いを
2025-02-19 23:05:58
1955文字
Public モイラと鼎と糸車
 

親愛なる劣情

春木。
ご依頼文です。
ありがとうございました!

 彼は果しておれは望まれて産まれてきたのか、働き手として生産された生物なのか分からないと言った。もしも働き手としてしか望まれていなかったら、おれは家畜と同じなのだろうかと思い、悩んでいた。その友人の様子を、男は「君は俺の大切な友人だ」と慰めるしかできなかった。

 大切な友人は、家畜同然の仕打ちを受けてなお私の前で笑っていました。貼りつけられた微笑ではなく、人間本来の微笑とでも言えるような、そんな美しい彫刻のような、完璧とも言える微笑でした。ある日、彼は私の目の前からいなくなりました。今年初めての薔薇が咲いた、麗らかな春の日でした。彼は私がデパートメントの屋上で共に甘い食べものを食べていたとき、何時ものように笑いました。白く、彫刻的な微笑は今も心に深く深く刻み込まれ、私の心の中で咲き続けております。
「今度は花になって君の前に現れるよ」
 彼はそう言って、デパートメントから飛び降りました。真っ赤な薔薇の花片のように血潮が溢れ、頭蓋や腕、足が砕けていました。腕から飛び出た白いものはきっと、骨だったのだと思います。砕けた柔らかい骨が垣間見えるその死体は、まるで死んだ珊瑚のようでした。私はこっそりとその骨を胸ポケットに入れました。今も彼の死体を思い出すとからだがぞくぞくと不規則な震えが走ります。私の彼は死にました。そして今も胸ポケットに白い小さな骨を忍ばせています。その骨をくちびるに寄せるたび、彼の声が聞こえて来るように思いました。私は彼の声を聞きたいがために、その骨によくはなしかけておりました。応えてくれる気がして。そんな私を気味悪がる同郷の男がおりましたが、その男の声など私は聞きたくありませんでした。ただよくよく聞いているふりをしておりました。勿論、耳になど残りません。ことばも、残りません。
「君は馬鹿になった」
 男はそう言うと、私の前から姿を消しました。それでよいと思いました。私の前にはいずれ花に生まれ変わった君が現れるから、じっと夏を越え、(秋薔薇には見向きもせず)、まるで冬眠する動物のように身を縮こめて、越冬いたしました。
 春。
 春です。春薔薇の季節になり、私は一年前彼と見た薔薇を見に行きました。真っ赤な薔薇は咲き乱れ、香しい芳香が漂っておりました。この一輪一輪、まるで彼の命がかえってきたようで私は胸ポケットの骨を取り出し、そっと囁きました。
「かえってきたよ。君」
 むなしいわけがないこの沈黙。むなしくなどないのです。私は愛おしいと思っているのですから。彼はここにいる。私の胸ポケットに。墓の中になどいないのです。彼を十分に愛したのはこの世界で私しかいない。彼の命は私の心にある。共に季節を巡った花はここに息づいている。私は彼の薔薇を一本、摘みました。棘が皮膚にねじ込まれ、血がスウッと手首を撫でました。彼の体温を思い出しました。生暖かくぬるりとした確かな液体は、私をそちら側に誘っているかのように手招きをしています。
 顔をあげると薔薇畑のむこうにぼんやりと、彼の姿がありました。私は薔薇を掻き分けて、手を伸ばしました。この目ではっきりと見たい。
 君は殊に寂しがりであったから、私も行こう。私がいれば君も寂しくはないだろう。生から転落する私の腕の中に、彼の姿がありました。彼は薔薇のように頬を赤く染めて、私に微笑みかけました。あの微笑みでした。あの彫刻のような微笑みでした。私は嬉しくなって、強く強く彼を抱きしめました。
「これで寂しくはないね」

 花に生まれ変わった君はやはりずっとこの胸の中にいて、私と一緒にもう一度死んでくれたのだろうと思うと、花の命の潔さに感銘を受ける。
 私は君と死ぬために生きてきたのだろうと心から思う。


■■

 ぽたりと顎から汗が流れおちる。みんみん蝉が部屋の近くの大木にとまって喚いている。
「できたよ」
 冷茶を文机の上に置いた白い腕へぶっきらぼうに伝えると、原稿用紙を押しつけた。そして自分は途端に汗をかきはじめたコップを握りしめて、よく冷えた茶を飲み干した。
「春木さんは花に生まれ変わりたいという望みがあるんですか?」
「まさか」
 麻の着物の袷に手を突っ込んで、皮膚を掻いた。
「花に生まれ変わりなんぞしたら、なにも知らないうちに死ぬだろ」
「なにも」
 恭介の問いのような言葉に、了は曖昧に頷いた。
「知らないうちに死んでいくことは怖いことだと俺は思う」
 人間は知識欲が多かれ少なかれ、ある。花にはない。知ることが人間の全てとは言わないが、儚い命と哀れまれるのはまっぴらだ。
「世間に……あんたに、ちょっとでも爪痕を残すまで死ねない」
 彼はなにも言わなかった。ただ、目を細めて原稿を見詰めていた。