたことはあったけれどきちんと会話したことはなく、俺は他人行儀になりすぎないように「お疲れ様です」と声をかけた。飲み会中も店員とのやりとりを担ったり周りに気を配って動き回っていたのは見ていたけれど、案の定これだけ酒が空けられている席で顔色ひとつ変えていない。
端に避けられた新しいグラスを見つけて二つ取り手近にあったボトルを見せながら「よければ一杯」と言えば、彼は驚いたように目を丸くして、それからふわりと綻ぶように笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。ぜひ。あ、俺が注ぎます」
「気にしないでください。この中じゃ俺は下っ端ですから」
「そんな、皇坂さんが下っ端だなんて言ったら俺はどうなるんですか。注がせてください。皇坂さんにお酒を注いだって友人に自慢できますから」
「そんなの自慢にならないでしょう。それじゃあ俺の分だけ、お願いします」
ボトルの中身はシャンパンだったようで、手に取ったボルドーグラスにはあまり合わないけれど、わざわざ他のグラスを探しに席を立つほどこだわって飲む酒でもないから、そのまま彼の分のグラスに注いでから彼にボトルを手渡した。自然に目を向けた彼はシワ一つないシャツと場に馴染むシンプルなスーツで、袖口から伸びる白い手首は見た目の印象よりしっかりしていた。俺の分のグラスにシャンパンを注ぐ彼の手つきは隙のない美しさで、俺は一瞬だけそれに見惚れてすぐに視線を他にズラす。
「……ありがとうございます。まだ全員を無事に帰すという大仕事が残っていますが、ひとまずお疲れ様ですということで」
「ふふ、はい、お疲れ様です」
テーブルの隅で二人静かに乾杯をし、ぬるくなったシャンパンに口をつける。裏が透けて見えるそこらへんの議員連中と違って、俺相手にも対応の変わらない真面目で人当たりのいい人間だという印象はあったが、隣り合って言葉を交わしてもそれは変わらなかった。気の回る善良な人間を手元に置いておくのはとても便利だろう。最近彼の上の者がさまざまな案件に首を突っ込んでいるのは彼の働きがあるからかもしれない。
「今回の件、皇坂さんのおかげでとてもスムーズに進んだと伺っています。今回だけじゃなく、あまりに多くの仕事で皇坂さんの名前を聞くので本当に寝ているのかと聞きたいと思っていたんです」
「ふ。一応人間らしく寝ているつもりです。城瀬さんこそ、朝も夜も時間関係なく見かける気がするんですが、ちゃんと寝ていますか?」
「皇坂さんよりは休ませてもらっていると思いますよ? ……ふふ、よかった」
「?」
「他の方に比べたら年が近いので、いつかお話ししたいなと思っていたんです。立場が違うのでなかなか機会もなくて。図々しく隣に来てしまってから内心でものすごく焦っていたんですが、話せて嬉しいです」
「……いつでも、声をかけてくださって良いのに」
「そういうわけにもいかないです。でも今日は、一杯分だけ。そのくらいなら誰に咎められることもないでしょうから」
グラスを持ち上げて笑みを浮かべ、彼はごくりと煽るように酒を飲んだ。グラスの中にはもうあと一口分ほどしか残っていない。すでに何杯か飲んでいたから少しずつ飲んでいる俺のグラスにはまだ半分以上入っているけれど、きっと彼はそれを飲み切れば席を立ってしまうだろう。会は終わりに近づいていて、そろそろ帰り支度を始める者もいる。
「城瀬さん」
「はい? あ、名前、覚えてくださってるんですね」
「……」
今回の案件にはたまたまお互い携わっていたけれど、そもそも俺と彼の上の者とは関わりの深い間柄ではない。どこかで顔を合わせることはあれどこうして話をする機会はほとんどないだろう。自分から、その機会を作らなければ。
何が他の人間と違うのか分からない。仕事の話をしたいわけじゃない。ただここで別れてしまえば次はなかなかないということだけはハッキリしている。それは、なんだかすこし惜しい。
「この後……いや、今日でなくても構わないから、……、……連絡先を、聞いても?」
「え。……え、っと、……プライベートの方でよければ……?」
「……ええ、そちらの方が都合が良いと思います」
「……ちなみに、この後も空いています」
「……、どうせみんなタクシーだろうから、駅で」
「わかりました。シャンパン、ごちそうさまです。お話しできてよかったです」
小声のやりとりの後、彼はグラスを空にして席を立った。一通り盛り上がりの落ち着いた中心にいる人物のそばへ寄り耳打ちでやりとりをして部屋を出る。少しして戻ってくるとタクシーが来たことを告げ、年配の者から順に手際良く出口まで案内をしていった。だんだんと人の少なくなってきた部屋の中で俺にも「タクシーでお帰りでよろしいでしょうか?」と声をかけてくるから、不自然にならないようにそれを断り店を出て、世話になっている人たちに挨拶をしてから一人駅までの道を行く。
軽く回っていたアルコールは冷たい空気に溶けるように抜けていき、駅に着く頃にはすっかり体が冷えていた。駅前のカフェに入りしばらく待つと視線の先にその人を見つける。飲みかけだったコーヒーを飲み干して席を立った。
暖房の効いた店内から外へ出ると寒さが肌を刺すようだった。しかし声をかけるまでもなく俺を見つけた彼と目が合った途端、冬の空気は意識の外に行く。アルコールでは少しも顔色を変えていなかったのに寒さが彼の頬を淡く染めていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です、お待たせしてしまってすみません」
「全員無事に帰りましたか?」
「はい、なんとか。……今さらですけど、ご迷惑じゃなかったですか?」
「? 何がですか?」
「俺なんかに時間を割くより、休める時に休んだ方がいいんじゃないかと」
「……たしかに」
「あ……」
「俺なんかに時間を割いてもらうより、あなたの休む時間を確保した方が良かったですね」
「え? っ、いえ! 俺は、全然、……すみません、余計に気を遣わせてしまいましたね」
「そうじゃないですよ。お忘れですか、先に誘ったのは俺です。あなたは俺に付き合わされているんですよ」
「……そんなことないです。俺も」
すぐ近くを酔っ払いのサラリーマンの集団が通り、彼は言葉を止めて一歩端へと避けた。終電までもう時間がない。俺は駅に背を向けて足を踏み出し彼の方を振り返った。
「一杯付き合ってください。ご迷惑じゃなければ」
「……一杯じゃ足りないです」
すぐに俺の隣に並んだ彼と二人、どんどんと駅から離れていく。どこか良い店があっただろうかと考え、もしかしたら彼の方が詳しいかもと思って聞いてみればすぐにいくつかの候補が返ってきた。一番近い店、という俺の答えに彼は笑い、数分も歩かずに店に案内してくれた。
小さなバーはカウンターに一人先客がいるだけで、ボックス席のように隣と区切られている奥のテーブルで向かい合わせに席についた。メニューを俺の方に向けてくれる彼にメニューを向け「仕事じゃない」と呟けば、彼はふっと気の抜けた笑みを見せてくれた。
「仕事じゃなくても、先にどうぞ。俺も同じのを頼みます」
「……お酒、強いんですか?」
「それなりに。あ、今さらですけど、俺の方が年下ですし下っ端ですから、敬語はやめてください。仕事じゃないならなおさら、あなたに敬語を使われるのは不思議な気持ちになりますから」
「……そうですか。……それじゃあ、お言葉に甘えて。……年下なのか?」
「はい。むしろ年上だと思いましたか?」
「いや……、……そうか。……城瀬、と呼んでも?」
「もちろん」
「何が飲みたい?」
「なんでも。さっきのシャンパンも美味しかったです」
「ぬるかっただろう」
「ふ、はい、とても。でも美味しかったですよ。皇坂さんに注いでもらったからかな? だから、なんでも好きなお酒を選んでください。あなたの好きなお酒が飲みたいです」
するりと出てくる口説き文句のような言葉に一瞬息を詰まらせ、ゆっくりと呼吸をしてから俺は店員を呼んでマティーニを二つ頼んだ。他に何か頼むか城瀬に目配せをすると彼はメニューに載っていたナッツとチーズを頼み、店員が離れてからふぅと息を吐いてくすっと笑う。視線を向けて首を傾げると口元を隠しながらふるふると首を左右に振った。
「すみません、なんでもないです」
「……なんでもないのに笑うのか」
「ふふ、楽しくなっちゃって。皇坂さんと二人で飲みに行くなんて、想像もしたことなかったので」
「……」
「勇気を出して良かったです。それと、本当に仕事のことは全然関係なくただ俺があなたと話がしたかっただけです。むしろ仕事の話は、俺なんかより話の合う方がいくらでもいますよね」
「……その、俺なんかって言うのは、やめろ」
「え」
「俺もおまえと話したいと思ったからここにいる。仕事のこともお互いの立場も関係なく、一人の人間として。だから城瀬も、俺と同じただの一人の人間としていてほしい。……それが嫌じゃなければ」
「……嫌じゃないですよ。嬉しいです。……すごいな。人たらしってよく言われませんか?」
「俺もそう聞こうと思ってた。よくおまえの名前を聞く意味を体感しているところだ」
あはは、と笑う彼はどうやら俺の言葉を冗談だと思っているらしい。彼の名前をよく聞くことも、すでに俺が彼に気を許してしまっていることも、決して冗談ではないのだけれど。
グラスと皿が運ばれてきて、俺たちは改めて二人だけで乾杯をした。一口含んだアルコールはさっきのシャンパンとは比べ物にならない心地良い口当たりでするりと喉を通っていく。今は酔っていないけれど今日はすでに飲んでいるしマティーニは度数が高いから、いくらうまくても飲み過ぎないように気をつけようと考える俺の前で、城瀬は先ほどと同じように一口と言うには少し多い量をごくりと飲んで満足げに口角を上げた。
「あまり勢いよく飲まないように」
「あぁ、はい。でもわりと強い方なので、たぶん同じペースで飲む分には問題ないと思います」
「そんなに強いのか?」
「多少酔ったことはありますけど、酔っ払ってハメを外したことはないです。どれだけ飲ませても酔わないから俺より先に皆さん潰れてしまって、いつも介抱する係になってしまうんですよ」
「……アルコールの強要はきちんと断れよ」
「強要というほどでは。でもありがとうございます。無理はしてないので、皇坂さんも無理せず、好きに飲んでください」
当たり障りのない話をしながら一杯目を飲み切り、二杯目は城瀬の好きな酒を頼んでお互いのことを知り合って、思考が緩んできた俺はそこでソフトドリンクに切り替えて城瀬はもう一杯だけと言ってアルコールを飲んだ。時計の針は、すでに十二時を通り過ぎている。
「皇坂さん、もう眠たいですか?」
「……まだ平気だ……」
「でも寝ちゃいそうですよ。タクシー呼びましょうか」
「んん……? いい、……近いから、あるいてかえる」
「え、歩いて? そんなに近くなんですか?」
「あぁ……」
「……それじゃあ、お家まで送りますから、お水一杯飲んだら出ましょうか?」
「わかった」
促されるまま水を飲み、下りてくる瞼をギリギリで堪えて眉間にシワを寄せる。城瀬の顔色はやっぱりほとんど変わっていない。酒に強いというのは大袈裟じゃないらしい。
財布を城瀬に渡して会計をしてもらい、腕を支えられながら店を出た。どこに行くんだっけ、と立ち止まった俺のすぐ隣から城瀬が「お家はどっちですか?」と言うから、ああ、と思って家の方角へ足を踏み出す。近いとは言ったがほとんど一駅分歩くから、着く頃には酔いが覚めているだろう。
「城瀬」
「はい、なんですか?」
「さっきおまえもお金を出していただろう」
「……起きてたんですか?」
「ずっと起きてる。後で渡す」
「半分しか出してません。割り勘です」
「奢る」
「いいえ、ダメです」
「俺が誘ったんだから俺が払う」
「関係ありません。対等な人間として、俺も払います」
「……」
「そんなに言うなら、また誘ってください。奢ってもらうよりそっちの方が嬉しいです」
「……わかった」
「ありがとうございます」
頑固者、と思ったけれど口には出さなかった。でもたぶん俺の考えていることは筒抜けで、城瀬はくすくすと楽しそうに笑っていた。
真夜中の静かな街を片腕を支えられながら歩き続けた。冷たく澄んだ夜の空気には声がよく響いてしまうから会話はあまりなく、足音だけを重ねて進む。嗅ぎ慣れた自分の香水の匂いの他にかすかに香るそれが城瀬の香水だと散らばる思考の中で考えて、忘れないようにこっそり匂いを嗅いだ。
いつもより時間をかけて到着したマンションの前で俺から離そうとした城瀬の腕を逆に掴み、エレベーターへと強引に乗せた。部屋の前まで連れて行き鍵を探している間に、城瀬はそっと俺から手を離す。
「少しは酔いが覚めましたか? 遅くまで付き合ってもらってすみません」
「……お茶くらい出す」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「……」
「……それじゃあ、えっと、……また今度?」
「……来週、は、無理だな。あー……来月の二週目、週末は?」
「え?」
「次の約束」
「え、でも」
「また誘えとおまえが言ったんだろう。それとも、社交辞令だったか?」
「……いいえ」
ぐっと息を呑んで、城瀬はもう一度「いいえ」と呟いた。ふるふる首を振った後に俺を見つめる瞳を、俺もまっすぐに見つめ返す。
「来月の二週目の、週末ですね」
「もし予定が合わなくなったら他の日に。そうだ、連絡先」
「ああ、はい。プライベートの方で、お願いしますね」
「……俺と関わることでおまえの仕事に迷惑はかからないか?」
「……大丈夫ですよ。それにプライベートで誰と飲むかなんて俺の自由ですから」
「なら、いいが、……困ったことになるようだったら俺に言え」
「はい」
「信用ならない顔だ」
「あはは、ひどい。大丈夫です。あなたに迷惑はかけませんよ」
「迷惑じゃないから言えと言ってる」
「お気持ちだけいただきます」
「おい」
「ふふ。それじゃあ、来月。ありがとうございました、本当にとても楽しかったです。来月も、楽しみにしています」
「……俺も」
「風邪を引かないようにちゃんと布団で寝てくださいね」
「おい、最後まで聞け」
思わず拗ねた口調になった俺に城瀬は笑みを浮かべ、一歩、後ろへと離れる。連絡先を交換したし、次の約束も取り付けた。それなのに今日別れたらもう会えないような気持ちになるのは、きっとこの笑みのせいだった。線を引いてそれ以上近付かせないようにするような綺麗で優しい笑み。飲んでいた時には近づいていたはずの距離はまた最初と同じように離れてしまっている気がした。
「城瀬」
「はい」
「……約束、忘れるなよ」
「……はい」
「連絡先も消すなよ」
「消しませんよ。……楽しみにしています、本当に」
「……おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
「……」
「……部屋、入らないんですか?」
「……悩んでる」
「ふふ、どうして。お疲れでしょう? ちゃんとお部屋で休んでください」
「……おまえ、ここからどうやって帰るんだ」
「ちゃんとタクシーに乗ります。歩いて帰れる距離ではないので」
「……」
「……できたらあなたがきちんと部屋に入るところを確認してから帰りたいです。ダメですか?」
これ以上しつこくしても我儘な男だと思われるだけだろう。はぁとため息を吐いて鍵を取り出すと城瀬は少しだけ笑った。扉を開けて、後ろを振り返る。まだそこにいる城瀬を見つめ、もう一度「おやすみ」と呟いた。
「おやすみなさい。また今度」
そうだ、次がある。今日で全てが終わるわけじゃない。
だけど俺は手を伸ばして城瀬のことを家の中に引っ張り込み、暗い玄関の中でぎゅっとその体を抱きしめた。飲んでいた時から思考の一部を支配していた“触れたい”という欲求が急速に満たされていくのを感じる。
二人分の体が、熱を上げていた。それに気がついた俺はパッと顔を上げ、なんの準備もないまま至近距離で城瀬と視線をぶつけてしまい、次の瞬間にはどちらからともなく唇を重ねていた。
反射的に瞑っていた目を薄く開けてぼやけた視界で城瀬を見つめる。唇の柔らかさと熱さが夢ではないと訴えていた。優しい笑みで引かれた線を無理矢理に飛び越えているのに、城瀬はそれを拒むどころか、いつのまにか俺の背中が壁について、抱きしめていたはずが抱きしめられている。
離れて、くっついて、甘い音が玄関にこだまする。酔いは覚めたと思っていたけれどうまく頭は回らない。触れ合う唇がただ気持ちよかった。
「は、……っふ、……あぁ、もう、こんなつもりじゃなかったのに」
「……きせ」
「っ、……すみません」
「どうして謝る」
「……」
「……明日は、早いのか」
「え。……えっと」
「緑茶と紅茶とコーヒーとワイン、どれがいい?」
「え……?」
「まだ、帰したくない」
「っ!」
目を見開き驚く城瀬を俺はそっと抱きしめた。
まだ触れていたい。このまま帰してしまいたくない。次、より早く、もっと城瀬のことを知りたい。
この感情は、恋がいい。
「……紅茶を、一杯いただいても、いいですか?」
「……一杯じゃ足りない」
頬に口付けて城瀬の瞳を覗き込む。鼻先が触れ、城瀬が目を伏せながら「じゃあ二杯」と囁くから、俺は口角を上げたままキスをした。
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