千代里
2025-02-24 11:44:55
10698文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その44


「ねえ、オデット。もういいんじゃないかなあ」
「ダメです! いい機会なので、ゲルダにはちゃんとしたドレスを着て欲しいんです!」
「私、別に何着ててもいいんだけどな」
 オデットが持ち込んできた鮮やかな朱色のコートを受け取ったゲルダは、姿見の前で丈の長さを合わせ、小首を傾げていた。
 二泊三日とはいえ、ルグロ家のご令嬢の護衛兼付き人に任命されたオデットは、同じ役目に任ぜられた友人のために、新しい装いを用意するべきだと強く主張した。
 有事に備えて、戦闘用の防具でもあるローブを脱げない自分はともかく、ゲルダはよりふさわしい格好をするべきだと宣言した彼女は、ノエたちの許可を取るや否や、ゲルダの手を引いて衣服を扱う店に飛び込んだのだった。
 日は暮れているといえども、イシュガルドは天候の悪さと標高の高い山々のせいで元々暗くなるのは早い国だ。夕飯までまだ時間があるからと、一同はオデットとゲルダの買い物を見守ることにしたのである。
「なんだか、今のオデットを見ていると、ありし日のヤルマルさんを思い出しますね」
「おや、どうしてだい」
「オデットに身綺麗な服の一つくらい用意してやったらどうかって、僕が叱られたことがあったじゃないですか」
「ああ――そんなこともあったね。だって君、いつもオデットに同じような服ばかり着せていたじゃないか」
 それは、まだノエがヤルマルと出会ったばかりの頃にあったやり取りだ。
 ノエがオデットに用意していたのは、頑丈な生地で作られた飾り気のないチュニックばかりだった。機能性と防寒性を優先して選んだものだったが、それを見たヤルマルが、華やかな衣服の一つや二つ、贈ったらどうかと指摘したのだ。
 その後、グリダニアで行われた音楽祭に合わせて、ノエはオデットによそゆき用のドレスを送り、以後はオデットが欲しいと思えるデザインの服を選んで購入するようにしていた。
 あの時のヤルマルの熱弁は、今まさにオデットが揮っているものと瓜二つだったというわけである。
「子供が幼くいられる時間は、成長したボクらから見たら一瞬だ。そう思うと、すぐに着丈が合わなければならない服にお金や時間を費やすのは、如何にも無駄に思えてしまうだろう」
 ハーフエレゼンのオデットが、このさきどんな成長を見せるかは未知数だ。ヒューラン族の成長期は十代半ばには訪れるが、エレゼン族のノエは十代も終わりの頃に身長が急激に伸びた。
 このような種族ごとの成長の変化は除くとしても、子供と大人では体格が違うのは明らかだ。だというのに、いずれ変わる体格のために大枚を叩くのは無駄な行為とも言える。
「だけどね、本人にとっては今この時こそが永遠であり絶対なんだよ。だったら、その時間を少しでも素敵な一瞬にするために努力するのが、過ぎ去りし日々を知る大人の役目ってもんだよ」
 もっともらしいことを、うんうんと頷きながら語るヤルマル。ヤルマルの傍らでは、オランローが何やらもの言いたげに彼女を見ていた。
 年若い頃からヤルマルと共にいた彼としては、今の彼女の言葉は我が身にも降りかかるものとしても聞こえたのだろうか。
「あんたの主張はともかくとして。……例の依頼主の思惑、ノエとヤルマルはどう考えている?」
 ルグロ家の名前を店先で出すわけにはいかず、ぼかした言い方にはなってしまったが、オランローが何を尋ねているかは明白だ。ノエは顎先に指を添え、しばし思案の姿勢を見せると、
「順当に考えるなら、彼女の無聊を慰めるためじゃないかな。暇つぶしと気晴らしも兼ねつつ、身辺警護ができるなら一挙両得と考えた……とか?」
「だったらノエ、あんたに一つ聞きたい。あんたが子供の頃、同年代の護衛はそばにいたのか?」
「僕は生まれが生まれだから、そういう付き人のような人間はそばにはいなかったよ。だけど、中には歳の近い使用人の子供が、主人にとって生涯の側仕えになる例はあるらしい」
 貴族の常識には然程明るくないノエであっても、その手の主従関係については、童話や御伽噺をと推して知っている。
 主人の側仕えという身分に一生を縛られるのが本当に幸せかどうかは、本人たち次第なのだろうが、忠義の士という言葉によって飾られた関係は、少なからず現実の貴族社会でも取り入れられているものだ。
 閑話休題。
「なので、今回もそれと同じようなものかと思っていたんだ。ヤルマルさんは、どう思いますか」
「うーん……でも、ノエのいう通りなら、新しく雇わずとも、既に長年苦楽を共にした従者がいるってことにならないかい。何故、わざわざこの町に近づいてから、急に呼びつけるような真似をするんだろうか」
 考えてみるものの、貴族の生活に明るくないノエたちには、到底答えなど見つけられそうになかった。
 どうにか絞り出せた考えも、当主の名代として見知らぬ町に送られたことへの不満を解消するため、というありふれたものだった。
「オデット、さっき渡してくれた服の試着、できたよ」
「見せてください……わあ! 素敵です! ゲルダは髪の毛を結うと、とても大人っぽく見えますね!」
「そうかなあ。下ろしてる分をあげただけなんだけど」
「お客様のお髪は、ゆるく癖がついていて、とても綺麗にまとまるんですよ。髪飾りには、こちらはいかがでしょう」
 オデットと一緒にゲルダをトルソー代わりにしているのは、店の針子だった。
 年若い娘二人の訪問にすっかりやる気になった彼女は、オデットの要望にあわせた衣服をあちこちから出して並べている。
「今回の依頼が終わったら、ゲルダさんの身の振り方も考えないといけないね」
 オデットが渡す衣服に目を白黒とさせている少女を横目に、ノエはもう一つの懸念事項を口にする。
「最初は、彼女の母親がすぐに合流するものと思ったけれど……どうやら、そう簡単にはいかなさそうだ」
「あの様子では、すぐに引き取るつもりはなさそうだったな」
 異端者の隠れ住む集落から出てきた後、出会した竜を思い出し、二人の顔が暗くなる。
 あの竜は、十中八九、ゲルダの母親であるのは間違いあるまい。母親にあれほど会いたがっている娘よりも先に、無関係な保護者であるノエたちが再会するというのは、運命神の悪戯としてもあまりに残酷だ。
「オデットも、ミラベルとある程度まとまった話はできたんだろう? それなら、オデットを保護していたという人がいるって噂の占星台に向かったらどうだろうか。君は、そっちも気になっていたんだろう」
「ミラベルとは、後から連絡を取り合うこともできるだろう。リンクパールを渡しておけば、話ぐらいには応じるんじゃないか」
 孤児院で出会ったときのミラベルの様子については、すでにノエから一同へと掻い摘んで話してある。共に行動した縁もあって、彼が知人との縁を疎かにするような人物ではないと認めていた。
「はい。ミラベルさんにはもう少し聞きたいこともあったのですが……それは、後からでも構わないことでしょうから」
 ノエが思い出していたのは、何か言い淀む様子を見せていたミラベルの姿だった。
 彼は人当たりはいいものの、自分が一度こうすると決めたことに対しては、頑として己の考えを曲げないところがある。
 オデットの記憶の件だけを取り上げても、ミラベルの頑固さは相当なものと分かる。巡回任務の道中で偶然出会っていなかったら、ミラベルはオデットに会いに行こうとすらしなかっただろう。それを思えば、すぐに彼が口を割ってくれる可能性は、今時点では低いと言わざるを得ない。
(まずは外堀を埋めてから、話を持ちかけた方がいいだろうか。オデットがミラベルさんと別れて、占星台に保護されてから、然程長い時が経ったようには思えない。だけど、オデットの口ぶりでは、すごく短い時間だったというわけでもなさそうだった)
 占星台で過ごしていたはずのオデットの穏やかな日常を、誰かが――あるいは何かが壊した。彼女が記憶を失い、怪我をしながらクルザスの辺境を彷徨わなければならなかった何かが、そこにはあったはずだ。
 ミラベルは、オデットの平穏を破った何かを知っているようだった。
 出会った頃の彼が、ノエたちにイシュガルドから立ち去れと再三言い続けていたのは、その『何か』がオデットの滞在を知り、再び彼女に辿り着くのを危惧しているからか。
(だけど、僕がその『情報』を知ったところで、僕の身に危険が及ぶことはないと言っていた。なのに、何故ミラベルさんは黙ることを選んだんだ? それじゃあまるで……その『何か』を庇っているみたいじゃないか)
 そこまで思索を深めていると、ぐいぐいと上着を引っ張る感触がノエを現実へと引き戻した。
 我に帰って振り返ると、オデットが何やら上目遣いでノエを見上げている。
「あの……兄さん、少しいいでしょうか?」
「うん? …………オデット。随分、買い込むつもりなんだね」
 どうして妙に訴えるような視線を向けてきたのか、ノエはオデットが手に持つ籠の中身を見てすぐに悟ることとなった。
 彼女が持っている籠の中には、購入する衣服の代わりに札がいくつか入っている。これは、それぞれの札に書かれた番号が、展示してある衣服を示しているという仕組みだ。そして、オデットの抱える籠の中には、五つの札が積み重ねられていた。
「安心してください。全部が服というわけではないですよ。こちらが上着で、こちらが襟巻き。ドレスは一着だけです」
「こっちは?」
「これは靴下です。五枚組になっていて、分厚いものから、シルクのものまであるそうですよ。できれば、お洋服と肌着はもう何着か買っておきたいんですが……だめでしょうか」
 今まで、ゲルダの着替えはオデットとサルヒの着替えを使い回して着てもらっていた。
 戦闘に出るわけでもなく、寒冷な気候のおかげで汗をかく機会も少ない。必然的に洗濯の数も然程増えず、問題なく手持ちのもので対応できているとノエは思っていた。
 しかし、オデットとしては些か不満を感じる状況ではあったらしい。
「依頼が終わった後、必要そうなら追加で購入しようか。この先も一緒についていくか、ゲルダさんにも確認しないといけないからね」
 オデットに当たり障りのない言葉をかけながら、ノエはちらりとゲルダへと視線をやった。
 母親からの呼び声を待ち続けている彼女は、今どんな気持ちでここにいるのだろうか。
 肝心の母親が、今はまだ時でない、などと言って娘を見知らぬ土地に置き去りにしていることなど、想像もしていないだろう。
(もし、ゲルダさんが僕たちとの同道を望むなら、僕はできる限り彼女の納得のいく形まで付き合ってあげたい)
 オデットとの関わりを抜きにしても、異端者の集まりから離脱した少女が新しい道を望んでいるとしたら、全力で背中を押してあげたかった。
 以前のようなぎこちない素振りが少しずつ薄れ、ごく自然に笑い、驚き、時に怒ってみせるようになったゲルダの横顔を見るたびに、ノエはそう思う。
 自身の背中を押すように小さく一つ頷いていると、カランと乾いた音がノエの手元にある籠から聞こえた。見れば、オデットがこっそりと足音を殺して、追加の札を中に入れているところだった。
……オデット」
「い、一着だけですから。ゲルダったら、放っておいたら裸で外に出ても構わないとか言うんですよ」
 どうやら、追加された札は普段着にも使えるドレスを指しているらしい。
 イシュガルドで扱っているドレスは、生地こそ分厚いが、軽やかに動けるように職人の技が光った逸品が多い。その加工代や職人の腕の分だけ、グリダニアで扱われている衣服よりやや値が張ることも、ノエはよくよく知っていた。
……ピヌヌさんから、報酬を満額支払っておいてもらってよかった」
「時にはリトル・レディの財布になるのも、保護者の大事な役割だよ」
 横から覗き込んだヤルマルが、ノエの肩をぽんぽんと叩いたのだった。
 
 ***
 
「少し、人通りが増えてきましたね」
「だが、活気が増えたって感じじゃないな。見てみろよ、あの顔を。どいつもこいつもピリピリしてやがる」
 細い通りを歩くサルヒは、自分の隣を足早に歩いていく男たちを横目に追う。前髪で片目を隠している側ではあったが、視界に入れずとも彼らが纏う、一歩間違えれば殺気立っているとも言える空気は、サルヒもしっかりと伝わっていた。
「こんな夜だっていうのに酒場で騒ぐ奴もいないんじゃ、逆に不健全ってものだ」
「そうですね。……少し寂しく感じます」
 言いつつ、サルヒもぐるりと通りに並ぶ店々へと視線を巡らせる。
 今、サルヒはルーシャンと共に、ヒューイの家に向かっているところだった。
 ゲルダとオデットをターゲットとした依頼を受けるにあたり、ゲルダが「薬がそろそろ無くなる」と言い出したのが事の発端だった。どうやら、ヒューイは定期的な診察も兼ねるため、ゲルダには少量しか薬を渡していなかったらしい。さもないと、ゲルダはオデットとの時間を優先して、通院しなくなると考えていたようだ。
 だが、ゲルダ本人はオデットとの買い物に行ってしまったので、代わりとしてルーシャンとサルヒが薬を受け取りに向かったのだった。やや本末転倒な感がしなくもないが、少女たちが無邪気に買い物を楽しむ時間を確保してあげたいと、二人はお使いを引き受けたのである。
 サルヒの少し先を行くルーシャンが、ふと足を止める。
 薬舗の看板は、まだ少し先にある。どうしたものかと思いきや、小さな影がルーシャンが差し出した手目がけて舞い降りるのが目に入った。
……鳥? こんな夜中に?)
 その姿は一見すると蝙蝠のようにも見えたが、大きさは蝙蝠と変わらずとも、鳥と蝙蝠では飛び方が違う。しかし、鳥は基本的に夜目が利かない。梟のような一部の例外を除き、ここまで暗くなったら小鳥は皆眠りについている時間のはずだ。
「旦那様、それは?」
「使い魔だよ。ちょっと野暮用があってな」
「野暮用、ですか?」
「せっかくイシュガルドに来てるんだ。昔の知り合いと、話の一つくらいはできたら……ってことだな。なかなか連絡が取れなかったんだが、下手な魔法でも数うちゃ掻い潜れるものだ」
 サルヒに聞かせると言うよりは、独り言のような言葉を並べながら、ルーシャンは舞い降りた鳥の足に括り付けてある何かを手に取る。
 すると、同時に鳥はあっという間に石塊となって崩れ落ちてしまった。
……自動人形(ゴーレム)だったのですか」
「みたいだな。だが、実用一辺倒で美しさのかけらもない。せっかく動かすなら、もう少し可愛げのある姿にすればいいものを」
 ルーシャンに言われて、サルヒは彼の手にあった鳥が、灰色の石がそのまま動いたような形していたことに気がついた。これでは石で作られたものが動いていると丸わかりである。
 ルーシャンは道の端にあった石を拾い上げ、続けて自分の懐からクリスタルのかけらを取り出すと、小さく何かを呟く。その呟きに応じるように、石とクリスタルの輪郭が解け、混ざり合い、鳥の姿を形作っていく。
 目の前の鳥は、先ほどの石の鳥と違って、淡い青色の羽に覆われて、一見すると石から作られた使い魔には見えなかった。
 しばし目を閉じた後、ルーシャンは鳥の乗った手を勢いよく空へと掲げる。振り上げられた際に乗じた風に乗じるようにして、鳥は一目散に空へと羽ばたいていった。
 使い魔の鳥がすっかり見えなくなったのを確かめてから、ルーシャンは再び通りを歩き出す。ちらちらと降り始めた雪は彼が蹴散らした雪の上にも積もり、何事もなかったかのような白へと塗り替えていく。
 どちらも口を開く事なく、二人は白一面の世界を歩いていった。そうして、彼らは薬舗の看板を下げたヒューイの家の前に辿り着き、ようやく足を止めた。
 灯りが灯っているので、外出中ではなさそうだ。軽くノックをして、ドアベルが鳴るように扉を開きつつ中に入る。
 中には、予想通りヒューイが作業机に向かっているところだった。卓上の醸造用の錬金炉からは、ゆるゆると白い湯気が漂っている。
 来客に気がつき、入口へと目をやったヒューイは、
「こんばんは。おや、たしかノエさんのお仲間の方ですよね。すみません、ええと……
「ルーシャンだ。こっちはサルヒ。ゲルダ嬢ちゃんの薬がまた少なくなっちまったみたいでな。代わりに貰ってきてくれって頼まれたんだ」
 来訪の理由を説明すると、ヒューイはルーシャンの周りを見やるような素振りを見せてから、
「ゲルダは今日はいないのですね。様子を見ておきたかったのですが」
「お嬢さんなら、オデットたちと一緒に買い物だ。明日から少し忙しくなるんでね。羽を伸ばしがてらってところだ。先生には悪いが、診察ならこの前もしてただろ。そんなに必要なのか?」
「生まれつきの体質にかかわるものなので、大きな変化はないと思いますよ。ただ、経過を見ておきたかっただけです」
 念には念を入れたがる性格なので、と苦笑を見せるヒューイ。彼は「薬をとってきます」と言って、奥につながる扉へと消えていった。
 待つこと五分もしないうちに、再びヒューイが姿を見せる。手に下げている袋には、硬化の措置が施された薬瓶が詰まっているのだろう。ゲルダが小さな薬瓶に入っている紅い液体を飲み干すところを、ルーシャンも何度か目にしていた。
「毎食後、こちらを摂取するように伝えておいてください。彼女に合わせているものなので、他の人が摂取しないようにだけ注意をお願いします」
「了解。ちゃんと伝えておくさ」
 差し出された袋を受け取り、何気なく頷こうとしたときだった。
――――?)
 微かな違和感が、ルーシャンの指に伝わる。
 物理的な違和感ではない。けれども、妙だと訴える自分の感覚がある。さながら、大きなエーテルの澱みを前にしたときのような。
……この薬、材料は何を使っているんだ?」
 咄嗟に口をついて出た言葉。この違和感の正体は、薬から来ているのではないかと思ったが故の発言だった。
 だが、同時に「そんな馬鹿な」と笑い飛ばしたい自分もいた。
 いくら強力な素材を使っていたとしても、錬金薬の材料にするほどに変化を加えられているのなら、薬瓶越しに感じるほどの違和感が残るわけがない。
「クルザスに自生する薬草と、錬金薬にも使う鉱石を砕いてすり潰したもの……あとは、蒸留炉を動かすためのクリスタルのかけらも、材料といえば材料ですかね」
 冗談だとわかる物言いで、ヒューイはくすりと笑ってみせる。
「体内エーテルを調整するために、普段の錬金薬とは異なるものも使っています。ルーシャンさんは魔道士でしたよね。違和感を覚えるとしたら、恐らくはそのせいでしょう」
「へえ。そいつは何なんだい」
「大したものではありません。――竜の血、ですよ」
 刹那、空気が凍ったような気がした。
 サルヒが、小さく息を呑む音がやけに大きく響く。
「お前、そいつは――!」
 机に身を乗り出して、声を荒らげるルーシャン。だが、ヒューイは全く悪びれる様子もなく、
――なんて、冗談ですよ。竜の血を飲んだら、人間は竜になってしまう。あなたもよく知っているでしょう?」
――――っ」
 当然だ。事実としても、知識としても嫌というほど知っている。少し考えてみればすぐに分かることだ。
 だが、だとしても、この薄気味悪い感覚は――拭えない。
「血のように赤いものではありますが、非常に貴重な材料なので詳細は秘密とさせてください。あなたの人柄を疑いたくはありませんが、再び採取する必要があったときに無くなっていては困りますからね」
 これまた冗談の一つだと笑ってみせるヒューイ。
 しかし、ルーシャンにとって、先ほどのヒューイの冗談は、ちっとも笑えるものではなかった。
 単に趣味が悪いだけで済む話ではない。イシュガルドに生きる人々なら、烈火の如く怒り狂っても、或いは恐怖と嫌悪で狂乱に陥ってもおかしくない――それほどまでに、冗談という単語から全く真逆の位置にある内容だったのだ。
 だが、ヒューイは苦笑いと共にあっさりと言ってのけた。それが、ルーシャンには信じられなかった。
……ちょっとばかし、風の噂で聞いた話なんだがな。ヒューイさんよ。お前が騎士団直属の錬金術師だったってのは、本当か?」
「おや、随分と懐かしい話をしますね。たしかに、私は以前、騎士団のお得意様ではありました。組織の内側に工房を抱えることはありませんでしたが、頻繁に薬を卸していたのは事実ですよ」
 神殿騎士団は、イシュガルド皇国において唯一にして最大の武力を持つ組織だ。そんな組織をお得意様としていたのだから、ヒューイはよほど腕のいい錬金術師だったのだろう。
「だが、竜と通じていた疑いがあったせいで、神殿騎士団との縁を切った。これも本当か?」
 あえて、ルーシャンは疑いはあくまで噂に過ぎないという情報を削って口にした。
 ヒューイがもし本当に、竜と通じていたのなら、彼は動揺の一つも見せるだろう。
 しかし、彼は薄い笑みを一イルムも崩さなかった。
「当たらずも遠からず、ですね。たしかに、私は竜と出会ったことがあります。ですが、特段神殿騎士団の情報を横流しするようなことはしていない。そもそも、竜は神殿騎士団がどこでどんな作戦をしていようが、然程気にしていないのではありませんか。異端者と付き合いのある竜もいるようですが、それは大体が元は人間だった者たちだと私は考えています」
 特段隠す様子もなく、ヒューイは竜と自分の付き合いを語る。
 ルーシャンが自分を異端者として糾弾する可能性を考えてもいないかのように、彼はごく自然に言葉を並べているように見えた。
……それで、出会った竜はどうなったんだ」
「どうもこうも、死にましたよ。騎士団が討伐しました。彼女は、あまり争いが好きではない性質だったようですから」
 彼女というぐらいなら、それなりの付き合いがあったのだろう。けれども、ヒューイの言葉には悲しみもなければ、騎士団への怒りもなかった。
 一方で、イシュガルド人なら当然持ち合わせるはずの、竜が討滅されたことによる安堵や歓喜の気配もまた、彼の顔には浮かんでいなかった。
(いや、それどころか、こいつは――
 薄い笑みを浮かべていることに変わりない。だが、彼が『なぜ笑っているのか』がわからない。こちらを見つめる瞳は、目の前の二人を見ているようで、どこにも見ていないようにも思えてしまう。人と話しているのに、作り物の人形と話しているような違和感は、いったいどこから生まれてくるのか。
「竜との付き合いは誤解だったのに、騎士団から離れなければならなかったの?」
……時代の流れというものがありますからね。無理に騎士団に居座って異端審問にかけられるのは、流石に困りますから」
 今度はわかりやすく、少し寂しげな表情を見せるヒューイ。先ほどの異質な気配が何だったのかと思うほどに、実に自然な表情だった。
(さっきのは何だったんだ……?)
 さながら枯れた川のように、さざなみひとつ立たないのではなく、波打つための水そのものが消え失せたような――そんな表情だった。
 異端者の集落の中でも、彼は人並みに他者を思いやる善良な錬金術師だった。ノエたちにこの村の窮状を訴え、秘匿を促す姿は、あまりにこちらを信じ過ぎていてどうかと思ったほどだ。
 しかし、ルーシャンが目にした善良な錬金術師の姿が、先ほどの竜について語った姿とまるで噛み合わない。あたかも、別人と話しているかのような。あるいは、あの善良な姿こそ、巧妙に己の本性を隠すための嘘だったんのだろうか。
(気にし過ぎか……?)
 思案するルーシャンをよそに、サルヒは処方の注意を受け取り、出入り口の扉に向かおうとしていた。
「旦那様、行きますよ」
「ん、ああ。それじゃ、先生さんも気をつけてな」
「そちらこそ。夜だというのに、どうにも騒々しくていけません。何事もなければ良いのですが」
 カーテンによって遮られた窓の向こうでは、今も形にならない不穏な空気が通りを覆っている。せめて宿ではゆっくり過ごしたいものだと、ルーシャンはサルヒと共に雪がちらつく外へと足を踏み出した。
「旦那様。ヒューイさんのことですが」
 ヒューイの家が完全に見えなくなった頃。
 サルヒは足を止めて、通りの曲がり角の向こうに消えた家を見やる。
「先ほどの変化のことか」
「それもあります。ただ、彼はあくまで私たちとは少しばかり顔馴染みになっただけの人。本性を隠していても、私たちに責められる謂れはありません」
 責めるとしたら、と彼女は続ける。
「彼は……異端者、なのでしょうか」
「さあな。竜の血を飲んだことがあるのかないのか、見ただけでわかるものじゃない。ただ、確かなのは奴さんの薬を飲んだ集落の連中もゲルダも、竜になるようなことはなかった。……今はそれだけわかれば十分だろ」
「その薬を飲んで、ゲルダは大丈夫なのでしょうか。旦那様は、何か感じ取ったのですよね」
「勘みたいなものだ。それに、錬金術師が薬を作るために、普通じゃ想像もつかないような材料を使うのはよくある話だろ。いちいち気にしていちゃ仕方ない。これまで飲んで平気だったんだ。いきなり毒を渡すような真似はしないだろうし、する理由も向こうさんにはない」
 これが相手が騎士団の人間ならともかく、ゲルダは民間人だ。少しばかり、昔縁があっただけの少女。そんな彼女を害するする理由など、ヒューイにはないはずである。
 サルヒもひとまずはルーシャンの言葉に納得したようで、何度か小さく頷きを繰り返している。
 それを見ながら、ルーシャンは思う。
……最悪、変化があるとしてもそれはゲルダに、だ。俺とは関係ない)
 だが、ゲルダのそばにいるオデットは、友人が害されるようなことがあったら悲しむだろう。少女が涙をこぼす姿を想像すると、胸の片端が嫌な疼き方をしたが――ルーシャンは無言でそれを飲み込んだのだった。