ポート・マルコットに居を置く工房主との商談を終え、看護師長への土産と自らの嗜好品を抱え、水の下へ帰るべくエピクレシス歌劇場への帰路を辿っていた、その道中だった。
何かの唸り声が聴覚を掠める。自然豊かな土地だ。野生の獣くらいいるだろう。その関心が己に向いていないのであれば気にかける必要はない――常であれば。
けれどその日は、その唸り声がやたらと引っかかった。このまま通り過ぎるのを躊躇させるほどに。
足を止め、しばし迷って、唸り声へと意識を向ける。その声の出所へ、リオセスリは行き先を変えた。
ポート・マルコットから東へしばらく。ウラニア湖から流れ来る清水がさらさらと歌う川縁をゆっくりと歩く。こんな状況でなければピクニックと洒落込みたいほどの穏やかな日和だが、徐々に近づく唸り声はどこか弱々しくも思えて胸が騒いだ。
川の一角、茂った下草が不自然に倒れている場所へ行き着いて、目を凝らすまでもなく唸り声の主を知る。
紺青の体躯と、身を飾る背鰭。魚類を思わせる姿形だが、その四肢が地面を踏み締め闊歩する姿を目にしたことがある。
アビサルヴィシャップ。水龍の一族だ。やたら気に掛かったのはそれでか。虫の知らせかな。ベタ惚れで少し恥ずかしいな、などと一頻り考えてから、横たわるヴィシャップを観察する。彼らの肉体は強靭だ。自己治癒能力も他の生物より優れているはずで。そのヴィシャップがこうして横たわり呻いている、となれば、近くに相当な実力の何かがいるか、同胞同士の諍いか――考え得るのはその辺りだろう。それとなく周囲を見回し気配を探ってみるが、件のヴィシャップ以外に目に映るものも感覚に訴えるものもなかった。
横たわるヴィシャップの左上腕部には切り傷と火傷を足したような傷があり、出血もまだ止まっていないようだ。傷を負って間もないのかもしれない。
「…なあ、あんた」
そっと呼びかけてみる。ちら、と恋びとのそれに似た縦長の瞳孔がこちらを向いたのに言葉を重ねた。
「お節介なのは承知してるんだが、よかったらその傷を見せちゃくれないかい? あんたたちには特別な思い入れがあってね。何かの役に立てるかもしれない」
リオセスリの申し出に、ゆっくりとヴィシャップが瞬く。ややしてぐるる、と空気を揺らした鳴き声を了承と受け取って、リオセスリはヴィシャップに歩み寄った。
「……」
まじまじと見た患部の様子に思わず舌打ちする。経験上ごく普通のフォンテーヌ国民より傷の類は見慣れているリオセスリをして『そこそこ酷い怪我』と判じるそれにではなく、そこに重なっていた分かりやすすぎる悪意に対してだ。
傷口の周りはてらてらとよく知る光沢を放っており、嗅ぎ慣れた臭いもする。機械油だ。そこに混じる甘いにおい――自然由来のものではなく、合成されたそれだ――は、確か麻痺毒の類だった記憶がある。強靭なヴィシャップではあるが、傷口にまとわりつく油によって治癒がうまく働かず、凶器に仕込まれていた毒のせいもあってこうしてここで動けなくなっていたのだろう。コイツをこんな使い方するなんざ看護師長が怒りそうだな、とふと考えた。この麻痺毒は正しく使えば優秀な麻酔薬なのだ。
「…ってのが俺の見立てだ。油さえ落としちまえば、あんたなら自然に回復できると思う。預けてもらえるか」
診断結果を説明し治療方針を口にすると、ヴィシャップは小さく首を縦に動かした。それじゃあと、荷物を探って取り出したのは看護師長への土産(になる予定だったもの)だ。天然由来の成分のみを使用した固形石鹸、とかなんとか。これであれば彼…彼女?の体に悪影響を及ぼすことはないだろう。清水に油を流すのは流石に躊躇われたが、ここは水の自浄作用を信じることにする。
「多分沁みるから先に謝っておく。なるべく早く済ませるようにするな」
一言断って、リオセスリは傷口の洗浄を開始した。
「…よし、こんなもんか」
傷口を慮った結果結局それなりの時間をかけることになってしまったが、麻痺毒が都合よく働いてくれたらしくヴィシャップはあまり苦痛を感じずに済んだようだった。どころか、途中から興味深げな視線を向けてきていた。治癒力の方も働き始めていたのだろう。少し迷ったが、看護師長に持たされた救急キットの存在を思い出したので傷口の消毒もしておくことにする。流石に包帯はキットに入っていなかったので自らのバンテージを代わりにした。衛生面を考えるとあまり良くはないのだろうが、ないよりはマシだろうと思ったので。
「とりあえず俺ができるのはここまでだな。あんたの信頼に感謝するよ。もし何かあれば王様に相談してくれ。あんたたちも診られるちゃんとした医療者を寄越そう」
処置の間大人しくしていたヴィシャップに終了を告げると、ゆっくりと瞬いたヴィシャップがうるると鳴いて鼻先を押し付けてくる。まるで犬猫のようなその仕草に思わずそこを撫でてしまったのにゆるりと瞳を細める様が頭を撫でた時の恋びとの仕草に重なって、やっぱり同胞なんだな、なんて思ったりした。
「それじゃ、お大事に」
ちょうど実をつけていた木からバブルオレンジをいくつか拝借してヴィシャップの近くに置き(余計な世話だったかもしれないけれども)、ひらりと手を振ってリオセスリは改めて帰路に着いたのだった。
◇
――あのヴィシャップはきちんと縄張りに帰れただろうか。
メロピデ要塞近くの陸の上、芝生に腰を下ろし、パレ・メルモニアと海を眺めて陽の光を浴びながら、リオセスリは偶然の出会いに思いを馳せていた。ちなみに日光浴は看護師長からの指示によるものだ。人間は適度に陽の光を浴びないと健やかな精神が保たれないんだから時間があるなら浴びていらっしゃいと要塞を追い出されるのにもすっかり慣れた。風の音を聞きながら、流れる雲と揺れる水面を眺めるのは実は嫌いではない。紅茶の一杯でもあったらな、と思わないでもないが、日光浴のために気合いを入れていると思われるのがなんとも気恥ずかしい少年心が抜けず紅茶を携えての日光浴は未だに実現していない。
くあ、とあくびを一つしたところで、背後から足音がした。文字にするなら“のしのし”、だろうか。主の重量を感じさせる、重い足音だ。
気配を隠そうという気も敵意も感じないが、こちらが警戒を煽ってしまう可能性もある。平静を意識しつつゆっくりと振り返って、リオセスリは目を丸くした。
「……あれ」
足音の主はアビサルヴィシャップだった。このエリアで彼らの姿を見たことはなかったが、もしかしてこの辺りを縄張りにしている個体がいるのだろうか。
そのヴィシャップはリオセスリの間合いの外で足を止めた。恋びとに似た不思議な瞳で何かを訴えるようにこちらを見て、うるる、と喉を鳴らす。聞き覚えのある気がしたそれに思わず目をやった左腕に巻きついている黒いものを見て、リオセスリはああと声を漏らした。
「この間のヴィシャップか。王様からあんたの話は聞いてないが、腕は大丈夫かい?」
微笑んで首を傾げると、ヴィシャップは嬉しげに尾を揺らす。うるるるる、と何かを一生懸命語ってくれているが、残念ながらリオセスリには龍の言葉はわからない。ヌヴィレットさんか、看護師長か、他のメリュジーヌでもいたらよかったんだけどなぁ、なんて考えてしまうがここにはリオセスリ一人である。とりあえず元気そうで良かったよと続けてかけた言葉にうるると鳴いて答えてくれたヴィシャップは、何故かその場を動こうとしなかった。じっ、と真っ直ぐに見つめられてリオセスリは小さく唸る。彼、もしくは彼女の瞳に宿るひかりには見覚えがあった。同じ物差しで測って良いのなら、それは何かを期待するひかりだ。例えばもう少しここで過ごして欲しいとか、叶うならば隣に行きたいとか、そんなちいさな願いを口に出していいものか迷っている時の恋びとが宿しているひかり。
「あー……隣に来るかい?」
「!!」
迷い迷い、口にしてみた言葉に、ぶん、と勢いよく尾が揺れる。少しだけ大きくなった瞳に走った輝きまで恋びとと同じで、ヴィシャップがいそいそと隣へやってきたところでリオセスリは彼らへの印象に『可愛い』とそっと書き足した。
隣にやってきたヴィシャップには何か目的があるのかと思えばそうでもないらしい。
「あんたも日光浴が好きなのかい?」
ぐるる、と喉が答え、ぱたりと尾が揺れる。先の自分のように瞳を細め全身で自然を感じながら時折くあ、とあくびを漏らすヴィシャップに、リオセスリは肩を揺らして。
言葉もなく存分に陽を浴びて、三十分ほど経っただろうか。
「…さて、名残惜しいが時間切れだ。俺はそろそろ戻るよ」
ぐ、と腕を伸ばして隣のヴィシャップに告げれば、ヴィシャップはのそりと体を起こして鼻先を押し付けてくる。出会った日と同じ仕草に、一瞬迷って手を伸ばした。
「はは、挨拶させてくれるのかい」
それじゃあとそこを撫でると、ヴィシャップはうるると鳴いて答えてくれる。なんだか妙に懐っこいヴィシャップと別れて要塞に戻ってから、ああバンテージを外してやるんだったな、と考えた。
二度あることは三度ある、という言葉が稲妻にはあるらしい。四度以上には何か名前はついているのだろうか。心中首を捻りつつ、リオセスリは聞き慣れた足音に振り返る。
「やあ、また会ったな」
のそのそとやってきたヴィシャップは、定位置へ落ち着くと咥えていたものをそっと芝生に置いた。本日のお土産は枝ごとのラズベリーのようだ。
あの日隣同士で陽を浴びてから、ヴィシャップは度々こうしてリオセスリと時間を共にするようになっている。海を眺めて日光浴をして、鼻先を撫でて別れる、という不思議なやり取りが続いており、彼、或いは彼女と会った回数はそろそろ片手を超えていそうだった。「昼飯を持ってくるんだった」と呟いたのを覚えていたのかタイダルガを咥えてやってきたヴィシャップに、人間はタイダルガを食べる生活をしていないことを告げた時のひどくショックを受けたような顔に気持ちはありがたく受け取るよとその鼻先をぽんぽんと撫でたのが何回目だったかはもう忘れたが、それ以降のヴィシャップはバブルオレンジやらリンゴやらの『人間が食べられる食物』を持ってくるようになっている。この分だと魚や鳥をじっと見ているヴィシャップに「人間が食べるには火がいる」と雑談半分に説明したのは正解だったかもしれない。学習意欲が旺盛で何よりだ。
ちなみに二度ほど前の邂逅でしたバンテージを外してやろうかという提案は、何故か寂しそうな瞳をされて(リオセスリはこの目に弱いのだ。理由に関しては察して欲しい)言わなかったことにした。
ぷちぷちとラズベリーを枝から外すリオセスリの手つきを興味深げに見つめていたヴィシャップがリオセスリの背後へとその頭を向ける。それまでののんびりしたものからどこか緊張感の漂うそれへ纏う雰囲気を変えたヴィシャップに首を傾げその視線を追って。
「…ヌヴィレットさん?」
「リオセスリ殿…」
互いに丸くなった目で見つめ合い、同時に呟いた。
「足繁く人間を訪ねているヴィシャップがいると聞いて、様子を見にきたのだ。…差し支えなければ事情を聞いても構わないだろうか」
こほん、と咳払いをひとつ。先に言葉を続けたヌヴィレットは、君たちのことだったのだな、とリオセスリとヴィシャップへ順に目を向ける。ヌヴィレットの問いに答えたのは意外にもヴィシャップの方だった。二度目に会った時のように、うるるるるとその喉を鳴らして一生懸命にヴィシャップは王へ何かを語っている。相槌を打ちながら彼、もしくは彼女の話を聞き終えたヌヴィレットは、その鼻先を撫でて「よくわかった」と答えた。
「…この子が過不足なく話してくれた。同胞を救ってくれたこと、私からも感謝する。ありがとう、リオセスリ殿」
「ああ、うん。余計な世話になってないなら一安心だ。龍の作法はわからないからな」
ふわ、と。微笑みと共に感謝を述べられて頬を掻く。ヌヴィレットがゆるりとその暁の瞳を細めた。
「この子も感謝している。声をかけてくれた君が私のつがいであることはすぐに気づいたそうだ。礼をしようと君を探していて、ここで君を見つけたらしい」
言葉を切ったヌヴィレットは、何故かくすくすと笑う。珍しくも声を立てて。
「回復したことは無事に伝えられたものの、君の側が心地良く離れがたくなってしまった、と言っている。まったく、君はすぐにそうやって龍に好かれる」
妬いてしまう、と、これも珍しく悋気を言葉にするヌヴィレットは、言うほど気分を害しているようには見えない。どちらかと言えば得意げな、自惚れてもいいのなら「これだけ魅力のある人間は自分のつがいなのだ」とでも言うような優越感を滲ませる六文字の響きに、可愛いひとだなと心中で頭を抱えた。
「…龍王様のお眼鏡に適った男なんでね。余所見する気は微塵もないしあんたを見つめるので忙しいからその方面での心配は無用だと思うぞ。…で、こういう事情だったわけだがあんたの懸念は晴れたかい?」
座って話さないか、芝生の上でもよければ。
元より心配はしていない、なんて言いつつリオセスリの言葉に嬉しげに笑って、示した隣にうむとうなずきいそいそと腰を下ろすヌヴィレットの様に、やっぱり水龍ってのは素直なんだなぁと喉奥で笑う。
「メリュジーヌ達に対してそうであるように、私はヴィシャップ達に対しても彼らの意思を尊重したいと考えている。同胞の中にも人間に興味を持ち、歩み寄ろうとするものがいるのなら見守ってやりたい。だが君も知っての通り、人間は善なるものばかりではない。彼らの持った“興味”が、彼らを傷つける結果に繋がって欲しくない。ゆえに今日、この子の足跡を追ってここまで来たのだが、」
此度に関しては無用の心配だったな。
同胞の“興味の源”たる人間がどのような人物なのか一度確かめておきたかったらしいヌヴィレットに「君であれば懸念の抱きようがない」と階調の瞳を細められて無性に気恥ずかしい。この子を助けたのが君でよかったとまで言われてしまって喉奥で唸る羽目になった。このひとから向けられる全力の信頼は、誇らしくてくすぐったくて愛おしくて、いつまで経っても慣れない。
「それなら良かった。ちょうどいいから聞いておきたいんだが」
「なんだろうか」
「こちらのムッシュ…レディ? から、日光浴のお供に色々貰っていてね。作法的には問題ないかどうかが気になってたんだ」
こういう、と、ラズベリーを指差す。求愛給餌の概念のある種族だ。無作法があってはせっかくの王からの信頼を裏切りかねない。リオセスリの問いに、ヌヴィレットはこくりとうなずく。
「問題ない。この子のこの行為は、君への信頼と親愛を示そうとするものだ。君が私に差し出してくれるフォークとは意味合いが異なる。それから、この子をそのように表したいならギャルソンが一番近いだろうな。幼生ではないが、成体でもないから」
「なるほど」
“少年”であれば、まあ助けた人間に懐くのも特段奇妙なことでもないのかもしれない。まず誇り高い龍種が『助けさせてくれた』のが意外だったが――
「…と、君は思っているだろうな」
くすくすとおかしそうにヌヴィレットが笑う。今日の彼は頗るご機嫌麗しくて何よりだ。
「先にも言ったが、この子は君が私のつがいだと気づいていた。声をかけてきたのが君だったから『治療』を受け入れたのだ。常であれば、この齢の子は人を避けようとする。警戒を覚え、成龍ほどの力を持たない、精神的にも一番不安定な時期だからな」
君でなければ腕を捨ててでも抵抗しただろう。さらりととんでもないことを告げられて乾いた笑みを漏らしてしまった。思い切りが良すぎる。色んな意味で。
「私のつがいである君をこの子は信頼し、君はその信頼に見事に応えてみせた。感謝の念もあるのだろう。受け取ってやって欲しい」
「…そういうことなら、ありがたくいただくよ」
ありがとうな、と向けた瞳と言葉に、ヴィシャップがゆらりと尾を揺らした。
「引き止めちまって悪かったな、ヌヴィレットさん」
三人…二人と一匹…いや一人と二匹…?で枝ごとラズベリーを美味しく完食してかけた声に、ヌヴィレットが首を振る。
「いや。私も思いがけず君と時間を過ごせて嬉しく思う。君たちの邪魔をしてしまってこちらこそ申し訳ない」
「邪魔されたとは思ってないさ。なぁ?」
下がった眉にリオセスリも首を振って隣のヴィシャップに問えば、彼はぐるると鳴いて答えた。
「…さて、残念だが時間切れだ。ヌヴィレットさんが来ると知ってたらもうちょっと仕事を片してきたんだが」
枝を茂みに放ったリオセスリに、ヴィシャップがいつものように鼻先を寄せてくる。またな、と撫でる手を嬉しそうに尾を振って受け入れたヴィシャップは、まるで礼を取るようにヌヴィレットに向け頭を下げて去っていった。
「リオセスリ殿、先ほどは何を?」
「ん? 何と言われると…なんだろうな、挨拶、みたいなものかな」
初めて会ったときからのやり取りなのだと経緯を話すと、ヌヴィレットは何かを思案するように黙り込む。
もしかしてまずかっただろうか――思い至り口を開く前にヌヴィレットが動いた。
つん、と。筋の通った形のよい鼻が頬に触れる。
「リオセスリ殿」
ちらと上目に見つめられて心臓が縮み上がった。勿論愛おしさで。なんだこの可愛いいきものは。このひとがこの世界の水を統べる龍の長だなんてちょっと信じられない。いやこのひとが凄まじく強いのはよくよく知っているけれども。
「あー…撫でるだけじゃ済まなくなるんだが構わないか?」
具体的にはハグとキスまでしてしまいそうだ。反射を気合いで押し留めた結果中途半端な位置で止まっている両腕を視界に収めたヌヴィレットがくすくすと楽しげに笑う。
「勿論だ」
ヌヴィレットが一歩踏み出したのと、その身体を抱きしめたのはほぼ同時だった。
◇
「公爵様! パイプが何者かの攻撃を受けています!」
ご報告です、と飛び込んできた看守の持ってきた第一報にリオセスリは眉を顰めた。メロピデ要塞にとってパイプは生命線だ。『メロピデ要塞』の名と位置する海域に守られて易々と手出しされる土地ではないが、分を弁えない輩もいないとは言えない。マシナリーによる哨戒とダイビング技能を持つ看守の定期巡回で常時警戒はしているが、疑わしい動きはなかったはずだ。
「攻撃を受けている箇所と襲撃者の情報は」
「南側、B5番から8番周辺、襲撃者については現在情報収集中です」
「南のB? …近いな、サーチライトにも引っ掛からなかったのか?」
メンテナンスや位置の把握がしやすいよう、各パイプにはアルファベットと番号が振られている。メイン棟から離れるに従ってA、B、C…と割り振られているので、Bを振られたパイプへの襲撃となればそこそこの規模のそれと判断できるだろう。当然警戒網も手厚いはずなのだが一体どうやって。
「ここ最近の監視記録にそれらしい兆しは見つけられませんでした」
「そうか。場合によっては今後ライトの改良が必要かもしれないな」
一度センサーを付ける案が出たが、引っ掛かるものが多すぎて再考になった事がある。もう一度検討すべきだろうか。周辺の海域図を見つめながら今後の方策を練っていると、執務室のドアが来客を知らせる。
「失礼します、襲撃者に関するご報告です!」
「聞こう」
「探査マシナリーの映像解析の結果、重甲ヤドカニのようだと」
「ヤドカニだと?」
「はい。ただ体長が一般的なヤドカニの3〜4倍ほどあります。フォンテーヌの海域で目撃情報のある亜種ではないかと」
こちらを、と提出された写真は被写体が動き回っているからか不鮮明ではあったが、巨大な甲羅と大きな爪は確かに見慣れたヤドカニのそれだ。リオセスリにはこの『亜種』に見覚えがあった。旅人たる少年と海域内の探索をしていた時に見かけた記憶がある。確かエルトン海溝の近くだった。横を通るくらいなら何もしてこないけど、虫の居所が悪い時は襲ってくる――少年はそんな風に言っていた。
「目撃報告のあるエリアからはだいぶ離れてるはずだが」
「海流にでも呑まれたんでしょうか」
「だとすれば厄介な迷子だな」
やれやれと肩をすくめ、早々にお引き取り願うべくリオセスリは考えを巡らせる。ひとまずパイプへの破壊行為を止めたい。その過程で縄張りへ逃げてくれればよし。そうでなければ捕獲の方法を考える必要がありそうだ。
「公爵様!」
「今度はなんだい?」
「現場にアビサルヴィシャップが現れました! ヤドカニ亜種と戦闘行為を行なっているようだと報告が」
「珍しいお客さんの多い日だ」
バンテージを締め直し、ノットに触れて立ち上がる。
「縄でも網でも任せるが、『亜種』を捕獲する準備を。控えの水中巡遊型を何機か回してくれ。シールド機構を積んだやつがあったはずだ」
「了解致しました!」
「パイプ損傷時の初動対応は済んでいるな?」
「勿論です」
「よし」
「ご自身で出られるのですか?」
部下が優秀で助かる。大股に扉へ向かうリオセスリに付き従ってくる看守から問われてうなずいた。
「ああ。援軍にばかり頼ってちゃ『公爵』の名が泣くだろ?」
確証はないけれど、恐らく“知り合い”だろうアビサルヴィシャップに加勢すべく、リオセスリは海へとその身を踊らせた。
「…やっぱりギャルソンくんだったか」
偵察に特化させた小型マシナリーに取り巻かれながら激しくぶつかり合う中型の生物同士の戦い――実に映影映えしそうなその図を眺めながら、リオセスリは小さく笑う。こういう時の自分の勘はよく当たるのだ。彼が何故このタイミングでここにいるのかはわからないが、彼のおかげでパイプは壊滅的な被害を免れていると言っていいだろう。かのヴィシャップが来てくれなければBを頂いたパイプの全壊もあり得た。
どうやって報いようか。考えながら水を蹴り、亜種がその頭上に集めていた水流を凍結させて水の塊の錬成を封じる。二対の目がリオセスリを見て、ヴィシャップの尾がゆらりと揺れた。
◇
襲撃してきた亜種に随伴はいなかった。やはり『遠征』ではなく『迷子』だったのだろう。突然知らぬ場に放り出されて、目の前に聳える金属の柱(しかも複数だ)に驚いたのだろうと想像はつくものの、まずは突撃でなく様子見を選択して欲しかった。
“パイプへの被害は中程度、マシナリー数機が損傷。怪我人はいないが、ヤドカニ亜種の制圧に助力してくれた野生のヴィシャップが軽傷。対象は捕獲後本来の生息地と思われるエルトン海溝北の海域まで護送、今回の件を踏まえて哨戒用ライトへのセンサー搭載と、係るセンサーの開発を予定――”
「…以上が今回の騒動の報告だ」
「なるほど。中々の騒動だったようだ」
「迷惑な迷子だったよ」
肩をすくめて笑うリオセスリを、表情をゆるめたヌヴィレットがお疲れ様、と労ってくれる。
「ところで、この『怪我人無し』に君は含まれているか?」
「ああ。そこに記載した通りだ。ギャルソンくんが庇ってくれてな。怪我させちまった。“軽傷”は看護師長の診断だ。数日中には完治するだろうってさ」
それから問い詰めるように瞳を細められた。この部分においてリオセスリには信用がない。いやまあちょっとした傷を隠蔽することはなくもないので自業自得ではあるし、心配してもらえるのはとても嬉しいのだけれど。
両手を挙げて虚偽がないことを改めて説明し、無傷の理由を口にする。ヤドカニ種は変化した爪からの水砲と頑丈な体を活かした体当たりを武器としているが、亜種も同じだ。それらを応用した攻勢の中に、自身にシールドを張って体当たり、などという反則的な技があった。避けるには水中におけるアドバンテージがあちらにありすぎる。受けると決めて、せめて勢いを殺すべく氷壁を展開しようと拳を握ったリオセスリの前にヴィシャップが飛び込んできたのだ。ボールを受け止めるように亜種を抱え込み投げ飛ばした手腕に思わずおおと間の抜けた声を漏らしてしまった。
「…そうか。あの子が」
「そういうわけなんで、機会があったらあんたからも俺が感謝していたと伝えて貰えたら嬉しいよ。勿論俺からも丁重に感謝の念は伝えさせてもらったが」
「是非そうさせてもらおう」
ゆるりと瞳を細めるヌヴィレットはなんだか嬉しそうだ。このひとはリオセスリと眷属が懇意にしていると喜ぶから、同胞に対しても同じような認識なのかもしれない。
「そうだ、ギャルソンくんの話題が出たついでにあんたに一つ聞きたいことがあるんだが」
「なんだろうか」
「この件で永久貸与してたバンテージが切れて外れちまったみたいでな。物凄く落ち込んでたんで、新しい物…というか、もう少しちゃんとした物を進呈しようかと思ったんだ。問題ないか確認しておきたくてな」
診察の間中ずっと、看護師長に「元気を出して」「これは破れやすい物なのよ」「公爵がなんとかしてくれるから」とあやされていたヴィシャップは、ボロ切れとなってしまったバンテージを大切に抱えて大きな体を丸めていた。そこまであれが気に入られているとは思わなかったから意外だったし、であれば今度は簡単には切れない物を用意してやろうかと考えてふと気づいたのだ。
リオセスリがこれから用意しようとしているのは金属製の、鎖を模した腕輪だ。布製のバンテージよりも遥かに長くヴィシャップの元に残るだろう。そういうものを与えることは龍種のなんらかの理には触れないだろうかと。
リオセスリの計画を聞いたヌヴィレットは息をつくように笑った。
「君はまたそうやって、容易く龍を喜ばせる」
妬いてしまうと言ったのに。
「あー、再検討した方がいいかい?」
仕方のない、とでも言うようなそれに小首を傾げると、暁の瞳がゆっくりと瞬く。
「ふむ…これがなければ、止めていたかもしれない」
白魚の指が、その薬指を飾る輪に触れる。
龍種にとって形あるものを贈り贈られることは特別なことで。
長く形を残すものほどその意味も重い。
常に身につけられるものとなればその価値は計り知れないだろう――愛おしげに指輪を撫でながらそう説明されて、図らずも彼の、自分の贈った指輪への思い入れをはっきりと認識させられることになった。気に入ってくれたようで一安心だとは思っていたがこれほどとは思わなかったというのが正直なところだ。
「…しかし、君を護ってくれた此度のあの子の働きは、君が贈り物をするに足るものだ。あの子はつがいを定める齢ではないし、君が私のつがいとわかって懐いているようであるし…『褒賞』としてであれば、認めよう」
もにょもにょと、常の彼からすればだいぶん歯切れ悪く、けれど最終的にはリオセスリの意を汲んでくれようとするヌヴィレットの左手をそっと掬う。
「その寛容に感謝するよ」
「……感謝する相手が違うのでは?」
「おっと、俺としたことが」
指輪へ唇を落として告げた礼に返ったのは予想外にもどこか拗ねたようなそんな言葉で、脳内で踊る『仕事中』の文字列を今だけ見なかったことにしてリオセスリは机を回り込むのだった。
つがい兼龍王様からきちんとお許しを頂いたその日から数日ほど経った穏やかな晴れの日、リオセスリはいつもの場所にやってきていた。今日は「あの子と会うのなら礼を言いたいから同席したい」と望んだヌヴィレットも一緒だ。
「改めてになるが、この間はありがとうな。あんたのおかげでメロピデ要塞は甚大な被害を免れたし、俺も怪我せずに済んだよ」
「私からも君に感謝を。よく私のつがいを護ってくれた」
激しく揺れた尾が風を切る音が響く。うるる、という鳴き声とガラス玉のように煌めいている丸くなった瞳に、通訳がなくても喜んでいるのだとわかった。
「これが約束の品だ。専門家の助言ももらってできる限りあんたの普段の生活に影響が出ないようにしたつもりなんだが、試着してもらえるかい?」
ケースの中に収まっていた腕輪を見て瞬いたヴィシャップがこくりとうなずく。興味津々な二対の視線を浴びながら、リオセスリは新しい『友情の証』をその左腕に留めてやった。
「どうだろう。重すぎたり触れて痛いところとかはないかい?」
じっ、と銀色の鎖を見つめているヴィシャップに問いかけると、彼はふすんと鼻を鳴らした。どうやら問題なさそうだ。貰ってくれと続けると、先のように勢いよく尾を振ったヴィシャップは何かに気づいたように動きを止め、困ったように低く喉を鳴らしてちらりとヌヴィレットを見た。
「私のつがいから、君への信頼の証だ。大切にしなさい」
無言のお伺いを立てられたヌヴィレットがふわりと笑み、よく似合っている、とその鼻先を撫でてやっている、リオセスリにとっては癒やしの光景を堪能してから口を開く。―― 一つ約束して欲しいことがある。
よく似た四つの瞳が不思議そうな色を浮かべて見つめてくるのに笑ってしまいそうになりながら、左腕をトントンと指で叩いた。
「ここに少しへこんでいるところがあるだろ。爪の先で押してみてくれ」
リオセスリの言葉に素直に従ったヴィシャップの爪がそこを押すと、カシャンと軽い音を立てて鎖が外れ芝生に落ちる。「ギャッ?!」…と、聞いたことのない叫び声を上げて鎖とリオセスリを交互に見るヴィシャップに、リオセスリはくつくつと肩を震わせた。
「大丈夫だ、壊れたわけじゃない。そういう造りにしてあるんだ」
それが異様に熱くなったり冷たくなったりした時は今みたいに外すこと。それが約束して欲しいことだと話すと、ヴィシャップは悲しげに肩を落とす。
「なんとむごい事を…」
「金属は熱伝導がいいんだ。これが原因であんたが大怪我をするかもしれない。俺が贈ったものであんたの腕が駄目になるなんてことがあったら俺は一生後悔する。もし約束できないならこれはやれない。俺が持ち帰る」
何故かヌヴィレットまで自身の薬指を握りしめて胸元に抱き込んでいるのにすっかり悪者だなぁ、なんて浮かびそうになった苦笑は心中だけにとどめてきっぱりと告げた。ヌヴィレットが大切にしているものは自分にとっても大切なものだ。それが自分のせいで損なわれることになる未来など考えるだに恐ろしい。ひととき彼らを悲しませることになるとしても、見えているリスクの芽は絶対に摘んでおかなければならないので。
「外すようなことがあったらまた会いに来てくれ。付けてやるから」
な?と。鼻先を撫でて首を傾げると、ヴィシャップは文字に表すのが難しい非常に複雑な鳴き声を聞かせてくれる。
「君との約束は違えないが、そうならないように普段から気をつける、外したくないから、だそうだ」
君の気持ちは察するに余りある、と神妙にうなずきながらヌヴィレットが翻訳してくれた言質によしと笑って、リオセスリは改めてヴィシャップの腕を鎖で飾ってやるのだった。
左腕にアクセサリーつけたアビサルヴィシャップが日向ぼっこしてたんだよね、と、要塞に顔を出した少年が見た『珍しい光景』を語ってくれるのに、「友龍なんだ」とリオセスリが答えるのは約一ヶ月後のことだ。
「ところで、あの日なんであそこにいたんだい?」
「…『王配様の鉄の巣を見てみたかった。かっこよかった』だそうだ」
「そうかぁ。まあ、王様のつがいに相応しい住まいと思ってくれたようで何よりだ」
「『王様と住む巣も鉄で出来てるの』…いや、これから作るのだが石と木になる予定だ。フォンテーヌの一般的な家屋は鉄では出来ていないから」
「一緒に作ってくれる気があるのかい」
「あ、いや、その、…き、君にもその気があるのなら」
「よし、今度計画立てような」
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