あいづき
2025-02-18 18:35:07
Public 創作
 

しぐれ雨のざわめき





 酷く熱く、そして暑く、太陽が眩しい日だった。


 じわじわじわと、うるさい蝉時雨が耳を打つ。喉を通る麦茶はすっかりと外気温に涼を奪われている。
 私の住むこの土地は所謂過疎化の進んだ観光地であり、かつては賑わいを見せていた商店街も、すっかりシャッター街となってしまった。開いている店を数える方が早いくらいだろう。皆すっかり顔馴染みだ。むしろ、そうでなくては生き残れないとも言う。
 皆が顔を突き合わせれば、家族のこと、己の身体のこと、そして深刻な経営者問題のこと。種々雑多な話題がローテーションする。その中でも比較的若い私は、人生の先輩達からいつも口を揃えて「早く結婚をしろ」と、純度100%の善性だからこその悪意とも取れるありがた迷惑な話題を出される。
 こればかりは仕方のない事だと分かっている。
 そもそも教育されて来た価値観が違うのだから。男だからこうしろ、女だからこうあれ。お前は長男なんだから等々。今で言えばジェンダー差別や、マイクロアグレッションだと言われてもおかしくない価値観は、ここに強く息づいている。けれど、それが通っているのはこの町に新しい何かが無いからだ。何もない。停滞した毎日。同じ事の繰り返し。一度掴んだモノは離さない。いや、怖くて手放せないだけなのかもしれないけれど。
 でも、案外そのぬるま湯に浸かるのは嫌いではない。時折明確に煩わしくもあるけれど、それでもここには都会に無い人情がある。血が通った人間が居る。そう思っているのが自分の価値観で、これこそマイクロアグレッションになるのだけれど。そんなものは誰だって持ち得ているからこそ、ここは静かな善性の中の悪に満ちていて居心地が良いのかもしれない。
 馬鹿げている、と、揶揄されればそれはそうだ。否定はしない。
 だが、人間なんてそんなものだ。悪意の塊でもあり、善意の塊でもある。その行為をどう受け取るかなんて、全て全て与えられた側の感覚だ。
 こんな時、私は一人の女性を思い出す。
 決して華美ではないのに、恋焦がれて止まなかった。地獄に堕ちたとしても、手放せるだなんて思えない程の熱は、今日の気温によく似ている。その程度しかないのかと言われるかもしれない。けれど、この気温を作る太陽の温度を考えれば、相当な熱量だとは思わないだろうか。
 私は、私自身があんなに愚かで大馬鹿者になれるだなんて思わなかった。本当に。たった数ヶ月ばかりの蜜月は、私の世界を広く、そして狭く、盲目にした。彼女は、そんな私を優しく、ずっと受け入れてくれていたのに。それなのに。
『ごめんなさい。別れてください』
 たった一枚の紙切れで、私達の関係は終わってしまった。紙切れと共に置かれた部屋のアパートの鍵は、今はもう何処にもない。
 私は地元に帰って来て、実家に転がり込み、なんとか生活をしている。
 くらくらとする。
 こんな事を思い出すなんて、暑さのせいかもしれない。
 けれど、不思議な事に彼女の名前も顔も、何もかも、私は思い出すことが出来ない。あれだけ愛おしく、確かにそこに居たはずなのに。何も、分からない。感情だけがある。たった一人を追い求め、手にして、何もかもを奪い去って私だけの箱庭に詰め込んで守ってきたのに。
「愛してると言わなかったから、足りなかったのだろうか」
 きっと、そうかもしれない。
 鳴り続く時雨は、いつの間にかピタリと止んだ。