傍らにいつもいるひとを呼んで、けれども鳴き声も身じろぎする音もない静寂が返る。どこだと辺りを見回して、確かに眠る前にいた地面には嘴で引っ掻いて書いただろう文字が書かれている。
わたしがわたしでなくなるから、もういっしょにいられない。
きみにかなしいことをさせたくないから、さいごはひとりでいい。わたしをさがさないで。
ずっとそばにいてくれてありがとう。おもいだせなくて、やくにたてなくてすまない。さようなら。
内容を理解した瞬間にウルピアヌスは洞窟の床を蹴って海に飛び込んだ。一人で終わらせるつもりなのか。そんなことを許した覚えはない。まだ、きっとなにか手段が。
海底火山の近く、熱水に焼かれて流れてきた体がそこにあった。ウルピアヌスに手を下させまいとした人は焼かれて一人で自死しようとしたのだろう。けれどもシーボーンの再生能力がすぐには死なせてくれなかったのだと。
「……ドクター」
焼かれた苦しみに痙攣する身体を抱き寄せた。その姿が痛ましくてどうにか治せたらと思うのに、一目見ては手遅れだとわかる自身の経験と知識が厭わしい。
「ah…a……ウル……ピアヌス。どう、して。さがさ、ないでと」
せめて最後は苦痛を短くと錨に手をかけるウルピアヌスを見て駄目だと首を横に振る。
「きみ、にかなしい、ことはさせたく、ない。わたしを、おいていって」
もうわたしは、きみのやくにたつような、ことはできない、から。
「―――ふざけるな。お前は俺が利害だけで傍にいた訳ではないことを知っているだろう」
シーボーンになってなお傍にいたのは、自らの役目だというのにドクターが変異してすぐに手を下せなかったのは、そんなものたった一つの理由しかないだろうに。愛しているのだと抱きしめた腕の中で体が変わってももただ一つ変わらなかった優しい色の瞳から涙が溢れて海に溶けるのをウルピアヌスは見た。
―――ああ、ぜんぶわたしのせいだとしても。あなたが、わたしのいとしいひとが、おだやかにわらえるようにできたらよかったな。
抱きしめる腕に小さく擦り寄ってごめんなさいと囁いてそれきり。
痛いのも寒いのも良くないと言っていたのはお前だろうに、なぜその当人が一番痛くて寒い場所にいるのか。苦痛と後悔のただ中で静かに眠る人をウルピアヌスは抱き上げる。せめて体だけでもあたたかな陸に戻してやりたいというのに、さらさらと端からくずれてしまう。まるでここにいるのがお似合いだというように。
「っドクター、こんな場所にお前を置いていけというのか」
海雪になる体を衣服で抱き止めて、けれどもこぼれ落ちるように愛しい人は形を失っていく。こんな終わり方を、別れ方をしたいわけではなくて。俺とてお前が穏やかに笑っていてくれればそれで。体に変異があってから申し訳なそうにしか笑わなくなり、変異が喉に進んでからはうまく話せないからと優しい声はほとんど聞けず。体が完璧に変わってしまった後は何かあってはいけないからと、体に触れないよう少し離れた場所にいるようになってしまったお前をどうにか救ってやれたら。
陸に持ち帰れた部分は本当に僅かに過ぎなかった。頭と首の少し先ばかりで、それから下はどんなに丁寧に泳いでも崩れてしまって形をとどめることは出来なくて。変異した時点でかつての穏やかな触れ合いをした形は失われていたが、それでもまだドクターの体は残っていたのに。傷痕を労って触れた手も、隣を歩いた足も形は変われどそこに有り続けて、寄り添っていてくれていたことを知っている。けれど、それももう。
「ドクター」
名前を呼べば返ってきた穏やかに名前を呼ぶ声も、控えめな鳴き声ももう聞こえない。小さく冷たくなってしまった人を抱きしめて、けれどもそれよりしてやれることがなかった。人として生かして死なせてやることも、いっそシーボーンとなって互いに寄り添って生きることもできなくて。
―――ふふ、致し方ないとはいえど君はいつも堅苦しい表情ばかりだね。たまには笑ってくれ、ウルピアヌス。
なぜかいまさらいつかの執務室で聞いたドクターの言葉を思い出す。笑えなど、お前が傍にいないのに。一人になるのはごめんだと言っただろう。
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