猫澤
Public
 

XOXO

あんさんぶるな類司


 曲の終わりと共に、キュ、とレッスンシューズが床を磨く音が響く。
 乱れた呼吸。上下する肩。耳からワイヤレスイヤホンを外した司は、汗の伝う額をタオルで拭って。背後でペットボトルを呷る類を振り返った。
「やはりキスはやり過ぎだと思うのだが」
「おや、突然なんの話だろう」
 ぱち、と蜂蜜色の瞳が瞬く。突拍子のない司の第一声に、類は困ったように眉尻を下げてみせた。
「くっ……まさか忘れたとは言わせんぞ! このあいだのライブの話だ! お前、曲のアウトロでキスしてきただろう!」
「ああ……
 そういえばそんなこともあったね、と類が呟く。
 司と類は、芸能に特化した学院のアイドル科に通うひよっこアイドルだ。昨年春に二人組ユニット『one-two FINISH』――通称『ワンツー』――を結成し、日々活動を共にしている。はじめこそ認識や価値観の違いから度々諍いがあったものの、紆余曲折のすえ、地道に積んできた努力が結実し――最近ではついに校外ワンマンライブを行えるほどには巷に名を馳せていた。
 司が不満を抱いているのは、まさにそのワンマンでの出来事だ。
「一体どういうつもりか説明してくれ」
「いやあ、テンションが上がってしまってね。だけどファンのみんなは喜んでいたじゃないか」
……たしかに、すさまじい歓声ではあったが」
「だろう? これもファンサービスだよ司くん」
「オレと類がキスすることがファンサになるのか……?」
 音もなくペットボトルの蓋を締める類を横目に、こて、と司が首を傾げる。
 まあ――自分達がキスすることがファンサービスになるか否かはともかくとして。喜んでくれたファンがいたのは事実だ。
 キスは今回が初めてだったとはいえ、思い返せば、これまでのライブでも二人が密着するとたちまち黄色い声が上がっていた気がする。ファンの心理はよくわからないけれど、要は『推し』と『推し』が仲良さげにしていると嬉しくなってしまうものなのかもしれない。
 だが、そうは言っても。
「しかしだな、キスをするにしてもだ。く、口でなくてもよかったのではないか?」
 わざわざ指摘するまでもないが、司も類もまだ十八歳。そしてアイドル活動に熱を入れていたから、当然のように恋愛未経験である。
 つまるところ、ファーストキスだったのだ、司にとってはアレが。
 妹の咲希ほどではないとはいえ、それなりに恋に夢見る年頃ではある。やはり最初はロマンティックなシチュエーションで……と想像したことも、ないとは言えない。
 決して相手が類で嫌だったというわけではないけれど、かといって軽く消費されてしまうのは腑に落ちないものがあるというのが本音だった。
「例えばほっぺとかおでことか……
「うーん。でもライブ中の司くん、汗みずくだったから……
「悪かったな代謝が良くて」
 思わずムッと顔に皺を寄せて、司はプイッと外方を向いた。
 『ワンツー』の曲はアップテンポでダンサブルなものが多い。振り付けや演出は主に類が考えるのだが、司と類のイメージ的に過激になりがちだ。ステージの端から端まで、余さず駆け抜けることになる。――だから当然、体を動かした分だけ汗が出る。
 ライブのアンコールともなると、それはもう格別で。たしかに滝のような汗だった。だが生理現象だろう。司自身にどうにかできるはずもない――拗ねる司を見つめて、類はふっと相好を崩した。
「フフ、冗談だよ。たしかに頬や額へのキスもいいね。次のライブではそうしようか」
「しないという選択肢はないのだな……
「じゃあ逆に聞くけれど」
 一言おいて、司と向き直った類が続ける。
「僕は司くんにキスできてうれしい。ファンのみんなも喜んでくれる。限りなくWINの関係なのに、しない理由はないと思わないかい?」
「異議あり! オレの気持ちを置いてけぼりにされては困る!」
「却下」
「何故だ⁉︎⁉︎⁉︎」
「司くん……。たしかに日本ではあまり馴染みがないけれど、世界におけるキスはただの挨拶だ。さすがの僕も、君に挨拶を拒絶されるのは悲しくなってしまうよ……
「それは……
「君は世界的スーパースターになるのが夢なんだろう? なら、例えライブ中に僕にキスされても平気な顔をしなくては。なんなら、君の方からしてくれてもいいくらいだよ」
……そう、なのか……?」
 そんなわけはないのだが、類の言葉には妙な説得力がある。たじろぐ司に気をよくしてか、殊更饒舌に、逃げ道を塞ぐように、類は言葉を重ねた。
「それにホラ……これから僕達はもっとメディア露出が増えていく。恋愛ドラマなんかに出演することもあるかもしれないね。だけど肝心のキスシーンで及び腰では、人々に夢を見せるアイドルとしてやっぱり格好がつかないじゃないか。経験を積んでおくに越したことはないよ」
「むむむ……
 アイドルの仕事は歌と踊りを披露することだけではない。類の言うようにドラマに出演したり、雑誌のモデルを務めたりと様々だ。
 普段はプロデュース科のえむと寧々が専属プロデューサーとして二人の仕事の調整をしてくれているけれど――いつか世界のスーパースターに輝くためには、仕事を選んでいられない立場であることも司は理解していた。
 類の言い分も一理あるのかもしれない。しかし、とくちびるを結ぶ。天馬司は年相応に純情だ。
……。キスは、大切な人とするものだろう?」
「司くんは僕のことが大切ではないのかい?」
「え? いや、そんなことはないぞ! オレの背中を預けられる、唯一無二の素晴らしい相方だとも!」
「なら何も問題はないんじゃないかな」
……た、たしかに……?」
 類の口車に上手く乗せられている気は否めないが――だんだん、本当に何も問題はない気がしてきた。
 あのとき――ライブのアンコールで――類にキスをされて。驚きはしたものの、嫌な気持ちはひとつもなかった。むしろ、類のやわらかいくちびるの感触がいまだに鮮明に思い出せるほどで、少し困っているくらいだ。
……
 黙りこくってしまった司の頭頂部を見下ろして、類は、ふむ、と考える仕草をしてみせた。
「ひょっとすると、司くんがキスを大げさに捉えてしまうのはイメージの問題なのかもしれないね」
「イメージ……?」
「『大切な人と、ここぞという時にするもの』……そんなイメージがついているから、ライブ中のファンサービスでキスをすることに抵抗があるのかも。なら、いっそのこと普段から練習しておくというのはどうだろう?」
「ぬおっ……
 不意に、類の細い指が司の顎を持ち上げる。パチ、と蜂蜜色の瞳と視線が交わって、どうしてか司は頬に熱が集まるのを感じた。
 類は――司にとって唯一無二の相方であり、気の置けない友人だ。
 何よりもファンを笑顔にすることを大切にする、優しい青年。かつては孤独に埋もれていた彼の、それでも変わることのなかったスタンスに司自身も惹かれて――相方にならないかと司の方から手を差し出したのである。神代類というアイドルの魅力ならば、きっといくらでも語り尽くせる自信があった。
 だからこそ。こう――至近距離で見つめ合うのは、心臓に悪い。
 ド、と大きく跳ねる心臓をなだめて、短く息を吸い込む。琥珀の双眸が揺らぐ。
 一歩後退る司を追いかけて、類はその腰を引き寄せた。
 少し、心配になるほど細い腰だ。それに――薄手のシャツ越しに手のひらに伝わる体温。ほんの僅かに香る、汗のにおい。は、と熱い吐息が漏れる。
「毎日僕とキスをすれば、司くんも平気になるんじゃないかな?」
 ――内緒話をするように。
 よりくちびるを近づけると、司はぎょっと目を見開いて背中を可能な限り後ろへと反らした。
「る、るるるる類‼︎ 顔が、近い……‼︎‼︎‼︎」
「近づけないとキスできないからね」
「いや、考えてみたらやはりおかしくないか⁉︎ とっ、冬弥と彰人がキスしているところなど見たことがないぞ……‼︎」
 類の言論に則れば、後輩アイドルユニットの二人――冬弥と彰人もキスをしていなければおかしいではないか。しかし司はあの二人がキスをしているところなど見たことがない。ただの一度もだ。
「それに、練習をするにしても、だ! お前とキスはできん……‼︎」
「えっ」
 類にしては珍しく気の抜けた声があがる。おそるおそる司が視線を向けると、類はぽかんと呆けた表情で司を見つめていた。
「それはつまり……どういうことだい? 僕以外の人と練習するつもりだと言うのなら……あまり、オススメできないけれど」
「その予定はないが、とにかく類はダメだ! ドキドキしすぎて心臓が止まってしまう……‼︎」
 ぱたぱたと、不思議そうに類の長い睫毛が瞬く。しかしそれも一瞬で、すぐに類は目を細めて片頬を持ち上げてみせた。
……へえ? ドキドキしてしまうんだ」
 低く掠れた声が司の耳朶を撫でる。普段あまり耳にすることのない声色に、思わず司の体がびくりと震えた。
 ドキドキすると言ったのは自分で、それは紛れもない事実だったけれど――不用意に頷いてはいけない気がして、ごくりと唾を飲む。
 依然として触れたままの顎を、類は指の腹でするりと撫でた。
 そして、ふ、と口角を持ち上げて。
「君は本当に……僕を喜ばせるのが上手だね」
「おい、だから近いと言って――……んむ⁉︎」
 司が口を開いた、その一瞬の隙を狙って――類のくちびるが重なる。薄い皮膚が擦れる感触。やわらかいくちびるが、ふにゃりと形を変える。
「んんーっ! んっ、ん……! んうう⁉︎」
 いつの間にか司の顎を持ち上げていた指は離れ、代わりに司の髪の襟足に触れてうなじをくすぐっていた。
 反射的に類の胸元を押し返すが、一層深く交わろうと類が伸し掛かる。震える足を叱咤してどうにか立たねば、このまま押し切られて倒れてしまいそうだった。悔しいがそれほどに司と類の間には体格差がある。
 司が抵抗らしい抵抗をできずにいるうちに、咥内へと何かぬるりとしたものが侵入した。すぐにそれが類の舌であることに気づいた司は、カッと頭に血が上り、煮え滾るような衝動に駆られるまま類を突き飛ばした。……案の定、類の支えを失ったことで尻餅をついてしまったが、もはやそれどころではない。
「し、しししししし舌ああああ‼︎ 舌を、お前、お前えええ――‼︎」
「フフ、ご馳走様。この調子で、どんどんファンサービスを覚えていこうじゃないか……♪」
「信ッッッじられん……‼︎ 練習で舌を入れるヤツがあるか……⁉︎」
 司のものか、類のものか。どちらのものともわからない唾液で濡れたくちびるを、類はぺろりと舐めとって。にこりと、人好きのする笑みを浮かべてみせた。
「さ、そろそろレッスンを再開しよう。ほらほら、いつまで腰砕けになってるつもりだい? 時間は待ってはくれないよ」
「だ、だ、だ……

「誰のせいだあああああ――‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」

   ***

「この声は……司先輩……!」
 ちょうどボイストレーニングを終え、廊下に出たタイミングで。学院中に響き渡った聞き覚えのある声に、冬弥と彰人はぴたりと動きを止めた。
 冬弥のグレーの瞳が瞬く間にキラリと輝き、声がした方向を振り返る。その隣で彰人はひっそりと誰に聞かせるでもなくため息をついた。
 ――レッスンルームの防音壁を貫通するとか、どんな声量してんだよ。
 変人揃い踏みのこの学院では時たま霞んで見えることもあるが、司と類は、彰人にとってはできればあまり関わりたくないタイプの人種である。
 よりによって相方である冬弥が司を尊敬してさえいなければ、臨時ユニットを組もうとも思わないのだが――『Fantasista SQUAD』といい、『DI:Verse』といい……どういうわけか、あの二人とは妙な悪縁で結ばれているような気がする。
「放っておけよ。どうせ藪蛇だろ」
 吐き捨てて、彰人は冬弥の腕を掴んだ。触らぬ神代と天馬に祟りなし。どうせ今回だって、しょうもないバカやって青春を謳歌しているだけに違いないのだ。