タソガレドキ忍軍の組頭である雑渡昆奈門は、今日も今日とて忍術学園に遊びに来ていた。時間が空けば訪れるようにしているが、これといって用はない。忍術学園と懇意にしておいて損はない、という打算はあるが、それだけが理由で縁を繋いでいるつもりはなかった。善法寺伊作や鶴町伏木蔵をはじめとする保健委員の面々との会話は腹の探り合いとは無縁で、それがただただ楽しみだった。だから遊びに来ているという言葉に間違いはない。
忍術学園のサイドワインダーと恐れられる事務員の小松田秀作を避けて忍びこみ、身を潜めつつ保健室へ向かう。すんなりと辿り着いて近づくと、話し声が聞こえてきた。この時間帯の当番は折良く伊作だったらしい。話相手は同級生で同室でもある食満留三郎のようだった。一緒にいるのが保健委員の誰かであれば迷わず姿を現したのだが、食満と一緒となると些か面倒だ。しばらく様子を見守ることにして、じっと身を潜める。
「いくらなんでも気を許しすぎじゃねぇか? もっと警戒心を持つべきだ」
どんな話の流れだったのかわからないが、食満から飛び出した台詞に雑渡は心の中で深く頷いた。それについては雑渡も常々心配していた。忍者のたまご、それも卒業間近の6年生だとはとても思えない警戒心のなさなのだ。やがてプロになるつもりであれば、それは致命的といえる。
「そうかなぁ。雑渡さんがその気になれば僕が敵うわけないんだし、警戒してても同じだと思うけど」
「最初から諦めてどうするんだ! というか、そっちだけじゃなくて……」
「じゃなくて?」
「その……あの人お前のこと気に入ってるみたいだし……」
「そうだね?」
食満がもごもごと言いにくそうにしているのに、伊作がこてんと首を傾げる。
「だから、その、貞操、というか……」
青春だな、と思う。それとも思春期と呼ぶべきか。彼と伊作が同室で仲が良いのは知っていたが、度々世話を焼いているのは伊作の不運体質によるものだけではなかったのかもしれない。そんなに心配ならさっさとものにしてしまえばいいのにとは思うが、本人たちにとってはそんなに簡単な問題ではないのだろう。
雑渡は微笑ましい気持ちでそれらを見守っていたが、当の伊作はきょとんとしている。食満をしばし見つめていたかと思えば、あははははと声を上げて笑い始めた。
流石の食満も困惑した様子だ。
「それこそ心配する必要ないよ」
伊作は自信満々だ。
「何故そう言い切れる」
「雑渡さんはそんなことする人じゃない」
「だからそれが信用しすぎだと……」
「信用とはちょっと違うけど、でもとにかくその心配はないよ」
伊作は詳しいことは何も告げないまま「大丈夫」「心配しないで」と繰り返す。結局折れたのは食満の方だったが、納得はしていないようだ。それは雑渡も同じだった。伊作に対して劣情を抱いたことはないし、そんなことは考えたこともなかった。だから伊作の認識は間違っていないのだが、曲者であるはずの雑渡に無条件の信頼を寄せるのも困ったものだ。
食満が去るのを待ち、雑渡は1人になった伊作の前に姿を現した。
「あ、雑渡さん! お久しぶりです。今日は怪我してませんか?」
「ああ、大丈夫だよ」
「どうぞゆっくりしていってください。お茶でも淹れますね」
雑渡に気づくなり、伊作はにこにこと嬉しそうに歓迎してくれた。その笑顔はほっとさせるものではあるが、やはりあまりの警戒心のなさにどうにも不安になってしまう。伊作が卒業後どうするつもりなのかは知らないが、おそらくは忍者になるのだろう。
誰にでも優しいのは伊作の美徳であり、雑渡が気に入った理由だ。だからこそ少しでも長く元気に生きてほしい。この世界に長く生きる先達として、今のうちにきちんと教えておくべきだろうと思った。
「以前から思ってたんだけど、伊作くんは私に気を許しすぎじゃない?」
伊作がお茶を淹れ終わるのを待ってから切り出した。途中で話しかけるとまた不運を発動するのではと懸念したからだったが、今日は発動せずに済んでいた。これから不運では片付けられない目に遭わせるつもりだから、少しだけ安心する。
「あれ、もしかして留三郎との話を聞いてましたか?」
「そうだね。でも以前から思っていたのは事実だよ。いずれ忍者になる身として、伊作くんのそれは致命的だ」
「あはは、まさか雑渡さんまでそんなことを言うなんて。僕にも他の忍術学園の生徒にも、危害を加えるつもりなんてないくせに」
「うん、そうだね。忍術学園を敵に回すのは色々と面倒だ。けど、目的のためならその限りではないよ。それに」
差し出されたお茶を避けて、伊作の手首を掴む。そのまま体重を掛ければ、伊作の軽い身体はすぐにすんなりと床に倒れ伏した。伊作は驚いたように身を硬くするが、大きな抵抗はせずにされるがままだ。
「殺したり怪我させたりする気はなくても、こういうことはするかもしれない」
顔を近づけ、吐息がかかる距離で囁いた。歳を重ね、階級が上がったことでこの手のことから久しく遠ざかっていたが、忍として、男として、人並みの経験は積んできたつもりだ。伊作は身動ぎしようとするが力の差は歴然で、掴んだ手に少し力を込めるだけで動きの一切を封じ込むことができた。
にも関わらず、伊作は小さく笑い始めた。
「もしかして、意図が伝わってなかったりする?」
まさか、ただの戯れとでも思われているのか。伊作は時折鈍いところがあるので不安になる。これで伝わらなければ忍者としてどころか人としてやっていけるのかどうかも怪しい。
「いいえ、雑渡さんの言いたいことは伝わってますよ。でも、あなたはそんなことしませんから」
「信用してくれるのは嬉しいけど、それは忍として致命的だ」
「知ってますよ。あなたの身体にはもうそんな機能が備わってないこと」
伊作にしては珍しく、こちらの台詞を無視したかのような物言いだった。それも、ただのハッタリと切り捨てるには核心をついている。
「伊作くんの勘違いだよ。今ここで試してあげようか?」
「僕が何度あなたの包帯を巻き直したと思ってるんです? 碌に正座もできないくせに」
じっと睨み合うが、伊作に引く気配はない。どうやら本当に見抜かれているらしい。
伊作の言う通り、雑渡はかつての火傷で生殖機能を失った。つまり、雑渡の血を引いた子供が生まれることは未来永劫ないし、その手の行為もできない。そもそも生きているのも不思議なくらいの大火傷だったのだ。その他の様々な後遺症を思えばそれくらい些末なことだ。当時は後継者がいないことを嘆く声も方々で聞かれたが最近はそれもめっきり減り、雑渡本人でさえほとんど意識していなかった。忘れたわけではないが、生殖機能がなくなれば自然とそういう欲求からも遠ざかるものらしい。
タソガレドキ忍軍でも極少数しか知らない事実だ。当然伊作に話したことはないし、そんな機密情報を誰かが漏らすとも思えない。まさか包帯を巻き直してもらった程度で気づかれるとは思いもしなかった。
「だとしても、君を一方的に嬲るくらいのことはできる」
「それこそしないでしょう。あなたにもタソガレドキにもメリットがない」
苦し紛れの脅しはにべもなく叩き落とされた。
「そろそろ離してもらってもいいですか? こんなところ見られたら、誤解されてしまいます」
伊作を襲おうとしたのは事実なので本当は誤解でもなんでもないのだが、面倒事は避けたいので大人しく引き下がることにする。
雑渡が手を離すと、手首には紅い手形がついていた。本気の恐怖を与えようと力を込めていたから当然だろう。その跡を優しく撫でると、伊作はほっと安心したようなため息を吐いた。先程は雑渡と対等に睨み合っていたが、内心はそうでもなかったのかもしれない。
「ごめんね。手当してあげよう」
「では、お言葉に甘えて。って、あぁ!」
伊作が悲鳴を上げたかと思えば、湯呑がごろごろと転がった。起き上がる時に先程淹れた茶をひっくり返してしまったらしい。どうあっても不運からは逃れられない子なのか。
伊作が薬品棚から取り出した塗り薬を受け取って、雑渡はそれを丁寧に患部に塗ると、その上から包帯を巻く。いつもとは立場が逆だが、雑渡にも最低限の医術の心得はある。両手とも包帯を巻き、端を結ぶと手当は終了だ。溢してしまった茶は適度に冷めていて、火傷しなくて済んだのは不幸中の幸いと言える。手当を終えた伊作は、律儀にも新しく茶を淹れ直してくれている。
「君、やっぱり警戒心がなさすぎるんじゃないかな。私がさっきの薬を経皮毒にでもすり替えていたらどうするの?」
「そんなつもりがあったら、さっき首を絞めるか喉を掻き切るかしてるでしょう。その方が手っ取り早いし、あなたなら人に見られずに逃げ果すのも難しくない」
「それはそうだけど。私は君のことを心配してるんだよ」
「あなたが本気で僕を殺すつもりなら、いくら警戒したって無駄ですよ。僕じゃどうやったって敵いませんから」
「だからといって警戒しないのは違うと思うんだけど」
まだほかほかと湯気を上げている茶を差し出される。雑渡が受け取って中身を半分程乾すと、伊作の纏う空気が冷えたものへと切り替わった。
「そういうあなただって、警戒心がなさすぎるんじゃありませんか?」
雑渡の背筋にひやりとしたものが走る。久しく遠のいていた感覚だ。先程喉を滑り落ちていった茶を舌の上で反芻する。色も味も香りも、茶を淹れる仕草にもおかしなところはなかった。が、ここは伊作の領域だ。事前に何か仕込むくらい、赤子の手を捻るより容易だ。
「心配しなくても、何も入れてませんよ? あなたに危害を加える理由は僕にもありませんから。でもここが僕の管轄だということはお忘れなく」
してやられた気がして、雑渡は小さくため息を吐く。
「君もちゃんと忍者のたまごってことか」
「ええ、向いてないってよく言われますけど」
伊作がどの程度本気なのか、はたまた冗談なのかを表情から読み取ることはできない。
いざという時の機転と土壇場での度胸、それから裏を感じさせない笑み。少しばかり説教をするつもりだったのだが、どうやら指導は忍術学園だけで十分だったらしい。
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