なんだか厄介そうな交渉に付随して参加しないといけなくなった立食会で、これまたなんだか危なそうだと思ったワインを渋々会に参加してくれたレイシオから奪って飲んだ。以上。本日のあらすじである。
だからこう言う所は嫌いなのだと毒づいた彼女は、それに入っているはずの何かの危険性に気がついていたのだと思う。嫌な予感にどきどきしながらも少しずつ熱くなっていく体を無視して用件を済ませて、気持ち早めにお暇してホテルに帰ったところまではよかったのだ。
狭いエレベーターの箱に乗り込んだ途端気が緩んだのか、一気に悪しき薬効がアベンチュリンに襲いかかってくる。熱っぽいどころではなくなってしまった体が寒気と似て否なる感覚を伝えてきて、かつての出来事を思い出しそうになってしまった。数を数えるのは止めてしまったが、そういうものを体に入れられた経験はいくらでもある。
頭に血が上って、こめかみ辺りの血管が脈打つ感覚が伝わってくるのが以前とは違う理由で恐ろしい。堪らずエレベーターの壁に身を預けようとすると、レイシオに腕を掴まれて声が上がりそうになった。
「エレベーターを止めたいなら構わないが」
「……そんなに凄い勢いだった?」
彼女に勢いを殺してもらった体をそっとエレベーターの壁に押しつけると、レイシオは今にも溜め息を吐きそうな様子で頷いてみせる。その瞬間に伏せられた眼差しをきっかけにして、アベンチュリンは彼女の美しさに気を取られてしまった。いや、いつも綺麗な人なのだけれど、今夜は一層。アベンチュリンの頭がおかしくなってしまっているせいで。
「我慢できそうだと思ったんだけどなあ」
「君の努力は関係なく、遅効性の物を選んで時間を調整されているだけだろう」
落ち着いた電子音と共に扉が開いたので廊下に出ながら弱音を吐くと、今度こそ溜め息を吐いたレイシオが指摘してくる。医師でもある彼女が全く焦った様子がないのが今はありがたかった。
「反応は相応にあるだろうが、今の状況で僕を病院送りにして相手が得られるものはないはずだ。だから、救急が必要になるほどのものではないのは間違いない」
そこからつらつらと説明してくれるレイシオにアベンチュリンはいちいち頷いて見せるが、話は半分把握できていれば良い方だと思う。きっと後遺症の類はないと伝えて安心させようとしてくれているはずなのにと申し訳ない気持ちが湧き上がる端から、不埒な衝動が焼き尽くしていくのだから堪らなかった。
「おい、君の部屋はここだ」
「え、あ、ごめん」
とにかく前に進まなければと思っていたら、完全に目的を見失ってしまっていたらしい。レイシオが足を止めている場所まで戻って取っ手にスマートフォンをかざすと、チェックイン時にスマートフォンのチップと紐付けされた鍵が開く音がした。
「――わ、あ、えと……」
ここから先は完全に私的な空間だと思ったのがいけなかったのだろう。すとんと膝が抜けてしまってアベンチュリンは客室の廊下に崩れ込んでしまった。何とか派手な転倒にならないように制御はしたが、地味ながらも打ち付けてしまった膝頭が少し痛む。
「……まあ、僕を狙った物ならそうなるな」
獲物が逃げ出してしまわないようにするなら、足をだめにするのが良いだけの話だ。そう、他人事のようにレイシオが口にする。たしかに現状は他人事であるのだけれど。
「なるほど、想像もしたくないけどそういうことか。つくづく僕が飲んでて良かったよ」
類い希なる頭脳を捕まえてやりたいことがそんなことなのかとは問い詰めたくはなるが、そういう事実さえ作ってしまえばいくらでも発展のさせようはあるはずだ。つまりはそういうことだろうと結論づけて、今は絶対に忘れてしまった方が良いと思考の片隅に押しやった。
「情けないところ見せちゃってごめん。朝には薬も抜けてるだろうから、このまま転がしておいてくれないかな?」
毛足が長い絨毯とは言え、絨毯は人が眠る用にはできていない。だから硬いしひんやりとした感覚があるのだけれど、今の自分にはむしろちょうど良さそうだった。
特に冷たさが心地よくてゆっくりと瞼を落とすうちに、レイシオが再び溜め息を吐いたのと同時に扉が閉まる音がした。出ていってくれたのだろうと安堵して、明日の謝罪の文言を考えていると何かが動く衣擦れの音がして心底びっくりして体が派手に弾んでしまった。
「なんで」
「それは元々僕が対処するべきだった物だ。責任は取ろう」
アベンチュリンの前に腰を下ろしたレイシオの不用意な発言に呆けた声を上げてしまったと、自分の出した音を聞いてから気がついた。
「腕を出してくれ。肘辺りまで袖は捲れるか?」
先程までと少しも変わらない調子で告げられて、アベンチュリンは自分の思考と現実の乖離を覚える。果たして、目を伏せて自身の手元を見ているレイシオが小さな鞄から取り出したのはこれまた小さな四角い袋と注射器だった。
「こら、腕を戻すな」
「ごめん今恥ずかしくって……」
思わず差し出していた腕を戻して顔を隠せば、レイシオが邪魔をするなとばかりに眉間に皺を寄せて叱責してくる。レイシオが欲しいらしい手首をぐいっと引っ張られるとぎくんと体が反応したのも重ねて恥ずかしかった。
「あのさ今、レイシオもお酒は入ってるよね? ちょっと手元誤って空気入れちゃったりしない?」
「しない」
意外に正気が保てているようで何よりだとコメントされながら、いつの間にか鞄から取り出していたらしいゴムで二の腕を留められる。緊急用なのか健康診断に使う物よりもずっと細くて持ち運びは便利そうだが、食い込みが強くて少々痛い。
「採血や注射で具合が悪くなった事は?」
「ないよ」
病院で聞く定型句を述べながら、レイシオがアベンチュリンの肘の内側に指を這わせる。何のためにレイシオがアベンチュリンに触れてくるのかも明白なのに、彼女の指がアベンチュリンの腕の柔らかな場所を押し込んでくると疼きが湧き上がってくるのが情けない。おそらく肌が粟立ってしまっているのも彼女は気づいているだろう。
「アルコールはまあ聞くまでもないか」
「はは、そうだね。さっきも美味しく飲んだかな」
場所が大体定まったのか、レイシオがアベンチュリンの同じ場所を確かめるようにぐっぐっと押し込んできた。それから指を離してエタノールを含んでいるはずの脱脂綿が入った袋を開ける。
「思ったより血管が分かりやすくて助かった」
「良かった。鍛え始める前は随分細かったみたいで大変って言われてたんだ」
カンパニーにやってきてすぐに受けた検診では最終的にベテランの人が出てきてベッドに寝かされながらようやくだったのだ。歳を重ねた人特有の不快感のない甘い声音を今でも思い出せるのは、痛みというよりも見知らぬ人にあんなに手をかけられたのが生まれて初めてだったからだろう。
「ぜひそのまま鍛え続けてくれ」
ひんやりとした感覚がしたので、どこに視線をやるか迷ってしまう。採血をする人からして針を入れるときに見ているのといないののどちらが良いのだろうと考えて、毎年答えが分からないまま結局半々くらいの確率で見たり見なかったりだった。
今回は針の先を見ることにしてじっと視線を寄せていると、迷いのない針先がすぐに肌を破いて体内に入り込んできたと思ったらぴたりと止まる。それからレイシオはアベンチュリンのリクエストには反して空気は入れようとせず、代わりにアベンチュリンの血を注射器に貯めていく。
「上手だね」
「ありがとう、研修時代の杵柄だな」
健康診断で使う量には全く届かなかったが、必要量が取れたらしくレイシオか針を引き抜いた。そのままバンドを外したかと思うと肘に巻き直されてやっぱり痛い。最初は気づかなかったが、患部を押さえるパーツが着いていたらしい。
血液が凝固しないようにかケースを振ってから、レイシオはまた鞄から取り出した器具にそれを入れる。かちりと音がした器具がちかちかと瞬いて、どうやら彼女の手元のスマートフォンと接続したらしかった。
「血液中から検出された成分から、手持ちの鎮静剤の害になる物は見つからなかった。だから鎮静剤を使って君の体の興奮を抑え込むが、その前に立てるか? ベッドに移動してほしい」
「……後じゃだめ?」
一応会話は成立しているが、今だってぐるぐると性欲が渦巻いて暴れ出しそうになっているのだ。そんな男にとってベッドは大分刺激が強すぎるのではなかろうかとアベンチュリンは思うわけである。
「静脈注射ですぐに効く可能性があるから許可できない。立ち上がれないなら話は別だが、立てるなら立って移動しろ」
アベンチュリンの願いとは逆に、レイシオは自分が対処した患者を床に転がしたままにするつもりはないらしい。不満を表現するつもりはあったが、思った以上に情けない声が出てしまう。だって本当に嫌なのだ。
それでも医者の指示に従わなければと壁を支えにして立ち上がりながら、足元が不安になって思わず床に視線を落とす。そうすれば当然ながら自分の下半身が視界に入って、思いっきり性器が勃起しているのが分かってしまった。
薬にいいようにされている体に精神的ダメージを受けて呻き声を上げながらも、当然の反応だとは思う。そりゃあ催淫剤の類を飲まされているのだから、反応しないわけがないのだ。そう理解しているものの、恥ずかしくなってしまってずっとかっかっとしていたはずの頬が余計に熱くなる。
「打ちにくいから仰向けでいてくれ」
なんとかベッドにたどり着いて仰向けになろうとして、下半身の事を思い出して横向きになった瞬間にダメ出しがきた。片方の腕をシーツに投げ出しているのに許されないのだろうか。
「いや、その」
「君が危惧している事くらい分かっている。今更だから諦めろ」
「うう……」
身も蓋もない指摘に再び声を上げながら、医者の指示だと自身に言い聞かせてもぞもぞと仰向けになる。生地とそこが擦れてぞわぞわとした刺激が加わるのも結構最悪だった。
絶対に部位を確認しないようにとレイシオを見れば、てきぱきと注射の準備を進めていてそこどころかアベンチュリンすら見ていなかった。それはそれでちょっとあれである。
今度は肘よりも少し下の血管を探されて、少しもしないうちにエタノールを塗り込まれる。針が入って薬液を入れられる時に少し冷たい感じがしたが、そんなに多い量を入れられたはずがないので思い込みによる錯覚だったのかもしれない。
「一般的には大体五分から十分で効いてくれるから、もう少しの辛抱だ。眠気が出るだろうからそのまま眠って良い。君が言った通り、翌朝にはどちらの薬も抜けているだろう」
肘の止血バンドがやっと外されたと思ったら今度は腕に静脈注射をされた場所に付けられる。今はバンドの痛みが気になるが、数分もしたらそんなことも気にならなくなるのだろうか。
「気分の悪さはないか?」
深く息を吸ってから吐き出して、まだざらざらする熱を外に出そうとしたアベンチュリンの反応を体調の変化の可能性があるとレイシオは考えたらしい。ふるふると首を振って否定すると、それは良かったと返事がある。一仕事が済んで満足げに響くそれを聞くうちに、アベンチュリンの思考には一つ疑問が去来していた。
「僕が飲まなかったら、君は自分でこんな処置をするつもりだったのかい?」
「それは今必要な話か?」
「必要だよ。ちゃんと効き始めるまで気を紛らわせていたい」
少し沈黙があった後、レイシオがそれで、と語尾を持ち上げた。おそらく、それが事実だったとしてそれがどうしたのかと彼女は言いたいのだろう。良くない薬がキマっている相手に使うにはちょっと言葉足らずではないかと思うが。
「薬が回りかかっている時にこんな事するのは危険だと思うから、今度からは僕が飲むね。そうすれば元気な君にこうやって助けてもらえるだろう?」
「……もし次の機会があれば極力全量飲まない方向でやってくれ」
「あはは、それはそうかも」
あの時は勢いでグラスを空にしてしまったが、レイシオの指摘の通り一口二口で済ませてしまうのが正しかったのだろう。多分彼女が対処していてもそうなったに違いないし、薬を盛った誰かさんすら全部飲まれるつもりではいなかったかもしれない。
失敗したなあとまだちょっと笑ってしまいながら口にするのに使う呼気に、眠気が混ざり込んでいるのが分かった。そう意識すると途端に思考の隅っこにもあった興奮が重だるさのある眠たさに入れ替わり始める。
効いてきたかもしれないとレイシオに伝えると、眠ってしまえばいいと再び指導される。それにしては腕が痛いとバントを指したが、もう少ししたら外すと言われて許してはもらえなかった。
こんなに痛かったら眠れないよと口を尖らせてみたが、嘘であることくらいレイシオも分かっていたのだろう。痛いには痛いが、薬によって引きよこされる眠気を阻害するほどではない。そもそも、鎮静剤はその手の痛みをごまかすために使われるはずなので、当然といえば当然である。
時間が来たらちゃんと外してね、とお願いして返事をもらったのは覚えている。それから目を閉じて、いくつか呼吸をしているうちにアベンチュリンはすぐに意識を手放してしまった。
* * * *
痛いから外したいと言っていた止血帯を外せる頃にはアベンチュリンはぐっすりと眠り込んでいた。まだ体は熱を持っているので、布団を被せるのはもう少し後の方がいいだろう。彼が恥ずかしがった体の反応もまだ少々残っているようだったが、しばらくすれば落ち着くはずだった。
スマートフォンのストップウォッチアプリを片手に確認したところ、呼吸数の想定内の範囲に収まっている。血圧の確認はできないが、脈拍数もツガンニヤ人――彼はこの名称を好んでいないのは承知の上で、医学的な分類ではそう表現せざるを得ない――の成人男性の平均値内だった。少なくとも鎮静が効き過ぎている様子はない。
助けてもらえるだろう。そう、一山越えたと安心しきった声でレイシオに告げたアベンチュリンの声を思い出す。なかなかに人をびっくりさせる言葉だと思ってしまったのだ。もちろん、良くない物だと覚悟して口を付けようと思っていた酒を彼が颯爽とかっ攫った時も驚かされてしまったが。
それなりに人が集まっている今後の仕事に多大な影響がある会でなければ、レイシオはアベンチュリンの手からグラスを叩き落としてしまっていたかもしれない。こんなところで使われる薬が合法であるはずがなく、薬という物はそもそも性別が違うだけでも禁忌とされる事だってあるのだ。医師としての反射的な反応を抑え込んだのは、医者以外の部分のレイシオの総合的な判断だった。
レイシオ一人を目当てにして弱味を掴んで商売敵か何かをコントロールしたいと考えているのであれば、この集まりで死者や重症者を出して一連のビジネスを台無しにするのは避けたいはずである。今回のようにターゲット以外が飲む可能性を考慮すれば、ある程度安全性が確認されている可能性が著しく高かった。故にレイシオはアベンチュリンの無計画かつ衝動的な献身を許したのだ。
それは良いか悪いかで言えば悪いのだが、次は最初から自分一人で何とかしようと考えないでいるらしい。今までの彼の言動を思えば、上々の反応だと思って良いだろう。
そもそも第一候補に『身を挺す』を設定しないでほしいのだけれど、こういうものは一進一退を当然と思って見守るくらいでなければならない。その中で彼が一進と取れる反応を示してくれた事実をレイシオは素直に喜んで、歓迎してやりたかった。
彼の頭を撫でてやると、ぽかぽかした温度がレイシオを迎えてくれる。それから額に滲んでいた汗の量がこれ以上増える様子がないのを確認してから、レイシオは部屋に備え付けられているソファの寝心地を確認しに向かった。
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