桐子
2025-02-18 23:07:36
3697文字
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美しい傷21(父水♀)


水木の脳裏に、女の甘やかな悦びの声と、ゲゲ郎の荒い吐息が蘇った。
あの夜の惨めさを思い出し、さっと視線をそらしてしまった。彼女はゲゲ郎の愛人なのだろうか。親しげな様子からして、そうとしか思えない。
「あら、今日はずいぶんとかわいらしい方を連れてらっしゃるのね」
今、気が付いたかのようにわざとらしくそう言って、女は水木に微笑みかけた。「かわいらしい」という称賛に隠された侮蔑に、水木は唇を噛んだ。ゲゲ郎は短く「ああ」とだけ答えたが、女は気にした様子もなく話しかけた。
「ねえ親父さん。私、このあと予定がないのよ。よかったらどうかしら?」
彼女のあからさまな誘いに、さすがの水木もかちんときた。自分が隣にいるにも関わらず、平然とゲゲ郎を誘うなど、どういう神経をしているのだろう。
「悪いが、今夜は先約があるんじゃ」
ゲゲ郎は短くそう答えた。水木はほっと胸をなでおろしたが、女の方は納得しなかったらしい。さらに食い下がってきた。
「じゃあいつなら会ってくださるの?」
「すまん。また連絡する」
ゲゲ郎はそれだけ言うと、水木の手を引いて歩き出した。
……いいのか?」
水木がおずおずと尋ねると、ゲゲ郎は前を向いたまま答えた。
「ああ、構わん」
「でも……
愛人をあんな風に邪険に扱っていいのだろうか。しかしゲゲ郎はそれ以上何も言わなかった。水木も何も言えず、黙って手を引かれるままになっていた。
帰りの車内でも、二人の間の空気は重いままだった。運転してくれている一反木綿が、寿司屋のことをあれこれと聞いてくれたが、二人ともほとんど返事をしないのでそのうちに黙ってしまった。
屋敷につくと、一反木綿は二人を下ろして車庫へ車を片付けに行った。
さっきここを通った時には、明るく高揚していた気持ちは、今は見る影もないほど萎んでいた。
――――あの女(ひと)のことを、ゲゲ郎は愛しているのだろうか。
それはそうだろう。そうでなければ、あんなふうに部屋まで連れ込んで激しく抱くわけがない。奥さんだってきれいだったが、彼女もまた美しい女性だった。大人の女性の色気があって、ゲゲ郎の横に立っても何の違和感もなかった。どうして今、彼の横に立っているのが、色気も女らしさの欠片もない自分なのか、不思議だった。
「何を考えておるんじゃ?」
不意に頭上から声をかけられて、水木は顔を上げた。いつの間にかゲゲ郎が立ち止まってこちらを見下ろしている。水木は、言うべきかどうか一瞬迷ったが、結局は正直にゲゲ郎に尋ねた。
「あの人のことを連れてこなくてよかったのか?」
ゲゲ郎は驚いたように目を瞬いた。なぜそんなことを聞くのかという顔だ。
「愛人なんだろ? 前に部屋に連れてきてたじゃないか……
そう言いながら、水木はハッとした。最近は「寒いから」と二日に一度はゲゲ郎の布団に潜り込んでいる。もしかしてそのせいで、女性を連れこむことができなかったのかもしれない。それなら悪いことをしてしまった。水木はしょんぼりと肩を落とした。
「すまん……
「いや、それは何の『すまん』なんじゃ?」
「その……俺が一緒に寝てるから、彼女を連れ込めなかったんだろう? これからはちゃんと自分の部屋で寝るから、気にしないでくれ」
ゲゲ郎はしばらく黙っていたが、気まずそうに目をそらしながら、ぼそぼそと言った。
「別に、愛人というわけではない。何度か寝たが、それだけじゃ」
それだけのはずがない。彼女の目には、はっきりとゲゲ郎に対する情があった。もしそれに気が付いていないなら大した鈍感だし、気づいていながらあの態度なら、酷い男だと思う。
……それでも、あの人はお前のこと好きみたいだし、いいんじゃないか」
水木がそう言うと、ゲゲ郎はややあって大きなため息をついた。
「それで、お主はどうするんじゃ」
「どうもしない。お前が誰と寝ようが、俺には関係ないしな」
「本当にそう思っておるのか?」
「当たり前だろ」
水木がそう答えると、ゲゲ郎は再びため息をついた。
「わしは、もう見境もなく女を抱くようなことはしないと決めたんじゃ」
「今までは見境がなかったのか」
「そうじゃ。反省しておる。今はよくできた倅と、手のかかる大きな娘で手一杯じゃ」
彼には息子しかいないはずだが、娘というのは誰のことだろうと考えてしまったが、すぐに水木自身のことだと気が付いた。
「俺は娘じゃないぞ」
「似たようなものじゃろう。お主が寝ぼけてわしを『お父さん』と呼んだ回数ときたら、両手の指では足りんからのう」
「なっ……! う、噓だろ?」
「本当じゃ」
そんなに何度も寝ぼけて「お父さん」と呼んでいたなんて。恥ずかしくていたたまれなかった。しかし、ゲゲ郎に抱きしめられていると、まるで自分が小さな子供の頃に戻ったように安心するのは事実だった。




風呂に入っている間、水木はずっと考えていた。覚悟を決めるまでにのぼせてしまいそうになったが、なんとか気を奮い立たせて風呂場を後にした。
「おお、遅かったのう」
寝室に行くと、ゲゲ郎は布団の中に入って、本を読んでいた。何やら小難しそうな歴史の本だ。隣の部屋は書庫になっていて、経済や会社経営のノウハウ本から、歴史、時代小説にミステリと、実に多彩なジャンルの本が並んでいる。博識なのは読書家だからなのだ。
水木は布団のすぐ横に正座した。そして、思い切って口を開いた。
「なあ」
「ん?」
ゲゲ郎は本から顔を上げずに返事をした。
「俺じゃだめだろうか」
ゲゲ郎の目が大きく見開かれた。それから本を枕元に置いて起き上がり、水木を正面から見た。その視線をまともに受け止めることができずに、水木は目を伏せた。顔が燃えるように熱い。きっと今自分は耳まで赤くなっているはずだ。
この一年、ゲゲ郎の周りに女の姿はなかった。水木のあずかり知らぬところで他の女を抱いているのかもしれないが、そんな風にこそこそとする必要はない。ゲゲ郎だって男盛りで、性欲が枯れているはずもない。自分がいて女を連れ込めないなら、水木自身が彼の相手をすればいい。
「俺じゃ、その……た、勃たないかもしれないけど……
語尾が尻すぼみになってしまった。ゲゲ郎の返事を聞く勇気が出ず、水木は膝の上でぎゅっと握りしめた自分の拳をじっと睨みつけた。心臓がばくばくと音を立て、手のひらに汗をかいてきた。
「水木や」
穏やかに名前を呼ばれて顔を上げる。ゲゲ郎はいつものように優しい目で水木を見つめていた。
「お主がわしに惚れておるというなら、いくらでも抱いてやる。じゃが、今のお主にはわしへの情はあるかもしれんが、それは男女の愛とは違う」
水木は言葉に詰まった。
「わしはな、最初の夜にお主を手ひどく凌辱したことをずっと悔やんでおる。しかし、後悔したところでお主の大事なものは何一つとして戻ってはこない。だからわしは、二度と同じことは繰り返すまいと心に決めたのじゃ」
驚いた。確かにあの日のことは、今でも思い出すと体が震える。だが、それをこんなに真摯に受け止めているとは思わなかった。
「子を作ることが和平の証じゃが、――――それもいずれは解決する。その時は、お主も龍賀から自由になれる。わしはその時、お主がここから出て、本当に惚れた男と結ばれるのを願っておるんじゃ。だから、子を作らねばならんと気負うこともない。いずれは時が解決してくれる」
龍賀から自由になれる。それは水木にとって、願ってもないことだった。おじいさまの支配から逃れ、自分の意思で生きられる日がいつか来るかもしれない。水木も沙代もすっかり諦めてしまった、夢のような話だ。
「なんだよ、それ……
水木は拳を握り、ゲゲ郎のことを睨みつけた。
「俺に男と女のこと教えるって言ったのはお前じゃないか」
「好きな男に教えてもらえ」
「そんな奴、現れるかどうか分からねえじゃねえか。俺は傷物だし」
「お主を傷物だなどという男は、わしが許さぬ」
「俺を何度も傷物って言ったのはゲゲ郎だろ」
確かにその通りだと思ったのか、ゲゲ郎はぐっと言葉を詰まらせたあと、大きく息を吐き出して「すまん」と呟いた。
「悪いと思うなら、お前が抱いてくれよ。……それとも、やっぱり俺じゃだめか?」
おずおずとそう尋ねると、ゲゲ郎はゆっくりと首を振った。そして、そっと手を伸ばして水木の頰を撫でた。いつくしむように目元の傷を撫でられ、水木は目を閉じた。
……本当によいのか?」
まだ迷いがあるのか、ゲゲ郎がそう聞いてきた。
「いいに決まってるだろ」
水木は挑むようにそう言った後、自分からゲゲ郎のことを布団の上に押し倒した。
「水木……
ゲゲ郎は驚いたような声を上げた。そして、やっと肚をくくったのか、水木の背にそっと自分の腕を回して抱きしめてきた。
「後悔しても知らんぞ」
もうすでに、後戻りできない道を選んでしまった。だが、水木は構わなかった。この選択が間違っているとは思わない。
「望むところだ」
水木はそう言って笑った。