千代里
2025-02-19 08:07:50
10962文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その42


「ノエせんせー。べんきょー終わったんだから、今度は雪だるま一緒につくろうよー」
「ねえねえ、せんせーは畑のお手伝いしないの?」
「僕は、ミラベルさんと話があるので、皆さんは気にせずにお庭に行ってきてください」
「「「はーい」」」
 無事に読み聞かせの時間を終えたノエは、残っていた子どもたちを外に送り出して、漸く一息つく時間を手に入れた。
 子ども特有の賑やかな声の群れが遠のき、すうっと入り込んだ静寂が体を浸していく。一抹の寂しさはあるものの、この静かな時間のありがたさも手放し難い。
 子供たちが皆いなくなったのを確かめてから、ノエはうんと大きく伸びをした。
「ノエ、お疲れ様。ノエのお話、聞きやすかったし面白かったから、私も聞き入っちゃった」
「ありがとうございます、ゲルダさん……
 賞賛の言葉をもらったものの、返事をするノエの声は枯れ果てていた。普段から無口なわけではないが、今日はこの短期間の間にいつもの何倍も話したような気がする。一人二人ならいざ知らず、腕白な子供たち十数名の相手は、ノエにとっては竜を蹴散らすより難解な時間だった。
 伸びをしたついでに、机に突っ伏して、暫し誰にも声をかけられない時間に浸る。
 すると、トンと軽い音と共に机に振動が走った。姿勢を直すと、机に置かれたカップが視界に入る。
「さっき聞いていたんだけど、オデットはキッチンの掃除をしてたんだって。これ、綺麗にした暖炉で沸かしたお湯で用意したお茶だってさ」
 読み聞かせが終わった後、日課の畑仕事と庭遊びに向かう子供たちに紛れて、ゲルダの姿は見えなくなっていた。一緒に遊びに行ったのかと思いきや、オデットの様子を見に行っていたようだ。
 ありがたくカップを受け取り、中の液体を飲み干す。少し薄味のイシュガルドティーは、この国に来てからは何度も味わってきた馴染み深いものだ。
「それにしても、ミラベルさんはどこに行ったのでしょう。書類の片付けの話をしていましたから、私室でしょうか」
「キッチンにはいなかったよ。二階にいるのかな?」
 それなら、先にオデットがいるキッチンに行こうとノエは草臥れた体を引き起こす。
 子供たちが散った後の居間は、先ほどの大騒ぎが嘘のように静かだ。暖炉の火の始末をしてから、ノエは廊下へと出た。
 廊下にある窓からは、先ほどの喧騒の主である子供たちが、今度はいそいそと庭仕事に勤しんでいるのが見てとれた。
「あそこ、見て。ミラベルじゃない大人の人がいる」
「あの人は……たしか、前にも手伝いに来てた人ですね。ミラベルさんが頼んだのでしょうか」
 一人で孤児院の全てを切り盛りするのは、どう見ても荷が勝ちすぎている。
 そもそも、ミラベルはこの施設の管理者でもなんでもない。ただ様子を見に来ただけの立場であり、継続的に安定した運営をするために頭を悩ませるのは、本来はミラベルではなく、この町の住人か、孤児院の管理者であるべきだ。
(この町では教会にいる司祭が、全く孤児院に顔を見せないって話だったけれど、ハンフリーさんは子供が苦手なのだろうか)
 だとしても、援助の手くらいは差し出してくれてもよいものだが。不満とも疑問とも言えない考えを頭に並べながら、ノエはキッチンに続く扉を開く。
「オデット、掃除の様子はどうだい」
「お帰りなさい、兄さん。先生はもう終わったんですか?」
 扉から覗いた先、キッチンストーブに火が灯った暖かい厨房がノエを迎えてくれた。熱が行き交っているおかげで、廊下とキッチンの間は冬と春くらいの温度差があるようにすら感じられる。
 部屋の隅では、五つくらいの年頃の少女が椅子に腰をおろし、オデットが淹れたお茶に息を吹きかけて冷ましていた。
「その子は?」
「ベスちゃんです。お掃除のあいだ、シュガーグレイヴや孤児院のお話をいっぱいしてくれたんですよ」
 ねー、と笑い合う二人の和やかな姿に、ノエも相好を崩す。ゲルダも団欒の輪に混ざり、少女たちは取り留めもないお喋りに興じ始めた。
 彼女たちの様子をいつまでも見守っていたいが、あいにくノエはこの孤児院の住人ではない。適当なところで帰る必要がある以上、真っ先に気にするべきは今日の主たる目的についてだ。
「オデット、少しいいかな。ミラベルさんへの用事は、ちゃんと済ませたのかい」
「はい。きちんと、お話はできました。……まだ、ちょっと聞きたいこともあるんですけれど、お兄ちゃ……ミラベルさんも忙しいみたいで、多分今は少し外に出ているんじゃないでしょうか」
「出かけている? 僕たちがいるから、その隙に外の用事を済ませに行ったのかな」
「多分そうだと思います。お手伝いに来れないか、今まで施設に来てくれた人の家を訪問するって言っていましたから」
 オデットがキッチンの片付けをしている最中のことだ。上着を羽織った外出用の装いで姿を見せたミラベルは、少し出かけてくると言い置いて外出したのだそうだ。
 ここ数日、町の不穏な空気に包まれるようにして、外出を控える人が続出した。その中には、孤児院の様子を今まで見に来てくれた大人たちも含まれていた。
 彼らが家に閉じこもりたい気持ちは理解できる。けれども、その結果として具体的な管理者のいない孤児院の子供たちは放ったらかしになってしまっている。ミラベルがいるから大丈夫という考え方があるからこそかもしれないが、彼がこの孤児院にずっといるわけではないことを思えば、彼らの楽観的なものの見方はやや危険である。
「ミラベルさんがいるなら大丈夫と思うようになってしまうと、いざ彼がいなくなった時に困ってしまいますからね」
「ミラベル、ずっとここにいることはできないの?」
「お兄ちゃんのお仕事は、各地の孤児院の様子を見て回ることだって聞いてます。ですから、ずっとここに留まるということはできないんですよ、ゲルダ」
 オデットの説明を聞いて、ゲルダは「ふーん?」と、分かったのか分からなかったのか曖昧な声を漏らしていた。
 ともあれ、ミラベルが今ここにいないのなら、彼が戻らないうちに施設を後にするわけにもいかない。しばらく帰宅を待とうと、腰を落ち着けかけた時だった。
 ――コンコンコン。
 扉をノックする音が響く。この少し重たい音は、玄関扉をノックしたものだろう。
「あっ、きっとミラが帰ってきたんだっ」
 キッチンにいた幼子のベスが立ち上がり、パタパタと足音を立てて玄関へと向かう。
「待ってください、ベスちゃん。急に走ると危ないですよっ!」
 すぐさまその後をオデットが追いかけ、彼女に追従する形でゲルダも部屋を出る。
 少女たちが出迎えに走る姿を追いかけながらも、ノエは違和感を覚えていた。
(ミラベルさんが孤児院に帰ってきたのだとしても、わざわざ扉をノックをするだろうか)
 彼は孤児院に正式に属している人間ではないが、だからといって我が家同然に滞在している建物に入るのに、わざわざノックするとも思えない。
 訝しげに思いつつも、廊下へと顔を出したノエは、予想通りミラベルではない人物の姿を目にして瞳を見開く。
「おや、ハンフリー司祭。こんなところで、どうしたのですか?」
 ベスが開いたと思しき扉の向こう、そこには教会の司祭であるハンフリーが立っていた。 
 彼はまず扉を開けたベスに視線を落とし、続けてそばに立つオデットの姿を見て、瞬きを素早く繰り返す。
 オデットと視線を交わすハンフリーを見て、ノエは「まずい」と内心呟きつつ、大股で前に出た。
(ハンフリーさんは司祭の服を着ている。今のオデットの前に立たせてはいけない)
 オデットは、出会った頃から大人の男性を苦手としていた。彼女の反応は徐々に控えめになっていったが、それでもいまだに司祭服を着た男性は苦手としている。
 彼女の怯えの理由は、ヤルマルから話を聞いた今となっては、よりはっきりと分かる。彼女は、自分を弄んだ者に対して、無意識のうちに恐怖心を抱いていたのだ。
 予想通り、オデットは青い顔でハンフリーを見つめている。まるで蛇に睨まれた蛙のように、その場から一歩も動けないようだ。
 彼女の表情に不可解なものを覚えたからか、ハンフリーもオデットと視線を交わし続けている。
「ハンフリー司祭、こんにちは。孤児院にご用ですか?」
 ノエは片手でそれとなくオデットを庇いつつ、半身を向けてハンフリーからの視線を遮るように立ってみせた。
 軽く指先が触れたオデットの肩が、先ほどまで暖かな部屋にいたと思えないほど冷え切っている。そばにいるゲルダが「オデット?」と呼びかける声も、今の彼女には聞こえていないようだ。
 ノエの呼びかけに、ハンフリーは先ほどとは違う驚きで瞬きを繰り返す。
「ノエさんこそ、どうしてこちらに?」
「ミラベル司祭とは個人的に親しくさせてもらっているんです。その縁で、今日は孤児院のお手伝いに来ていたのです。近頃は人手が足りないようでしたので、それなら旅人の僕らでも何かできたらと」
 簡単に事情を説明すると、ハンフリーは素早く周囲へと視線をやる。誰かを探すような素振りに、ノエは「ミラベル司祭をお探しですか?」と尋ねた。
「ええ、まあ……そうです。もし、いるのなら、挨拶をと思いましてね。孤児院に通っていた子供が、その……いなくなっていると話していたでしょう。お恥ずかしながら、私はノエさんに教えてもらうまで、そのことを知らなかった。遅ればせながら、同じ司祭として相談ぐらいは乗ることができたらと」
「残念ながら、ミラベル司祭は現在外出中です。ですが、ハンフリー司祭が孤児院の手伝いをしてくださるのなら、きっと歓迎してくださると思いますよ」
 何せ孤児院は今も昔も人手不足だ。新たな手伝いの手はいくらあっても足りることはない。
 玄関先で立ち話をしていたからか、庭で遊んでいた子供たちの一部がハンフリーへと遠慮なく視線を向ける。その中の一人がそばに駆け寄り、
「ねえ、ノエせんせー。このおじさん、誰?」
「コリン、汚れた手で人の服に触れようとしてはいけませんよ」
 少年が雪と土で濡れて汚れた手袋でローブに触れようとした瞬間、ハンフリーは大袈裟なくらいに身を引いた。
 ノエに叱責されて、コリンは膨れっ面になり、再び庭にいる仲間の元へと走っていく。
「すみません。後で注意をしておきますので」
……い、いえ。私もタイミングが悪い時に来てしまったようですね。ミラベル司祭がおられる時に、また出直すとしましょう――
「私に、何の用事でしょうか」
 踵を返しかけたハンフリーは、中途半端に振り返った姿勢で固まった。彼の視線の先にいたのは、買い物用と思しき布袋を片手に持ったミラベルだった。長く外にいたからか、少し鼻の先が赤くなっている。しかし、彼の紫水晶のような瞳は、いつも以上に強い警戒の光で炯々と輝いているようであった。
「ミラベルさん、戻ってきたんですね。こちらは教会の司祭のハンフリーさんです。孤児院の様子が気になって訪問されたそうです」
「ええ。名前は存じております。……教会の司祭でありながら、孤児院に今まで顔の一つも見せなかった方が、一体何の用でしょうか」
 ミラベルの言葉には、明らかに棘があった。ノエたちよりも長く町に関わってきた人間として、ミラベルはハンフリーの不義理な態度に不満を抱いていたようだ。
(だけど……そうだとしても、随分と……
 理由はあるのかもしれないが、ただ毛嫌いしているだけの相手に、ミラベルはここまで警戒するだろうか。
 振り返ったハンフリーは、ノエの方から顔色は窺えない。だが、背中を見ているだけであっても、彼が何やら慌てているように見えた。ミラベルに会いに来たと話していた割には、まるで彼に会いたくなかったようにも見える。
「わ、私は、何か相談に乗ることができたらと思って……
「特段、あなたにお話することはございません。見たところ、子供の騒々しさにも慣れていないご様子。無理をして足を向けていただくよりは、寄付の一つでも集めてきてくださる方がよほど助かります」
 淡々としたミラベルの声音には、抑揚がまるでない。感情を押さえ込んだような物言いは、警戒を通り越して敵意すら感じさせる。
 ハンフリーはまだ何か言いたげにしていたが、最終的にミラベルの言葉に従うと決めたらしい。ぎこちない一礼をした後、ノエへと視線をやり、
「突然の訪問、失礼しました。また機会がありましたら、教会にもお越しください」
「ええ。その時は、どうぞよろしくお願いします」
 当たり障りのないやり取りを交わしてから、ハンフリーは玄関口から孤児院に繋がる門から出て、通りの向こうへと見えなくなっていた。
 その背中が見えなくなるまで、ミラベルは獲物を見据えた獣のように、じっと視線を送っていた。
「ミラベルさん、ハンフリー司祭の申し出を受けなくてもよかったのですか。人手が足りないのなら、司祭様の手を借りてもよいのではと思ったのですが」
 そしてできるならば、暴動一歩手前の町民からの不満を一身に浴びているハンフリーを保護してもらえれば、とノエは考えていたところだった。
 しかし、ミラベルは首を振ることで否定の意を示す。
「見たところ、彼は子供の世話に長けているようには見えませんでした。それに……
 もの言いたげに、教会のある方角にちらりと視線をやるミラベル。何か他にも理由はありそうだったが、彼はそれ以上ハンフリーについては言及しなかった。
……兄さん。あの人……もう、いなくなりましたか」
「司祭様は帰ったよ。オデット、大丈夫かい」
 大丈夫なわけがないと分かっていたが、ノエは敢えてその言葉を口にした。
 腫れ物にさわるように扱われるよりも、オデットなら平時と同等の心配をされる方を望むだろうと思ってのことだ。
 果たして、オデットはノエの服をぎゅっと掴んではいるものの、ゆっくりと顎先を上下に動かした。
……まだ、少し、震えが残っているんですが。わたしは……だいじょうぶ、です」
「寒気が取れるまでは、厨房で温まってくるといいよ。ベスさん、オデットお姉さんをお願いしてもいいですか」
「うんっ」
 オデットがぎゅっと手を繋いでいた幼い少女は、頼もしく頷き、オデットを厨房へと連れていく。その後ろを、オデットの影法師のように寄り添っていたゲルダが続こうとして、ふと足を止めた。
 くるりと振り返った先、ゲルダの赤い瞳がゆらりと光って見えた気がした。もっとも、それは玄関先の照明によるものだったかもしれないが。
「ねえ、ノエ。さっきのおじさんのことだけど」
「ハンフリー司祭のことですか」
「うん。あのおじさん、オデットのことを見て、とても驚いてたよ」
 ゲルダは、人の表情を読むのに長けている。どうやら、ノエよりも先に邂逅した彼女だけが気がつけるような表情を、ハンフリーは表に見せていたらしい。
「驚いていた……? ハンフリーさんが、ですか」
「何だか、知り合いに思いがけない所で出会ってびっくりしたって感じだった。私が、異端者の人たちと一緒に行動してたとき、思いがけない所で異端者の仲間が家族とか友達と会う場面が何度かあったんだよね。あのとき、皆揃って同じような顔をしてたの。ハンフリーって人の顔は、そのときの皆と同じだったよ」
 町に到着してから、オデットは一度も教会を訪れていない。もしや、遠目にハンフリーがオデットを目撃していて、孤児院にいるはずのない人物がなぜいるのかを疑問に思ったのだろうか。
「それとも、復興事業のときに顔を合わせたことがあるのだろうか……
 思わず、考えが口をついて飛び出す。
 だとしたら、彼は――どっち側だったのだろうか。
 抵抗できない弱い立場の者を、自分の嗜好品として利用し、悪事を糾弾されたものなのか。
(温厚そうな方だったし、何も知らずに事業に関わっていた人だったのだろうか)
 きっとそうだろうと思いたいが、もしそうでなかったときのことも頭の片隅に残しておかねばならない。とはいえ、人を疑うのは気持ちのいいことではない。
 ノエが苦いものを噛んだような顔になっているのを余所に、ゲルダは話を続ける。
「それに、ベスのこともちょっと見てたんだけど、ミラベルが見ているときみたいな感じじゃなかったよ。あの人、少し怖い目をしてた」
「だとすると、やはりハンフリー司祭は子供を苦手としている方なのでしょうね」
「私も、同じように感じました。だから、たとえ手伝いを申し出たとしても断るつもりでした。大人であっても、子供の挙動の全てを許せない方もいます。そのような方に無理強いすれば、双方にとって不幸な結果にしかなりません」
 思考している間にも、ミラベルは玄関へと入り、扉を閉めた。寒気を妨げるために分厚い扉が閉まると、外気からの冷気が遮断されて、ほっとする温もりが全身を包んでくれる。
「すみません、ミラベルさん。僕が勝手な真似をしてしまったようで」
「いいえ。ノエさんが真剣に孤児院の状況を憂えてくれていることは、十分に伝わっていますから。オデットのことも……彼女から話は聞きました」
 ミラベルはノエに薄く微笑を浮かべ、頷いてみせる。そこに一抹の寂しさが混ざって見えたのは、オデットがノエと共に行く未来を語ったからだろうか。
「あなたのような方がオデットを助けてくれて、本当によかった。以前も言いましたが、今、私は心の底からそう思っています」
「ノエは、すごく優しい人だよ。オデットと話していると、いつもノエのことばかり話してるもの」
「えっ、そうなんですか」
 思いがけなく、ノエの知らないオデットの様子がゲルダより語られる。もしここにオデット本人がいたら、ゲルダの口はすぐさま塞がれていたことだろう。
「そうだよ。オデットのお喋りは、ノエで半分以上が埋まってるぐらいだもの。あ、そうだ。私はオデットの様子を見てくるね」
 友人を追いかけている途中だったことを思い出したのか、ゲルダは軽やかにステップを踏んで厨房へと消えていった。
 残ったのは、ノエとミラベルだけだ。外からは子供の声が聞こえるものの、今ここにはオデットの兄である者の二人しか残っていない。
 片付けを進めるミラベルの様子を見守りながら、ふとノエは思う。
(これは、良い機会なんじゃないだろうか)
 ミラベルは、ノエに何かを伝えようとして口を噤んだことがあった。あの時はルーシャンが来てしまったからだったが、今なら再び二人きりで話ができる。
……ミラベルさん。あなたが再三立ち去るように告げた意味を理解しようとせず、無理に留まるような選択をして申し訳ありませんでした。……今でも、僕は彼女が思い出した記憶を知って、それが『よかった』と言っていいものかと思っています」
 だが、まずは、とノエはオデットが取り戻した記憶について切り出す。
 その話題を耳にして、ミラベルの柳眉が寄せられる。彼の様子から、ミラベルもノエと同じ意見を持っているのだろうと読み取れた。
「忘れていられるなら、そのままでいいと。俺も、そう思っていた」
 ミラベルの丁寧な口調が剥がれて、剥き出しの彼の言葉が音となる。
「雪崩の時に別れ別れになって、その後……彼女が生きている確率は低いと思っていたんだ。だから、自棄になって、あるかもしれない可能性に縋るように生きていた」
 幼い娘が雪原を彷徨って生きていられる保証など、限りなくゼロに近い。オデットが占星台にたどり着いて保護されたのは、奇跡的な幸運だった。
「だから、あの子が生きていると分かったときは、本当に嬉しかった。これまでの記憶を失っているのなら、むしろあの子にとっては好都合のはずだ。違う名前を得て、新しい人生を歩んでいるのなら、俺のことなど忘れていてもらっても構わない――そう思っていたつもりだった」
 外套を脱ぎながら、彼は大きく息を吐き出した。
 天井に何かあるのを見つけたかのように、彼は顔を上げ、もう一度息を吐く。天を見上げ続けているのは――目の淵に溜まったものが流れ落ちるのを防ぐためか。
 数度の深呼吸を経て、彼はノエへと向き直る。
「でも、どうしてだろうな。あの子に……オフェリーに『お兄ちゃん』と呼ばれたとき、懐かしんでしまったんだよ。もう忘れてくれていい、なんて思っていたくせに」
 口にした言葉は、まだわずかに湿っていたが、ノエはそれには気づかないふりをする。
「僕がオデットを保護したことを、あなたは幸運と認めてくれた。僕は……あなたのようにかつてオデットのそばにいた方にそう言ってもらえたことを、誇らしく思います」
「あんたが思うほど、俺は大層な人間じゃない。俺はただ、偶然オフェリーに出会っただけだ。あの子の人生の半分にも関わっちゃいない。それどころか……
 そこで、再びミラベルは口ごもる。
 何か言いたげに揺れる視線と、喉の奥に押し込まれた言葉。それは、以前ノエと一対一で話したときも見せた躊躇と同じものだった。
 今ならば、あの時の話の続きができるかもしれない。ノエは、一歩前へと踏み出す。
「僕は、この先もイシュガルドに留まるつもりです。オデットが望むなら、彼女と共に行動し、彼女を守り通すつもりでいます。……ですが、ミラベルさんは、オデットの記憶のこととは別の理由で、僕たちの決断を受け入れ難いと感じているようです」
 違いますか、と尋ねる。ミラベルは、肯定も否定もせずに佇んでいる。
「ミラベルさん、教えてください。あなたは、オデットのことで他に何か知っていることがあるのですか。オデットを僕が保護したときに、彼女が負傷していた原因を、あなたはご存知なのではありませんか?」
――
 ひゅっと、短く息が抜ける音がした。ミラベルが鋭く息を呑んだからだと気がついたのは、数秒遅れてのことだった。
 ノエの眼前に立つミラベルの顔が曇る。そこには、これまで彼が見せてきた頑なな拒絶とも、同じ少女の兄としての親愛とも、あるいは子供たちを害する者たちへの怒りとも違う、押し込められた苦悩が浮かび上がりつつあった。
「一人では手に余ることでも、二人いれば何かが変わることもあります。月並みな申し出となってしまいますが、もしよかったら、あなたが言い淀んでいることを僕に教えていただけませんか」
…………
 沈黙の末にノエを見つめ返すミラベル。彼の瞳には、追い詰められたものの悲哀はない。誰かに脅されて口止めされている様子もない。
 ただ自分自身に課した使命に従って口を噤んでいるとわかる光が、ノエを見据えていた。
「それとも、言えない理由があるのですか」
 今度は、ミラベルは小さく首肯してくれた。
「知ってしまうことだけでも、僕たちが危険に晒されるような内容なのですか」
 時に、情報は諸刃の剣となる。情報とは、知っているだけでも、そこに意味が生じる代物だ。
 命を奪って口封じを企む者もいれば、何とかして口を割らせようとありとあらゆる手段を使う者もいる。かつて帝国軍の部隊に捕まり、尋問されたという経験は、ノエに情報がもたらす危険性を身をもって刻み込んでいた。
 今回の件もその類かと、ノエはミラベルの言葉の続きを待つ。
……知ったところで、あんたがどうこうなることはないだろう」
「では、それなら」
「でも、知ればあんたは動く。オデットの兄であるノエならば、間違いなくそうするだろう。だけど、それは――……
 そこまで言いかけたとき、前触れもなしに勢いよく扉が開いた。わっと雪崩のように流れ込んできたのは、庭にいたはずの子供たちだ。
「ミラ、帰ってきてたんだ!」
「おかえりー。ねえ、お土産ちょうだい!」
「見て見て、カロットが掘れたの」
「ノエせんせ、まだいる?」
「いたー、ノエせんせ、いたよー!」
「ノエせんせー、お客さんきてるよ」
 てんでばらばらに話す子供たちの言葉の一つに、ノエはぱちくりと瞬きをする。
 ノエがここに来ていることを知っているのは、先ほど訪問したハンフリー司祭と仲間たちだけだ。だとしたら、訪問する客はかなり絞られる。
「もしかして、それって……
「あのね、すっごく大きい兎の耳をした人なの。あと、フード被った変な人が二人と、男の人」
「ミラベルさん、少し失礼します。話については、また別の日にお願いできますか」
 だが、ミラベルは戻ってきた子供たちの相手に忙しく、返事をする余裕はなさそうだった。それとも敢えて無視をしたのかもしれないが、今はその是非について押し問答するつもりはない。
 彼の目に入るように軽く頭だけ下げると、ノエは外へと飛び出す。
 孤児院の門の前に立っていたのは予想通り、任務のために出かけているはずの四人だった。
「ヤルマルさん、それに他の皆も。どうしたのですか。まだこの時間帯なら外で巡回している頃合いかと思ったのですが」
「実は、イレーナに呼び出されちゃったんだよ。『全員が揃っている状態で頼みたいことがあると、隊長に命じられたので、任務を切り上げて戻ってほしい』ってね」
「僕たち全員が……ですか?」
 騎士団が依頼している巡回任務に関してならば、二人もいれば十分のはずだ。なのに、なぜ全員が揃っている必要があるのか。
 怪訝そうにノエが眉を寄せたが、ヤルマルも肩をすくめるばかりだった。
「話が済んでいるのなら、君たちと合流してから詰所に向かおうと思っていてね。それで、首尾はどうだい?」
「こちらの用事はひと段落した頃ですので、構いませんよ」
 ミラベルとの話はまだ終わっていないが、彼はその内容に言及するのを避けようとしている。一朝一夕で口が滑らかになるとは思えない。
 オデットに関わることならできるだけ早く知りたいが、あれだけ言い渋っている相手に詰め寄ったところで、ますます頑なになってしまうだけだろう。ならば、時を置くのもまた一つの策だ。
「それは重畳。じゃあ、オデットとゲルダを呼んできてくれるかい。どうやら、隊長さんはボクたち七名をご指名みたいなんだ」
「ゲルダさんもですか? 彼女は戦う手段をもっていない民間人ですよ」
「けれども、そう言われた以上は断るわけにもいかないだろう。無理難題なら断ればいいだけの話さ。何せこっちは、根無草の傭兵なんでね」
 ヤルマルがルーシャンに視線を送ったのは、彼がここに来るまでにヤルマルにそう言ったからか。実際、彼らの言うとおり、傭兵には依頼を受ける権利と同じように、依頼を断る権利も存在する。割に合わないと思えば、首を横にふればいいだけの話だ。
 ノエは一抹の疑問を抱えながらも、ヤルマルに「すぐに準備をします」と言い置いてから、孤児院の中へと戻っていった。