トイレの外で待っている鬼太郎とぬり壁に、ことの次第を伝えたところで、難しい顔をされるだろう。水木が龍賀に戻ると言えば反対されるに違いない。もともと水木は人質として嫁いできたのだ。その人質が龍賀へ戻るということは、幽霊組と訣別すると宣言したも同然だ。極道は何より面子を重んじる。
「お姉さま、本当にいいんですか」
「沙代ちゃんを一人にはできない」
沙代の目に、また新たな涙が浮かんだ。申し訳なさそうにうつむく沙代に向って、水木は優しく微笑みかけた。
「トイレの外に護衛がいるんだ。まいてくるから、どこかで落ち合おう」
「迎えの車は正面玄関で待ってます」
「じゃあ、そこで」
沙代はこくりと頷いた。水木はハンカチで口元を押さえながら、女子トイレを出た。
「大丈夫ですか、水木さん」
なかなかトイレから出てこない水木を心配していたのだろう。鬼太郎とぬり壁に心配そうに取り囲まれる。
「医務室で少し休みたいんだ。店員さんに場所を聞いてきてくれないか」
「わかりました」
鬼太郎が店員に話しかけに行った。その間に、ぬり壁に向かって話しかける。
「その……大変申し訳ないんだが、この調子の悪さは、どうやら生理痛らしくてな。薬とナプキンを買ってきてもらえないだろうか」
「えっ」
まさかそんなことを頼まれるとは思っていなかったのか、ぬり壁は絶句した。
「なんでもいいんだ。このままじゃちょっと……鬼太郎にそんなもの買わせるわけにはいかないし」
ぬり壁は、心底困った顔をしていたが、しばらくすると小さく頷いてくれた。彼らの姿が見えなくなると同時に、水木は従業員用の出入口へ向かう。そして、何食わぬ顔をして店員とすれ違うたびに会釈をして、堂々と違う階へ降りていった。一階にある従業員用の出入口から、再び客の溢れる化粧品売り場へ出た水木は、正面玄関へと向かった。
黒塗りの車を見つけた水木は、助手席の窓ガラスをコツンと叩く。
「開けてくれないか」
運転手は、水木を見て驚いた顔をした。
「水木さん」
「龍賀のうちへ戻る。車を出してくれ」
運転手は困惑した様子で、ちらっと後部座席に目をやったが、すぐに水木に視線を戻す。
「出してちょうだい」
沙代にも同じことを言われ、運転手は戸惑いながらもアクセルを踏んだ。車はゆっくりと動き出した。
――――すまない、鬼太郎。
彼らが叱られないといいのだが。水木は、心の中で鬼太郎たちに謝罪した。
龍賀屋敷は、相変わらず鬱々とした雰囲気に包まれていた。まるで水木が戻ったことを歓迎していないかのように、空気も淀んでいるようだ。
「おじいさま」
時貞の部屋に通され、水木は深々と頭を下げた。
「ご無沙汰しております」
「急にどうしたのじゃ、里帰りか?」
水木は顔を上げ、真っ直ぐに時貞を見た。彼の横には美しい女性が二人、豊満な体を祖父にすり寄せるようにして、婉然と微笑みながら酒を注いでいる。乱れた着物からして、お楽しみの最中だったらしい。
「沙代ちゃんに会って、すっかりこちらが懐かしくなりまして」
「おお、沙代か。最近すっかり痩せてしまってのう。余も心配しておった。水木がそばにいれば、あれも心強いじゃろう」
そう言って、時貞はかかかと哄笑した。水木はぐっと拳を握りしめた。沙代のことを気遣う言葉が白々しい。だが、激高したところで無駄だ。水木は淡々とした表情を崩さないまま話しかけた。
「おじいさま、実は折り入ってお願いがあるのです」
「なんじゃ? 何でも言うてみい」
「沙代ちゃんに手を出さないでいただきたい」
「はて、なんのことかのう」
時貞はとぼけた様子で、酒をあおる。水木はぐっと拳を握りしめた。
「沙代ちゃんに薬を渡しているでしょう」
「おお、可愛い孫娘の頼みじゃからな。欲しいだけ渡しておる」
まるで、心優しい祖父のような口ぶりだった。
「あの子はもうすぐ嫁ぐのでな。それが心配で心が弱っておるんじゃろう、薬に頼るのも仕方ない」
「嫁ぐ?」
寝耳に水の話だった。
「沙代ちゃんは、まだ高校生ですよ」
「もう十八じゃ、早すぎるということはあるまい」
「しかし……」
反論しようとする水木を、時貞は手を上げて制した。
「安心せい。お前と違って、沙代はちゃんとした男に嫁がせる。相手は今の厚生労働省の大臣の甥御じゃ。年はちと離れておるが、年甲斐もなく沙代を気に入っておってな」
政治家に娘や孫、自分の愛人をあてがい、金をばらまくことでお目こぼしをしてもらい、さらに金を稼ぐ。それが時貞のやり方だ。
「でも、沙代ちゃんは嫌がっているのではありませんか。そんな年の離れた男と結婚するなんて」
時貞は水木の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「龍賀の女は、みんな当主の役に立つよう育てられる。沙代も余の期待に応えてくれるじゃろうよ」
「あの子の意思はどうなるんです」
水木の言葉に、時貞の眉がピクリと動いた。
「お前はまだそんなことを言っておるのか」
「あの子はまだ子どもです。それに、おじいさまが嫁に出すというからには、もう決まったことなのでしょう。でも、せめて高校を卒業するまで待ってやってください。お願いします!」
そう言って頭を下げた瞬間だった。頭に強い衝撃を受けると同時に、強い酒精が鼻をつく。時貞に酒器を投げつけられたのだと、一拍おいて理解した。
「くどい!」
時貞が怒鳴った。恐る恐る顔を上げると、祖父は不機嫌そうに水木を睨んでいる。
「大臣の甥が沙代を気に入っておるのは、あの可愛い顔に女子高生という価値がついておるからじゃ。あ奴らは、外国に行っては若い娘を買い漁っておったが、それではもう満足できんというてな。沙代ならぴったりだと余が紹介したんじゃ。大臣も大臣の甥も、二人ともが沙代を心待ちにしておる。――――それに、正式な結婚ではないから、沙代の戸籍にも傷はつかん」
吐き気がした。
つまりそれは、沙代をロリコンの男たちに渡し、飽きるまで弄んだら、沙代を龍賀に返すということではないか。水木は怒りで目の前が真っ赤になった。沙代はそんな自分の境遇から逃げたくて、一時でも心休まりたいと願って、薬に手を出したのだ。
「ふざけるな!」
水木は時貞に向かって叫んだ。胸倉をつかんでやろうと、つかつかと時貞の前に歩み寄る。だが、護衛の男たちが水木を羽交い絞めにした。
「離せ! このクソジジイ、地獄に落ちろ!」
「口のきき方に気を付けよ」
時貞は、暴れる水木を見ながら女たちに酌をさせた酒を飲み干した。もう一人の女が葉巻を用意し、火をつける。
「水木、お前はようやった。余の期待に応え、幽霊めを骨抜きにしたのじゃからな」
甘い煙をくゆらせながら、時貞は立ち上がり、水木を見下ろす。その目は孫娘を見る目とは到底思えない、じっとりとした欲望で濁っていた。
「色気がないと思っておったが、あの男に随分と可愛がられたらしいの……」
服の下を見透かすような視線に、水木は吐き気を催した。胃の腑がひっくり返るような不快感は、葉巻の甘い香りをかいだ途端にこみあげてきた。
「う……」
水木は口を押えて、その場にうずくまった。指の隙間から吐瀉物があふれ出す。
「まさか、お前、子を孕んでおるのか?」
時貞の嬉しそうな声が、頭上から聞こえた。
貧血、めまい、吐き気。そういえば最近生理がきたのはいつだっただろう。水木はぼんやりとした頭で考える。生理不順が当たり前だったせいで、生理が来たかどうかを気にしていなかったのだ。ふっと目の前が暗くなり、意識が闇へ落ちる。
――――もし本当に子どもができていたら、ゲゲ郎はどんな顔をするだろう。
それが、水木の最後の思考だった。
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