桐子
2025-02-16 20:22:17
4607文字
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美しい傷19(父水♀)


パチン、と相手が将棋の駒を動かした。盤面はまだ序盤、ここからどう転ぶかは分からない。
顎に手を当てて次の一手を考えていると、秋風が甘い金木犀の香りを運んできた。季節はもうすっかり秋である。
「後添え殿とはうまくやっとるようじゃの」
「うむ、まあ、それなりにな」
ゲゲ郎は短く返事をすると、駒を動かした。
水木とは、酒盛りをして以来、少しずつ距離が縮まっている。ゲゲ郎という名前をつけられ、気やすい口調で話すようになった。まだ完全に警戒を解いたわけではないが、彼女の人となりはわかってきた。
水木は、強くまっすぐで、自分より他者のことを気にかける心根の優しい女だった。自らを省みず、鬼太郎の命を守ってくれた。時貞がゲゲ郎と妻のことを愚弄した時、本気で怒ってくれた。好ましく思うなという方が無理な話だ。
「わしは、最初に打つ手を間違えたのかもしれん」
時貞への憎しみにかられ、水木を痛めつけた。今でも時々、水木はゲゲ郎が近づくと体を強張らせることがある。自分の半分も生きていないような若い娘に悪いことをしたと、今ではそう思う。
「ま、親父さんがあの子をひどく扱っておったのは悪手でもないと思うがのう。ああでもしなければ、他の者たちが手を出しておったじゃろう」
……
それについてはゲゲ郎も同感だった。頭が率先して水木を痛めつけたから、まわりの者は手を出さなかったのだ。それどころか、一部の者は同情すらしていた。熱を出した水木の看病をさせても、誰も何も言わなかったのは、あの暗い雰囲気にうんざりしていたというのもあるだろう。もともとここにいる人間は、社会のはみだし者やはぐれ者ばかりだが、気のいい奴らばかりなのだ。
「ほれ、親父さんの番じゃ」
促され、ゲゲ郎は駒を進めた。ぱちん、ぱちん。ゲゲ郎が望むと望むまいと、盤上の勝負は進んでいく。
「時貞の思惑にのってやるのか?」
老医師の言葉に、ゲゲ郎は難しい顔をした。
……子を作って和平の証にするとは決めたが、時貞翁にとってはただの時間稼ぎにすぎんじゃろう。現に、水面下で動き出しておる」
「薬か」
「ねずみに探らせておる。あやつはどこぞへ潜り込むことにかけては天賦の才をもっておるからのう」
「ひゃひゃ、誰にでも得手不得手があるもんじゃな」
老医師は愉快そうに笑った。
「この件が決着すれば、水木も龍賀から解放される。その時は、……ここを出て好きなように生きればいい」
ゲゲ郎がそう言うと、老医師は「それはどうかのう」と意味深な笑みを浮かべた。
「親父さんはあの娘を手放さんよ。秘蔵の酒を賭けてもいい」
「なんじゃと」
「顔が可愛い上に、胸も尻もでかい。おまけに気が強うて心根の素直なぴっちぴちの娘、親父さんの好みドストライクじゃろ」
「は、そ、そんなわけが」
「岩子といいあの娘といい、親父さんは好みがわかりやすいんじゃ。ほれ、王手」
いつの間にか互角だったはずの盤面は、すっかり老医師に有利な形に持っていかれている。ゲゲ郎はため息をついた。
「どうせ子作りを理由に、身体の方も仕込み中といったところかの?」
……
痛いところを突かれて、ゲゲ郎はぐっと言葉に詰まる。目の前の老医師はにやにやと笑っていて、どうにも居心地が悪い。
……することは一緒なんじゃ、気持ちのよい方が水木も嬉しいじゃろう」
「かーっ。おぼこい娘相手に、助平な男じゃ!」
「うるさいわい」
ゲゲ郎は、苦虫を嚙み潰したような顔をした。確かに自分のしていることは、褒められたことではないと理解していたので。




馴染みの酒屋が、「親父さん、いい酒仕入れましたよ」と気を利かせて酒を持ってきてくれた。これでまた、水木と飲む口実ができてしまった。だが、昼間の老医師の言葉を思い出してしまい、どうにも誘いづらい。2,3日してから声をかけようと決めて、寝室で就寝前の読書をすることにした。
本を読み始めてからしばらく経った頃、外にいた護衛が声をかけてきた。
「親父しゃん、水木しゃんが会いたいって来とーとですが」
「なんじゃ、急な用事か」
通していいと伝えると、護衛はすっと引き返していった。しばらくすると、襖が静かに開いて水木が入ってきた。風呂上りなのだろう、艶やかに上気した頬と湿った髪がやけに色っぽい。
「どうしたんじゃ、こんな時間に」
そう尋ねると、水木は気まずそうに目をそらした。
「いや、……その」
珍しく歯切れが悪い。だが、何か話したいことがあって来たのだろう。ゲゲ郎は布団の上に胡坐をかいて、じっと水木の言葉を待っていた。彼女はしばらく迷うような仕草をした後、意を決したように口を開いた。
「怪我も治ったし……そろそろ、してもいいのかな、って……
「ん?」
思わず、まじまじと水木を見つめてしまった。この雰囲気、この恥ずかしそうな様子。多分、予想は外れていないはずだ。だが水木の方からそれを言い出すのが意外過ぎて、つい聞き返してしまった。
「いい、とは……
「い、言わせるなよ!」
水木は顔を真っ赤にすると、早口でまくしたてた。
「だから! せ……っくすをしてもいいんじゃないか、って言ってるんだ!」
「お、おう」
ゲゲ郎は動揺を隠せなかった。まさか、水木の方から誘ってくるとは思わなかったのだ。だが同時に、義務感から性行為、ひいては子作りをしなくてはならないと、思い込んで負担をかけているのではないかと心配になった。
「いいのか? 無理しとらんか?」
「してない! ……だって」
水木はそこで言葉を切ると、意を決したように口を開いた。
……帰ってきたら、続きをするって言ってただろ」
ゲゲ郎は目を見開いた。確かに、そう言った。あの時はまさか水木とこれほど距離を縮めることになるとは夢にも思っておらず、ただ単に「続きをしよう」と言っただけだった。だが水木は、それをずっと覚えていたのだ。そして、その約束を果たすために、こうしてゲゲ郎のもとへやってきた。
「そうか」
ゲゲ郎はそう呟くと、水木に向かって手を差し伸べた。やや緊張した面持ちの水木が、震えながらもその手を取る。
かわいそうに、と胸のうちでひとりごちた。水木はまっすぐな気性をしている。その真面目さゆえに、自らゲゲ郎に体を開こうとしている。本当ならば好いた男と、甘い言葉を交わしながらしたいだろうに。
初めて妻を抱いた時、こんなにも幸せなことがあるのかと涙をこぼしてしまった。惚れた女が自分の腕の中にいて、笑ってくれている。あれ以上の幸福をゲゲ郎は知らない。だが水木は、そんなささやかな幸福さえ知らぬまま、また身体を捧げようとしているのだ。
布団の上に座らせて、帯に手をかける。だが、その手は水木によって止められてしまった。
……服は脱ぎたくない。言ったろ? 傷があるから」
彼女は唇をゆがめた。笑ったつもりだったのだろう。襲撃にあった夜、侵入者たちに犯されそうになっているのを助けた折に、ゲゲ郎はその傷を見ている。すぐに羽織をかけたから一瞬だったが、左肩から胸にかけて、大きな傷があった。ゲゲ郎自身も彼女の顔の傷を見て「傷物」と呼んだ。年頃の娘に、それはどれだけの痛みを与えただろう。
「もし、水木さえよければ……傷を見ても、いいじゃろうか?」
ハッと息をのむ微かな音がした。青い目が不安げに揺れながら、じっとこちらを見上げていた。もう傷つきたくないというように、彼女は身体を小さく縮めて首を横に振った。
「見たら多分、萎えると思う。汚いから」
……すまぬ」
ゲゲ郎はうつむいた水木の頬に触れ、上を向かせた。緊張しているのだろう、手が震えているのが分かった。
「わしのせいじゃな。傷物と、何度も言うたから」
……
水木は目を伏せ、唇をきゅっと引き結んだ。それから、小さく頷いた。
「でも、本当のことだ」
これまでも傷のことをいろいろ言われ、心を痛めてきたのだろう。だが、それでも水木は傷を隠すことはしなかった。それはなぜかと考えると、答えは一つしかないように思えた。ーーーーこの傷は、水木にとって大切なものなのだ。
ゲゲ郎は、水木の太腿のあたりをそうっと撫でた。銃撃で怪我をした所だ。
「この傷は鬼太郎を守ってくれた証じゃ」
それから、帯のあたりに手を置いた。
「これもそうじゃ。お主は倅を守ってくれた。わしはこの傷を醜いとは思わん」
傷を醜いと思わないのは、理由を知っているからだ。鬼太郎の命を伸ばすために、時間を稼ごうとしてくれた傷だから、ゲゲ郎にとっては何よりも美しいものだと思えた。
「きっとこの目や、耳や、肩の傷も……お主にとっては、大切なものなのじゃろう。わしはもう、醜いとは思わんよ」
しばらくの間、水木は黙っていた。それからおもむろに、浴衣の肩をはだけた。赤黒くひきつれた傷は、白く滑らかな肌と対照的だった。火傷の跡だろう。生々しい傷跡は、左肩から胸元にかけて大きく刻まれていた。ゲゲ郎は傷跡にそっと触れた。
「お父さんとお母さんが」
水木はぽつりと言った。
「お父さんとお母さんが、守ってくれたんだ。事故で……ガソリンに火が引火して」
絞り出すような彼女の声を、ゲゲ郎は黙って聞いていた。
「二人とも、動けなくて。でも、ガラスを割ってくれて、俺だけでも、外に出ろって。……ふ、ふたりとも、真っ黒こげになって、……
水木の声に嗚咽が混じるのを聞いて、ゲゲ郎はたまらず抱きしめた。
「目と耳は、お母さんが、ガラスを……割ってくれて……、外に出たとき、ガソリンが、服に燃え移って……でも、おれだけが、助かったんだ!二人とも死んだのに、俺だけ助かったんだ!お父さんとお母さんは死んじゃったのに!」
「うん、うん」
「ごめんなさい……おとうさん、おかあさん……
とうとう堪えきれなくなったのか、水木は泣き出した。ゲゲ郎は水木の背を撫でた。どれほどの悲しみが、この背に乗っていたのだろう。両親が自分をかばった傷を醜いと、見苦しいと言われて、どれほど悲しく苦しかっただろう。今になって、ゲゲ郎は自分が水木にかけた言葉の重さを痛感していた。
「そうか。つらかったなあ。本当にすまんかった。大切なお主の傷を悪しざまに言うて、わしが悪かった」
そう言って、ゲゲ郎は水木の目元の傷に触れた。すり、と指の腹で優しく撫でてから、言った。

「この傷は、お主の両親の愛そのものなのじゃな。……美しい傷じゃ」

青い目が見開かれた。
「美しい……?」
水木は信じられないというように呟いた。
「ああ、何よりも美しいのう」
ゲゲ郎がそう言うと、水木はくしゃりと顔をゆがめた。今まで耐えていた涙が、堰を切ったように溢れて止まらないようだった。この傷が彼女の心の支えだったのなら、もう見苦しいなどとは決して思わない。むしろ愛おしいとさえ感じた。
「水木、よう生きてきた。お主の親は、ちっとも恨んだりしておらん。お主が生きてここにおることを喜んでおるよ」
「本当? 本当に?」
「うむ。わしがお主の親なら、立派な娘じゃと誇りに思うじゃろうな」
水木はまた泣いた。ゲゲ郎はしっかりと彼女を抱きしめた。水木もまた、まるで小さな迷子の子どもが、ようやく親を見つけたときのように、ゲゲ郎を抱きしめて離れようとはしなかった。