桐子
2025-02-17 23:56:13
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美しい傷20(父水♀)


広葉樹が色づき、風も冷たくなってきた。水木は先日買ってもらったばかりの赤いマフラーに顔を埋めた。軽くて暖かい。値段を聞いた時は驚いたが、「お主に似合うから」と言われてしまうと文句など言えなかった。
「支度できたか?」
「ああ」
玄関で水木を待っているのは、薄い茶色の着物に濃いこげ茶色の羽織を羽織ったゲゲ郎だ。今夜はゲゲ郎の懇意にしている寿司屋に、一緒に食事に行くことになっている。
「じゃあ行くかの」
ゲゲ郎はそう言うと、水木に向かって手を差しだした。大きな手に自分の手を重ねると、すっぽりと包み込まれてしまう。少し冷たいけれど、大きくて骨ばった手も指も、水木は好きだった。こうして自然に手をつなぐようになって、もうずいぶんたつ。
「ゲゲ郎の手、冷たいな。手袋は?」
「いらん。こうしていればすぐに温かくなるからのう」
……ばか」
水木の悪態に気を悪くした様子もなく、ゲゲ郎は笑った。そしてそのまま歩き出す。迎えの車までのたったの数分の距離でも、ゆっくり歩調を合わせてくれるのが嬉しかった。


ゲゲ郎に初めて涙を見せてから、一年近くが経った。
ずっと誰にも言えず、心に秘めていた傷。自分さえいなければ両親は死なずにすんだかもしれないという後悔、自動車の中で黒焦げになっていくのを見殺しにしたという痛苦。生きていることがつらく、苦しかったと初めて吐露した。だが、ゲゲ郎はそれを優しく受け止めてくれた。
両親は水木を恨むどころか、立派に生きていると褒めてくれると言ってくれたのだ。
そしてーーーーやっと泣くことができた。両親を悼み、自分の悲しみをやっと受け止められた。ゲゲ郎は泣いている水木を抱きしめ、ずっとそばにいてくれた。泣きつかれて眠ってしまい、目が覚めた時には男にすっぽり抱きかかえられて、朝になっていた。ゲゲ郎は水木を離すことなく、一晩中抱きしめてくれていたらしい。
「ずっとそばにいてくれたのか」
そう聞いたら、ゲゲ郎は笑って言った。
「誰かさんが離してくれんかったからな」
あたたかくて心地よい腕の中に抱かれて眠るなんて、子どもの頃以来だった。
「また一緒に寝てもいいか」
そうおずおずと聞くと、ゲゲ郎は「もちろんじゃ」と言ってくれた。
それからは、時々同じ布団で眠るようになった。ゲゲ郎の腕に抱かれていると安心して、夢も見ないほどぐっすり眠れるのだ。あれほど恐ろしく思っていたはずの男が、今では誰よりも安心できる存在になっているのが不思議だった。
しかし、手をつないだり、抱きしめられたりはするものの、それ以上のことをゲゲ郎はしてこなかった。あの夜に自分から誘ってみたが、結局泣いて寝落ちしてしまい、何もできなかった。夫婦というのは名ばかりで、このままでいいのかと思うこともある。
だが、今はこうして手をつないでいるだけで、水木は幸せだった。



ゲゲ郎に連れてこられたのは、こじんまりとした店だった。八人も入ればいっぱいになってしまうカウンター席しかない。客は自分たちだけのようだ。
「ようお越しくださいました」
並んで座ると、大将がにこやかに声をかけてきた。
「今日のお勧めをいただこうかのう」
「はい」
壁に値段も書かれていない。一体どんな料理が出てくるのだろう。時貞翁にも何度か料亭に連れていかれたことはあるが、一般的な家庭で育ってきた水木には、この手の店は緊張するばかりだ。それに気が付いたゲゲ郎が、のんびりと言った。
「そんなに固くならんでよい。ここは、肩肘の張った店ではないからのう」
「はは。そうですよ。楽しんでいってくださいね」
大将はそう言って、小さな器をカウンターの上に置いた。ふぐの身と皮の煮凝りだ。引き締まった白身と、ゼラチン質の皮の部分の触感の違いがおもしろくて、あっという間に食べてしまった。
「親父さんは、日本酒にしますかね」
「ああ。水木も飲むじゃろう?」
「あ、はい」
水木は頷いた。しばらくして、年配の女性が酒器と盃を二つカウンターに置いて、酒をついでくれた。大将の奥さんだろうか。続いては、ほぐした蟹と蟹みそ、刻んだミョウガが乗せられた皿が出てきた。一口食べて味わってから、くっと盃を傾ける。
「うまい」
日本酒と蟹、合わないはずがない。しかも蟹はまだあたたかく、身はたっぷり詰まっていて食べ応えがある。ミョウガにはオリーブオイルがかかっていて、そんな食べ方は初めてだが、意外と合うので驚いた。
「ここの酒が気に入って、無理を言って取り寄せてもらっておるんじゃ」
「ああ、四国の地酒って」
二人で最初に飲んだのが、確か四国の地酒だった。果物のように甘いのに、すっきりしていて飲みやすかったのを覚えている。
「気に入ってもらって良かったですよ」
大将はニコニコ笑っている。それからも、ウニの食べ比べやホタテの刺身などが次々に出された。どれも酒によく合い、水木の箸は進むばかりだった。ゲゲ郎はというと、水木よりも早いペースで盃をあけながら、料理を味わっていた。
「そろそろ寿司にいきますよ」
冷蔵庫から出したばかりの魚が炭火で炙られ、魚の脂のいい香りが漂ってくる。もう腹具合は七分目あたりだが、香ばしい香りに思わず唾を飲み込んだ。
「マグロの炙りです」
とろけた脂が、寿司下駄の上に滴り落ちた。口に入れると、脂が舌の上で溶けていく。酒に寿司、隣にはゲゲ郎。こんなに幸せでいいのだろうかと、水木は本気でそう考えていた。
「ずいぶん食べてしまったのう」
「もう何も入らん」
店を出ると、酔いが回って上機嫌のゲゲ郎が言った。冷たい風が頬を打つが、酒で火照った肌には心地よいくらいだ。
「また来ような」
そう言って手をつないでくるので、水木はそっと握り返した。
……うん」
月が明るい夜だった。少し遠回りして帰ろうというので、水木もそれに同意した。
繁華街はにぎやかだが、一本通りを入ると静かなものだ。今日食べた中で何が一番うまかったか、鬼太郎にも食べさせたかった、などと話をしていると、ふいにゲゲ郎が立ち止まった。立ち並んだ店の中でも、ひときわ重厚な扉の中から出てきた、ほっそりとした人影に目をとめている。
「あら、親父さんじゃないの」
美しく化粧をして着物を着た女は、親しげにゲゲ郎に微笑みかけた。夜の女という雰囲気だが、身に着けているものや立ち居振る舞いから、洗練された雰囲気を醸し出していた。水木はそっとつないでいた手をほどいて一歩下がった。
……久しぶりじゃのう」
ゲゲ郎はやや素っ気ない口調で言った。それに気が付いていないのか、気づいていないふりをしているのか、女は甘えたようにゲゲ郎の腕に手を置いた。
「あんまりご無沙汰だから、忘れられたのかと思いましたわ」
「すまんのう。忙しくてな」
艶然と微笑む女を見て、水木はふと、彼女の顔に見覚えがある気がした。どこで見たのだろう。記憶をたどっていると、女と目が合った。彼女は水木の全身にさっと視線を走らせてから、くすっと笑った。
――――それは、自分が勝ったという笑みだった。
着物を着て美しく着飾った女と、普段着に化粧もほとんどしていない水木では、明らかに女としての格が違う。そしてその笑みを見て、思い出した。彼女とは一度、すれ違ったことがある。
屋敷でゲゲ郎に抱かれていた女だ。